生駒山嶺の巨石 三間石山巨石遺構





生駒山は神南備山   いこまかんなび     





大阪府と奈良県を分ける生駒山嶺上で発見した巨石群、この巨石群は、古代における住吉大社の神領つまり神南備山であった証であり、わたしたち「いこまかんなびの会」による探究は、ここにはじまった。

       いこまかんなび 原 田 修 2003.9.5〜



■ 巨石群を見学するには

巨石群の所在地 = 奈良県生駒郡平群町櫟原字三石 (三間石山-
さんげんいしやま)

●徒歩で行く方法
1.近鉄奈良線瓢箪山駅下車〜鳴川谷ハイキング道〜鳴川峠〜信貴生駒スカイラインを南へ〜東大阪市野外活動センター前を通過して、「夫婦岩」の看板のある駐車帯の階段を上る。(東大阪市側から上るコースです、所要時間=徒歩約1時間半〜2時間かかります)

(注)
スカイラインは車道ですので危険です。しかし、鳴川峠から縦走路を南へ行く方が安全ですが、巨石が所在する山魂は、スカイラインに切断されていますので、知らぬ間に行きすぎてしまいます。
そのため野外活動センター入口で、スカイラインの方へ入り、車に気を付けて南に行けば、左側に「夫婦岩」の看板が見つけられるでしょう。


2.近鉄生駒線元山上口駅下車
生駒山口神社元山上千光寺鳴川峠〜野外活動センタ入口〜信貴生駒スカイライン沿いを南へ(注意)、この後は1.と同じです。
(奈良県側から上るコースです、所要時間=徒歩約1時間半かかります)

●車で行く方法
旧阪奈道路(第二阪奈道路ではありません)〜山上の信貴生駒スカイライン(有料道路)で生駒山上〜暗峠 (くらがりとうげ)〜鳴川峠〜夫婦岩を目指してください。はるかに連なる信貴山・高安山〜二上山・葛城・金剛山のすばらしい景色を眺めながら、楽々と巨石の所へ行くことができます。

            
いこまかんなびの杜




         1 巨石遺構の位置と状況

  

 謎の巨石群は、標高642mを測る生駒山の主峰の南方、旧奈良街道が横断する暗峠付近から一段低くなって続く南嶺の鞍部、鳴川峠の南方に最近オープンした東大阪市立野外活動センターの入口をさらに少し南へ行くと、スカイラインが大きく東へカーブしていく手前にある駐車スペースに「夫婦岩」と書かれた案内看板のすぐ東側の山塊上に存在しています。
 石段を数十段上った山塊の上部には、今や木々に隠れて数mもある巨大な石が3個、南側にもやや小型の石が多数目に飛び込んできます。
 この山塊は、現在ではスカイラインに切断されていますが、もとはすぐ西側の信貴生駒縦走路であるハイキング道が通じる、標高450m前後の高さの分水嶺筋から派生して八つ手状に北〜北東方向へ突出した尾根の先端部にあたっていて、はるか北方にそびえる生駒山主峰を望む標高454mを測る所に位置しています。
 巨石群の周囲の樹木が無ければ、古くは大和・河内平野からも眺めることが可能であったでしょう。
 巨石群の存在する尾根先端部は、東西約18m、南北約25mを測る逆三角形の西に傾斜した平坦部を作っており、元来は分水嶺から分岐していた尾根幅も極めて狭く、細い道でつながっていたと見られます。

     

 三角形に並ぶ3つの巨石の内、東側の巨石1は、長さ6.7m、高さ4.5mを測る長持形の自然石で、すぐ西側の巨石2は、長さ4.6m、高4.5mを測る頭部の丸い大きな立石であり、土が流失しているためか下部の石にも支えられず立っていることが不思議なくらいです。
 石には何らかの民間信仰によるものか、多数の小枝が周りを支えるように立て掛けられています。
 南側の巨石3は、長さが5m以上もある巨大な石ですが、他の石と比べると低く平坦な自然石が倒れて埋まったような状態となっているため、本来は他の巨石同様に立石状の石であったかもしれません。


           2 巨石遺構の状況

    

 これら3つの巨石群の西〜南西縁辺には、1mから2〜3m大の自然石数十個が、一部崩壊していますが階段付近から北西方向へ約30mにわたり土留のためか石列の存在が確認できます。
 また、巨石2のすぐ南側の段部分では明らかに整然とした石垣状に組まれており、これらの巨石群(閃緑岩?)全体の配置状況などから、単なる自然石の露頭したものでは決してなく、さらなる考古学的実証が必要とはいえ、いつの時代かに何らかの目的をもって人為的に他所から自然石が運び込まれて設置された巨大な石造物であることは明白です。
 巨石群のあるこの場所は、府県を分ける生駒分水嶺のすぐ東、奈良県平群町櫟原に属し、役行者が山上ケ岳より先に開いたとされる元山上千光寺の南西約1.2km、明治時代の地図や大正時代の平群町の記録などから、生駒山系を横断する古道の一つとして、西麓の東大阪市横小路あるいはすぐ南側の八尾市神立の十三峠道から分岐して平群谷へ通じる「河内越」のルートにあたっており、東側の平群谷山麓には素戔嗚尊と櫛稲田姫命を祀り、雨乞いの神として崇敬された伊古麻(生駒)山口神社が鎮座しています。

     

     
 また、巨石群の所在地は、小字名が「三石」、あたりの嶺は「三間石山(さんげんいしやま)」と呼ばれていたようで、『大正二年史蹟名勝及天然記念物調査書 生駒郡平群村役場』には、「三間石山 大字櫟原ノ西北隅に聳ヘ河内ニ連亘セル高嶺二シテ高サ約百八丈余アリ之ヲ河内越ト称ス」と記録されていて巨大な石造物の存在する所として相応しい地名が残されています。
 私は、これらの巨石群を「三間石山巨石遺構」と名付けることにしました。三間石とは、石の大きさを表した名称と思われます。


         
3 巨石遺構の時代と住吉大社

   

 三間石山巨石遺構の築造時期を考える上での手がかりは多くありません。
 石舞台古墳の天井石に匹敵するぐらい、使用されている石の巨大さに加え、摂津・河内・大和方面を一望できる立地などから、営まれた時代が巨大な古墳を築くことができた古代にまで遡る記念物であったと考えるのが妥当と思われます。
 また、築造された目的を考える上で、関連する歴史史料を十分にあたった訳ではありませんが、その手掛かりのまず一番に想起させられるのは『住吉大社神代記』の中の「膽駒・神南備山本記」です。
 太鼓橋でよく知られる住吉大社は、大阪市住吉区に鎮座する式内社で、古代には茅淳海すなわち大阪湾に面し、広く見れば生駒山〜金剛山を背後にして鎮まる神社であり、正式には「住吉坐神社」といい、摂津国一の宮として住吉大神三神である表筒男命、中筒男命、底筒男命と息長足姫命(神功皇后)の四神を祀っています。
 住吉大神は、海路を主宰する神あるいは津(港)を司る神などともいわれ、神功皇后が新羅国への出兵にあたり、住吉大神の加護を大いに得て凱旋した後、大神の神託によって住吉の地(玉野国淳名椋の長岡の玉出の峡の墨江の御峡)に合わせ祀られたといわれます。
 同社には、重要文化財に指定され、奈良時代ごろに書かれたという『住吉大社神代記』が残されています。この『神代記』は、住吉大社が神祇官に上進した解文で、天平3年(731)の年紀をもつ漢文体の古文書です。
 当時の宮地・社宝・神領とその由来を記したもので、住吉大社の四至と由来に続き、垂仁天皇が寄奉ったという二上山〜葛城・金剛山・和泉山地と山ろく地域を含む広大な神領と見られる「華林・二上山等」の記述「山河寄せ奉る本記」に続いて「膽駒・神南備山本記」という一文が続いています。
 「本記」表題の膽駒すなわち生駒山が、当時住吉大社の神南備山、つまり住吉大社の神領であった由来を説明したもので、神南備山とは、そもそも神の鎮座する山という意味であり、一般に三輪山をはじめ斑鳩の三室山、明日香村の三諸山などがよく知られているのは言うまでもありません。

  
        4 膽駒神南備山本記

   

 難解な文章ですが、『訓解住吉大社神代記』にもとづいて「膽駒・神南備山本記」(以下「本記」とする)全文を紹介することにします。

膽駒・神南備山の本記
 
四至 東限 膽駒川・龍田公田
    南限 賀志支利坂・山門川・白木坂・恵比須墓
    西限 母木里の公田・鳥坂至
    北限 饒速日山
 右、山の本記とは、昔、大神の本誓に依り、寄さし奉る所、巻向の玉木の宮に御宇しし天皇・橿日宮に御宇しし天皇なり。
 熊襲国・新羅国・辛嶋を服はしめ賜ひ、長柄泊より膽駒嶺に登り賜ひて宣り賜はく、「我が山の木実・土毛土産等をもて斎祀らば、天皇が天の下を平らけく守り奉らむ。若し荒振る梟者あらば、刃に血ぬらずして挙足誅てむ」と宣り賜ふ。
 大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは、船木の遠祖大田田神なり。此の神の造作れる船二艘
(一艘は木作り、一艘は石作り)を以て、後代の験の為に膽駒山の長屋墓に石船を、白木坂の三枝墓に木船を納め置く。
 唐国に大神の通ひ渡り賜ふ時、乎理波足尼命この山の坂木を以て、迹驚岡の神を岡に降しまして斎祀る。
 時に恩智神、参り坐在す。仍、毎年の春秋に墨江に通ひ参ります。之に因り、猿の往来絶えざるは、此れ其の験なり。

 
母木里と高安国との堺に諍石在置り。
大神、此の山に久く誓ひ賜ひて「草焼く火あり、木は朽ちるとも石は久遠に期らむ。」とのたまいき。)

 生駒山は、第11代垂仁天皇(景行天皇とも解釈されている)・14代仲哀天皇が新羅などを平定した後、つまり4世紀の頃に住吉の大神へ神南備山として寄進したもので、その範囲の北限は饒速日山、南限は山門川などと記しています。

 饒速日山は、物部氏の祖神である饒速日命が天降ったとされる河上哮峯のことで、生駒山地の北端、交野市と四條畷市下田原の境に所在する磐船神社付近にあたるといわれます。
 一方、南限の山門川は、もちろん生駒山地の南端を横断する大和川ということになり、東は生駒谷〜平群谷、西は河内平野に沿った東西山ろくに挟まれた南北約20km、東西約6kmを測る広大な生駒山地のほぼ全体が神南備山の範囲として含まれていたことになります。


          5 巨石遺構と諍石


 

 ところで「本記」の最後の段には、今回紹介した「三間石山巨石遺構」と関連する重要な記事が書かれています。

「母木里と高安国との堺に諍石在置り。大神、此の山に久く誓ひ賜ひて「草焼く火あり、木は朽ちるとも石は久遠に期らむ」とのたまいき」
と書かれ、「諍石
(いさめのいし・しずめいし)」なる不思議な石が登場します。

 住吉大神は、例え山火事で草が燃え木々が朽ち果てても、石(諍石)はその証しとして永久に残り続けてくれるであろうと、かたくこの山(膽駒神南備山)に誓われたことを付け加えています。
 この中で「母木里
(おものきのさと)」は、他の記録史料などには「母木邑」や「母木寺」などと登場することからも、式内社の枚岡神社が鎮座する東大阪市豊浦町の山ろく一帯と推定されています。
 また「高安国」は、高安山のある八尾市の東部地域が、古代以来高安郡と呼ばれており、古い名が高安国と呼ばれていたものと考えられますので、「諍石」が置かれた場所は、東大阪市と八尾市とのほぼ境界付近、それも山ろくから山上までの間にその地を求めることができるでしょう。
 周辺の山ろく付近が、諍石のあった場所にふさわしいと考えられないこともないですが、市境付近延長ライン上にある山嶺上に、厳然と遺在する謎の巨石群、三間石山巨石遺構が、まさに「本記」に登場する諍石そのものであったと確信するものです。
  諍石が置かれたのは、「本記」の記述そのまま信頼できないとしても、海神あるいは航海の守護神である住吉大神をはじめ随行諸神の加護を受けて新羅などを平定したと伝える当時の初期大和王権が、凱旋後に住吉大神へ奉った神聖かつ広大な神領であった「膽駒神南備山」の山嶺上に、何人も侵すことのできない聖域の証を永久に残すために巨大な石造物を築造したものと考えられます。


 
本文の補足説明


          いこまかんなびの杜