西 吉 野 の 波 宝 神 社 と 日 食 画



 
              金剛山南山ろく 五條市北山から遠望


吉野川の南方には、丹生川との間に北東(左手)から南西方向に荒海の波頭のように連なる標高500〜600mの栃原岳(下市町栃原)〜銀峯山(五條市西吉野町夜中)〜竜王山の山嶺が続く。
栃原岳は、別名「黄金岳」、銀峯山は「白銀岳」といい、丹生川の谷を隔てた南方の山塊からドーム状に突き出た櫃ケ岳(別名銅岳)を合わせた金銀銅の三山のことを「吉野三霊峰(三山)」と呼び、それぞれの山上には西吉野の歴史を解明する上で重要な神社が祀られている。
山嶺の東北端に位置する栃原岳(黄金岳)上には、延喜式の吉野郡十座の一社である「波比賣
(はひめ)神社」が祀られ、南西に位置する標高612mの銀峯山(白銀岳)上には、同じく「波寶(はほう)神社」が祀られる。

言い換えれば金と銀の社、しかも共に波の字が付く式内の古社である。
金や銀といえば埋蔵鉱石を想像するが、三韓より持ち帰った宝物に由来すると考えるのも面白い。


         波宝神社の割拝殿
                本殿全景

この内「波宝神社」は、別名「神蔵宮」などといい、住吉三神・神功皇后を祀る。
『西吉野村史』などには地元の伝承として、神功皇后が三韓征伐から帰還され、南紀に赴かれる途中、この山で休まれた際(あるいは南紀日高からこの地小竹宮に還られた際)、にわかに白昼であるにもかかわらず、夜中のように暗くなり、神に祈られるとふたたび日が照りだし明るくなった。このことから安場の地名を「夜中」と呼ぶようになった、という。
西方、紀ノ川北岸に位置する志野(紀の川市)の小竹宮伝承とよく似た太陽(日神)が隠れる話である。

三韓征伐から帰還し難波へ進まれた神功皇后には、忍熊王の軍が待ち構えていた。皇后は、住吉三神を大津渟名倉長岡峡国(摂津国住吉)に鎮祭され、魚塩地などの神領や供物を寄進された。
この後、紀伊国日高で皇子(後の応神天皇)に会われ、忍熊王を攻める作戦を練るために小竹
(しの)宮に遷られた。

そこでは昼でありながら夜のように暗い日が続いた。その原因は「阿豆那比(あづなひ)の罪」といって、仲のよかった二社の祝(はふり)、すなわち小竹祝・天野祝を同じ穴に合葬したためだとわかった。

『訓解住吉大社神代記』
には次の様に記している。

「是の時に適(あた)りて、昼暗きこと夜の如くて、已に多くの日を経たり。時人、「常夜(とこやみ)行く」と日ふ。皇后、紀直の祖豊耳に問ひて日はく、「是の恠(しるまし)は何の故ぞ。須(しまら)く旧老に問ふべし。」時に一老父ありて日さく、「伝へ聞く、かかる恠をば阿豆那比の罪と謂ふ。」、問ふ、「何の謂ぞ。」対へて日さく、「二社の祝者共に穴を同じくして合葬むるか。」因りて推問はしむ。巷里に一人ありて日さく、「小竹祝、天野祝と共に善友たり。小竹祝逢病して死りぬ。天野祝血泣(いさ)ちて日さく、「吾生けるときに交友たりき。何ぞ死して穴を同じくすること無からむや。則ち屍の側に伏して自ら死りぬ。仍りて合せ葬む。蓋し是か。」乃ち墓を開きて視るに実なり。故、更に棺槻を改めて、各々処を異にして埋む。乃ち日の暉炳(ひかり)てりて日夜の別あり。」と記している。

この話に登場する小竹は、紀ノ川の北側、和泉山地のふもとの北志野・南志野の集落のある志野(紀の川市、旧粉河町)の地。これに対し、天野は東方12km離れた川の南方山上、丹生都比売神社の鎮座する天野(伊都郡かつらぎ町)の地とされる。


ところで、波宝神社のご本殿であるが、社頭の説明板によると一間社春日造の本殿二棟の間の前面を板壁で連結させた「連棟社殿形式」の特異な建築物で、江戸時代の寛文12年(1672)の再建という(奈良県指定有形文化財)。
建築手法もさることながら、二つの本殿をつなぐ板壁には、大和絵手法により優れた神社の由来を表現した彩色画が描かれている。

  
              二棟の本殿の間の板壁に描かれている彩色画
   
                太陽の異変に三羽の鶴が飛び立つ
 
                  日 食 画 の 細 部

縁下の波の絵柄に対し、上部板壁中央には力強い十数本の太い光彩を放つ金色の大きな太陽の上半を描き、左に一羽、右には二羽の慌てて飛び立つ三羽の丹頂鶴が描かれている。

それでは、なぜ太陽と丹頂三羽を描いているのだろうか。
太陽も丹頂鶴の頭部が朱色・丹色であることは共通している。全体の絵柄などから、相当優れた絵師の絵画作品とみられるが、手元に調べる資料の持ち合わせがないのが残念である。
本来黒色である脚色を左と右の一羽づつを赤い色の脚に着色していることが注意されるが、驚いたことには中央の黄金の太陽の前に、右下へずれて重なる同じ大きさの銀色(酸化して暗灰色)の半円つまり月が描かれているのである。
これは直感として「日食」が進行している状況を表しているのであって、すなわち白昼の空が夜中のように暗くなったという神功皇后の伝承、あるいは地名である夜中の地名起源説話を社殿の彩色画として表現したものであることはほぼ間違いないだろう。
月神が日神を覆い隠すのである。
参考として、割拝殿に掲げられた弘化4年(1847)の絵馬であるが、絵柄として手力男命がこじ開けた天の岩戸からまさに天照大神が姿を現した様子を描いている。

    

吉野川の南方に名称が異なる社名であるものの、住吉大神を祀っていることは、この地が『住吉大社神代記』に記される住吉大神の大きな神威の及ぶ領域であった可能性も浮上してくるのである。

さて、西吉野の栃原岳(黄金岳)、銀峯山(白銀岳)、南方の櫃ケ岳(銅岳)を合わせた金銀銅の三山のことは「吉野三霊峰(吉野三山)」と呼ばれているが、高田十郎編『大和の伝説(増補版)』(昭和35)によれば、これらの三山についての伝説として「904 三龍嶽」の伝説が増補掲載されている。
それによると、「貝原の櫃嶽・白銀嶽・栃原嶽の三山を三龍嶽という。大昔、三山にはおのおの一匹の龍が住んでいて、雨の神様であったという。(山上 尖)」と記され、「三龍嶽」とも呼んだ伝説を載せている。それぞれ水の神、龍神を祀る。
また、旧版部分にはこれら三山にかかわる伝承として「376 阿知賀物語 吉野郡下市町阿知賀」が掲載されている。そこには、
「昔、応神天皇は、御母神功皇后の三韓征伐の成功を、みずから吉野の山神に御報告になったことがある。
先ず、川下の今の五條市須惠において、祭典に要するスベての物を調べられた。それで、その地を「すべ」といったが、その後「すえ」と変わった。つぎに吉野川天神の裏を渡って、吉野川南岸の野原町に出て、野原をよこぎり、奥山を経て、白銀ケ岳に登り、地祇を祭られた。今の白銀神社、波布得の神を祭ったところである。
またつぎに、峰伝いに小銀ケ岳に登り、天神を祀られた。今の栃原岳である。ここでおごそかな山神御報告の祭典がすんだので、その祭具を向うに見える高山、今の櫃ケ岳に納めるよう、村人に命じられた。白銀ケ岳・栃原岳・櫃ケ岳を、吉野の三岳といっている。
この時、奉仕の村人は、特に祭具中の一櫃を頂戴して宝物とした。その地が旧白銀村大字唐櫃、現に唐戸というところである。

これより、御一行は、下市町の善城(ぜんぎ)の八幡の地を経て、今の阿知賀に着き、ここで戦勝を祝賀された。今の八幡神社の地であって、勝賀の宮ともいう。
この時、村の翁どもは、お祝いの宴にはべり、さまざまの歌謡や踊りを奏した。そのところを今は葛上神社という。
つぎに椿の渡しを渡って、吉野の北岸に出、大淀町の檜垣本八幡宮の地で、つぎの畝傍山の祭典の用意をされた。この地はその「ひもろぎのみかき」であったところから、ヒガイモトという名が出た。
今になお、畝傍山の神功皇后の宮の祭りには、ここの川の水をくんでさし上げている。皇后の凱旋上陸の地たる摂津の住吉の祭りの時には今も畝傍の火が用いられている。

以上の由来から、善城・阿知賀・檜垣本の八幡宮を、吉野四座の八幡という。白銀・小銀にも、八幡を相殿としている。(山本輝子)」と記録されている。
実に、ワクワクする興味深い伝説である。


 2011.10 / 2017.9.18  一部改編



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