『 枚 岡 神 社 御 神 徳 記 』 に つ い て


        
         枚岡神社の神体山「神津嶽」                  枚岡神社本殿 


河内国一ノ宮、旧官幣大社枚岡
(ひらおか)神社に社宝として保存されている「御神徳記」を『枚岡市史第3巻』(現東大阪市)より引用して紹介します。
生駒山が住吉大社の神領で「膽駒神南備山」と呼ばれていた時代に、生駒山地の聖域を浄め祓うために祀られた古代国家の重要な神社であり、中臣氏の祖神である天児屋根命・比売神、のちには武甕槌命・経津主命を加えた四神を祀り、奈良春日大社の元となる社で"元春日"とよばれていました。




 御 神 徳 記 『枚岡市史 第3巻』より


  河 内 平 岡
此御神體和州春日に替る事なし 其注文は前に見たり
長暦元年
(1037)丁丑三月四日午時御社鳴動す 祢宜神主いそぎかけつけていかなる事ぞとうかがひ申 其夜平岡の社の前にて人を殺害せり 又同九日大風吹て社の棟木又は鳥井を吹たをす
寛徳二年
(1045)九月八日夜御社大に鳴動す 皆々走集る時に社壇より光物出て西を指てとび行けり
其十月には大木たをれて御社をそこなひけり
天喜四年
(1056)御社焼亡す
延久二年
(1070)夜々社壇より光物出 是は夏中の事也 祢宜神主をどろきいそぎ京都へ申 其秋には大雨ありて社の上の山をくづす 又川きれて農民を損する也
永保元年
(1081)正月社壇にそなへたる御供其色血にそまる 又其夜きつね多く社のあたりにあつまりて鳴さはぐ 神主小田丸巻数を棒て禁中へ奏聞す 此日和州春日も同く奏聞す
寛治五年
(1091)辛未八月十二日堀川院當社へまいり給ふ 神馬並に御幣御大刀を奉り給ふ 仍て神主小田丸に従四位下の位を給はる 其夜神前の燈明より火出て御社の下壇を焼也
嘉祥二年
(1107)丁亥山中より鹿猿多く出て御社のあたりをめぐる 是六月中の事也其年天子崩御也
久安七年
(1151)三月神主鹿丸母年九十八 毎日御社にまいりて子孫の繁昌をいのる 三月十八日夢に大明神より七節の杖を給はると見て十九日の旦神前にまいり案のことく御杖ありいただきよろこびて家にかへる 其杖今にありける也
同四年光物社壇より出て山下の民家を焼 後に其子細を尋るに鹿をとりて食すのたたりなり
永萬年中
(1165~1166)大相國清盛公當社へ使を奉て神馬御幣をまいらせらる 其神馬を社へ奉る時狐出て神馬の足をかみて血をながす不吉の事也 京都へは不申也
又承安元年(1171)文覚上人平岡社へまいり願書を奉る 鹿出て口にふくみて明神へまいらする也 源義経公太刀二ふりを當社へまいらせらる 盗人とりて走あやまて手をやぶり神霊におそれて道をすててはしる
建久元年(1190)庚戌十月源頼朝公より御劔並に沙金を平岡へまいらせらる 安西新五使たり其夜社壇鳴動す 神主巻数をさゝげて上京し 由を申上頼朝大によろこび給ひ神主に引出物を給はる
元久年中
(1204~1206)源空上人當社にまいり通夜念佛三昧を修行あり時に社壇鳴動し同音に念佛の音あり 源空大に信感をいただき念珠をさゝげてまかる也
宝治元年
(1247)正月五日○虵多く社の前にあつまり死 其夜御社焼亡
弘安四年
(1281)二月三日旦神前に紫色の雲立てしばらく不消
正和四年
(1315)乙卯正月御社鳴動
元徳二年
(1330)御社迂宮の時盗人有て神前の御饌をぬすみ食ふみつかり手をつかねて明神の御前にて罪を申上自殺して地にたをる 不思議の事也
暦應元年
(1338)戊寅源高氏當社へ寶物を奉らる 神社を修理し給はむとの誓約あり 使者道にて狂気となる 其由をしる事なし
元弘正慶
(1331~1334)の頃楠正成が語に依て恩地三郎平岡彌太郎豊浦松原の者共各一揆を催す當社にまいりて軍功をいのり又は奉幣をささげて託宣を請 神子御湯を奉り神託をうけて云 汝等が壽命を守らんや又家名を守らんや 時に神子につきて各願を申さるは命は百年のかぎりあり 功名は永代の事也 願は永代の功名を守らせ給へと申す時に大明神告給はく申す所悦ばし 我汝等が馬に永代の佳名を守り又は命をも守るべしと云也
正平四年
(1349)正月楠正行當社へまいり御太刀物具を進上す
應永三年
(1396)丙子山當社の霊池流をとゝめて泥の色黄になる
同十年
(1403)二月廿日社壇鳴動す 夜に至て小児の鳴聲社邊にきこゆ 人々あやしみ松明をとりてゆきみれば二三才ばかりなる小児五六人手に御幣をとりてをどりくるひ又は悲鳴する也 其時由をうかがひみれば人にはあらで狐なり 後に皆山へ上り失ぬ
正長元年
(1428)戊申八日弾正忠有が妻子を生ず 首四角にて目三あり 又生れのまゝに歯あり 父母をそれて其子を殺す 其夜平岡明神夢に見給ひて云 我汝に鬼形の子をあたふ 是我所爲也 然るをみだりに殺す無下にあさましき次第也 来年又子をあたへん よくやしなひてそだてよ 翌年又子を生す 其子成長して大力あり 後に山名宗全につかへていか平右衛門と名のる者是也 三十七人が力ありといへり
應仁元年
(1467)御社夥く鳴動す 近邊の郡郷にきこゆる也 六月十日の事なり
又去文明九年
(1477)丁酉七月近郡の氏子奉加を企て御社を造る 十月に至て毎夜社壇より光を放つ也 
この一巻はしも わか大神の神御稜威のくすしくあらはれける條々書しるし侍りて 大宮のよき神寶とも稱へつべき物なりけり しかるをそのむかし神主と仕奉りて水走姓の家に秘めもたれしを 今回打はかりて水走に引出ものを送りて大宮のふくらに奉らしめりき かれこのよし一言書付おきぬ 後の神事うけつく人よゆめおろそかにおもひなすてそ
    あなかしこ
 明治二十とせ あまる  宮司 八千穂
   神嘗月十あまり 五日
 明應五年記


〔解題〕
河内国一ノ宮、旧官幣大社枚岡
(ひらおか)神社に社宝として尚蔵されるこの「御神徳記」は、先ず祭神のこと(もっとも其注文は前に見えたりとしているから、巻頭を亡失しているかも知れない)、御社の鳴動其他神異のこと、御幸・武門・僧侶などの参詣・祈請のこと、社殿の焼亡・遷宮・造営のことなど、もっとも古くは藤原氏権勢のやや下降した平安中期、すなわち後朱雀天皇長暦元年(1037)三月四日午時の鳴動から、源平時代、鎌倉時代、南北朝時代を経て、室町時代中期すぎ、すなわち後土御門天皇文明9年(1477)の造営まで、その間、440年間にわたって枚岡大神の神威の条々を記している。
奥書によると、もともと世襲祀官の水走家に秘蔵していたものを、打ち図って水走家に引出物を送って、神社の宝庫に納めたといい、終末に「明応五年記」の文字があり、又本記事の最後である造営のことをしるす条に「去」の文字があり、おそらく文明9年以後明応5年
(~1496)の間に、水走家の旧記によって編述されたものであろう。
跋書きする「宮司八千穂」というのは、明治24年6月15日から大正14年2月12日までの30余年間、官弊大社枚岡神社宮司であった人で、その間、明治33年、社殿は旧鎮座地(清泉の中央石垣上)から東方高地距離6間の現地へ移転した。
先ず巻頭にしるすように、御祭神は大和の春日社に同じとするけれども、いま枚岡社における祭神四座は、第一殿(駢立する四殿の南から第二殿目
)天児屋根命、第二殿(最南)比売神、第三殿(南から第三殿目)伊波比主命(斎主神、すなわち下総香取の経津主神)、第四殿(最北)武甕槌神(常陸鹿嶋神)の四神を奉斎し、第一・第二殿が枚岡社の主祭神で、第三・第四殿は奈良の春日社に追従してのちに配祀したものである。
蓋し中臣氏、引いては藤原氏の本来の祖神と、崇敬神とを合祭して、一門の氏神としたものである。
而して春日社は勿論、京都の大原野・吉田の二社も、武甕槌命・斎主命・天児屋根命・比売神の四神を祭っているが、その神座の次第は夫々異なっている。それはそれぞれその社の創祀の経緯によるのである。
次に社壇鳴動、光り物社壇より出づ、あるいは鹿・猿・狐・蛇が出たとか、紫雲が立ったとかいう神異は、すべて神の警告・嘉納・激怒であるとして、震駭・畏怖・崇敬された。あたかも大和多武峯の廟山鳴動・鎌足御影破裂と同類で、いよいよ枚岡大神の霊現は増したのであろう。
又、寛治5年8月12日、堀川院の御幸・奉幣・神主の叙位があったことをしるしているけれども、百錬抄など信ずべき史料にはその事は見えない。なお本紀には平清盛の神馬御幣、文覚の参詣、源義経の太刀奉納、源頼朝の御劔・沙金奉納、源空の参詣、足利尊氏の誓約、元弘正慶年中における恩地三郎・平岡弥太郎らの軍功祈請と、楠木正行の参詣等をしるしているが、平安中期以降、朝廷、藤原氏の当社尊崇は、必ずしも昔日の如く盛んなものではなかった。これらの記事は、世襲祀官水走氏が地方豪族として確固たる地歩を占めて活躍していたことと関連がある。
当社の社宝として源頼朝の画像が尚蔵されていることは、頼朝の当社崇敬の記事と関係がありそうである。
その他、後冷泉天皇天喜4年
(1056)、堀河天皇寛治5年8月12日、後深草天皇宝治元年正月五日の社殿焼亡、後醍醐天皇元徳2年の遷宮、最後に後土御門天皇文明9年(1477)7月、氏子の奉加による御社造営、等をしるし、最後に同年10月毎夜社壇より光を放つことを以て、文を結んでいる。
要するに「御神徳記」の記事は、中世史料の乏しい枚岡市の史料として価値あるものとしてよいであろう。
なお本文の嘉祥は嘉承の誤りである。

 (枚岡市は、現在東大阪市)

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