伏見の旧森村にあった住吉神社と大椋神社


 



 京都の街の中心部から東山に沿って南へ約3km、京都市の南端にある伏見区の伏見・桃山町内にも2か所の住吉神社が存在したことが文献史料より知ることができる。

 明治以前、深草〜伏見町一帯は、山城国紀伊郡に属し、西方には桂川・宇治川・木津川の三川が集まる所には淀の町があり、伏見の南方に広がる宇治川流域〜盆地中心部の低湿地には、広大な湖沼から変遷した「巨椋池
(おぐらいけ)」と呼ばれる水域に面し、古くから水運や陸路の要衝地として栄えてきた。
荘園や別業地が多かった時代から「伏見九郷」の時代を経て、やがて豊臣秀吉による伏見築城と大規模な濠や水路・城下町の造成によって、伏見の町は大きな変貌と発展を遂げた。

 ところで、伏見に存在した住吉神社二社であるが、まず『都名所図会拾遺』
[天明7年(1787)]には、

 
住吉社
 (伏見)川口船大工町にあって宝蔵院と称する。社前に大木の古松があり、その形は蟠龍(とぐろを巻いた龍)のようである。


       
            『都名所図会拾遺』に描かれた伏見京橋住吉社


 
森住吉社
 住吉町にあって大椋神社と称する。古くは森村に鎮座していた。文禄年間(1592〜1596)に森村の民家をこの地に移した時、神社も移す。
と記して
(私訳)いる。

 この内、後者の森住吉社であるが、文禄年間に森村の人家と一緒に住吉社も移されたと解釈できるので、まずは住吉町の地を訪ねた。
 近鉄京都線伏見駅の南約300m、伏見城下武家屋敷地外に掘られた外濠の濠川
(ほりかわ)西側に住吉町がある。
 付近を調べたが、濠川と大正期に設けられた放水流路に挟まれて京都市立伏見住吉小学校、一筋西の地に住吉児童公園・住吉会館などがあったが、住吉神社は見つけられなかった。


      濠 川 と 伏 見 住 吉 小 学 校              西 か ら

         
                    住 吉 会 館

 文禄年間まで森の住吉社が鎮座したという旧森村は、伏見九郷の一村で、『山城名跡巡行志』
[宝暦4年(1754) ]を見ると、伏見九郷として即成院村・保安寺村・石井村・森村・舟津村・久米村・山村・北村・北尾村の9ヶ村をあげ、この中の森村について次のように記す。

 森村は、今の奉行屋敷の辺りである。住吉の社があり森の住吉社と呼ばれたが御香宮へ遷された。人家は移されて今は住吉町と呼ばれる。
と記して
(私訳)いる。

 ここに登場する奉行屋敷とは伏見奉行所である。
 伏見大手筋通にある京阪伏見桃山駅・近鉄桃山御陵前駅のすぐ東側には、神功皇后を主祭神として祀る御香宮神社があり、その南側にある京都市営桃陵団地の東・西奉行町辺りが伏見奉行所のあった所である。
 団地の西側入口には「伏見奉行所跡」の碑と「桃陵団地の歴史」の説明板が建てられている。説明板によると、寛永元年
(1624)、徳川家光の時に伏見城を壊し、富田信濃守の屋敷のあった場所に伏見奉行所を建設したようである。
南方の伏見合同宿舎の角には今なお立派な石垣が一部残っている。


     桃陵団地の西側入口に碑がある            今も残る奉行所の石垣

 もとこの地に伏見九郷の一村森村があり、森の住吉あるいは大椋神社とも呼ばれる住吉神社が存在していたことになる。
 つまり文禄年間における森村の人家移動に伴って、住吉神社(大椋神社)も新しい住吉町へと遷されたと見られるが、それは分祠社と考えられ、その本社については御香社へと遷したものと考えられる。

 
                   国土地理院写真に記入

 ところで大椋神社とも呼ばれた森の住吉神社について、『山城名跡巡行志』には、

 大 椋 神 社
 その旧跡は奉行所内にある。祭神は住吉三神で、延喜式に載せられる(山城国)紀伊郡の大椋神社がこれにあたる。この地は、昔の森村にあたっていたことから森の住吉と呼ばれていた。文禄3年
(1594)に社を御香宮に遷し、人家は西北方向、現在の住吉町へと移された。その跡にはなお小祠が祀られている。
と記して
(私訳)いる。

 森村の人家移転に伴ない、大椋神社すなわち森の住吉社の遷座先は御香宮と明記し、旧地すなわち奉行所内にもなお住吉の小祠が祀られていたことがわかる。
 また、森の住吉社の別名大椋神社が、『延喜式』神名帳の山城国紀伊郡八坐の内に載せられる式内社「大椋
(おほくら)神社」である、と記していることもとても重要である。
 森の住吉神社が遷された先と伝える御香宮であるが、この宮もほぼ同時期に伏見城下武家屋敷町の造成に伴って移動させられたことが記録から判る。

 『都名所図会』[安永9年(1780)]には、
 御香宮は、城山の西にある。本社には神功皇后を祭る。この地に御鎮座された年など詳しいことは不明。文禄年中に伏見の城山を築造された時、宮の社殿を大亀谷の東へと遷されたが、神の崇りがあったとして再び旧地へと遷座された。(しばらく遷された地は古御香宮と呼ばれ、当社の御旅所となっている)・・・(略)・・・。 
と記して
(私訳)いる。

 この中で大亀谷とは、伏見城郭跡の北側背後、深草の藤森より東南方、木幡・宇治への道が通じる谷合い、現在の深草大亀谷古御香町の一画へ森の住吉神社を含めた御香宮社が遷宮祭祀され、再び一緒に山下にあたる現在の地へと還宮されたものと考えるのが自然である。


         御香宮鳥居                  拝 殿

        
                      本 殿

  
               境内の四社宮の住吉大明神(左)


 また、『山州名跡志』正徳元年
(1711)には、
 御 香 宮
 伏見山の西三町ほどにある。門前の通りを合手條
(おうてすじ)という。すなわち古の城の合手口への順路である。門は南向、鳥居は南向きの木柱、拝殿・神殿も南面する。祭神は神功皇后。 鎮座の由来は不詳。 伝えによると当初の祭神は九坐の神で、神輿も九坐あった。地元の産土神である。例祭は9月9日。神輿1基。延喜式に載せられている御諸神社がこれにあたり、鎮座の由来も不明。一書には貞観年間(*859-877)の勧請とある。・・・ (略)・・・・。
 伝えによると、この地には初め金札宮があり、御香宮は南方の地、今の奉行館の西にある家中の屋敷地にあったという。今なお古木があるのは昔からの御神木である。そのため、枝が風で折れたり枝を伐った際は、その木を当宮神職の家へ送る。
とも記して
(私訳)いる。

 当初の祭神が九坐の神であったことに関し、神社でいただいた由緒書『御香宮』には、六柱の神を祭るとしか書かれていない。
 御香宮について『御大礼記念京都伏見町誌』
(1929)には、「本殿には正中に、神功皇后・仲哀天皇・応神天皇を祀り、東間に宇部大明神(武内宿禰公)・瀧祭神(級長戸辺命)・河上大明神(豊玉姫命)、西間に高良大明神(高良玉垂命)・若宮(仁徳天皇・菟道稚郎子尊)・白菊大明神を祀り、これを御香宮九柱神と称え奉る」と記し、境内末社として大神宮など16社をあげている。
 その中には末社として住吉神社が含まれ、現在の御香宮本殿東側境内には「住吉大明神」・「八阪社」・「恵美須」・「若宮八幡」の古い扁額を掲げた四社宮が祀られている。
 しかし、住吉大明神の社殿等について特別の扱いを受けている訳でもない。伏見城守護の役割をもって移転と復社が行われていった間に、住吉の神は特別の神ではなくなっていった可能性があるように思う。
 江戸時代の地誌等には、森村にあった住吉神社が大椋神社とも呼ばれ、さらに式内社の大椋神社であった可能性を記していたにもかかわらず、『式内社調査報告』
(1979)の「大椋神社」には詳しい考證がなく、「思うに久世郡巨椋神社と同じく干拓以前の巨椋池周邊にあって『新撰姓氏録』左京神別に見える大椋置始連らの祀るところであったのだろう。」と記すのみで残念である。

 古来、伏見一帯は紀伊郡の南端に属し、西・南とも水域に囲まれて水運に恵まれた所である。周辺は、神功皇后伝承に深く関わる地であり、郡名からは当然ながら古代大豪族の紀臣氏族、渡来系の紀臣系部民の城部・木勝らの関わりが深い所であったことが考えられる。
 旧森村にあった住吉神社、別名大椋神社は、恐らく式内社であったのだろうし、加えて周辺に存在した式内社御諸神社の論社とされる御香宮の神域などと合わせて、巨椋池を望む地に大きな神域が広がっていたと考えられる。

     
                『伏見山寺宮近廻地図大概』の一部に追記

      
                 『伏見九郷之図』に加筆

 なお『御大礼記念京都府伏見町誌』
(1929)に付図として載せられ、文安2年(1442)に書写されたと但し書きのある「伏見山寺宮近廻地図大概」には、石井村の村落を描いた右(南)に「大椋神社」と記して社叢・社殿・鳥居を描いているが、森村と記載がない。
 また、左(北)に位置するはずの御香宮は、かなり上手の法安寺村の南に近い位置に、社殿と鳥居が描かれているのが注意される。
 さらに「正親町天皇御宇天正年間豊公築城以前伏見九郷の稱あり、史上に於てはその名を見ざるも、伏見の旧家往々この図を所蔵す」と紹介する同書付図の「伏見九郷之図」には、「石井村」と楼閣のように描かれる「大宮殿三社御香宮社殿」の下には、「森村」と「大椋社 住吉」と記す二層の社殿を描いている。
 両書写図ともに「大椋神社」の存在を強く意識して描かれていることがわかる。

 2018.5.23



 この稿は2016.6にいこまかんなび掲示板に紹介したものを一部訂正してまとめたものを改めて掲載したものです。


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