河内国一の宮であった枚岡神社(ひらおか)について『大阪府全誌』より紹介します。
(2007.12.10)
枚 岡 神 社
枚岡神社は東方神津嶽の半腹にあり、山名は當社の鎮座せるより起れり、延喜式内の大社にして當国一の宮の稱あり。
天児屋根命及び比賣神(今は天児屋根命の后神天美豆玉比賣命なりとせるも、天照大神即ち天日靈命なりとの説あり)を主神として、経津主命・武甕槌命を配祀せらる。山巓に百有餘坪の坦地あり、円形の区画を爲し、土俗は崇敬して降臨地と呼べり。
是れなん往事に於ける當社の鎮座地にして、神武天皇即位紀元前なる戊午歳、天種子命の勅を奉じて鎮祭し給ひしもの即ち當社の起源なりと傳ふ。
其の今の所に遷座し奉りしは孝徳天皇の白雉元年(650)九月十六日にして、當社分霊は稱徳の神護景雲二年(768)大和の春日神社に奉斎せられ、光仁天皇の寶亀九年(778)十二月九日同社の一の宮武甕槌命・二の宮経津主命の分霊を復た當社に配祀せらる。延喜式に當社祭神を四座とせるは、両社配祀の後なるに依れり。
社名の枚岡はもと平岡なり、平岡の社名に就いては両説あり、一は山巓平夷の所に創建せられたるより平岡と稱せしといひ、一は社地より南方は概ね平坦にして小高き岡なりしが故に平岡の地名を爲し、社名に負わせたるものなりと。
後説は社記に載せたる所にして、前説は大阪府誌に記せる所なり、其の何れの正なるかは詳しならず。
又其の枚岡に作りしは何れの年代なるか明ならず、続日本後紀仁明天皇承和十年(843)六月には平岡と書し、文徳実録齋衡三年(856)十月にも同じく平岡と書せるも、三代實録貞観元年(859)には枚岡と書し、同書同七年(865)十月及び十二月には共に平岡と書せるに依りて見れば、齋衡・貞観の交に枚岡と書し初め、しかも互用し来りて、後枚岡の文字に一定せられしものならんか。
創建の初めより皇室の尊崇厚く、仁明天皇承和三年(836)五月庚子朔丁未、天児屋根命は正三位、比賣神は従四位上を授かり給ひしが、同六年(839)冬十月には天児屋根命は従二位、比賣神は正四位下に、文徳天皇齋衡二年(855)十月天児屋根命は従一位に加階せられ、清和天皇貞観元年(859)正月二十七日天児屋根命は遂に極位に達し、比賣神は従三位に昇格し給へり。
清和天皇貞観元年九月八日使を遣はして奉幣せしめられしより、風雨・疫病等の爲に屡奉幣あらせられ、堀河天皇は寛治五年(1091)八月十二日御参拝あらせられて、御幣及び御太刀を奉納あらせらる。
武将の尊崇復た厚く、永萬元年(1165)平清盛は神馬・御幣を、承安元年源義経は太刀二振を、建久元年(1190)源頼朝は御剱及び沙金を、暦応元年足利尊氏は寶物を、正平四年(1349)正月七日楠正成は御太刀・物具を各奉納し、其の他にありては承安元年(1171)文覺上人は社頭に参籠し、元久年中(1204-1205)源空上人参籠し天正十一年(1583)関白近衛前久公(龍山公)は薩 州下向の途次参詣ありて左記の詠あり。
上下敬神の厚かりしとともに神戸・社領も多く寄せられしは、新抄格勅符抄大同元年(806)の牒に、枚岡神六十戸丹波国五十六戸、河内国四戸と記し、國華萬葉記に枚岡大明神社領百石、本朝年代記に枚岡神社領百石と載せられたるに徴して知らる。徳川時代にありても豊浦村の内にて、社領五石九斗五升を寄せらる。
而して往古より社に奉仕せしは平岡連にして、同連は姓氏録河内國神別に「平岡連、津速魂十四世孫鯛身臣之後也」と見ゆるもの是れなり。
後水走氏・鳥居氏あり、平岡連の裔なりしといふ、共に當社に仕へしが、何れの時よりか神護寺・平岡寺・岸光庵・法蓮庵等の宮寺起りて神仏両部の祭祀を挙げ来たりしが、明治維新後の神仏分離に依りて寺は廃絶し、社は同四年(1871)五月十四日官弊大社に列せらる。
つゝきつゝ近き衞もそれならて身は百敷の遠津島守
社殿は孝徳天皇の白雉元年(650)九月現今の所に遷宮し給ひし後は、光仁天皇寳亀九年(778)十二月九日経津主命・武甕槌命勧請の時に再建せられしが、後冷泉天皇の天喜四年(1056)及び後深草天皇の寛治元年正月五日の夜焼亡せしといへば、其の都度造営ありしものならん。*(寛治は宝治の誤りか)
後足利氏の末葉に至りては、皇室式微し給ひしかば、文明九年(1477)七月近郡の氏子に依りて造営せられたりしに、天正七年(1579)九月織田信長の兵燹に罹りて本殿及び摂・末社十七社・神庫・雑庫其の他の建物を悉く灰燼と化し、慶長十年(1605)十一月十日豊臣秀頼の片桐且元を奉行として社殿造営の挙あるに及びて復旧せり。
豊臣氏は社殿造営の挙ありしのみならず、深く當社を尊崇して多くの奉納物等ありければ、自然同家保護の祈願等も行はれしならん。之が爲め徳川氏は當社に対する崇敬の念薄く、前記七石餘の社領は寄せられたるも、其の他に於ては當國に於ける米麥及び綿の初穂を徴収することをのみ許されて、僅に祭典費并に神職・社僧の手當に充つるに過ぎず、社頭は漸次頽廃しければ、文政九年(1826)四月三日氏子の寄附金によりて再建せり、即ち現今の社殿是なり。
祭典は往古は臨時際を除き年中五十三回の多きに及びしといへば、如何に其の盛大なりしかを推想し得らるべし。
明治維新後は改正せられて其の数を減じたるも、毎月一日に行はるゝ月次祭を除きて、尚多くの祭典行はるゝが中に、二月一日の例祭・同月十七日の祈年祭・十一月二十三日の新嘗祭は當社の大祭にして、奉幣使の参向ありて祭儀は謹厳に行はる。
五月二十一日に行はるゝ平國祭(くにむけさい)は、神武天皇の山上にて國土平安の御親祭を挙げさせ給ひたるより起れるものにて、一旦中絶せしを先年復興せられたるものなり。
又一月十五日御粥占の神事あり、米五升に小豆三升を釜に入れて粥を焚き、之に女竹の六寸許に切りたる管の葛蘿にて束ねられたるを投入し、其の管中に入れる粥の多少に依りて當年の豊凶を卜し、以て群参の諸人に告ぐるものにして、其の式は荘重雅典を極め、氏子総代も之に参加せり。
氏子はもと四條・五條・出雲井・豊浦・客坊・喜里川・六萬寺・横小路の八ヶ村にして、前記文明九年七月及び文政九年七月の社殿造営其の他臨時修繕の如きも其の経営せる所なりしが、六萬寺と横小路の二ヶ村は其の後離れて額田・松原の二ヶ村を新に加ふ。
俗に笑祭といへるあり、毎年一月八日御秡河の前面なる賽道に於て、一筋の注連縄を両側の木にかけ張り一同の笑へるものなり、其の起因は明ならざれども古来の例なり。
御旅所は大字豊浦の字箱殿と同寶蔵新家との間にありて、椋の大木数本繁茂せり、往時は陰暦の九月九日に神輿の渡御ありしが今はなし。
社寶多し、中に就て其の著しきもの挙ぐれば、古銅製の八稜鏡壹面・白鹿図壹幅・天國作短刀壹口・桃核製後藤祐乗刻の群猿遊船壹個・後陽成天皇宸翰短冊壹枚・関白近衛基煕公筆の短冊壹枚・當社古絵図壹幅・當社記壹巻等なり。
而して近衛基煕公の短冊は、元禄十二年(1699)の秋天下旱魃のとき、神前に捧げられたる祈雨の詠にして、左の如し。
ひら岡にあまくたります神なれは民くさ枯るゝあはれをはしれ
社地は一帯の森林を爲して寶基の杜と呼び、樹木鬱蒼として貳萬七千参拾壹坪の廣さを有せり。賽道は東高野街道より起リて同所に三の鳥居あり、同鳥居より十町許りにして二の鳥居あり、即ち馬場前にして、是れより登る道の両側には桜・楓を植えられて、春天には艶麗の花開き、秋季には紅葉錦を織れり。
右側に社務所あり、即ち水走氏の舊邸址にして建物は其の遺物なり。其の西に接する所は鳥居氏の邸址なり。
細流の道を断てるは御秡川にして、一に夏見川の名あり。川の両岸は之を夏越岸と呼び、川に架せるは行合橋なり、もと木造なりしが、明治二十五年(1892)に改造せられて今は石橋となる。以前の木橋は慶長十年(1605)十一月片桐且元の社殿と同時に改造せしものにて、其の擬宝珠の一は残りて當社に保存せらる。
橋を渡れば一の鳥居あり、鳥居を過ぎ石磴を登れば賽道の終にして、其の経過せる賽道には千代の古道の稱あり。
賽道の尽くる所は即ち當社の鎮座地にして、右に神饌所あり、其の後方に神水あり、左に勤番所ありて、中央に拝殿を建てらる。
拝殿の東は一段の高地をなして、玉垣は其の三面を圍み、其の東に中門あり。中門内は復た一段の高地にして長方形を爲し、南北拾間半、東西四間貳尺の廣さを有し、姥ヶ池は其の四方を繞り、中門の左右より透塀を建てられて西南北の三面を圍む。
もと神殿のありし所なりしが、神殿の所在としては拝殿に近過ぎ、逼迫狭少なればとてにや。神殿は其の東邊池外に移されて南より北へ駢び、南を第二殿、次を第一殿、次を第三殿、最北を第四殿と唱え、第一殿に天児屋根命、第二殿に比賣神、第三殿に経津主命、第四殿に武甕槌命を祀らる。
四殿とも王子造にして、桁行梁間共に七尺、高さ壹丈六尺六寸、彩色を施されて檜皮葺なり。
神殿前の池上に架せるは四位橋にして、池は即ち前記の姥ヶ池なり、清水透徹亀遊び鯉魚泳げり。池水は後方の山に潜める水の洩れ入るものなれども、そは極めて少量にして其の大部分は出雲井に湧き出でし水の注げるものなり。
出雲井は中門内なる舊神殿の下にありし古井なりしが、ある年の地震に噴水して、神殿を浸せしかば、杉の丸太を打込みて漸くその噴水を止めしと傳ふ。
故に今は表面に其の形は見えざれども、其の同井に湧き出でし水脈は絶えずして今も姥ヶ池に注げるなり。池は今姥ヶ池と呼べども、本名は照澤池にて、其の名は日照すればするほど澤山の水を湧出せるを以て起れりと。剰水は流れて本地一圓の水田を灌漑せり、其の水恩報謝の意を以て領主大久保家より毎年玄米五斗を奉納し来りしが、廃藩後は部落民より初穂料として同量の米を神前に供するを例とせり。
拝殿の北側にはイブキの大木あり、神武天皇平國御親祭のとき、其靈畤に御手植あらせられしものにて、當所に遷座の際大幹移植の途なきを以て、神主平岡連の其の樹枝を採りて栽培せしものなりといふ。高さ六拾尺・周囲十八尺貳寸に及び、老幹槎牙*(木へん)として細葉鬱忽せり。
勤番所の下方に瀧あり。姥ヶ池の水の懸れるものにして潺々として落下し、夏時来りて水に打たるゝもの多し。
社前を去りて南に進めば摂社若宮神社あり、天忍雲根命を祀らる。其の南側に照澤池あり、小池なれども奈良春日の猿澤池・京都西山の廣澤池と三澤池の名あり、然れども照澤池は之に非ずして、前記の如く姥ヶ池の本名なりとの説あり、河内名所図絵にも照澤池は若宮の北にあり、俗に姥ヶ池といふと記すれば、本池は同書に姥ヶ池の南に池ありと記せる白水池にはあらざるか。
其の南に末社ありて天津神・國津神を祀らる、即ち従来境内の各所にありし椿本社・青賢木社・太刀辛雄社・勝手社・地主社・笠社・住吉社・飛来天神社・岩本社・佐気奈邊社・一言主社・坂本社・素盞鳥命社・八王子社・戸隠社に、明治五年の神社整理に際して當社に合祀せられたる本地の八坂神社・五條村の八幡宮社・客坊町村の市来嶋姫神社、吉田村の春日神社、豊浦村の春日神社、額田村の額田神社・若宮八幡社・山神社・蛭児神社、松原村の春日神社・八幡宮社、四條村の春日神社・素盞鳴命神社、横小路村の立田社(今の大賀世神社)、池島村の日吉神社・八坂神社・水神社、福万寺村の三柱社(今の三十八神社)・若宮八幡社、吉田村の春日神社、善根寺村の春日神社を併せて同年一社に祀られしものなり。
然るに其の合祀社中なる四條村の素盞鳴命神社以下の九社は、同十二年より同十七年に至るまでの間に、合祀を取消されて各複社せり。
同末社の前を西に出でたる坦地は宮寺たりし光岸庵・注蓮庵・平岡寺・法護寺のありし所なり。
神護寺の開創は上世にありしと傳ふれども詳ならず、元和三年(1617)より僧空存・友春・北宗・天桂・悦雲等交替して住し、黄檗山の別峯院に属せしも、正徳元年(1711)僧別傳更に中興して同萬福寺末たりしといふ。
而して其の地は今神苑となりて梅樹を植えられたれば、観梅の趣あるはいはずもがな、高爽の区なるを以て摂・河の平野を眼下にし、遠くは紀・阿・淡・播・泉の遠山翠薫を双眸に収め得て、四時の風光に富めり。
いこまかんなびの杜
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