「 枚 岡 神 社 に 就 い て 」

 

  
元枚岡神社 宮司 一志省三氏 寄稿『郷土史ひらおか』2号-1958 河内郷土研究会より転載
   (2007.12.10)



「枚岡神社に就いて」

 枚岡神社には、御祭神として、天児屋根大神、比売大神、斎主大神、武甕槌大神の四柱を奉斎す。
 此の御祭神は、『三代実録』
清和に「貞観元年正月廿七日甲申奉河内国従一位勲之三等枚岡天児屋根命正一位正四位上勲六等枚岡比咩神従三位」、『延喜式』八祝詞に「春日祭天皇我大命爾坐世恐仮枚岡坐天之子八根命比売神皇神等能広前仁白久」、『伊呂波字類抄』比諸社に「平岡大神 日本紀云正一位勲三等天児屋根命是也今河内国河内郡」、『総国風土記河内国の部』に「平岡郷有号神平岡明神所祭児屋命也」、『諸社根元記』に「平岡天児屋根命坐河内郡正一位勲一等平岡社是也」、『元要記』十六に「河内国平岡社社記日光仁天皇依宣下宝亀九年戊午十二月九日四所宮柱太敷立春日一宮健御賀豆知二宮伊波比主命比被祝副畢」等あるに依りて明である。
 天児屋根大神は天岩戸開きの第一功神であり、天孫降臨に第一の重神として、天孫に随従し神政経世斎民に長した大神であり又御神徳上から、神事宗源の大神として尊崇せられてゐる。『神皇正統記』
に「中臣忌部の二神はむねとの神勅を受けて皇孫をたすけまもり給ふ」『日本書紀』に「天児屋根命主神事之宗源者也復勅天児屋命太玉命惟爾二神亦同待殿内善為防護」等記されてゐる。
 比売大神は、天児屋根大神の妃神で、夫大神に従ひ其の御神業を助け奉り、又御子神を賢明に育て子孫繁栄の基を堅むる等内助の功が多大であったと思はれる良妻賢母女性の模範神であらせられる。
 斎主大神は、経津主神とも申上げ、武甕槌大神と共に両神相協力して、我が国土を天照大御神に奉献せしむる大政策に成功し諸神を鎮撫平定したところの外交の祖神である。
 枚岡神社の御社名は、現在では枚岡神社と決定してゐるが、古くは枚岡大神社、枚岡大明神、枚岡社、平岡神社、平岡社などとも称し奉ったことがある。
 枚岡は「ひらをか」と訓み平な岡の意味で御社名は鎮座地の名称から起きたのかと思はれる。されば時代に依って、枚岡神社、平岡神社とも称し、枚岡、平岡同時に混用された時代も、長かったようである。延喜式には、枚岡神社と用ひた例が多いが、中には枚岡社、平岡社等いはれた場合もある。又上代に平岡大神社と称し奉ったこともあって『続日本後紀』
十三仁明に「承和十年六月乙丑河内国河内郡従二位勲三等平岡大神社神主等永預把笏」と見えてゐる。後世は平岡大明神と称しられた例が多く『大日本一宮記』、『国花万葉記』、『和漢三才図会』、『河内鑑』等孰も平岡大明神と記されてゐる。又天児屋根大神、比売大神を奈良春日神社に分祀せられた由緒に依って元春日平岡大社とも称へられた。以上のような変遷を径て、今日に在っては、明治四年官幣大社に列格仰せ出された時の名称の枚岡神社とのみ申上げてゐる。
 次に枚岡神社の由緒を考へて見ると、其の創祀は悠久なる、神武天皇の即位紀元前三年に遡るのである。
『元要記』に「伝記日河内国平岡社神武天皇長足彦御対治時勧請」神社啓蒙四に「平岡神社在
河内国河内郡抑当社鎮座人王第一神武天皇御宇戊午年春(中略)運神策於沖袷日我是日我子向日征虜此逆天道己不若退還示弱礼祭神祇者即当社孫也」と見えてゐる。
神武天皇が御肇国に方り浪速から大和に進み給はむとしたが、長髄彦の大軍に防げられたので、神武天皇は神の御告によって神様を祀ることになったが、比の時勅命を奉じて天種子命が国土平定祈願の為に、天児屋根大神、比売大神の二神を霊地神津嶽に一大磐境を設けて奉祀せられたのであった。是が枚岡神社である。
されば枚岡神社は、神代に於いて創祀された最古の神社と云へる。
 我国で神代に於いて奉祀された神社を調べて見るに僅かに伊佐奈岐、熊野、大神、出雲、諏訪、宗像の数社に過ぎないので、枚岡神社は之等少数の古社に伍して、夙く神代に於いて奉祀された大社であると云へる。
 思ふに、枚岡神社は初めは高大な磐境を築造して奉斎の礼を尽したもので、現存する元社地神津嶽が即ち之であって今尚降臨地と称へられ神聖視して足を入れるものがない。
随って始めは社殿の設備が無かったのを『元要記』十六に「河内国平岡社孝徳天皇白雉元年九月十六日二所宮柱建立御遷宮」とある通り孝徳天皇の御代霊地から現在の社地に奉遷し、此の時から社殿が造営されたものと解せられる。
尚此の時平岡連が旧社地より移植したと伝へられる御神木いぶきは、現在拝殿の左奥に実在し今尚樹勢旺盛、我々に往古を語ってゐるように思はれる。
 次いで『元要記』
十六に「河内国平岡社光仁天皇依宣下宝亀九年戊午十二月九日四所宮柱太敷立春日一宮健御賀豆知命二宮伊波比主命祝副畢」とありて、此の時から御祭神四柱本殿四殿になったのである。されば其の後の書、『和漢三才図会』七十五に「平岡大明神在生駒山麓祭神四座」、『神皇正統記』巻三に「日神は天児屋根命を本とす本社河内平岡にます」、『古史正文』巻三に「天児屋根命者主神事之宗源者也此者坐枚岡社」、『諸社根元記』に「平岡延喜式日河内国枚岡神社四座並名神大月次相嘗新嘗日本紀云日神因居天石窟也遺天児屋根命而伏祈言又云主神之宗源也」等記さるるに至った。
 爾来天種子命の子孫が其の祭祀に努めて、次第に繁栄を加へ河内国を中心として諸国に勢力を扶植し、枚岡神社に崇敬を致したのであるが、平岡中臣藤原卜部の諸氏が其の主なるものであった。
 就中藤原氏の崇敬は甚しきもので、奈良に於いて春日祭を行ふ時の祝詞にも「恐
枚岡坐天之子八根命比売神皇神等広前」と見えて枚岡神社を遥祭したものであると思はれる。
 以上の如く其の創祀最も古く、御神徳高きものがあった枚岡神社は、常に特別の地位に立ち御神威益々頭著を加へ、上下の尊崇亦甚しきものがあったのである。
 先づ朝廷の御崇敬に就いて謹記すると「新抄格勅符神封」所載の大同元年牒に牒れば全国の神封合せて四千八百七十六戸中「枚岡六十戸河内四戸丹波国五十六戸」とあって当時河内と丹波の封戸六十戸を充てられたことが判る。
そして此の封戸六十戸は当時八幡伊勢大神大和気比住吉大神鹿島安房宗像鴨石上香取出雲等に次いで多い方であった。
 後の『延喜式』
三 臨時祭 には「凡枚岡社武蔵国封戸調庸租穀者停収此官社充社料」とも定められ、武蔵国にも封戸を有したることを伝へてゐる。
 又諸神に位階を奉って、神祇を優遇するものを神階と云ふが、『続日本後紀』
五 仁明には「承和三年五月丁末奉河内国河内郡従三位勲三等天児屋根命正三位従四位下比咩神従四位上」、同書八 仁明に「承和六年十月丁丑奉授下坐河内国河内郡正三位勲二等天児屋根命従二位従四位上比売神正四位下上」、『三代実録』ニ 清和 に「貞観元年正月二十七日甲申奉河内国従一位勲三等枚岡天子屋根命正一位正四位上勲六等枚岡比神従三位」、『同書』四清和 に「貞観二年七月十日戊午進河内国従三位弥加布都命神比古佐自布都命神階並加従二位〈武甕槌神 斎主神なり)、『諸社根元記』坤 に「平岡卜部大祖天児屋根命坐河内郡正一位勲一等平岡社是也」等記されて、神階は正一位に陛られてゐるが、此の神階正一位を授けられてゐる神は、枚岡の外には賀茂上下松尾平野大神石上春日の数社に過ぎないことから考ふるも、枚岡神社に対する朝廷の御崇敬が特に優れてゐたことが知られる。 
 次に朝廷の祭祀に就いて調べて見ると、夙くより奉幣や祈願が行はれてゐたものと思はれ、『文徳実録』
に「斎衡三年十月己丑加従一位平岡神幣布廿四端」、『三代実録』三 清和 に「貞観元年九月八日庚申河内国枚岡神遣使奉帛為凡雨祈焉」、『同書』十一清和 に「貞観七年十月廿一日己巳勅河内国平岡春秋二祭差神祇官中臣官人一人校祭事並付幣帛又差琴師一人奉祭場立為恒例、十二月十七日甲子勅河内国平岡神四前春冬二祭奉幣永以為例」等見えて当時から勅祭が行はれ、しかも永く続いたのであるが、次いで醍醐天皇の御代にいたり、神祇制度の確立を見たる延喜式の制成るや、『延喜式』九神名 に「河内国河内郡枚岡神社四座並名神大月次相嘗新嘗」、『同書』ニ 四時祭 には相嘗祭神七十一座の条に「枚岡社四座坐河内国」、『同書』 臨時祭 名祭神二百八十五座の条に「枚岡神社四座河内国」と明記され、当時官帳に載せられたる神社(延喜式内神社とも云ふ)神天地祇合計三千一百三十二座(二千八百六十一所)の中の大社四百九十二座に列し、又毎歳の祈年月次新嘗各祭の案上官幣に預る祭神三百四座絹綿調布庸布木綿鮑堅魚嘗海藻等迄献る 相嘗祭神七十一座廷に大事ある時臨時に祭らせ給ふ名神祭神二百八十五座孰れにも枚岡神四座が之に加わり給ひ、殊に『延喜式』一 四時祭 に平岡神四座の条があって、枚岡祭の祭神料を始め解除散祭神殿装釆竈神祭内解除料雑色人食料斎服祭禄の各料の品目数量を詳記せられ、更に「右春二月冬十一月上申日祭之官人一人率雑色人奉祭事」と定められているが、尚同書八 祝詞祝詞に枚岡祭の祝詞は春日祭と同様なることを注記され、又『神祇官年中行事』二月には「上申平岡祭已上幣物以本官請奏長官加着付官請取幣本官史生向社頭」と見える。 尚後になって『公事根源』二月 に「春日祭上申祭此月かしまの祭平岡のまつり有是も上の申の月の日使を発遣せらる 縁起春日におなじ」と記されてゐる。
 又『延喜式』
三 臨時祭 祈雨祭神八十五座の条に「枚岡社四座河内国」とあって、祈雨の神の中にも入り給ひるが、更に『本朝世紀』朱雀 天慶二年七月八日の条に「今日太政大臣以相職申請卿云旱魃猶甚仏甚祈祷似感応仍除先日奉幣諸社之外十一社明日可幣之由被定了平岡河内等社也」と見え、翌九日の条には「依祈両奉幣十一社」とありて此の時の祈雨十六社以外に十一社を加へられ、枚岡神社は其の列に入ったのであった。次いで『日本紀畧』四 村上 応和三年七月十五日の条に「奉遣幣帛使依祈両也被加奉平岡」、『同社(書?)』五 冷泉 には 安和二年七月十八日の条に「依祈両奉幣十一社平岡」とありて、後に『拾芥抄』に「祈両十一社 応和三年七月十五日 平岡河内」、『諸社根元記』乾 に「祈両十一社平岡 河内 応和三年七月十五日日例」とも書かれてゐる。
 尚『本朝世紀』
一条 正暦五年四月二十七日の条に「今日諸社臨時奉幣日也是為疫癘也坐河内国一枚岡以中臣氏人使給宣命一同時被使」とも見え、『左経記』寛仁元年十月二日の条には「被大祓是依京畿七道諸神一代一度幣帛神宝等被奉也、奉宝支配事河内国平岡」とあって、病気平癒の神として祈願し又大祓に幣帛神宝を奉れる等の厚き崇敬をも受けたのであった。其の外神社所蔵の『神徳記』には「寛治五年辛未八月十二日堀河院当社へまゐり給ふ神馬並に御幣御太刀を奉り給ふ」と明記されてゐる。
 上代神社優遇の方法として其の神職に把笏等の特典を与へられてゐるが『続日本後紀』十三仁明 に「承和十年六月乙丑河内国河内郡従二位勲三等平岡大神社神主等永預
把笏」、『三代実録』十一清和に「貞観七年十月廿一日己巳勅河内国平岡神主一人給春冬当色軾料綿布等」と記され、上代に於ける枚岡神社祀職に対する待遇甚だ原きものがあったことを物語ってゐる。
以上に依りて考察するに、枚岡神社は悠久限りなき紀元前に勅旨に依って創祀せられたる最古の大社であって、上代より神戸を有し、神階は累進して正一位の極位を授け奉られてゐる。
 同時に亦貞観年中から春秋の勅祭に預かり奉幣を受け、之を以って永例と定められ、又臨時奉幣祈願もあり、更に神社制度の確立したる延喜の制に於いては、大社として祈年月次新嘗の各祭に案上の官幣を奉られ、名神祭相嘗祭の鄭重なる祭祀を受け、殊に春冬の二回勅使を遣はされて厳粛なる枚岡祭を行はせらるる外、随時祈雨祈病大祓の祈願奉幣に預かる等最高の優遇を受け、更に堀河天皇の御参拝御奉幣を辱らしたる等、朝廷よりは最も原い御尊崇を受けてゐたのである。
又『国花万葉記』
四 河内 に「平岡大明崇社領百石又見寺社領一諸国」、『本朝年代記』に「平岡神天児屋根命垂跡河内国御建立社領百石」等見え後世社領百石を有してゐたことが判る。 


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