「膽駒神南備山本記」 に登場する「母木」の資料 



     『住吉大社神代記』の「膽駒神南備山本記」に登場する「母木
(おものき)
     の関連資料を文献より引用してご紹介いたします。



『日本書紀』神武即位前戌午年

「初孔舎衙之戦、有人隠於大樹而得免難、仍指其樹日、恩如母、時人因号 其地、日母木邑、今云飫悶迺奇
(おものき)訛也」

 (解題)
「孔舎衛坂の戦いの際、大樹の蔭にかくれて難を免れた人がいた。そこで樹の恩、母の如しというわけで、その地を「母木邑
(おものきのむら)」というと伝えている。
これらはいずれも、地名の由来を説明するため後に発生した伝説であり、蓼津・母木ともに、いま所在も明らかでないが、前者はやはり日下町の付近、後者はもとの豊浦町のあたりに求めるべきであろう。」
 『枚岡市史第3巻』 解題より




『日本書紀』継体天皇24年9月の条

河内母樹馬飼首御狩

 (解題)
遣任那将軍近江臣毛野のとも人で、継体紀23年条には河内馬飼首御狩にもつくっている。
神武即位前紀戌午年四月条によると、「初孔舎衙之戦、有人隠於大樹而得免難、仍指其樹日、恩如母、時人因号其地、日母木邑、今云飫悶迺奇(おものき)訛也」とある。
母木
(おものき)邑について、『紀通証』には、玉祖神社旧記によると、その地は高安郡恩智邑とし、また平岡神主水走氏旧記によると、母木寺、枚岡下豊浦邑田地に在りとしている。
現に水走文書の水走氏歴代所領の譲与処分状には母木寺本免下司職の文字が見える。母木の地名がもとの枚岡市
(現東大阪市)豊浦町(現在の新町)の辺りにあったとすれば、この馬飼首御狩というのは旧河内郡の母木邑を本居としたおそらく帰化人系で、継体紀元年正月、天皇の迎立に功のあった河内馬飼首荒籠(あらこ)、欽明紀22年、穴門に宿処を造る工匠としてみえる押勝もまた、族人で、もともとは馬飼部の首長として枚岡市豊浦町を本居としたものであったのであろう。」 『枚岡市史第3巻』 解題より


 『大阪府全志』

 大字 恩智
「玉祖社の旧記には上古は母木邑と號せしと見え、村誌には母木と呼びしを天應年間
(781)恩地村と改称せりと記せり。然れども枚岡村大字豊浦も同母木邑なりとの説あれ
ば、なほ精査を俟つになん。」


            いこまかんなぴの杜