阿 波 国 と 住 吉 の 神 々

 阿波国と住吉の神々

神功皇后の三韓征討伝承や住吉神社が多い瀬戸内海沿いの地域とは対照的に、淡路島のすぐ南方紀伊水道に向かって東西に流れ下る旧阿波国、徳島県の吉野川流域は、住吉大神を祀る住吉神社の数が少ない地域といえる。

阿波国とくに吉野川流域は、『古語拾遺』に語られるように、神武天皇即位の頃、太玉命の孫である天富命は忌部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・盾・木綿・麻を作らせ、さらに天日鷲命の孫を率いて肥饒の地であった阿波国に遣わし、殻や麻の種を植えさせた。そうした子孫たちは今も阿波国にあり、大嘗祭の年には木綿・麻布・種々の産物を奉る、との内容を記しているように、忌部氏一族が繁栄した地域でもあった。
四国三郎の異名を持ち、暴れ川と評される吉野川であるが、紀伊水道の海に近い下流域は、長年にわたり激しい洪水や想像を超える河道の変遷が繰り返されてきたようである。

  

江戸時代前半の新吉野川への河道改修が行われるまで、板野郡から鳴門市にかけての沖積地の中を大きく蛇行して流れ下る「旧吉野川」筋が主要な河道となってきた。
広い沖積地の肥沃さと不安定さを抱えながら発展してきた下流域両岸の山沿い地域には、弥生時代の集落跡をはじめ、積石墓や前方後円墳・箱式石棺墓などが多数分布し、歴史時代に入ると右岸には阿波国の政治中枢である国府や官寺などが造営されている。
一方、沖積地域の微高地や河口にも流通拠点となる集落や湊、さらに荘園を背景とした城郭施設などが営まれてきたようである。

 住吉神社の分布
ところで、徳島県神社庁のHPなどで確認すると、下記のとおり12カ所の住吉神社の存在が確認できる。他に登録されていない神社もあると思われるが、分布を概観すると、
旧吉野川の河口近くに拓かれた板野郡の新田開発地域には2社、徳島の城下町の住吉町に1社、旧吉野川筋の約9kmほど上流域にあたる板野郡藍住町神蔵に1社、さらに2023km上流の吉野川左岸の阿波市(旧阿波郡)市場町香美住吉本に1社、対岸のやや西に位置する吉野川市(旧麻植郡)川島町三
島に1社、吉野川流域から離れた四国山地の奥、三好市東祖谷(旧美馬郡)奥ノ井にも一社が存在する。
一方、紀伊水道に面する海岸沿いや水道に流れ込む那賀川流域にも5社の存在が確認できる。
小松島湾を見下ろす小松島市(旧勝浦郡)田野町赤石山上に1社、那賀川河口近くの阿南市(那賀郡)中島と住吉町に2社、同川の8km上流の阿南市大野町南傍示に1社、さらに南方、海岸線が大きく入り込んだ橘湾の奥、阿南市福井町浜田の海岸近くに1社、が祀られている。

それぞれの住吉神社がどのように創祀または勧請されたのか、詳しい由来を残す神社が少ない。探訪できた中から興味深い藍住町の住吉神社ほかを取り上げ、阿波地域における住吉神祭祀の時代的背景を考えてみることにしたい。



 
1.   板野郡藍住町の住吉神社

 
       
西側参道入口            参道前の道とクスノキ

この住吉神社は、現在の吉野川と旧吉野川の河道に挟まれた板野郡の南西部、藍住町字神蔵に鎮座する。鎮座地は海から約9キロほど遡った沖積地の一画にある。

  
           
『藍住町史』(昭和40年)より、全図に加筆

板野郡の地域は、『大日本地名辞書』(明治33)に「阿州の東北、吉野川北岸の一区なり。南は名東名西二郡に接し、西は阿波郡に連なる、東北二面は海水を以て限る、即鳴門海峡とす・・」と記されるように、紀伊水道に開けた河口・海浜地域であり、『和名抄』には松島・津屋・高野・小島・井隈・田上・山下・全戸・新屋の9つの郷があったことが知られる。
この中で、住吉神社の鎮座する住吉村一帯は、東の小島郷と接する井隈郷(いのくま)の地域に比定でき、『続左丞抄』の住吉(大社)神領年紀の中に「鎌倉故右大将家時寄進所 井隈庄」と登場することから、源頼朝が住吉大社に寄進した荘園であったことがわかる。
後述するが『住吉松葉大記』にも中世における住吉大社領とみられる「井隈庄」の記載がある。

  
             国土地理院の写真(昭和23年)より加筆

さて、藍住町は、明治22年の町村合併により藍園村と住吉村とが合併して誕生した町で、本来の鎮座地名は板野郡住吉村字神蔵である。

神社は、すぐ南側を蛇行する支流正法寺川に接した地に西方を向いて鎮座し、参道前には大きなクスノキと境内社棟
(恵比須社ほか)、新しい石燈籠一対があり、銅製文字の珍しい扁額を掲げた享保18(1733)の鳥居下を進むと、狛犬2対、正面に唐破風入母屋造の拝殿、背後に幣殿、さらに覆屋で守られた本殿4(明治16)が左右に並列する。

       

                     拝 殿

           覆屋北端                       入口の神額

 本殿の様子(南端の本殿は仕切られている)          本殿の背後の様子

本殿は春日造で、左()から底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后の四神がご祭神であるが、中央二つの本殿の隙間に天穂日命ほかを祀る本殿が付け足されている。(『阿波学会紀要 52号』参照)
  
             藍住町住吉神社本殿『阿波学会紀要 52号』より

また、覆屋北端の入口上には「表筒男命・中筒男命」と記した新しい木額が掲げられ、さらに南端入口上部と、本来神功皇后が祀られるご本殿にも「天神社」の扁額が掲げられ、入口扉横には「菅原道真」の説明が貼られているほか、石鳥居・狛犬・燈籠を配した参道が新たに付け加えられているなど、大きな変更が加えられている。中央二つの本殿の隙間に付け加えられた天穂日命を祀る小さな本殿は、明治以降に近くに祀られていた住吉天神社を合わせ祀ったものと考えられ、実際は南端の御本殿を天神社に見立てているようである。


     
覆屋南端入口に天神社の額            天神社への参道

さて、『明治神社誌料』
(明治45)には、
「 郷社 住吉神社  祭神 表筒男命 中筒男命 底筒男命 神功皇后創建年代詳ならずと雖も、往昔源頼朝の鎮祭にかゝるといふ、旧勝瑞城主細川氏の崇祀にして、字千鳥汀といふ処に鎮座せり、正親町天皇永禄年中(1558-1570)兵燹にかゝり社殿悉く焼失す、其後再建の年月は詳ならず。六ケ村産土神にして(阿波志)、当国二十二社の一なり(阿邦郡邑記)、明治六年郷社に列す。・・」と記されている。

   
           境内にある由緒を刻む記念碑(昭和11年)

住吉神社の由来に関しては、境内に「郷社住吉神社略記」の説明板のほか、昭和11年に建立された由緒を刻んだ石碑がある。

石碑の文面から一部を紹介すると、以下のとおりである (私訳)

当社の御鎮座は「住吉幽考秘記」に次のように記されている。承安2(1172)7月、津守国房が罪により阿波国に流された。悲しみに耐え切れず秘かに当社を祀って帰国が許されることを祈っていた。やがて住吉神の霊告によって帰国が許された。
その後、源九郎大夫判官義経は、元暦2(1185)2月、摂津の渡辺福島を16日の丑の刻に出船し、翌日卯の刻に阿波の勝浦に着かれた後、讃岐へ越えようとされたが、折しも217日降り続く雪水まじりの雨の中、角瀬の河水は増水して白波がたち渦を巻き、容易に川を渡ることができずに困り果てていた。そこで、住吉四社の大神に合掌して、河水の深さを教え給へと次のように祈念された。住吉大神は三韓征伐の軍神、天慶の昔、伊予の純友を降伏させた霊験の著しさの如く加護し給えと。
祈願の詞も終らない中、白鷺2羽が現れて河端にとまった。これが神の教であれば霊異を現わし給へと心中で祈願された所、不思議なことに2羽は浅瀬を知らせるごとくに河上を駆けたため、水の流れの緩やかな中を難なく大将も兵もみな渡ることができ中村に着いたが、そこには津守国房の祀っていた小祠があったのである。判官義経は凱旋の後、朝廷へ奏聞し神社が造営された。
このように、由緒正しく霊験あらたかな社であったため、中古、細川氏が四国の管領として勝瑞の地に居館して以来、篤く崇敬され神主には必ず重臣を補任してきた。則ち天文年中には三好筑前守元長の三男豊前守義賢を神主に補任したことが『南海治乱記』にのせている。
管領家が崇敬する神社として社殿は立派なお姿で護られてきたが、天正10(1582)に土佐の乱の兵火に罹って古記や古物はことごとく消失した。後に造営されたのは今の構造で、年とともに徐々に腐朽してきた明治10(1877)8月、大暴風雨の際に倒木によって覆屋が破壊されたが、農村はひどい不況時であったため再興できなかった。30余年を経過し明治45(1912)に復旧する運びとなった。・・・・・・・・・・・・()・・・・・・・・・・・・・・・。との内容が刻まれている。

また『阿波志』(文化12[1815])には、次のような内容が記されて(私訳)いる。
 住吉祠 
住吉村にある。右大将の源頼朝が祀ったと伝えている。永禄年(1558-1570)、源存保(やすまさ)が祠職を務めた。今は十河某が管理している。天正年間、兵火に罹り、六村が共同で祀っている。祠前は千島汀の名で呼ばれ、芳野河は昔ここを流れていた。今は塞がれて湟(ほり)となっていて、天神祠・蛭子祠・祇園弱宮八幡祠・敷地祠・珍成祠などが祀られている。
と記されている。

現在、住吉神社の南側の地は、字千鳥ヶ浜と呼ばれているが、明治以前は「千島汀」とも呼ばれていたようで、『大日本地名辞書』には「住吉明神は旧勝瑞城主細川氏の崇祀にして、千島汀と字する地にあり」とあるほか、『阿波志』には「千島汀 在住吉村住吉祠前有池若干十歩」とも記されている。

住吉神社の由緒の中に登場する、源義経が二羽の白鷺に導かれて難なく渡河できた地に住吉祠があったという伝承は『板野の伝説』中にもよく似た話が伝えられているようだが、『阿波志』の中では次のように記され(私訳)ている。
 中富川 

昔、芳野川は中臣()村から住吉村を経て屈曲して流れていた。住吉祠前の新居に至る渡し口に偃松(はいまつ)があり、その下は源廷尉(源義経)が騎馬で河を渡り、住吉祠に出合った場所と伝えている。元禄14(1701)、土地を鑿って導水し奥野村直道から貞方村まで・・・大川となす、今は新川と称す・・・。
と記されていて、中富川とは住吉神社の南を流れていた旧吉野川の一支流のことで、義経と住吉の祠を結びつける伝承がここに伝えられている。
また『同書』によると、住吉祠の南側を「住吉渡」の名で記し、渡舩あり、岸に偃松(はいまつ)があったが今は枯れた、南方は城府まで2里、北は高木渡まで半里と近い、
との内容を記して
いる。

さらにもう一点、先にも記したが、この住吉神社に蔵されるという「住吉幽考秘記」に、承安2(1172)7月、津守国房が罪により阿波国に流され、悲しみに耐え切れず秘かに当社を祀って帰国が許されることを祈ったと、神社の創祀に関わる内容が記されているが、このことに関連して、以下のとおり興味ある史料を見つけることができた。

 『住吉松葉大記』の「阿波国名方郡住吉嶋社」とは

江戸時代の元禄~正徳年間頃に、摂津住吉大社の旧社人、土師(梅園)惟朝により編輯された『住吉松葉大記』鎮座部には、次のように記されている。
以下原文のまま一部を抜粋する。


「凡そ住吉大神を諸国に祭り奉りたる事、其数悉く知るへからすと云へとも、今諸書に載る所管覧に及ぶ者、少々記して鎮座部の末に附す。猶求めて追て記すべし。
摂津国武庫郡広田社五座之内住吉大神
同国多田院神社相殿住吉大神
・・・・・()・・・・・・
阿波国名方郡住吉嶋社当社同體
按正安二年七月津守國房依天王寺合戦之罪阿波国 國房不其憂悲切竊自祭二大神以祈帰国 延慶四年遇赦歸于住吉 是専頼大神之冥助矣 至今彼國存社務祭祀
・・・・・・()・・・・・・・・・」

と記されている。

編輯した惟朝は、諸書の中より抽出した諸国の住吉大神を祀る神社50社を列挙した中に、「阿波国名方郡住吉嶋社」を挙げているのである。
この「名方郡住吉嶋社」とは一体どこの社であるのか、若しかすると藍住町神蔵鎮座の住吉神社のことなのだろうか。
名方郡は、古代に旧吉野川末流の南側に存在した郡名であるが、寛平8(896)9月以降、名東・名西の二郡に分割されたといわれる。
『延喜式』には名方郡、『和名抄』には名方東郡・名方西郡と記されている。
古い郡名を冠して名方郡住吉嶋社と記されていることは、編者の誤りともとれるが、相当古い記録から抽出した可能性もある。
河道が南北に大きく蛇行しながら東流する旧吉野川末流の一画に、河道と海につながる浦に挟まれて、板野郡に接して名方郡の最北端に住吉神の祀られる住吉嶋が存在していたと考えることも出来、現藍住町の住吉神社であった可能性も考えられる。
奈良時代に大川(吉野川)に沿って板野郡界に接した名方郡にあったとされる東大寺領荘園大豆処の存在も大いに参考となる。
後世、徳島城下となった住吉嶋や河口に開発された住吉新田の住吉社に比定するには無理がある。

ところで、この「名方郡住吉嶋社」については唯一「当社同體」と記され、住吉大社との深い関係が読み取れる。惟朝は、さらに続けて「住吉嶋社」について調べた内容を次のように補足している。私訳すると、

正安2
(1300)7月、津守国房は、天王寺合戦の罪により、阿波国へ流された。国房はその悲しみに耐えきれず、ひそかに自ら(住吉)大神を祀って、帰国できることを祈った。延慶4(1311)に許され住吉へ帰ることができた。これより自ら住吉大神の加護を頼み、今に至っても彼の国(阿波)にある社の祭祀を務めるという
と記しているのである。


藍住町住吉神社所蔵の「住吉幽考秘記」という古記の原文全文を確認できないが、同社境内に刻されている記念碑文では、津守国房が阿波へ流されたのは「承安二年
(1172)七月」であり、『住吉松葉大記』では、「正安二年(1300)七月」となっているのである。
文脈は似ているが、年号の読みは同じ「しょうあん」であり、「住吉幽考秘記」が著された際、または碑文が作られた際、年号等を誤った可能性があるほか、『徳島県の地名』(平凡社)「住吉神社」の解説でも指摘しているように、義経の伝説も付会された可能性が高いと思われる。
なお、『角川日本地名大辞典 徳島県』「住吉島村」の所には、徳島城下町の拡充の際に中州であった旧名藤五郎島と呼ばれた住吉島村(名東郡)に、渭山(城山)から住吉神社が移されたことを記しているが、この住吉神社の由来に関してなぜか「住吉幽考秘記」を引用し、次のように記している。
「正安二年庚子七月津守国房北条某と善からず罪を得て阿波国に流さる、於之憂悲に不堪、竊かに当社を祀り以て帰国を祈る、其後延慶四年辛亥忽然霊告あり、其年罪を解かれて住吉に帰る、其神社今猶彼の島に存す」
との文を載せている。

その内容は『住吉松葉大記』が挙げる「阿波国名方郡住吉嶋社」の補足文の文脈と酷似しているが、津守国房が罪を受けた原因は、大辞典では「北条某と善からず」、住吉松葉大記は「天王寺合戦」となっていて異なっている。
創祀の時期に関わる正安2(1300)の年号が共通しているようであるから、住吉神社(藍住町)境内にある「記念碑」あるいは「由緒説明板」に記された承安2(1172)の年号は、誤って転記されたとも考えられるのである。
『徳島県の地名』には、住吉神社[藍住町]について「創建については、社伝では承安(1172)とし、『板野郡誌』では正安2(1300)に摂津国住吉神社の神官津守国房が勧請したとしている。」と記すように、創祀時期を考える上での大きな混乱を生じさせている「住吉幽考秘記」なる古記の原文をぜひ確認したいものである。
ここに登場する津守国房という人物は、津守氏系図には確認できないが、もし国房の阿波国配流が承安2(1172)ではなく正安2(1300)が正しいとすれば、屋島へ向かう源義経が渡河を果たし住吉の祠を拝したという話は、後世に付会された根拠のない伝説となり、住吉神社の創祀は100年以上も後世の鎌倉時代末期ということになる。

しかし、果たしてそうなのだろうか。
『住吉松葉大記』造営部の中には、室町時代のはじめまで20年毎に行われてきた住吉大社の式年遷宮造替にあたり、金物用途拠出の割当額を神領地ごとに記した「注進造営金銅金物用途支配事」に
「井隈庄」が次のように登場する。

「注進造営金銅金物用途支配事

 合 建長五 文永十 永仁元 正和二 建武元 文和三 應安七 應永元 永享六
・・・・・・・・・・()・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 一 井隈庄
預所九貫八百文 禰宜三貫文 田所三貫文 上司三貫文 案主三貫文 内公文三貫文 庄役二十八貫文 摠追捕使三貫文
  正平九年(1354)八月日
   于時永享六年(1434)八月日 」

と記され、源頼朝が寄進したとされる「井隈庄」は、建長5
(1253)~永享6(1434)までの間、その負担額は神領中最高額であり、地域の経済力の高さに加え、住吉大社との関係の深い土地柄であったことを表している。荘園内の監督役人ら負担者の中に禰宜が含まれており、住吉神社の禰宜職であった可能性が高い。
井隈庄に含まれる住吉村から東北の勝瑞地区一帯は、鎌倉時代に入って佐々木氏に代わって阿波守護となった小笠原氏が守護所を置き、土佐に配流されていた土御門上皇が阿波に移った際の行在所があったとの説があるほか、勝瑞地区の発掘調査で平安時代中期の遺物や貝塚が出土し、さらに古い遺物も見つかっている[参照 勝瑞遺跡デジタル博物館] ことから、住吉村を含め勝瑞地域が井隈郷あるいは井隈庄の経済活動の中心的な位置を占めていたようで、住吉神社の創祀は、津守国房の創祀伝承や義経伝説の時代をさらに遡った平安時代の早い時期に祀られていた可能性も考えられる。

藍住町の住吉神社の創祀に関し、摂津の住吉大社との関係が深かったことは間違いないところであるが、大阪の住吉大社の宝物である『住吉大社神代記』の中に気になる文章が登場する。直接関係するものか不明であるが、参考に紹介する。田中 卓博士の『訓解住吉大社神代記』より抜粋して要点を記すと
(私訳)

播磨国賀茂郡椅鹿山
(はしかやま)の杣山は、船木連の遠祖が所領する山であったが、神功皇后の時、住吉大明神に寄せ奉られた。以来、杣山の樹は住吉大神社の造宮料とされ、新羅国の征討にあたり立派な船を造ったことにより、船木・鳥取の二姓が定められた。
[播磨国賀茂郡椅鹿山の領地田畑より]
神功皇后の時、大八嶋国を事定め終わり、大禰宜として奉斎したのは津守氏の遠祖・船木氏の遠祖らで、共に船司・津司に任じられ、また所々の船木連の姓を賜った。その地は、但波国・粟国・伊勢国・針間国・周芳国の5ヶ国で、以来、船津の官の名を負って仕えてきている。[船木等本記より]
との内容が記され、『住吉大社神代記』の中で唯一「粟国」の名が登場するのである。

紀伊水道に吉野川などの大河が流れ込む阿波国内では、どこにでも船が停泊できそうな津は沢山存在したと思われるが、あえて住吉大社と関係の深い井隈庄の所在地、あるいは古くから津守氏と何らかの密接な関係が読み取れる藍住町鎮座の住吉神社とを結びつけたいと思っている。
(2019.3.16)




 2.   阿波市市場町香美の住吉神社

次にとり上げる住吉神社は、藍住町の住吉神社から吉野川を約20km程上流にある阿波市市場町の香美(かがみ)字住吉本と呼ばれる地に西を向いて鎮座する。南方を東流する吉野川に向かって緩やかに畑が傾斜して広がる一画にあり、標高約28mを測る。

 
              国土地理院の写真(昭和36年)より加筆

                 神社は西を向く

江戸時代以前は、山ろくを通る旧撫養街道沿いに市場として栄えた市場村の南側、吉野川と挟まれた地域が旧阿波郡香美村にあたり、香美の地域は、『和名抄』阿波国阿波郡に高井郷・秋月郷・拝師郷と共に記される「香美郷」の遺称地とされる古い地域である。
村内には、郷社本・善入寺・住吉本・八幡本・渡などの字名があるが、住吉神社
(住吉本)の南西600m、吉野川堤防近くの八幡本には八幡神社があり、南東には春日神社、東方700mの郷社本には『延喜式』神名帳に阿波郡三座の内の一社「建布都神社」とされている建布都神社があるほか、住吉神社の北東すぐ近くにも八坂神社が祀られていて周辺には神社が多い。


        社日碑                   猿田彦神の碑ほか

        拝殿と本殿                春日造の本殿

住吉神社の境内入口には、「天明甲辰年
(1784)十一月九日」「香美村氏子中」を刻む鳥居があり、続いて燈籠一対(文久3[1863]9)、狛犬一対(安政3[1858]9)が並び、本瓦葺の拝殿の奥には春日造の本殿がある。拝殿内には、朱色の扁額が保存されている。
なお、狛犬の北側には、燈籠一対と五角形の社日(地神さん)碑が祀られているほか、本殿の右手には猿田彦神など数基の神石碑を祀る区画が残されている。
ところで、この住吉神社に関わる史料であるが『阿波志』に
「八幡祠 在香美村 蔵偃月刀一枝長一尺九寸五分 又有住吉祠 牛頭祠 吉備津祠 春日祠 平野祠 平治祠」と記され、香美村内に八幡祠のほか、住吉祠などの神祠が祀られていたことが記されているが、住吉神社は「住吉祠」に相当するのだろう。

             
                      拝殿内の古い扁額

また、『阿波郡誌』によると、住吉神社の所在は字北原といい、村社として底筒男命・表筒男命・中筒男命、神功皇后、大山祗命、猿田彦命、萱野媛命を祭神としており、大正8年に村社秋業神社ほか6社が合祀されている。

なお、香美村の社として記された「平治祠」であるが、住吉神社の東、郷社本に鎮座する建布都神社のことで、『阿波郡誌』によれば、所在は字西ノ岡、祭神は経津主命・武甕槌命とし、平治権現と公称してきたが、明治311月に式内小社の建布都神社にあてられ神社名が改称されたことがわかる。
この建布都神社についての詳述は省くが、『日本書紀』神功紀に、仲哀天皇が神の教えを聞かずして急逝したため、神功皇后はその神がいずれの神であったかを問う中で「尾田吾田節之淡郡所居神・・・嚴之事代主神有之也・・」と登場する所から、『神祇志料』は「淡郡所居神とあるは、疑らくは此建布都神を云へるに似たり」とし、阿波郡の式内社事代主神社と合わせ、香美村鎮座の建布都神社の可能性を指摘する。
また『住吉大社神代記』にも「尾田吾節之淡郡所居神」と登場し、淡郡は阿波郡、その地に座す神々の事を言っていると見る意見が多い。



     伊月にある事代主命神社            郷社本にある建布都神社
      
                   八幡本の八幡神社

なお、香美村の南を流れる吉野川の広大な中洲は、善入寺島(粟島・大野島) と呼ばれていたが、その西端の藤太夫須賀には、延宝年間に移されてきた建布都神とも称したという杉尾社があった (『阿波志』の藤太夫塚は誤りであろう)ようであるが、大正8年に河川改修による移転に伴い八幡本の八幡神社へ合祀されている。確かに八幡神社の入口正面には、「八幡宮」の石扁額を掲げた大正13年の石鳥居と江戸期らしい石鳥居が重なりその右手には「杉尾大明神」と刻む扁額を掲げた江戸期らしい石鳥居が建てられていることから察せられる。




 3、吉野川市川島町三ツ島の住吉神社

阿波市香美町の住吉神社の南西約2.7km、吉野川の右岸、吉野川市川島町三島にも住吉神社がある。
周辺は旧吉野川に沿って形成された沖積地で、複雑な河道の変遷により形成されてきた土地柄として島や須・あるいは須()賀といった名称が多い。

  
              国土地理院の写真(昭和22年)より加筆

住吉神社が鎮座する地は、江戸時代には麻植郡三島村と呼ばれ、神社は東西に横断する旧伊予街道筋に南面している。
南方の山並みは、よく知られた忌部山であり、一帯は忌部氏族の故地である。『和名抄』によると、麻殖(乎恵)郡には、呉島(久禮之萬)・忌部(伊無倍)・川島(加波之萬)・射立(伊多知)の四つの郷が記されており、4つの郷域は、吉野川南岸に沿って東から西へ連なっていたとみられる。
『大日本地名辞書』に、忌部郷は「今山瀬村の大字山崎及び学島村などの地とす、忌部山あり、麻殖神此に鎮座す」と記され、学島村は学村と三ツ島村が町村合併で誕生した村名であることから、三島村も忌部郷の低湿地に属する地域にあたっていたと考えられる。
『阿波志』には「住吉祠 在三島」と記され、『麻植郡誌』にも「住吉神社(村社) 学島村大字三ツ島字森にある、祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命である。」
と記されるのみで、由緒等の詳しいことは書かれていない。

『徳島県の地名』川島町三ツ島村の説明の中に住吉神社のことが記されているので引用すると、
字森に住吉神社を祀る。創立年代は不詳であるが、唐破風の拝殿には阿波守護細川氏の定紋が彫刻され、さらに拝殿の裏に細川義季のものと伝える墓があるなど、細川氏との関係が推測される。境内には天保7
(1836)に奉納された高さ5mの大燈籠がある。字堂の浄土真宗本願寺派蓮光寺は寺伝によれば篠原長房の遺臣了誓(了成)が天正年中(1573-92)に開基した寺院という。(郡村誌・川島町史・徳島県神社誌)」と記されている。

 
        神社入口               境内より南方忌部山方面

境内入口には「安永二癸己歳
(1773)九月十三日」と刻む石鳥居に続き狛犬一対があるが、上記の大燈籠は、境内ではなく前面道路西側に道を挟む形で設置されている。
境内参道左側には波板を貼った三ツ島公民分館、正面には拝殿・本殿がある。
拝殿には唐破風が設けられていないが、正面の虹梁上の蟇股には、確かに足利氏の流れを引く細川氏の家紋「丸に二つ引両紋」が彫られている。
詳しいことは分からないが、拝殿自体は新しく見えるものの、虹梁や見事な獅子の木鼻を彫った虹梁が使用されているため、本体の軸組み構造自体はかなり古い建物と推察される。背後の本殿は、比較的新しい流造であるが、屋根下の組み物の一部などに古い部材を使用している可能性がある。

        
                      拝 殿
     
                  拝殿の向拝の蟇股と木鼻

本殿の背後の境内には、左手に社日碑が、背後には猿田彦神碑(明治)と庚申塔(安永3)が、右側クスノキの下には「源義季朝臣() 瓊 細川 霊神守座(中央) 先祖代々霊神()」を刻む慰霊碑があり、側面には明治33年の年号を刻んでいて、細川氏の子孫が建立したものと見られるが、『徳島県の地名』に紹介されているように、家紋と合わせ細川氏と関係が深かった神社であったのだろう。


        本 殿                   細川氏慰霊碑


(
補足) 山川町住吉の住吉神社
 


吉野川市の住吉神社を調べている中で、三島の西方約4.2km、隣町である山川町に住吉地区があることを知った。
ここは、南から吉野川へ合流する支流である川田川右岸の谷口段丘上にあり、南西に阿波富士とも称される高越山(こうつさん 1133m)を遠望できるもと川田村住吉と呼ばれていた所で、一画に小さな住吉神社が祀られていることが分かった。
現地の調査はまだ行っていないが、その地は、『和名抄』に記される麻殖郡射立郷(伊多知)に属していたとみられ『大日本地名辞書』には「今山瀬村大字瀬詰及び川田村等なるべし、忌部郷の西に並び、美馬郡界に接す」と記される。
郷名の「射立(いたち)」は「伊太氐」「伊達」(いたて)と同義であり、神功皇后が三韓征討の際に神船三艘を造らせ、凱旋後にその船魂を紀氏に祀らせた紀伊国の志麻・静火・伊達の神々の一神と同じ名であり住吉大社の船玉神がその本社となることから、住吉神社の存在と地名と絡め、何らかの関係を見出したいものである。




 4. 小松島市赤石山の住吉神社

徳島市の吉野川河口から南方約10km、紀伊水道に面した小松島湾に南方から流れ込む立江川に沿って北側に長く延びた標高7060mほどの丘陵上の突端部に住吉神社が祀られている。

   
             国土地理院の写真(昭和22年)より加筆

本殿などのある山頂近くは、西側の小松島市田野町金山・勢合地区、北~東側の赤石町の境界付近にあたり、『阿波志』に載せられた地図を見ると、古来この丘陵を境として、北は勝浦郡、南は那賀郡の郡界にあたっていたようである。一帯の新田が開発される以前は、この丘陵は小松島湾に大きく突き出た岬となっていたと思われる。
現在、狭い山下にはJR牟岐線と県道120号が通じているが、切断されて残る古い旧道
(県道217)に面して神社へ上がる参道があり、「住吉神社」と刻んだ石社額を掲げた石鳥居(明治36)があり、右手には新しい石燈籠一対のほか「神輿殿」らしい小建物などがある。

 


参道を進むと大正9年に神輿殿の上棟や整備に尽力された方々の氏名等を刻んだ紀念碑が立ち、次の内容を記している。

 
       紀 年 碑

当住吉神社は、勝浦郡小松島町大字田野字金山々頂に鎮座し、往古より毎年の例祭には御心霊を山麓の御仮宮に奉遷し来りたり、氏子は奉遷途中神楽を供え以て、敬神上最も厳粛に送迎し奉らんと常に熱望する所なり、然るに其機運熟せず今日に至れり 時なる哉 偶々本年 (以下略) ・・・・・・、
と刻され、字金山の山頂に鎮座していることを記す。

但し、『小松島市史』には、田野方面の神社の一社として住吉神社の説明があり、「住吉神社 赤石山頂に鎮座し、海上守護神棉津見の神を祭る。昔から赤石港出入の船の安全、勢合の村人を守護せられた神である」と記し、赤石山頂に鎮座して住吉三神ではなく棉津見神が祭神であるとしている。徳島県神社庁のHPでは、所在は田野町勢合33番地となっている。
200mほど細い山道を登ると、頂上より少し下に小松島湾を向いて小さな拝殿と背後に流造の本殿が祀られ、拝殿前には狛犬一対(大正14)、百度石(大正13)などがある。

 

 
                 拝殿と本殿の様子

いずれにしても神社の本殿が祀られる山は、通称「赤石山」と呼ばれてきたようで、この赤石山については『阿波志』には次のように載せている。

赤石山 田野の東の浜や海には、乱石が多い、山下の勢合(せいごう)と呼ぶ地は、俗に義経が休息した所と伝える
と記して
(私訳)いる。
旧道の入口には「勢合」の顕彰碑が建てられているが、古くは北~西方に広がっていた小松浦・小松洲には、屋島の戦いに向け摂津の渡辺嶋より荒天の中、義経らが船を出し、五艘一緒に着船した汀は、阿波国ハチマアマコの浦(『源平盛衰記』)、あるいは桂浦(『吾妻鑑』)と記されているが、その地は小松島の磯だと言い伝えられている。
『阿波志』には、「小松洲 別名餘戸浦 盛衰記作天子」と載せているが、勢合をはじめ赤石・田野や沖にあった金磯などの海浜には、義経にまつわる伝承地が多い。
『角川日本地名大辞典』には、赤石[小松島市]について、「小松島湾岸南部、立江川河口付近に位置する。地名については、地内から赤い真珠が産出されたとか、山中から赤い石が採集されたとかいう伝承があるが未詳」と記している。
赤石山に祀られる住吉神社の由来については、不明としか言えないが、郡界の地であり小松島湾を一望できる赤石山の上に祀られていることを考えると、その創祀は、源氏の吉瑞の始まりの地として関わりが深かったためかと想像するだけである。(2019.4.22)



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