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1 讃岐女木島の神社 2 八幡神社 3 住吉神社 4 元宮社
5 (補考) 八幡神社末社の「豊玉依姫神社」に関連して
① 女木島神社(玉依姫祠)・玉依姫社とは
② 玉依姫社の所在地と女木島丸山古墳
③ 八幡神社境内の豊玉依姫神社は玉依姫祠の再興神祠か
讃岐 女木島の神社
香川県高松港の北方3km、瀬戸内海の備讃瀬戸にある女木島(めぎじま)の東岸女木港近くに「八幡神社」と「住吉神社」などが祀られている。
女木島は、東西約1km、南北約3.5kmの細長い島で、現在は高松市女木町、島の北半には、笠形をした神南備形の鷲ヶ峰(標高186m)がそびえ、頂上近くには桃太郎が鬼退治に(高松の鬼無町から)やって来たという伝説に結びつけた人工の大洞窟がある。
また少し南側、周辺の海を見渡せる尾根上の鞍部には5世紀後半頃の女木丸山古墳(円墳・組合箱式石棺)がある。島の南半は、標高200m前後の急斜面の山嶺が続いている。
高松港から雌雄島海運のフェリーに乗船し、約20分程で島の東浦、鬼の燈台が迎えてくれる女木港に着く。

女 木 港 風よけの石垣「オーテ」
八幡神社は、港のすぐ北、弓ケ浜(海水浴場)に面した松原に鎮座し、その背後(西側) 約200mの山ろくに「住吉神社」が鎮座する。
女木島の北、加茂ケ瀬戸を挟んで小さな「男木島」があり、明治~昭和にかけて両島あわせて雌雄島村と呼ばれていた。
吉田東吾氏の『大日本地名辞書』(1907)には、男木島・女木島について次のように説明している。
「・・笠居の東北にして、高松市の正北なる低平の海島にて、二島相連なる、女木メギ島は高松市北ニ海里に在り、東西十町餘、南北一里、男木島は其北七町に在り、女木島の半に過ぎずと雖、両島各五六百の漁民あり、今雌雄島(シオシマ)村と号す、又其両島間を鴨瀬戸と名つく。〇男木オギ島、燈台は其北端に在り、豊島テシマ(小豆郡)と対向す、・・・」
などと説明されている。
女木島・男木島の西北にある直島の八幡神社「直嶋八幡宮社記」(『香川叢書第一』所収)は、慶長6年(1601)に神主甚太夫藤原吉久が記したものであるが、その中には、陰木嶋、陽木嶋と直嶋を合わせた三島の神社の神職に任じられたとあり、女木島は「陰木嶋」、男木島を「陽木嶋」と、陰陽の字を充てていて大変興味深い。
では、女木島の「住吉神社」は「八幡神社」の境外末社とされているので、八幡神社から紹介してみたい。
八 幡 神 社 (香川県高松市女木町字宮ノ上)



八幡神社は、海浜に面した字宮の上にあり、正面は東方の屋島を望む景勝地で、広い砂浜の境内には手前から「八幡宮」の石製の扁額を掲げた「寛政三(*1791)辛亥天」「六月吉祥日」と柱に刻む一の鳥居があり、続いて石燈籠が2対ある。この内、二の鳥居前の燈籠には「文化七(*1810)庚午歳」と刻んでいる。
奥の二の鳥居には「文化四(*1807)年卯一月吉日」と、泉屋五兵衛?ほか10名ほどの寄進者名を刻んでいる。さらにその背後には海水で浸蝕を受けていたような石燈籠一対がある。
奥の拝殿前にも、文化期(?)頃の石燈籠一対と、同じく海水で浸蝕されたような新古台座の上に狛犬一対がある。奥の拝殿は幣殿と繋がっているようで、背後の御本殿は流造りで、近年改築されたようである。
拝殿の左手、手水舎・神庫?の南側には石塀に囲まれて、石鳥居の奥に境外末社である豊玉依姫神社の石祠(祭神
玉依姫命)が祀られている。この神社については大変興味深い神祠で、改めて補考として本稿最終に取り上げたい。
まず、香川郡の直嶋・女木・男木等付近の島々の地誌として慶応2年(1866)8月に梶原景紹が直嶋の庄屋三宅多門重保の依頼によって編纂され、所々に三宅氏の追訂の跡があるとされる『直嶋舊蹟順覧圖會』(『香川叢書』昭和18年 所収)には、女木島の八幡神社について次のように記している。
「 八幡宮
境内二反八畝八歩除地。海岸にあり。社僧直嶋圓明院。社人三宅采女。祭禮八月七日。
若宮 境内にあり。當社肇禋未詳。 荒神社 祭禮五月廿日。中の御前社 祭禮八月七日。八幡宮若宮也。山神 猿田彦神。祭禮六月二十五日。」
と記されている。
次に『香川県神社誌』(昭和13年)には、八幡神社について次のように記されている。
「 村社 八幡神社 雌雄島村大字女木島字宮ノ上
祭神 仲哀天皇 応神天皇 神功皇后
合祀祭神 仁徳天皇 齋火武主比神(火産靈神なるべし)・奥津比古神・奥津比賣神
由緒 女木島の産土神たり。伝ふる所によれば、神功皇后御征韓の御帰途 女木島の西方に到り給ひし時、強風吹きたりしかば御船を此の島の東南なる湾に留め給ひ、茲に住吉大神を祭りて海路の御平安を祈らせられ、一夜御駐泊あらせらる。其の後
島民等、皇后御上陸の地に祠を建て八幡大神を奉齋して産土神となし、又皇后の奉祀し給へる住吉大神を祭りて海上守護の神となすといへり。後幾星霜を経て湾は埋れて砂浜となり海浜には樹木繁茂するに至れり。元和五年(*1619)領主高原佐助海浜樹林中に社殿を建て遷座す。今の社地これにして、旧社地は現地の西方一町餘の所にあり、同地に一祠ありて之を元宮と奉称せり。寛永十五年(*1638)領主高原次良右衛門直久社殿を修理す。玉藻集に「八幡宮 境内貮反八畝八歩御除地・・・・・別當圓明院 社家三宅采女佐」と見ゆ。大正七年拝殿を改築、同時に上幣殿及び神饌所を新築す。(玉藻集 古今名勝図会)
明治四十四年字宮ノ上仲ノ神社、字東ノ口荒神社を合祀す。
例祭日 九月十七日 十八日
主な建造物 本殿 上幣殿 下幣殿 拝殿 神饌所
境内坪数 二千三百九十七坪
氏子区域及び戸数 大字女木島 百六十二戸 」
と記されている。
旧社地・元宮の場所について記されていることは重要である。

八幡神社の拝殿 (左手に豊玉依姫神社の石祠がある) 本 殿
『讃岐香川郡誌』 (昭和19年) は、ほぼ同様の内容であるが、仲哀天皇は記されていない。神社地については次のように記している。
「元は海岸であったが、年代を経るに従つて海が浅くなり、遂に本の海岸は遠く海を離れて、現在の松林となり景勝の社地となった。慶長年間に高原氏が改築したのが現在の社殿である。因に神功皇后及応神天皇が此の内海御通過の事は小豆島に於ける史話傳説にも遺つているのであるから、此の島に於ける伝説も亦其の間に脈絡關係のあるものではあるまいか。
社家及社僧 明治維新前は直島村の極楽寺が社僧として奉仕していたが、明治五年神仏分離と與に別當を離れた。神職は遠く維新以前より、直島の三宅氏が代々奉仕していて現代の三宅其郎に及んでいる。」
とあり、明治以前の社僧・神職についても記されているが、社僧は圓明院の誤りだろう。
なお、直島は女木島・男木島の西北方向、豊島の西に位置する島で、『直嶋旧蹟順覧図繪』(慶応2年)には「讃岐国香川郡海中にあり。幕府御料、備中国倉鋪(*倉敷)御代官所に属す、・・・往昔は加茂女嶋と云。又名賀嶋といへり。神功皇后三韓退治なし給ふ御時、此嶋にて吉備の軍勢を待せ給ひしより待嶋といふ・・・・」
などと書かれている。
岡山県玉野市に近い島で、神功皇后や応神天皇に関わる伝承が残る島でもある。
住 吉 神 社 (高松市女木町字谷奥)

南側の東浦集落より

東 側 よ り
続いて、八幡神社境外末社として記されている住吉神社であるが、
『直嶋舊蹟順覧圖會』には簡単な記載しかない。
「 住吉大明神
同所にあり。社僧・社人同上。祭禮六月廿五日。」
『香川県神社誌』(昭和13年)には、
「 住吉神社 雌雄島村大字女木島字谷奥
祭神 表筒男命 中筒男命 下筒男命
合祀祭神 猿田彦命
由緒 雌雄島村村社 八幡神社境外末社。伝ふる所によれば神功皇后筑紫より御還啓の御途次此の島に御碇泊ありて、住吉大神を奉祀し海路御平安を祈らせらる。後
島人等其の御旧蹟に祠を建てて住吉大神を祀れりといふ。慶長九年(*1604) 領主高原久右衛門次利 社殿を改築、元和十年(*1624) 領主高原佐助 精舎一宇を建立、寛文三年(*1663)四代目領主高原内記仲昌 社殿を造営す。高原氏退転の後 女木嶋は直嶋、男木島と共に松平氏の領となる、松平氏も崇敬厚く、正徳三年(*1713)、元文四年(*1739)の両度造営ありたり。(玉藻集)
當社の神輿渡御式には島民長く業を休みて祭典及び餘興に奉仕し甚だ殷賑を極め、他村よりの参拝者亦多し。
明治四十四年 字東ノ口猿田彦神社を合祀す。
祭日 陰暦六月二十四日 二十五日
主なる建造物 本殿 幣殿 拝殿 神樂殿 神輿殿
境内坪数 三百十五坪 崇敬者人員 七百八十五人
境内神社 八坂神社(素戔嗚尊) 」
と記されている。
また『讃岐香川郡誌』(昭和19年) にも記されているが、あまり詳しくないので省略する。


住吉神社の位置は、八幡神社のちょうど背後にあたる西北方約210mの山際に鎮座している。神社の境内や本殿は南方を向き、参道は南方の集落方向に通じている。
境内入口には「住吉太神宮」と刻んだ石製扁額を掲げた石鳥居があり、石階を上がると新しい石灯籠一対、拝殿前には「文政四(*1821)辛巳歳 八月吉祥日?」と刻む石燈籠一対があり、さらに拝殿の背後を上がった上壇には流造りの御本殿が祀られている。
神社の「神輿渡御式」であるが、女木コミュニティセンター発行の『鬼ヶ島(女木島)散歩 あれや・これや』によると
「時代のうつりかわりとともに「大祭」も変わってきており、祭礼も旧暦の6月24日、25日の両日であったが、現在は旧暦を廃止し、二年毎に8月の第1週目の土曜日、日曜日にとりおこなわれている。この祭りには神輿(みこし)、暴れ太鼓等でにぎわい、なかでも「暴れ太鼓」が最大の見ものである。・・・・。祭りのクライマックスは、太鼓台ごと海の中に入って行き太鼓を打ち鳴らす。海の男の勇敢さと勇猛さを顕示する島内最大の祭りである。・・・・。本祭りでは、太鼓台は朝から神社でひと暴れして、獅子を先頭に太鼓台、お囃子の屋台、神輿などが八幡神社まで練る。」
などと記されていて、盛大な大祭が行われているようである。
[ 元 宮 社 ]
『香川県神社誌』にも書かれていた八幡神社の旧社地すなわち元宮の場所であるが、住吉神社に近い女木コミュニティセンター東北にある畑地の一画が、元宮のあった所といわれ、石の祠が祀られ、横には「女木元宮社由来」を記した説明板と顕彰石碑(昭和2年か)が建てられている。


説明によると「・・・・・その際に神功皇后が海路の平安を祈願されたのが、この女木元宮社であると伝えられている」と書かれている。
八幡社・元宮社・住吉神社の三社は、海浜から一直線に並び、ともに神功皇后の船の滞泊伝承を伝えている。
瀬戸内海に沿って、神功皇后や応神天皇にまつわる伝承を残す島や湊が多いが、女木島での神社創祀の時期は不明ながら、相当古い時代から一体となった聖地と考えられ、神社としての祭祀が行われてきたのであろう。
なお、島の反対側の西浦地区には、一尋鰐(ひとひろわに)を祭神とする「荒多神社」があり、『讃岐香川郡誌』によると、この地の伝説では一尋鰐は海神宮から彦火々出見尊だけではなく、後より来られた玉依姫命をもお送りしたという伝説を伝えているようである。
(補考) 八幡神社末社の「豊玉依姫神社」に関連して
最後に、女木島八幡神社の拝殿南側(左手)に並ぶようにして造られた石塀内は「豊玉依姫神社」の神域で、石鳥居の奥には立派な石祠が祀られている。この神社の名称であるが、なぜか豊玉姫と玉依姫を合わせたような珍しい社名となっている。
女木島の歴史上、何らかの大きな経緯があった可能性があり、関係史料の中から少し考えてみたい。
まず『香川県神社誌』(昭和13年) には次のように記されている。
「 豊玉依姫神社 雌雄島村大字女木島字宮ノ上
祭神 玉依姫命
由緒 雌雄島村村社八幡神社境外末社。由緒詳ならず。伝説によれば、神代の昔 豊玉姫命屋島の西海にて御子を産み綿津見の宮に帰り給ひ、御妹玉依姫命を御子御養育の爲め代りて屋島に遣さる。
玉依姫命海神の宮より此の島に御上陸ありて更に屋島に行き給ひしかば、島民其の縁由の地に命を奉祀すといへり。官社考證に『玉依姫神社女木島にあり』と見ゆ。(名勝図絵)
主なる建造物 石祠 境内坪數 三十二坪
崇敬者人員 七百八十五人 」
と記されている。
すなわち豊玉姫に代わって妹の玉依姫が海神の宮から屋島に向われる途中、この女木島に上陸された由縁の地との伝説から島民に祀られることになった、ということである。
但し、伝説は記されているが「由緒は詳ならず」とあるのは大いに気になる所である。
石鳥居の柱には文字が刻まれているが判読しにくい。掲げられた扁額は「豊玉依姫大明神」と刻む。石祠は唐破風内に宝珠を刻んだ切妻屋根の下に二枚の扉石を設けている。
文中の官社考證とは『讃岐国官社考證 附録追録』(明治12年)で、式内社ではない旧社として「香川郡三十二座」の神社の中に取り上げられている。
女木島神社(玉依姫祠)・玉依姫社とは
ところで豊玉依姫神社に関わると考えられる文献資料であるが、『古今讃岐名勝図絵』(昭和4年)には次のような神社名と伝承が記されている。
この書には、女木島を「姪姫島」、男木島を「大姫島」と記している。
「 〇 女木島神社(玉依姫祠)
姪姫島にあり、俗に女木島といふ、今廃す、八島(*屋島)の浦生祠と向たる地なり、此祠の神体いづれの年に廃せしや世にしる人なかりしに
時来り出現して靈を顕せり、天保八年(*1838)四月八日同島石工源兵衛といふ者
山を穿て双松樹のかたちある一奇石並宝剱の朽壊等を得たり、按に上世神祠ありしを地震のとき山崩れ埋没せしならん、浦生及男木、豊島、椎嶋の社神体も是石なり、石をもつて神体となす事書契已然の例なり、古事記の文に符号せり、・・・・・」
と書かれている。
「今廃す」と書かれたこの神社名を「女木島神社(玉依姫祠)」とし、興味ある説明を加えている。
神祠のあった場所の詳細は判然としないが、屋島を望む女木島の山中にあったようである。当然ながら後年発行の『香川県神社誌』には女木島神社(玉依姫祠)のことは掲載されていない。
天保8年4月8日に同島の石工源兵衛という者が山を穿っていた際に、双松樹の様な絵文様のある奇石と宝釼の朽壊した遺物を発見したという。
但し、天保8年(1838)は原史料の読み違いで、文政8年(1825)の誤りであることが分る。
更にこの件に関連する貴重な史料として『香川叢書』(昭和18年) 所収の「直嶋舊蹟順覧圖會」(慶応2年[1866]) に詳しい記録が載せられている。
女木島の八幡宮や住吉大明神の記述に続いて、玉依姫社について「女木嶋神石記」などを挿入し、神石の発見とその後の重要な経過が記されているのである。以下そのまま引用する。
「 玉依姫社
往古山中にあり。地震の時山崩れ神社を湮没して、年暦久遠たれは、口碑も絶て知る人更になかりしか、時至て文政八年(*1825)四月八日、當嶋の石工源兵衛と云者、山を穿て一尋計の空洞なる所を得て、中に神體雙松樹の畫が如くなる往古の神躰石を取出せり。事は次に出せり。
女木嶋神石記
・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・。
茲二文政八年(*1825)乙酉四月辛巳戊午朔八日乙丑、石工源兵衛ナル者、穿チテ山一尋、有二空濶所一。中有二一石一。現二天然雙松樹畫一。其餘有二寶劒之朽壊一。・・・略・・・・・。謹テ按ルニ、上世有二神祠一、而地震ノ時山崩埋二没スル 神祠一有レ數。今再ヒ現二神霊一ス。豈二不二敬慎而崇奉一乎哉。・・・・・。今拝二其石一、堅剛如二金鐵一、重サ三十斤餘、一斤二分五厘。双幹對立、天工之妙可レ感。數百年在二土中一不穢、光彩粲爛、非二世間所レ観物一。顧二二千有余年前、以二雙松歳寒シ不レ稠貞操一、比二豊玉・玉依二神之徳一、建レ祠祭二奠之一。後何日湮没、口碑亦絶。・・・・・・・・・・。今玉依神祠發顕。況ンヤ親ク拝二其靈石一、忻悦不レ寝。因テ勤二石工一恢二復神社一、・・・・・・・。
文政十年(*1827)丁亥八月 藍渠平景惇撰 本府高松儒員。撰者父。
・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・。
是も又當嶋に鎮座あらせ給ふべき當社の神躰を、年月むげに捨置し神罰たるべきの語分明にあらせければ、嶋の長は素より、聊か物のわかりたる者へも、其故由を三宅大人より懇に解聞せて、當嶋一統漸く此神霊を祀るの志となしゝは、三宅大人のおほいなる功になんありける。
(以下貼?紙後筆) 爰に於て普く衆に募りて、神祠再興の設をなして、翌慶應三とせ(*1867)といふ年の四月八日、三宅大人は素ゟ、己景紹も當嶋に至り、假りに神祠再興なしおきける。こは去し四十餘三年の前、石工源兵衛か彼神石を取出し、世に出現ならせ給ふ吉日なれは、斯物し置て、同じ年の水無月廿七日、直嶋なる極楽寺増函法師(印)・神主宮本采女好政をして、勧請式をなさしめ、嶋の長西尾廣亮宗貞・其男傳ニ郎儀貞正も禮服を着し、其莚に敬座し、且嶋中の人々爰に集り、祝詞を申、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
などと記されている。
『古今讃岐名勝図絵』にある「女木島神社(玉依姫祠)」と『直嶋舊蹟順覧圖會』の女木島「玉依姫社」とは同じ神祠のことに間違いないだろう。
往古は山中に神祠があったが、地震で埋没してしまっていた。時代は流れて言い伝えなど知る人もなくなっていったが、文政8年(1825)の4月8日のこと、島の石工源兵衛が山を掘っていた所、一尋ほどの空洞の中から雙松樹の絵模様の霊石と朽ちた宝剣を発見したという。豊玉姫・玉依姫二神の神霊が出現したとの思いから再び祠を建てて祀られたようである。
しかし、天保の頃、神石は島から離れる事態となり、神祠の場所もいつしかまた埋没して言い伝えも失われた。女木島も幕末の騒がしい時代を迎えた当時、貴い神石が島から離れたままでは恐れ多く、神祠再興をすべきとの機運が高まったようで、明治維新の直前の慶応3年(1867)のこと、神石が発見された日に合わせた4月8日に、三宅大人はもとより「直嶋舊蹟順覧圖會」を著した梶原景紹は女木島に集まり、仮の神祠の再興を行った後、同年6月27日には直島の高田浦の極楽寺増函法師と神主宮本采女好政の他、女木島の長や島民も多数参列して勧請式が行われたという。
但し、本願主の三宅氏多門主(重保か)は体調不良で欠席したことは残念であった、ことなどが追録されている。
なお、貼紙の追訂によると、神石は残念ながら倉敷役人~女木島の長~源兵衛へ~高松の医員長尾氏~高松の西方山田村などへ流転し、女木島へは戻らなかったようである。
梶原景紹(号は藍水)は、高松の歴史家で「讃岐国名勝圖會」・「古今讃岐名勝圖會」の原文などを著した人物である。
玉依姫社の所在地と女木島丸山古墳
ところで、玉依姫社があったという女木島の山中とは、一体どこであったのだろうか。また、幕末に仮の再興の後、勧請式を行ったように記録されているが、どこへ勧請されたのか不明である。
私としては次のように考えてみたい。
① 山を穿っていて一尋ほどの空洞内から雙松樹の絵のような文様がある神躰石のほか、腐朽した宝剣が発見された場所とは、古墳の石室あるいは石棺であったのではないだろうか。
女木島には、鷲が峰の北麓の保立山斜面に安山岩の組合式箱形石棺の中戸古墳とよばれた古墳があったようであるが、注目したいのは女木島丸山古墳である。
東浦の海浜にある八幡神社と住吉神社の背後、島の中央を南北に連なる山嶺の鞍部(標高約93m)、島の西側の西浦へ通じる鞍部近くに「女木島丸山古墳」がある。
ここからは南東の屋島方面はもちろんのこと、瀬戸内海の東西海域を一望できる山上に立地している。
この古墳であるが、現地の説明版(高松市教育委員会)によると、
「 古くから平家の塚としての伝承があったが、昭和39年(1964)の発掘調査により、古墳時代中期後半(5世紀後半)頃の盛土円墳であることが確認された。
調査当時、既に古墳の盛土の大半がなくなっていたが、墳丘規模は直径約15m、高さ1.8mで、拳大の玄武岩の角礫を用いた葺石が全面にあったと推定されている。埋葬施設は組合箱式石棺で、内部の長さ2.8m、幅52cm、深さ28cm。副葬品はハート型の純金製垂飾付耳飾一対、鉄製太刀一点、鉄鏃一点で、耳飾については、朝鮮半島からの舶載品であり、当古墳の被葬者が海上交通を掌握していたことがうかがえる。」
と記されている。
5世紀の後半頃に女木島を拠点として活躍した被葬者は、瀬戸内海にとどまらず朝鮮半島と往来するなど、広域にわたる海上交通に重要な役割を果たした人物、恐らく渡来系豪族の首長であったと考えていいのだろう。
なお、女木島丸山古墳の石棺内から出土した珍しい垂飾付耳飾に関連して、高田貫太氏は著書『海の向こうから見た倭国』(講談社現代新書 2017) 「瀬戸内海の古墳」の中で「朝鮮半島の百済で五世紀前半から中ごろに製作されたものであった」「被葬者は百済から渡ってきた渡来人、または百済と非常に密接な関係をもった人ではないか。そして百済と倭の間を往来して両者をつなぐ役割を果たしていたのではないか。」など、興味深い論考を展開されている。
女木島丸山古墳が調査された当時の貴重な報告は、香川県教育委員会から昭和41年に発行された『香川県文化財調査報告 第八』の中に、香川県文化財専門委員 森井 正氏の報告「高松市女木島丸山古墳」として掲載されているので、その中から一部引用すると、

『香川県文化財調査報告 第八』所収「高松市女木島丸山古墳」(昭和41年)より 転載
「 女木島は鬼が島の洞窟で観光地として有名である。観光用の土を丸山から取ったところが丸山の底面近くで人骨のある石棺につき当たったという」、「四、五十年前までは付近に大松があって手を触れると平家の血がながれて腹痛を起すといわれたが、開墾が進んで付近は畑となり、小山はけずりはがれて、細った丸山と変貌してしまったという。この島の人はこの塚をタオのマルヤマ(谷奥の丸山)とよんできたので、ここでは女木島丸山古墳と称することにした。」という。
② 古墳調査の詳細は、報告書を参照していただくとして、径15m程の円墳と推定されている丸山古墳の大半部分はすでに削られて破壊されていた。しかし、墳丘の西南部分から東北側にかけた約1/7の部分(4×7m程)が残されていた中、奇跡的にその西南端で箱形石棺が残されていたのである。その石棺は、島の東西両海域の方角に向けて設置されていたようである。
こうした遺存状態から考えると、古い時代にも土石採取等によってすでに石棺の一部が露出し発見されていたのかも知れない。
現在、西側の道路(旧登山バス道)に面した墳丘残存部分は、周囲に小型の割石を高さ1m程の石垣状に積み、円形の古墳状に整備・保存されている。南側部分には新しいコンクリートブロックと割石による石階が数段ほど設けられ、石階上部には砕けたような古い石祠片らしいものが集積されている。但し、十数年前に撮られた写真などを見ると、摩滅した古い石屋根をのせた石祠が祀られていたことが分る。
幕末の慶応2年[1866]の『直嶋舊蹟順覧圖會』中に記されているように、神石などが発見されて程なく建てられたと想像できる石祠の残欠がなお遺存していた可能性もあり、根拠は薄いもののこの古墳の場所が「玉依姫神社」の祀られていた場所だったと考えたい。
八幡神社境内の豊玉依姫神社は玉依姫祠の再興神祠か
話を戻すが、神石などが発見されたことから豊玉・玉依姫の徳を感じ、祠を建てて祀ったとされる文政8年(1825)から数えて41年後の慶応2年(1866)、衆に募って神祠再興の準備を行い、翌年の慶応3年(1867)年の4月8日、三宅大人はもとより梶原景紹も女木島に集い、仮の神祠を再興した上、改めて6月27日には女木島の長をはじめ島民が多数参列して盛大に勧請式が行われた、と記されている「玉依姫祠」は、一体どこへ勧請し祀られたのだろうか。
その場所は明記されていないが、次のように考えたい。
女木島・男木島の両島に祀られる神社の社務を担ってきたのは、直島の東岸に位置する高田浦の八幡宮社家三宅采女が社人で、社僧は女木島では直島の瑠璃山高原寺圓明院(真言宗)であった。(男木島では同島の八幡山長壽院極楽寺(真言宗)が社僧を務めていた。)
「直嶋舊蹟順覧圖會」によると江戸時代には、直島には豊玉姫の旧跡と伝える「玉姫宮」があり、男木島にも「玉姫宮」と呼ばれる神社が存在し「故新傳日、男木嶋は豊玉姫の霊境にて、をりおり自然に神樂を奏する音あり。嶋人是を不レ叩の太鼓と唱へり。・・・・・。」などと記されているように、男木島は豊玉姫の霊境と伝承される島であったようである。(この社は『香川県神社誌』に男木島字殿畑にある「豊玉姫神社」であると考えられる。)
女木島の玉依姫の神祠再興の諸準備をした上で、翌年の慶応3年(1867)に仮の神祠を再興の後、盛大に勧請式が行われた場所とは、女木島の八幡神社の南側に祀られる「豊玉依姫神社」であったと考えたいのである。
また神祠の名称も、玉依姫神祠の再興に努められた直島八幡神社の社家三宅采女ほかの熱意を受けて、男木島の「豊玉姫」と女木島の「玉依姫」の名を合わせた社名「豊玉依姫神社」と命名されたのではないか、と考えたい。
2026・02・15 いこまかんなび 原田 修
[2015年10月に「旧 いこまかんなび写真掲示板(閉鎖)」に掲載した内容を大幅に追加・改訂したものです。]
いこまかんなびの杜 
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