いこまかんなび(元宮) 本文説明の補足



 
住吉大社と生駒山ろくの神々

 高安地域の南端に鎮座する恩智神社(八尾市恩智所在)は、住吉大社ならびに北方に鎮座し、河内国一の宮として春日四神を祀る枚岡神社ときわめて深い関係を有する延喜式内社で、河内国二の宮として藤原氏の祖神である大御食津彦命神(おおみけつひこ)、大御食津姫命神の二神を祀り、恩智大明神と称されていました。

    
                   恩 智 神 社

 延宝4年
(1676) 6月27日の『恩智大明神縁起』には、神功皇后が三韓出兵の時に恩智の神が住吉大神と共に海上に現れ、両神は皇后と一緒に戦ったことから、恩智の神は凱旋後に生駒山の南西麓にあたる高安郡の7郷を賜ったと伝えています。
 ここで注目されるのは、住吉大社の鎮座地は、堺へ通じる古代の古道の一つであり河内と摂津の国境ラインにもなっていた長尾街道の東西ラインから北へ約36町隔てた古代地割ライン上に位置しています。
 摂津平野郷の南では再び屈曲して、摂河国境ラインとなる現在の長居通りを真東に延長した生駒山麓、つまり住吉大社から磯歯津道をとおして真東に恩智神社が鎮座しており、地理的に深い関係にあるだけではなく、両社が古代以来祭祀の上で極めて密接な関係があったことを裏付けています。
 『恩智大明神縁起』には、近世における恩智神社の大祭礼日に摂津平野郷の北に位置する鞍作村(河内国渋川郡鞍作村)において住吉大社の神官が神酒を献ずる者を迎えたこと、さらに「恩智社代々云伝及聞申通書付申候書」にも、当時伝承されていた事として、同社の神輿が鞍作村の南にあった御旅所まで行き、住吉大社の神主がこれを迎えたことが記され神輿の渡御が古くから恒例の神事となっていたことがわかります。
 さらに恩智神社と北方河内郡に鎮座する河内国一の宮の枚岡神社とのほぼ中間、十三峠道の南側に鎮座する式内社の玉祖神社(八尾市神立所在)は恩智神社と深い関係があり、江戸時代
(年記不明)『玉祖大明神之縁起』には、元明天皇の和銅3年(710)に周防国(山口県防府市)から玉祖命の勧請の際に、神が一旦摂津の住吉浦へ到着し、住吉大明神に鎮座の地を求めた所、東方生駒山麓の河内国高安郡に鎮座する恩智神の領地が広大であることから、眷属とともに高安へ送奉り、恩智神の領地であった高安郡七郷の内、六郷までをも玉祖神に分け与え鎮座したという。

      
                  玉 祖 神 社

 また、その時の眷属の姿は、あたかも猿に似ていたことから、以来住吉への往還路を猿道と呼ぶようになったという。
 『住吉大社神代記』の「膽駒神南備山本記」に、「時に恩智神、参り坐在す。仍、毎年の春秋に墨江に通ひ参ります。之に因り、猿の往来絶えざるは、此れ其の験なり。」と記されていることと符合し、古代以来猿に例えられた恩智神が、住吉の神を迎えに行くことが重要な神事となっていたことになります。
『大阪府全誌』には、恩智の地について「玉祖社の旧記には上古は母木邑と號せしと見え、村誌には母木と呼びしを天應年間
(781)恩地村と改称せりと記せり」としている。
 また、恩智神社については「以前に於ける當社の故例に、當社が旧六月廿七日に大祓を行ふに當りて、神輿の泉州堺に出御せらるゝや、其の間は枚岡より来りて當社を守り、又明治維新前までは奈良春日社の猿楽は當社の猿楽出張せざれば行はれず、故に當社の猿楽座は彼の社より七石五斗と金若干との扶持を受け来りしが、其関係は両社とも當社より遷座ありしに基けりと。然れども古記の徴すペきものなければ何れとも断じ難し。」と記されています。
 神輿が出御するのが堺であること、留守居については、玉祖神でなく枚岡神である点は異なりますが、「膽駒神南備山本記」に「猿の往来」として登場する恩智神社の猿楽が重要な役割を果たしていたことが注目されます。
さらに玉祖神社の縁起には、高安里と母木々里の際に大石が置かれ、今はその石を矛立と呼ぶと記しています。
 矛立と呼ぶ大石の存在については、諍石を考える上で注目すべき石です。恩智神社の祭礼の際、神輿が神社から離れて住吉神を迎えに行く留守居として、玉祖大明神が居られた所を矛立としていますが、その大石の所在地については、「膽駒神南備山本記」のように母木里と高安国の堺とは記しておらず、しかも母木々里は恩智村の元の名であると補記しているところなど、縁起の中には後代の混乱から生じた内容が含まれていると見られるようです。
 また「同縁起」の後段には「其故何者木者被雨露必朽壊、草者待霜雪早枯、彫久固不壊者唯是石而巳、以是永別封」と記され、「膽駒神南備山本記」の「母木里と高安国との堺に諍石在置り。大神、此の山に久く誓ひ賜ひて、草焼く火あり、木は朽ちるとも石は久遠に期らむ。とのたまいき」
という記述と異なるものの、類似した内容の記述が伝承されています。
 このほか、三間石山巨石遺構の東山麓の平群谷
(平群町櫟原所在)に鎮座し、河内と平群谷をつなぐ古道沿いに祀られている伊古麻山口神社は、その名称などから古代における生駒山への入口に当たっていたところからその名称が生まれたものと考えられ、すぐ西側の山嶺上に位置する三間石山巨石遺構と深い関係があるのではないかと推測されます。

    
             生駒山口神社(伊古麻山口神社)

 また、生駒山主峰の東山麓
(生駒市壱分所在)に鎮座する往馬坐伊古麻都比古神社は、大神神社や石上神宮と同じように生駒山を神体山として祀る神社であり、本来伊古麻都比古神、伊古麻都比売神を祀ったものが、後に気長足比売尊(神功皇后)、足仲津都比古神(仲哀天皇)ほかの神が加わって七神となったとされます。
 いずれにしても、恩智神社をはじめとする生駒山西麓、平群・生駒谷に鎮座する神社など膽駒神南備山を廻る周囲諸社と神々の研究が望まれるところです。

   
          
  生駒大社(往馬坐伊古麻都比古神社)





 
巨石の意味

 これまで生駒山嶺上で発見した三間石山巨石遺構が『住吉大社神代記』の「膽駒神備山本記」に記される諍石に比定できるものであり、生駒山麓に鎮座する恩智神社などの神と住吉大社が、古代以来深い関係で結ばれてきたものであることなどを紹介してきました。
 それではいかなる目的で「三間石山巨石遺構」すなわち諍石が生駒山の頂上や暗峠などではなく、さらに南方の鳴川峠南側山嶺上に設置されたのでしょうか。
この中で、やはり置かれた場所である母木里と高安国の堺であるところに大きな意味があるようです。
 母木里は、東大阪市豊浦付近から南方八尾市境あたりまでの古代の地域の呼称とし、それに続く高安国が八尾市東部地域であると考えると、古代豪族中臣氏がその祖神として天児屋根命を祀る枚岡神社の領域と、同族祖臣である大御食津彦命神・大御食津姫命神二神を祀る恩智神社ならびに勧請の際に鎮座地の分賜を受けた玉祖神社を含む両領域の境となる地であったことも大きな理由であったのかも知れません。
 地形的に見れば、生駒山の主峰を望む南嶺は、一際高い高安山
(487.5m)から鳴川峠付近まで標高がほぼ平均して430〜450mの高さの嶺が続いています。
そのもっとも北端にあたり聖域とされた神南備山の中心域である生駒山主峰を真近に望む場所で、なおかつ古道が通り周囲の山々からもその巨大な有姿を見せつけることができる最適の場所、すなわち三間石山上が選ばれたものと考えられます。
 諍石が置かれたのは、「膽駒神南備山本記」の記述そのまま信頼できないとしても、海神あるいは航海の守護神である住吉大神をはじめ随行諸神の加護を受けて新羅などを平定したと伝える当時の初期大和政権が、凱旋後に住吉大神へ奉った神聖かつ広大な神領であった膽駒神備山の山嶺上に、何人も侵すことのできない聖域の証を永久に残すため、巨大な石造物を築造したものと考えられます。   2004.8 (原田 修)

 (2017.1.26 一部訂正)




    いこまかんなびの杜