周 防 国   玉 祖 神 社 と 玉 の 岩 屋


    

  周防国の玉祖神社

 河内国高安郡神立(八尾市)に鎮座する式内社玉祖神社の神は、『同社縁起』によると、和銅3年(710)に周防国より摂津住吉浦に着かれ、住吉大明神に鎮座の地を乞うた所、広大な恩智神の領地の大半を与えられ、今の地に鎮座したとされる。
 その玉祖神社のルーツ、周防国の一ノ宮である防府市(佐波郡)大崎[大前]にある玉祖神社を訪ねた。

 周防国の玉祖神社は、周防国衙跡や国分寺・防府天満宮などがある防府市中心街より西方、佐波川に沿って連なる山並みの一峯、通称霞山(125.2m、八籠山・糘山)の南麓に鎮座する。
 北へ続く参道入口は、佐波川の堤防沿いに走る山陽自動車道・国道2号防府バイパスに接しているが、昔の河道は、西南へ直流せず上流から南方へ折れて海に注いでいたようだ。
 御祭神は『延喜式神名帳』には二座とあり、『玉祖神社略記』によると、一座は三種の神器の一つ八坂瓊曲玉を造られた玉祖命(別名櫛明玉命・羽明玉命・豊玉命・玉屋命)で、玉祖連の祖神にあたり、東北方向、御祖の地「江良」にある玉の岩屋は、亡くなられた命のご神体を納めた所とされる。

 
        拝殿と本殿             本殿裏に祀られる土祭の鎮石

 もう一座は、神主土屋家文書や防長風土注進案には天鏡尊、天日神尊とし、鏡を御霊代として日神と仰奉る天照大神、あるいは玉祖命の母神とする説などがあるという。
 神奈備山である霞山と南ろくには、景行天皇12年の筑紫への行幸の際、八神が祀られ祭器が埋められ、山麓には行宮所と伝わる宮城
[みやしろ]の杜がある。
 また、仲哀天皇・神功皇后の西征の際、南西に位置した寄江の浜に着船し、高田の土で沢田長(さわだのおさ)に祭祀土器を作らせて軍の吉凶を占った(占手神事の起源)という。
 御本殿は三間社流造り。瑞垣内本殿右奥には、俗に腰懸岩と呼ばれ磐境祭祀に繋がる不思議な土祭の鎮石がある。

 
玉の岩屋と厄神の杜

 玉祖神社の東北600m、御祖[ミソ]の地「江良」にある「玉の岩屋」は亡くなられた玉祖命のご神体を納めた所とされる。
 神社の背後の山にあいた岩窟かとも思っていたが、意外にも神社の森を望む江良の民家裏に広がった畑地の一角 (神社の付属地)にあった。すぐ北には神奈備形の霞山がある。

 
    
 玉の岩屋の西にある霞山           玉の岩屋全景(遠くの杜は玉祖神社)

     
 

「玉の岩屋」は、長方形の石積土壇の上に石玉垣を造り、中央に剣形の板状自然石に「玉乃岩屋」左には小さく「玉祖神(社旧)神蹟」と刻んだ石碑が神社を背にして建てられている。
 碑の土台石と玉垣の背後にある礎石のような扁平な大きな自然石3個の存在が目立つ。
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 『周防一宮玉祖神社史料集録』を引用すると、「神主土屋家古記録の言伝の条に、右玉岩窟有、是葬旧地なり、四季奉幣、以崇祭四月上之辰之日、但祭具有伝、此岩窟天正之頃迄は其旧地雖有之、海栄掘祭之、立寺堂之由云伝候。
 風土注進案の古墓之事之条に玉の岩屋 玉屋命大崎の閭に隠れさせ玉ひ、御神体を納め奉るを玉の岩屋といふ。当社の後に三町余隔江良に有之。天正之頃迄歴然たり。今は其形少残れり。依りて近歳石之小祠を立て験とす。四月上辰日祭る。
 祭典社家伝有之候事。周防地誌提要案にも同様の記事を掲げ、廃墜して纔に大石両三個を残せり」と記している。
 寺院の存在を含め、相当の変遷があったようだ。
 玉の岩屋の北約200m、玉泉ダム(玉泉湖温泉)へ通じる県道348号の三叉路北側、ダム湖から流れ下る川との間に、小鳥居ほかと石玉垣内に石祠が祭られている。

     
               
厄神の杜

 ここは「厄神の杜」と呼ばれ、玉祖神社の旧鎮座地と伝えられている。「近歳石之小祠を立て・・」というのはこの小祠のことなのだろう。
 玉の岩屋や厄神の杜を含めた江良の地は、御祖社の御鎮座地、大きな石は建物の礎石であったとも推定されている。
 現玉祖神社地と江良の地を合わせた広い範囲が一連となる玉祖神の祭祀地であったようだ。


 参考『周防一宮玉祖神社史料集録』 所収 「玉祖神社由緒私考」昭和53年 防府市教育委員会



             いこまかんなびの杜