針尾と早岐の住吉神を訪ねる


  針尾と早岐の住吉神を訪ねる

九州の西北部に位置する長崎県は、山岳の多い半島と多数の島々、入り組んだ湾や入江によって複雑で変化にとんだ海岸線から形づくられ、対馬・壱岐などの島々を含め、もっとも大陸・半島に近い地域であることから、古代以来、佐賀・福岡県と共に大陸文化の門戸として、後世には東アジア・西欧文化との貿易を担ってきた重要な地域である。

 その中で、長崎県の中央、大村湾の周辺に位置する長崎市や西彼杵半島部の西海市域、佐世保市の一部、大村市域・諫早市の一部地域などは、古来、肥前国の西端地域に属し、『和名抄』によると、国を構成していた基肄・養父・三根・神崎・佐嘉・小城・松浦・杵島・藤津・彼杵・高來11郡中、最も西にあたる「彼杵(曾乃岐)郡」と呼ばれていた。

「彼杵(そのき)」の由来については、『風土記』の肥前国彼杵郡の所に、次のような話が登場する。
 纏向
(まきむく)の日代宮に天下を治めた(景行)天皇の代、侍臣の神代直(かみしろのあたい)を速來(早岐)の村に派遣し土蜘蛛を捕えさせた。還ってこの時に献じられた美しい玉を天皇に献上した時、天皇は、この国は具足玉(そないだま)の国というべきである、と仰せられた。今の彼杵の郡というのは訛ったためである、という話はよく知られている。

 古来、彼杵郡の海では、美しい玉類が豊富に採れたようで、天保の時代に成った『太宰管内志』(伊藤常足 編録)には、大村湾の北の早岐より久津ノ浦辺りでは「此浦にアコヤ貝を捕て真珠をとる、此入海の浦々に真珠を取ルもの多し、珠は極品なりと云、此貝玉の多きは一ッの内に真珠三ッも四ッもあり」と記される程であった。
 「彼杵郡」は、大村湾を挟んで東は「大村郷」、西は「彼杵郷」に分れていたとされる。中央に位置する大村湾は、南北約32km、東西912km程の静かな入海であるが、「針尾(はりお)島」と呼ばれる大きな島が湾の入口を塞ぐようにして存在している。

       

 針尾島は、南北約10km、東西最大6km程の黒曜石の混じる溶岩台地の島で、北・西・南側には、多くの入江が入り込んで、複雑な海岸線を形成している。島には太平洋戦争時の軍事施設・敗戦時の引揚遺跡が点在している。
 針尾島の東側は、長さ11km程の狭くて浅い水道「早岐の瀬戸」で佐世保湾と通じており、その瀬戸の景観は、河川あるいは人口の運河と間違う程である。また、島の南部、新旧西海大橋の架かる西彼杵半島 (西海市) 側との間は、34kmに亘って屈曲した深くてやや幅広い水道で繋がり、「針尾の瀬戸」あるいは「伊ノ浦瀬戸」とも呼ばれている。外海である佐世保湾との潮の満ち引きの際は、激しく海水が渦巻き、日本三大急潮の一つに数えられる所である。

 今回、彼杵の地域を探訪した主たる目的は、針尾「はりお」の島の名に惹かれ、外海と繋がる両瀬戸周辺には住吉神社が鎮座し、神功皇后に関わる伝承も存在していることから、少しでもこの地域に於ける「住吉の世界」の謎解きができないものかと、2年前の春にようやく探訪することができた。
 長崎県下の住吉神社や神功皇后伝承が残る地域については、後半で概観するとして、ここではまず針尾島周辺の住吉神社と関連する資料・伝承についてまとめてみた。

 
 1. 伊ノ浦瀬戸の住吉神社

 針尾瀬戸の南岸、新西海橋のすぐ西の海岸に伊ノ浦郷と呼ばれる漁村がある。現在は西海市西彼町伊ノ浦郷にあたる。江戸時代には、大村藩の支配地であった。
 瀬戸の対岸の針尾島(佐世保市)には、戦時中に使用された「針尾無線塔」と呼ばれる異様な大小三本の長波電信施設が見える。海岸へ下る細い急坂は、幸いにも近年改修されたようである。
 集落のある海岸沿いの細い道を堤防に沿って800mほど進むと、奥にも民家があるが、その前で車止めがされているため、徒歩で少し進む。
 護岸されて綺麗な公園と一体に整備された一画に、記念碑や住吉神社の建物・石造物が存在している。急流の瀬戸の海中には、小さな灯台と鳥居・祠を祀った弁天島が突き出ている。

 
        針尾瀬戸 伊ノ浦住吉神社の所在地[国土地理院の写真(昭和41年)に加筆使用]

 
        神社前の針尾瀬戸の様子              瀬戸に突き出た弁天島

 住吉神社が祀られる場所は、潮見と呼ばれ、瀬戸に向いて大小二棟の社殿が社壇上に祀られている。両社殿の内部の様子は不明であるが、右側のやや大きい社殿の前には石燈籠一対
(大正1488)と手水鉢があり、海側には平縁に斜格子紋を刻むやや古い石製の社額「住吉神社」を掲げた石鳥居がある。残念ながら年号等は読み取れない。また、社殿背後の石階を上がった位置には、唐破風形屋根をのせた石祠が祀られている。また、石階下には花弁飾縁で「住吉神社」と刻む社額が一枚立てかけられている。

 
 
                 
伊ノ浦住吉神社の様子

 一方、左側の社殿の前には、石が置かれているが不明である。社壇左側には、改築紀念の碑があり、「住吉 市杵島両社改築寄附人名」と氏名を刻んだ石碑が建てられている。
 前方の海の護岸近くにも花弁縁でやや崩し字の「住吉神社」と刻んだ社額を掲げる石鳥居がある。その棹部には「大正十四年十月吉日」と刻んでいる。その前面、柵が切れた護岸部分には、海から昇り降りする石階段が設けられている。現在は、狭いながらも車で行けるが、古くは集落から小船を使って参拝往来したのだろう。

 
     左側石鳥居の社額             右側石鳥居の社額         本殿背後の石祠

 また、神社手前には海に向けて「南無法蓮華経」と刻んだ海上安全祈願の石碑が建立されている。
 西彼町教育委員会発行の『西彼町郷土誌』
(平成15)によると、住吉神社について次の様に記されている。(資料提供 西海市教育委員会)

「一、
住吉神社 伊ノ浦郷字潮見の海岸に鎮座する郷社で、海上鎭護と漁業、商業の繁栄の神として祀られている。延宝三年(1675)、伊ノ浦郷中で建立。祭神は表筒男之命、中筒男之命、底筒男之命。大正八年(1919)、当時の区長山口庄兵衛が発起人となり改築、平成四年(1992)、古くなった社殿を新築し現在に至っている。夏越祭りが七月十三日、秋季大祭が十月十二日におこなわれる。」
 とあり、神社は、江戸時代の延宝3
(1675)に伊ノ浦郷中により建立されたものだという。
 また、同じく伊ノ浦郷潮見の神社として、妙見神社についても記されている。
「妙見神社 伊ノ浦郷潮見、弁天島手前の海岸にあり、延宝三年
(1675)に浦中より建立された。平成4年、住吉神社横に再建された。祭神は妙見大菩薩木立像で、実相寺の勧請である。・・・・。」

とある。実相寺は、伊ノ浦の西方に入り込んだ入海の奥、西海町川内郷にある日蓮宗寺院である。
 こうした資料から、住吉神社の大小二つの殿舎の内、北側の大きい方は住吉神社(住吉三神)、南隣の小さい方は、妙見神社(妙見大菩薩)を祀るものであることが知られる。両社ともに延宝3
(1675)に伊ノ浦郷の人々により建立され、今日まで改築・整備が引き継がれてきたようだ。
 境内の石碑に「住吉 市杵島両社改築寄附人名」を刻む「市杵島社」とは、前面の潮見の海に突き出た弁天島に祀られた弁財天社のことである。
 この市杵島神社すなわち弁財天社は、明治8年の神社明細調帳では、住吉神社の附属社で、高さ3尺の石祠を本殿とし、市杵比売命を祭ると記されている。
 江戸時代に大村藩により作成された『大村郷村記』(昭和57年 国書刊行会)を参照すると、
 潮の目海辺にある妙見神社(妙見大菩薩)は、当時すでに一間四方瓦葺の神殿と舞殿、少し大きな拝殿のほか石祠・石鳥居があったと記録している。
 住吉社については記されていないが、石祠が住吉社であったのかも知れない。

 一方、弁天島については、伊ノ浦と平戸領の針尾嶋の中央にあり、島の周囲は20間、高さ4間、大巌石の小島である。頂上に弁財天の石祠がある。磯際には石鳥居がある。対岸の海辺(大村藩領)には、相対して妙見菩薩の社がある。・・・・・・・・・。弁財天社は、寛永16
(1639)に建立、明暦2(1656)に氏子中により再建、川棚の田崎作兵衛、同仁兵衛が建立した。元禄6(1693)には大村藩主の願いを受け、海上往来安全などを願って石祠が建立再興され、その後も文政12(1829)に再興されたことなど、碑文に刻んでいるという。


 2.早岐の瀬戸の住吉神社

 
                  早岐宮から早岐瀬戸と住吉神社を遠望

 針尾島の東縁に沿って、南北10kmほど隔たった佐世保湾と大村湾の間を、運河のような「早岐の瀬戸」でつながっている。まるで島が西へ引っ張られてずれたような瀬戸の景観である。
 住吉神社は、早岐瀬戸のほぼ中間近く、水陸交通の要所・湊町として発展してきた早岐市街の南方約500mほど離れた所に、瀬戸の東岸へ細長く突き出た低い丘陵上に鎮座している。
 丘の先端、瀬戸に接した小高い三島山には、円墳や箱式石棺10基から構成される三島山古墳群のほか、平安時代の経塚が発見され、一画には豊玉姫命を祀る三島神社(石祠)も鎮座している。

     
          早岐の住吉神社の位置[国土地理院の写真(昭和45年)の写真を加筆使用]

 さて、住吉神社は、旧彼杵郡広田村宮崎、現在の地名は佐世保市広田2丁目にあり、早岐瀬戸と針尾島の江上地区(有福)を背にして東側を向いて鎮座し、住吉三神のほか嵯峨天皇を合せ祀り「西海総社住吉宮」と称している。
 現在は、神社の前には県道222号とJR大村線が通っているが、旧参道を東へ350mほど行った平戸往還近くには、今も石鳥居が建つ御旅所の丘(住吉公園)がある。
 新しい大鳥居の奥の一段高くなった境内入口には、住吉宮の社額裏に「天保十年
(1839) 己亥四月七日壬申書之 肥前守従五位下源朝臣熈」を刻む石鳥居があり、棹部分にも年号と寄進者らしい刻銘があり判読困難であるものの、一体のものではなさそうである。

    

 

 左手の手水舎の建物は、早岐脇本陣の門
(嘉永年間)を移設したものという。右手には神社の由緒を刻む石碑(平成元年)ある。正面の拝殿及び御本殿ともに八幡造様式の建物で、再建の年代は確認できないが、古くはなさそうである。拝殿正面上には、昭和11年の木製由緒額が掲げられている。
 由緒を刻んだ石碑を参照すると、
 伝えでは、景行天皇
(12)が日向の熊襲親征のため九州に行幸されたとき、西海の針尾島を通られ、早岐(速来)瀬戸の航海安全のため、上原の地に住吉大神を配祀され、降ってここ広田の地に遷座された。平安時代の弘仁14(823)には嵯峨天皇自らの手になる木像を相殿に奉斎して神社の基礎ができた。古くから彼杵郡の宗廟とされ、大村氏の支配から離れ、北方の平戸松浦氏の領地となると、手厚い保護と崇敬をうけることになり、大祭には彼杵郡内の浦々四十八ヶ村から御饌が奉納され、領主の参拝を受けてきた。
 この間、社名も住吉大明神から住吉宮に、さらに維新後の明治7
(1874)に住吉神社となり、郷社に列されて現在に至った
という。

 
            境内の様子                  本 殿

 『長崎県東彼杵郡誌』
(大正6)に記されている内容を抜粋すると、
「口碑の伝ふる所に依れは、景行天皇九州御親征の砌(*神社が)建立せられたるものなりと、元早岐村字上原の宮に在り、後今の地に遷る、故に大祭に際しては、今に早岐潮ノ目に行幸の式あり、又崎針尾村鯛ノ浦の漁民船に供奉しける時、此神漁民に告けて日く、我は日向国より来れる三筒之男命の霊なりと、漁民之を聞きて永遠に徭役を免せられんことを乞ひて許さる、現に大祭に際して其子孫より鯛一台を供ふるの例あるは之か為なりとの伝説あり、・・・・・・・」

とあり、住吉神社境内の由来碑と同様、景行天皇が九州親征の際、早岐上原の地に神を祀り、のち現在の広田の地に遷座したことを記す。大祭には早岐瀬戸の最も狭い所である潮ノ目へ神輿が巡幸していたことも解る。現在は、神輿の神幸は両社の間を往復するという。

 『早岐郷土誌概説』
(平成6)を参照すると、
 神功皇后の三韓征討の時に、船で着かれた所が早岐上原の地で、日向国から住吉三神をこの地に遷し祀ったと伝えている。その由来は、早岐神社境内に建つ石舟碑に詳しく彫りつけてある。広田宮崎免にある住吉神社は、上原から遷宮されたと伝え、いつの頃かは不明ながら毎年九月十九日の例祭には、上原の宮に仮泊されるのが常例となっている。住吉宮の渕源は、遠く景行天皇熊襲征伐代の頃にも遡る、とも記されている。

 潮ノ目とは、早岐の観潮橋附近のことで、「御旅所早岐浦潮目」と古文書に登場するようである。また、早岐潮目の北東約1.5km、早岐川を少し遡った旧鎮座地の上原地区には、現在も川の方向を向いて住吉神社が祀られている。
 なお、早岐の瀬戸と南方の住吉神社を遠望できる早岐愛宕山の上には、古くは早岐城三所権現・熊野三所権現と呼ばれ、素戔嗚尊など七祭神を祀り、早岐総鎮守として崇められてきた早岐神社(現在は速来宮に改称)が鎮座する。

 
                   早岐宮から早岐瀬戸を遠望

 この社は、明治33年に南東JR早岐駅の北側にあるJR佐世保線稗田踏切近くの早苗町から現在地の愛宕山に移されたという。
 神社の『由緒書』によると、景行天皇十二年の創立と伝えられているが、『長崎県の地名』
(平凡社)の速來宮には、「景行天皇十三年の創建という所伝がある。あるいは永享8(1436)早岐城主の源義信が紀伊熊野の分霊を勧請し、早岐村下苗手免の稗田に祀って早岐城三所権現または熊野三社権現と号し、神鏡三面を納め、別当の神徳寺を建立したともいう。」と記されている。

   

 いずれにしても、景行天皇の時代に九州各地の熊襲・土蜘蛛の親征・征討を行ったことが『日本書紀』のほか、『肥前国風土記』「彼杵郡」の中には、臣下の神代直(かみしろのあたい)と速来津姫一族の玉の献上と臣従の話が語られているが、こうした景行天皇の時代に「速来の門」すなわち「早岐瀬戸」の船舶航行の安全を護るためにも、住吉三神を日向から遷して祀った可能性は高い。
 あくまでも想像であるが、その当時、未だ閉塞状態で船舶の航行不可能であった早岐の低湿地を、人工水路・運河状に開削して通じさせ、守りの神として住吉三神が祀られた、と考えてはどうだろうか。



 3. ハウステンボス南西端の住吉神社(針尾島 旧江上村南東岸釜浦)

 ここに紹介する住吉神社は、早岐瀬戸が南の大村湾へ抜け出た針尾島の南東沿岸、ハウステンボスの南西端角地に鎮座する。
 西北には米軍住宅が広がるが、東側に接した所にある「海光山本佛寺釜霊園」横の「ハーバー駐車場」へのゲートを進み、ハーバーゾーンへ通じる外周道路の南端角に位置している。

 
         神社は東を向く          背後の水路から上がる鳥居と舗装された参道がある
 
        背後の水路と鳥居の様子           神社南側の江ノ瀬戸(造成護岸)

 ゲート付近から神社に通じる道の西側は、自然樹木の生えた針尾島(江上地区)の間は、南方の大島との間にある「江瀬戸」へつながる水路状の部分が埋立てられずに残されていて、針尾島側は岩礁磯の旧姿を留めている。
 住吉神社は、木製の「住吉神社」の社額を掲げた木製鳥居のすぐ後ろに、流造り銅版葺きの社殿が東を向いて鎮座している。狛犬や燈籠、その他説明板などは無い。
 気になったのは、神社のすぐ北側、水路の部分に面してもう一つの木製鳥居があり、社額は水路の方に向かって掲げられていて、下には細い舗装した参道が設置されている。確証はないが、祭礼の時など水路に着いた小船から板橋を架けて神社に上がるようにしてあるのかも知れない。

 人工島であるハウステンボスの南西端角に住吉神社が祀られることになった資料や記録などは全く不明である。
 早岐の広田に鎮座する住吉神社にお尋ねした所、ハウステンボスの会社が、園内安全のため平成に入って広田の住吉神社の分霊を遷して祀ったのが始まりで、古い社ではない。旧江上浦とは関係がない。水路に向いた鳥居は園の安全のため。神社では毎年1月・7月に祭事を行っている、とのお話であった。


   国土地理院 昭和22年の写真を加筆使用       国土地理院 昭和50年の写真を加筆使用

 ところで、大村湾の最北端、針尾島の東南岸に接する広大なハウステンボスの敷地であるが、北側1/3程は江戸時代に赤子浦を埋め立てて開拓された赤子新田で、明治期の地図では大村湾に臨む釜浦地区の小さな入江のほとんどは、潮受け堤防が築造されて、背後に水田が干拓されていたことが分かる。
 昭和に入った頃からか、赤子新田は南へ埋立地が拡大し、太平洋戦争の激化に伴い針尾海兵団・海軍兵学校針尾分校の施設建設のための埋立てが進んで、ほぼハウステンボスのハーバーゾーンを除いた区域の辺りまで拡大された。
 海兵団等の施設は、終戦に伴って、針尾島西海岸の恵比寿湾奥にある引揚港の浦頭港に上陸して検疫を済ませた海外からの帰還者、139万人以上もの引揚者の引揚手続・休息・治療などを行う「厚生省佐世保引揚援護局」と呼ばれる一時収容施設として機能
(昭和25年閉鎖)したという。
 一方、フィリピンに埋葬されていた多数の遺体のほか、引揚げ途中あるいは収容所で亡くなられた計6500人もの遺骨・遺体が荼毘に付されて埋められた場所は、大村湾に臨む釜浦の潮受け堤防の背後の地「釜墓地」で、国土地理院の昭和22年の航空写真には、墓地周辺を造成した様子のほか、不鮮明ではあるが、やや南側に存在した潮受け堤防と背後に設けられていた倉庫や火葬施設らしい施設のほか、沖にあった岩礁帯も写っている。
 現在の様に、釜墓地周辺の丘陵や沖合の埋立てが行われたのは、昭和44年以降に計画が進められた長崎県による針尾工業団地の大規模な開発と造成であった。現在の米軍針尾住宅周辺の山が広範囲に削られて釜浦を埋め、引揚援護局の広大な土地と南方海域が埋め立てられて行った。
 埋立工事は、ほぼ昭和50年前後には、現在のようにハウステンボスの範囲のほとんどが完了していたようである。
 住吉神社の背後に続く南北の水路は、現在の釜墓地の手前で広い池のような水溜施設などに繋がっているが、その部分は入江の口に設けられていた元の潮受け堤防の場所で、水路として残された目的は、釜墓地からの海への排水が主目的であるように想像できる。
 この後、埋立てしたものの完成した工業団地への誘致計画は失敗に終わったが、幸いにも平成4年になってハウステンボスが開園する運びとになり、住吉神社が園内安全祈願のために祀られることになったのだろう。神社が祀られたのは、敷地が戦争遺跡であり、合せて敗戦後の戦没者慰霊の意味も含まれているものと考えておきたい。




  
針尾島の神功皇后伝承地

早岐の上原住吉神社の神功皇后伝承のほか、対岸となる針尾島にも神功皇后に関する伝承地があり、針尾島の歴史の概要と合せて紹介しておく。

 針尾島は、南は針尾瀬戸(伊ノ浦瀬戸)を挟んで西彼杵半島に、東は早岐瀬戸を挟んで、住吉神社が鎮座する早岐地域に隔絶している。島は南から大きく江上浦が深く入り込んでいるが、その東側が江上町、さらに東側の早岐瀬戸に沿った地域がほぼ指方町にあたる。
 針尾島の歴史の始まりであるが、『佐世保 ふるさと歴史めぐり』
(佐世保市教育委員会)を参照すると、針尾瀬戸や深く入り込んだ江上浦を望む地に、縄文晩期や弥生時代の遺跡のほか、板石を組んだ箱式石棺の松ケ崎古墳が知られている程度である。まだまだ未発見の遺跡も多いと思われる。
 また、針尾瀬戸の大村湾側の突端、明星ヶ鼻からは平安時代末期の文治5
(1189)銘を刻んだ滑石製の経筒を納めた経塚が発見されている。位置から見て針尾瀬戸航行の安全を願って埋納されたのかも知れない。
 鎌倉時代にはすでに貴族の荘園である広大な「彼杵荘」に含まれていたようで、針尾氏や佐志方氏といった武士達の名が登場し、針尾島を実際に支配していたとされるが、島の名を冠した針尾氏の本来の出自は明らかではない。鎌倉幕府の御家人として戦国時代に至るまでの400年間、針尾瀬戸を望む山中の針尾城を拠点として、海外との交易しながら島を支配したという。
 『長崎県の地名』によると、「古くから針尾島は、指方(さしかた)村一ヶ村であったが、承応2
(1653) 江上村、崎針尾村に分立、指方は江上村のうちにされたという(郡村誌)。」とあるが、「針尾島は指方村または針尾村と称されていたが・・」とも記されている。
 なお、針尾島には唯一、戦後の引揚港として知られる恵比寿湾の浦頭港西側に位置する柿浦漁港には、湾内の恵美須島に相対するかのようにして、恵美須神社と住吉神社が祀られているが、祀られた由来は詳しく判らない。
『長崎県東彼杵郡誌』を参照すると、
 指方(さしかた)
 神功皇后が三韓征伐の時に、この地に船を寄せ、棹(さお)を以って潟を差し、辛うじて陸に着かれたことから起った地名だと伝える、即ち、はじめ差潟と呼んだ後、指方に改められたという。
 恐らく本船の地と関連するのだろう。古代には指方辺りの早岐瀬戸が西に大きく広がっていて、浦あるいは潟の状態となっていたことが察せられる。
 本船(キブネ)
 なぜか本船と記して「きぶね」と読んでいる。神功皇后の御着船の地であるという。今も昔なからの地名を称す。本船神社の所在地で、古新田の南隅にある一小丘が、すなわちその地である。
 早岐瀬戸の途中で西側へ袋状に広がっていた低湿地を一早く新田開発した地が古新田で、現在も古墳の様な小丘に、「本船神社」の社額を掲げた石鳥居のある神社(祭神 水波女命)が鎮座している。
 碇山(イカヅチヤマ)  神功皇后がはじめて碇(いかり)を投じられた地だと伝わる。木船の近くか。
 神揚
 神功皇后が上陸され、神助を祈られた所、神揚(かみあげ)という。本船の北方の山際、江上支所の少し奥の字北谷に、弘仁14(823)に神鏡三面を以て御祭したとされる八幡神社(祭神 神功皇后・応神天皇・玉依姫命)がある。神社の隣には「神揚農営研修施設」あり、神揚の地はこの辺りを指すのだろう。但し、八幡神社は、江戸時代の初め、谷の西側にある江上小学校の上の丘に祀られていたものを遷したという。
 神樂谷 神功皇后が神揚の地で神を祀られた時、神楽を奏させた地であったという。
 鹽釜神社 昔、老翁が忽然として現れて、塩を焼いた所であるといわれる。その場所は釜ノ浦にあり、釜屋はその老翁が塩を焼く法を授けた地として伝えられていて、平松神社の地がその授法の旧跡だという。
 平松神社は、指方の西方、針尾島の中央を南から大きく入り込んだ江上浦の最奥に祀られる神社で、塩槌命を祭神としている。
 釜ノ浦は、江上浦の入口近く、兎島の北に位置する所に釜の港があるが、入口の大島との間の江瀬戸や旧工業団地埋立地(ハウステンボス)に面した旧海岸も「釜ノ浦」でもあり、どこが塩釜神社のあった「釜浦」にあたるのか判然としない。



 
() 長崎湾周辺の住吉神社と神功皇后伝承地
 
 最後に長崎市周辺の住吉神社と神功皇后伝承地に関する資料をまとめておきたい。
 長崎市内の住吉神社の分布を概観してみると、長崎湾の最奥、浦神川沿いの住吉町と東北の女の都地区の谷合・山間部に各一社が鎮座している。住吉町の住吉神社は、寛永11
(1634)の鎮座とされているが、詳細は不明である。

 [諏訪神社に合祀された住吉神社について]

 長崎駅の東側、市街地中心地にある上西山町の鎮西大社・長崎の総氏神と称する諏訪神社は、「かつて長崎市内中心部に祀られていた諏訪・森崎・住吉の三社を、寛永2
(1625)に初代宮司青木賢清によって、西山郷円山(現在の松森神社の地)に再興、長崎の産土神としたのが始まり」(同社HP参照)という。
 その住吉社(住吉三神)については、『長崎市史』
(昭和4)によると、出島の南東「今の東小島町尾崎 正覚寺境内なりといふ に祀られ、里民は小島大王と称していたと云ふ」とあり、神功皇后の三韓征討の際にこの地へ巡幸して、湾の奥にあたるこの地には、御船の艫綱(ともづな)を繋いだ場所だとの伝説が残っていたようである。正覚寺の地は、銅座川の谷を見下ろす標高30m程の丘の上に位置する。
 その南西600mの十人町には、住吉社と関わりそうな「住江稲荷神社」と呼ばれる神社が存在している。「住ノ江」は「住吉」に通じる。
 『長崎市史』によれば、この「住ノ江神社」は、保食大神を祭神とするものの、主神や勧請年代は不明で、同社縁起では、元禄元年
(1688)、唐人屋敷が新設された地に祀られていた稲荷社を西側の現在地へ移転させて、十善寺郷鎮守社として祀ったこと、などを記している。
 一帯が住吉の神あるいは神功皇后の伝承と深い関係にあった海辺であった可能性が高い。

  
            長崎湾口の神功皇后伝説地(国土地理院 昭和22年の写真に加筆)

 さらに、神功皇后の三韓征討に関わる伝承は、長崎港の西側、稲佐山の山塊から南西に続く長崎湾北側の「神崎」や、西方に浮かぶ皇后島
(現 鼠島)・神島・高鉾島など、長崎湾の突端附近の地などに伝えられている。

[長崎湾北岸の神崎神社など]

 江戸時代に伊藤常足が著した『太宰管内志』には、次のような内容が記されている
(私訳)
 師の青柳大人(種信)によると、彼杵郡稲佐岳の南方、入海に突き出た岩山を神崎という。岬に岩窟があり神崎大明神の社があり、神功皇后を祀る。その西南の海の中に狐島があり、高鉾という。 神功皇后が鉾を立てられた所だという。その西には神島があり、横には頓宮島と呼ぶ島がある。さらに神島の東には皇后島があって、何れも神功皇后の古蹟だという。こうした伝承から考えると、神功皇后が新羅征討の時ではなく、その前に筑後国の山門県から南海に出て、この辺を経て松浦県の方へ行幸されたのであろうか、

 この中で、神功皇后を祀る神崎神社について、『長崎市史』
(昭和4)には次のように記されている(私訳)

 祭神 住吉三神(上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命)・猿田彦命・神功皇后・保食大神・事代主命
 神崎社太神宮本縁起には、昔、神功皇后が三韓征討へ発向の途中、長崎(当時は深江の浦と呼んだ)の地を越える際に、平敷の地で石神山の霊石二顆を得られた。その霊石を腰に挟んで御胎内の皇子の安全を祈られると共に、諸神を遠近に遣わして山川の形勢を調べさせた。その内、八武小麻呂と
大矢田宿祢は途中で没した。現在、茂木村に祀られる八武者権現は、その両神を祀ったものである。その後、皇后は当津(長崎)から船出されるに当り、・・・・・・・・高い山から出崎()へと続く絶景は、陰陽の気を顕す霊地だとして、住吉と船魂の二神を祀らせ給ひ、後に三韓より持ち帰らせた委奴國王印を神体として祀った・・・・・・・・、との伝承を伝えている。
 この中で、茂木村八武者権現とは、長崎半島の南側、橘湾に面した茂木の港町に鎮座する裳着(もぎ)神社のことで、『長崎市史』によると、祭神は帯中日子尊(仲哀天皇)・品陀和気尊(応神天皇)・息長帯日賣尊(神功皇后)・中臣烏賊津連(なかとみのいかつおのむらじ)・武内宿禰(たけうちのすくね)・大伴武持大臣(おおとものたけもちのむらじ)・物部膽咋連(もののべのいくいのむらじ)・大三輪大友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)の八神を祀っており、神功皇后が三韓征討の途中、この浦から上陸され、この浦で裳を着けられたので「裳着」の地名が起り、のち当社が草創された、という。

 
[平敷の霊石・鎮懐石]
 
 ところで、神功皇后の霊石二顆すなわち鎮懐石については、『万葉集』に筑前国怡土郡深江の村 子負の原に残る石とし、合わせて占いによって肥前国彼杵郡平敷で得た石だ、との言い伝えを載せている。
 この彼杵郡平敷の地については、『大日本地名辞書』に「或人の云、平敷と云は 今長崎に近き浦上村平野宿と云所にて、今も赤石白石の美きが多く出るを、火打石にも、又磨りて緒締と云ものにもするなり云々。」との伝承を載せている。
 浦上村平野宿とは、旧浦上街道(時津街道)の長崎の町へ入る手前の台地上にあった小さな宿場町で、現在の平野町の平和祈念館などがある台地である。
 先に挙げた『神崎社太神宮本縁起』に、平敷の地で石神山の霊石二顆を得られたことを記すのは『万葉集』を参照されたものなのだろう。

 
[立岩権現]

 また、西方の浦上川を挟んで南北に連なる稲佐山地の北端の立岩町には、その名のとおり、巨大な立岩が聳え立ち、その下に立岩権現の社が祀られている。
 『太宰管内志』の「堤雄神社」の所には、
 稲佐村の稲佐神社から1718町ほど北の山続きに寺野郷村があるが、西の谷奥に「堤」という地あり、古代に池の塘(つつみ)があった所だと、堤の跡がわずかに残っている。その上の山には大岩がそびえ立っていて、下には石祠があり「立岩権現」と呼び、祠の後にある岩には窟がある。里老によると、むかし神功皇后が三韓征伐のために祭られた社だという、
 との内容が記されている
(私訳)
 また、『長崎市史』を参照すると、祭神は武内宿禰。伝説では、立岩はむかし神功皇后の三韓御征討の途中に当地に立寄られた時、武内宿禰に勅してこの岩に登らせて国見をさせられた霊跡である、と記している。
 なお、長崎市の北部、立岩から20km程の距離にある西彼杵半島西岸の神浦港に祀られる神浦(こうのうら)神社にも、『明治神社誌料』によれば、祭神は息長帯比売命(神功皇后)で、三韓を征服して筑紫に還られた後、時津村を過ぎて休憩された際、武内宿禰に淵村の嶺に登らせた。その嶺は、立山権現山という、との伝承を載せている。

 あくまでも、すべて伝承伝説の世界であるとしても、長崎湾の周辺地域が、神功皇后あるいは三韓征討に関わる伝承が色濃く残されてきた地域であったこと、そうした伝承・伝説と深く関わりをもって住吉神社(住吉三神)などの社が祀られることになったのだろう。


  2022.6.7 原田 修




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