東高野街道筋の鳥居(松の馬場) 玉祖神社境内
恩智神社と関係の深い玉祖神社(たまのおやじんじゃ)の縁起を紹介いたします。『縁起』は年号が記されていませんが、江戸時代の後半と見られます。
「(前略)----遂元明天皇御宇和銅三年(710)庚戌秋、乗於神船、自周防国到着摂州住吉浦矣、則対面住吉大明神而乞望鎮座之地処矣、住吉明神答日、今此浦者方境最陝窄不応鎮座之処、従此東向河内国高安郡恩智神者領地廣大之神也、唯須赴彼地、則相副眷属神而奉送高安、其眷属之姿恰似弥猴、依是号彼往還之路目乎猿道、今猶在焉、放茲恩智大明神自殿出迎接日、我在此処、雖経数回星霜、未恣済度郡生之恩怡哉、尊神與我倶同可達利生之本懐也、則割分今之高安郡七郷之中而以六郷被奉附與玉祖神云々、二神重而約云、高安里與母木々里恩智村之実名也、其際置一大石今呼云矛立、其故何者木者被雨露必朽壊、草者待霜雪早枯、彫久固不壊者唯是石而巳、以是永 ---------
(後略)
(注) 『縁起』の前後は省略しています。弥猴(びこう)の弥はケモノ偏です
引用 『企画展-寺社縁起の世界-寺院と神社の成り立ち』八尾市歴史民俗資料館 平13
境内にある矛形の不思議な石
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