住吉大社の真東に位置する恩智 東高野街道筋の鳥居 恩智神社のご本殿
『住吉大社神代記』の「膽駒神南備山本記」に"恩智神"あるいは"猿の往来"として登場する恩智神社について、『恩智大明神縁起』延宝4年(1676)6月27日付けの縁起の中から一部をご紹介いたします。
「謹考、河内国高安郡恩智社二座、其一則天児屋根尊、其一則御食津臣尊、而白王鎮護神而藤原氏累代之宗廟也、在昔神功皇后西征伐三韓之日、住吉大明神、御食津臣命倶現海上、而或為先鋒或後拒、遂樹功於異域、振威干海外、是以凱旋之後皇后殊尊崇二神而栄封各有差、故当社賜七郷而尊敬異他、鴻基輝両宮而輪奐尽美、神徳之顕揚不亦巍然乎、至元明天皇和銅年中、玉祖大明神、自周防国到于摂津国、讃請座地於住吉、謝封内之隘狭而不能允容、因為之先容記諸恩智、恩智感玉祖之有志済度、而遂所領之七郷施与其六而為之鎮座、故玉祖慕其厚庇、託言祝部而帰服恩智、恰如臣子之於君父、故毎年恩智之祭日、則及神輿巳出、玉祖必入其宮為之留主、玉祖之祭日則早朝先詣恩智、供之粢盛献之神馬而後還、享自己祭者皆是感恩報徳之遺式也、且又恩智之祭日、住吉之神官、候蔵作村而迎神献酒者、是亦所以尋三韓協力之旧盟而謝玉祖仮地之媒介也、故自一有神托以来守其儀式者綿々不絶、及至醍醐天皇延喜年中、旱魃三作災而海内悉困窮、仍有勅命祷雨於当社毎度有霊応也、速於影響矣、其後村上天皇応和三年天下又大平、而万民多至餓死、故宸襟追前蹤又懇祈神当社、勅臨壇而陰雨忽起、遂不崇朝而豪雨霈然、是以二帝之叡感超越余社、或左右列四十之本社、或前後構若干之伽藍、而蘋日茂幣帛年熾也、自是以来上自王公下至士庶、災害荐臻無由避除者、精誠溜肝祷之、則感応必無不霊験也、神之為徳、呼亦盛矣乎、伏惜恐涛漓之季世、混与淫祠一視、故粗紀其源委以伝諸万代云爾
時寛弘五年(1008)六月二十七日 藤原資利謹誌
恩智縁起元本者曩時罹兵奨之災、紛失者年久、往歳予偶到泉堺、一商家掛反故堆中見之、遂購求読之、紙面平蠧而字様多難弁、何遍質諸博雅考索百計而後全文始著、故別写一通而奉納宝庫者如件
延宝四年(1676)六月二十七日 恩智村大東長右衛門尉政重
恩智社代々云伝及聞申通書付申候書
一、大明神者、天児屋根命第五世之孫大御食津命と申、朝家無雙之霊社と承侯
一之御殿御本地 文珠、午頭天王、普賢、頗利妻女
二之御殿御本地 釈迦、奥之権現、薬師
一、御末社、天照大神、西宮大明神、春日大明神、玉祖大明神、住吉大明神、是を号五社、並に熊野権現、吉野権現奥之院有之、号天川大明神、御本地阿弥陀也、惣四十末社と申伝承り候、並楼門、廻廊、居垣、鳥居三ケ所、拝殿、御供所有之
(中略)
一、御神祭之事、年中に七十五度也、其内大祭礼と申は六月二十七日号御祓御幸御座候て、御留守居者玉祖大明神鉾立と申所に御座候而、神輿御立候と玉祖大明神御入替り被遊侯と承り候、神輿之数者四社、惣而御と申事は当社、祇園、住吉と計にて有之候由承り候、当国中より神馬有之候、今馬立と申所御座候、其外国中より供奉軍有之、
一、神輿摂州平野と河内との境蔵作村之南に御旅所(今に有之)へ住吉大明神より為御名代薄墨之神主御迎ひに出迎御一献被差上、夫より摂州小妻は当社之御神知成によつて御一夜被遊、翌日還御にて御座候よし伝承り候、
一、先年は御社京道より西に御座候を、楠一門恩地左近者、当社神人に御座候、左近居城は高く社は下に御座候故、共時上へ勧請被仕候由伝承り侯、今の城山は是也、御威光の不浅候処に、末に至り当国高屋城主遊佐河内守神領悉く貪取、国中之神社仏閣之領知悉く取上、姦悪不少、国中不治難渋之処迫身に付、小田信長公を主君に被頼候故、則信長公之御妹聟、畠山高政を高屋へ被差遣候之処、主君高政をは二丸に置、河内守は本丸に居城被仕候、高政河内守之非義を憤り潜に可打謀有之候を、則河内守此由を聞付、其儘本丸と二丸之間にて合戦有之、高政打死仕候を信長公被聞召、共儘河内へ御馬被向、河内守を為打高屋へ御下向之刻明智日向守を和州信貴山へ差向、河内へ被出迎候節、身内之侍何某に申付、奥院天川山より大鳥居十八丁被放火候共申、又は遊佐河内守謀に而、家老伴庄左衛門を差出被放火候共申候、
一、本社末社并御本地、釈迦堂、薬師堂、文珠堂、普賢堂、一重之本塔、毘沙門堂、灌頂堂、鐘楼堂、楼門、拝殿、廻廊、鳥居、中門、並坊七ケ所一時に令放火候、坊内之者共俄之事
事に候得者、神巻、御神宝悉く火失仕候而無之命計を助る方々へ逃失申候、此儀先年浄覚与申者代々に申伝へ候、則只今之長右衛門先祖にて御座候、先は拙僧へ申聞候通り如斯に御座候
干時延宝三年(1675)九月
河内天川山神宮寺沙門栄玉
(引用『企画展-寺社縁起の世界-寺院と神社の成り立ち』八尾市歴史民俗資料館 平13より )
いこまかんなびの杜
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