伊 賀 国 と 住 吉 の 世 界
  伊賀国と住吉の世界

 

三重県西部の山間部に位置する伊賀の地域は、伊勢湾に沿った伊勢国とは対照的に、北は甲賀(滋賀県)、東は青山高原のある布引山地、南は室生・赤目山地、西はほぼ名張川に沿う大和高原に接している。『風土記』逸文には、伊賀国はもと伊勢国に属していたと記す。
伊賀は水系から見ると大阪湾に流れ込む淀川〜木津川水系で、笠置山地の奥で名張川が合流し、木津川本流の上流はさらに東〜南部にわたって広大な上野盆地(標高140〜150m)が広がり、幾本もの支流域にも小盆地が広がっている。盆地より平野がふさわしい。
南方の伊賀神戸方面に続く木津川本流(長田川)域は、古代の伊賀国伊賀郡猪田郷にあたり、東西丘陵に挟まれて広い水田が広がる。長田川流域の北から依那具・沖・猪田・下郡地区の地域には、住吉神の世界が広がっている。
流域南東にある小盆地比自岐には前方後円墳の石山古墳や、南方の比土の大溝祭祀遺跡の城之越遺跡(前期)、対岸南西台地上には地域首長の美旗古墳群(前期末〜後期) が存在するなど、流域の開発が早くから行われていたことが分かる。


  



 1. 沖村の住吉神社旧跡

沖の集落は、依那古駅(伊賀鉄道)の東にあり、その東方丘のふもとに引谷山不動寺(真言律宗-貞観年間に智証大師の開創と伝わる)があり、門前の広場東側の壇上に村の氏神であった住吉神社旧跡の碑が立つ。
『三国地誌』
(明治21)を参照すると
「住吉四社」は、文禄2年
(1593)9月に下郡村の住吉神社より勧請したもので、鎮座地を引谷という。不動寺は嘉禎年中(1235-1237)僧興正が引谷山を再造した時、天満神祠を伽藍神と祀ったが天正の兵火に罹り同18年9月に修造した、という。この住吉神社とは猪田神社のこと。
「住吉神社御宮趾」に立つ碑
(高1.9m)には、明治42年に再び下郡の住吉神社(式内の猪田神社)へ合祀されて荒廃した宮跡を憂い大正14年に建碑した村人の熱い思いが刻まれる。

   
         

沖村の住吉神社跡に立てられた石碑の刻文は次のとおり。

(西) 住吉神社御宮趾
(北) 此地者元沖村壹百拾戸之産土神住吉神社宮趾也尋其淵源往
   古文禄二年勧請猪田神社合殿三筒男命造榮宮殿境内五百五
   拾四坪神域森嚴兮以毎年九月廿三日擧行大祭氏子之崇敬甚
   篤矣適於明治四拾貮年有神社合祀之朝議衆議亦和之以其四
   月合祀于延喜式内猪田神社矣爾来雖祭祀一層嚴重神域倍増
(東) 其至宮趾者荒涼其不堪今昔之感乃氏子等相議而保存宮趾建
   一碑於此地矣冀傳千載焉
     社掌従七位勲七等 中岡熊貴撰文
     神部甲太郎書
(南) 大正十四年四月建之 氏子中

(台座南) 一金壹百五拾八円
       寄附者
     陸軍歩兵軍曹勲七等
      高橋由次郎  



  2. 依那具の住吉神社

沖村の住吉神社旧跡から丘陵端に沿って北西に約3km程行くと、猪田道駅(伊賀鉄道)と依那具(いなぐ)集落があり、北側の山際に住吉神社が南を向いて鎮座している。
そこは木津川の右岸、標高約160mの所にあって、集落の南方には広い水田が広がっている。住吉神社の南方400mの所に、古くは「江の大明神」と呼ばれ、味好高彦根命を祀っていた式内依那古
(いなこ)神社の森がある。
『三国地誌』によると、依那具の住吉神社について「住吉祠 末社二ツ山王神・八幡神、諏訪祠 並ニ依那具村
・・・」と記され、末社に山王神と八幡神の二社を記している。
また諏訪祠については、依那古神社の項に、旧社地は高野川原にあったが、洪水により社頭が荒廃し、後に諏訪の社地へ遷し祀った。俗に高野天満宮といった、とあるので、現在の依那古神社の杜の所が諏訪祠のあった所なのだろう。



『伊水温故』には「住吉大明神 依那具村 北の山際 風土記に依那具と有、當社は、底筒男 中筒男 上筒男 此海神三柱を祭、猪田村より勧請、村の氏社」と記されている。
「明細帳」には住吉大明神の由緒は不明としているようだが、下郡村の猪田神社(住吉神)ではなく、猪田村の猪田神社から勧請された村の氏神であることを記している。『三重県神社誌』によると、明治41年に住吉神社の境内社八幡神社と金刀比羅神社のほか、村内の13社を合祀し翌42年には依那古神社や沖村の住吉神社など周辺村々の神社多数を合せて、地域の中心下郡村の猪田神社に合祀されたことになっている。
石積の社壇上に石玉垣・土塀で囲まれて鎮まるやや大きな流造りの本殿は、銅板葺替え、木階下の板床修理がされるなど、現在も祭祀が続けられていることがわかる。本殿左側には三間社流造りの末社祠がある。


  3. 猪田の猪田神社(旧住吉神社)

依那具村の住吉神社から約2.5kmほど南方、長田川(木津川本流)の左岸に広がる水田に突きだした神南備形の住吉山がある。その北東山ろく、猪田村の字波岸代(はがんだい)に猪田神社が北方猪田の里を向いて鎮座している。
これに対し南東500mの山の東側には、同じ名の下郡村の猪田神社が東を向いて鎮座する。共に延喜式神名帳に載せられる「猪田神社」の論社となっている。
周辺は『和名抄』の「猪田郷」にあたっていた。のちには依那具・市部・沖・才良・猪田・上郡・下郡・上神戸・下神戸など流域12ケ邑を合せて依那具郷に含まれたようだ。
『三国地誌』には、延長風土記を引いて、猪田の里は井あることにより里名とする、大旱にも水は尽きることなく忍穂井の通る所、とあり、住吉祠と記して、寛永の初年に南隣の郡村から勧請したこと、熊野本宮祠・熊野新宮祠とあわせて修験小天狗が勧請したと記す。
また『伊水温古』には、住吉の社(猪田村) 本宮二座、住吉・諏訪、延喜式猪田の社を寛永初年に振分けて、小天狗[清蔵という名の修験山伏のこと]が今の地に勧請、猪田一郷の総社、と記す。すなわち古くは住吉社・住吉大明神と呼んでいたもので、猪田神社と改称されたのは明治41年のことである。また「延喜式猪田の社」とは下郡村の猪田神社のことである。
このほか、南西3.4km奥に位置する藏縄手村の古山七郷総社であった吉田
[きつた]神社(住吉三神)も、郡の宮猪田神社からの勧請と記す。吉田神社とは現在の式内社田守神社の場所)である。

   
 

さて、猪田の猪田神社の参道は南北に通じ、境内奥の山際に直交して拝殿と、大永7年
(1537)の棟札のある県内最古で檜皮葺流造の本殿が西を向いて鎮座する。
本殿背後には、石玉垣を巡らせた径24mの古墳時代後期の円墳があり、近年、墳頂から天文3年
(1534)の伊賀津彦大明神御廟前と刻された石灯籠の竿部が発見され復原されている。
本殿が下郡村の猪田神社の古い本殿(棟札とも)を解体移築されたものと見ることもできるが、住吉神の勧請以前から戦乱に耐えながら伊賀津彦を祀る神社がこの地に存在していたと考える方がいいだろう。本殿の右手斜面には磐座とされる日月岩がある。

   

『日本の神々』(白水社)に載せられた古い(猪田)猪田神社本殿白黒写真には、壁面には見事な彩色画が施されていたことが知られるが、今日では改修工事がされたのか、朱・白色に塗り直され古色文様が失われていて残念である。



  4. 蔵縄手の旧吉田神社(田守神社)と住吉神

長田川(木津川本流)沿いの猪田・下郡地区の西〜南方には、小高い丘陵地が広がっている。
猪田・下郡の両住吉(猪田)神社の前に広がる両谷の奥に位置する丘陵地で、『三国地誌』によると、藏縄手・菖蒲池・鍛冶屋のほか東谷・南・安場・湯屋谷を含めた七邑が古山郷と呼ばれていた所である。また、古くから東西・南北(名張街道)の道が交わる交通の要所で、『和名抄』の伊賀郡阿我郷の端にあたっていたとみられる。

 

名張街道の東側、鍛冶屋と接する蔵縄手の一画、現在の古山小学校北側(長平寺浦山の西麓、字奥屋敷)には、西方を向いて式内社の田守神社が鎮座している。
ここには、もと村社吉田
(きつた)神社が祀られ、境内社として田守神社(祭神 別雷槌神)など六社が祀られていたが、明治41年に古山郷全域の諸社境内社(64社)の合祀に伴い、改めて田守神社と単称された。
拝殿の奥の一段高い玉石敷の社壇に、銅板葺替・極彩色(武人・鹿)・流造りの古風な本殿があり、右側には田守神社跡なのか古い摂社の石列区画が残されている。

    
    

田守神社の由緒も興味深いが、住吉神ほかを祭神としていた元の吉田神社を調べてみると、『三国地誌』に、吉田明神祠 相殿 諏訪神・住吉ノ神、蔵縄手村に坐す 古山六郷ともに祭祀に預かる、元和7年
(1621)辛酉4月23日の上梁文に 阿我郡古山荘吉田宮と云々、とあるほか、中古に古山吉田の社にこの神(別雷神)を合せ祀って二ノ宮雷大明神と云う、と記している。
また『伊水温故』には、吉田ノ社、蔵縄手村(古山)、本宮二座、一座は表筒男・中筒男・下筒男・・、一座は諏訪建御名方命なり。郡の宮、猪田の社より勧請、古山七郷の総社、摂社七宇、雷主(是は内侍所卅番神第廿五の神なり)、午頭天王・八幡・熊野権現・恵比須の宮・筒井権現、十一面観音堂あり、宮坊は梅母山吉田寺・・と記している。
『三重県神社誌』には、吉田神社の祭神であった三筒男命・建御名方神について[明細帳]に長和3年
(1014)に同郡下郡村猪田神社より遷座、古記に之有り、との記録を附記し、元和の棟札文面も合せて掲載している。
吉田
(きつた)宮の名称は、宮寺との関係があるのだろうが、住吉・諏訪神が平安時代末期に下郡村猪田神社すなわち下郡の住吉神社から勧請されたと伝える記録を残すことは、伊賀地域における住吉神祭祀の広がりを考える上で見逃せない記事である。

 

ところで、10月29日に行われる田守神社の秋祭りは、江戸時代からの祭礼の形態を伝える貴重な行事として伊賀市の無形民俗文化財に指定されている。
現地説明板によると、祭りは、七つの村が役割を分担して五つの講を組織し、当屋は証として右耳に割箸を1本掛け、神社での神事の後、鬼・旗幟・金幣・金鉾・合祀記念大弊・太鼓台・獅子・花笠・神輿等の行列が、神社西方
(400m)の御旅所まで巡行し、神社への帰還途中にある住吉橋の上に神輿を置き、七度半の使いの儀式が執り行われる。
これはもと、北の菖蒲池村の鎮守住吉社の神を迎えに行った儀式が伝承されているようで、行列が神社へ帰還すると、境内で鳥居を背にして扇を投げる貴箸(たかはし)神事と呼ばれる神事が行われ、獅子神楽も奉納される、という。
『三重県下の特殊神事』昭13 を引用すると、 
「貴箸とは、各講員より毎年一名づゝ順番に之を出し、古来より傳はりし片幣なるもの、下部に箸一膳を付けし物を棒持し、祭例終りし後、左の文語に拍子を付けて唱ふるものなり。
[本日吉日、氏子一般此に相集り、田守神社祭例を行ひ目出度く相済候 依つて天下泰平五穀成就家内安全祝ふて御貴箸]とて、下部に付けたる箸を後へなげるを例とす。
五色の幣とは、当社はもと大字鍛冶屋にありし所、長和年間今の地に遷坐したるなり。此時鍛冶屋より御送り申上しを紀念として作りしものにして、今に至るも尚鍛冶屋より一名出でて之を捧持するものなり。」とある。
また神幸については、「無事御旅所に御幸し給へば、祭主は神饌を供し祝詞を奉し、舞姫は三々九度の神楽を奉じて終る、御立帰りの節は住吉石橋にて暫く休み、時に祭主は扇が芝の松の下に神馬を清めに參り、而して御迎ひすること七度半なり、茲に於て神馬共に御帰りになるものなり。」と記されている。
ところで、菖蒲池村の鎮守であったという住吉社であるが、『三国地誌』には「市場祠 按住吉ノ神・諏訪神・弁天三座を祀る 界外・菖蒲池二村祭祀に預る」、『伊水温故』には「若宮 菖蒲池村(古山) 本宮、住吉・諏訪二座、寛永十年
(1633)蔵縄手本宮祭禮の座論に依り別社を造て勧請」とあり、吉田神社を分社分霊したものであったようだ。
なお、御旅所の石玉垣には、文久三年九月の年号が刻まれていた。


  5. 下郡の猪田神社(住吉神)

猪田の猪田神社の南東500m、住吉山の東側には同名社の猪田神社(下郡)が東を向いて鎮座し神社前を木津川支流の矢田川が北へ流れる。
両社は、延喜式に記載の猪田神社の論社とされるが、広い伊賀郡猪田郷内での住吉神の勧請経過を見ても、下郡の猪田神社がその中心となってきた古社であることに違いない。
近くには、延暦銘の墨書木簡等が出土した下郡遺跡があり、古代伊賀郡の郡衙が置かれた地域と推定されている。
  

当社について『伊水温故』には 猪田社(郡村) 住吉三神、相殿 諏訪明神健御名方命なり、猪川明神 相殿 神体は瀬織津姫で世に亥子神という、亥神は辨才天のことなり、とある。
主神の住吉三神については、中世の准后伊賀記を引いて、郡の天王は三條院の御勧請なり、と記している。三條院となると10世紀末ごろの勧請なのだろう。
これに対し『三国地誌』には、同様の勧請の記事に加えて、社伝に延暦3年
(784)に白鷺が空中を飛びまわり白羽の矢をくわえて松の樹上にとまった時、矢が光を放ち今の社地に止まった、その矢には住吉の神と銘があった、その時以来この地に住吉神を祀って古山・沖・市部・依那具・猪田・郡など17郷共に祭祀にあずかった、また鷺が止まった所を鷺ノ森という、などと記している。(鷺の杜は、神社の東方南側水田の中にある)



一方、相殿の猪川明神について『伊水温故』は、猪ノ大明神 猪川という所(猪田村)の福田の辺りにあった、その昔、洪水で社領の地が川と化したため、猪ノ神を猪田の社 郡の宮の相殿に鎮座させた、その猪ノ明神の垂跡より「井田」郷から「猪田」郷へと改めた、猪ノ神とは瀬織津姫のことであろう、などと記している。
「伊賀國誌草稿」(『三重県神社誌』所収)に、出口延經の「神名帳考証」にあるように、猪田を堰田とし、水分神を祀ると解した方が合理的であろう、・・・猪川ノ神という神が本来の猪田神社であったが、住吉神社に合祀されて以来、祭神が混乱をきたしたのだろう、と記している。
猪田郷で古代から進められてきた土地開発に伴う井溝・灌漑設備の施工と治水に伴い、水の神・治水神としての住吉神の祭祀が公私両面で行われてきた経緯を示すものなのだろう。
神社境内には思いのまま水を制御できる力をもつ神石「満珠石」が小祠内に遺存する。

 

拝殿の左手奥にある小祠。小さな扁額の銘は不明瞭だが「満・・・?」だけ判読できる。祠内には思いのまま水を制御できるパワーを秘めた神石「満珠石」が安置されている。 
『三国地誌』の文章を参照して書きなおすと、
「猪田神社 准后伊賀記にいう、郡之郷郡の天王は、三條院のご勧請、郡の田澤氏はこの社の神人の後である、と。
思うに、郡村に鎮座する住吉神がこれであり、社伝によると、延暦3年
(784)に白鷺が空中を翔り、白羽の矢をくわえて松の樹上に止った時、その矢は光を放って、今の社地に止った。その矢を見ると「住吉の神」と銘があった。それ以来、この地にこの(住吉)神を祀り、古山・沖・市部・依那具・猪田・郡など17郷がともに祭祀に預った。伊賀記の内容については、詳しくはわからないが、鷺が止った所を鷺の森といい、今も尚その場所は残っている。また、満珠石という神石がある。
天正15年
(1587)丁亥9月25日の上梁文には、勧請以來804年目の下遷宮、また慶長9年(1604)甲辰霜月27日の上梁文には、影向より821年、皆造営、猪田之御宮云云、とあり、西ノ宮・諏訪の末社がある。神官は、平保平石田越前守と称す。応仁3年(1469)の受領以来、今に至る、と云う」とあり「満珠石の神石」のことが記されている。
当神社の歴史と由来を語る上で、満珠石の存在は、重要な伝承といえる。


  6. 炊にあった旧住吉神社跡

伊賀の木津川支流域には、まだまだ住吉神の世界が広がっていた。
伊賀上野の街の北で、東方から流れ下る柘植川と、南東の笠取山地の水を集める服部川が、木津川(長田川)へと合流している。
「久禮波之登利須々杵川」を語源とする服部川の中流域、伊賀国一宮である敢國神社(南宮山)の南方、式内須智荒木神社の鎮座する狭い渓谷を奥に入ると、そこには周囲が山丘で囲まれ、古くは伊賀国山田郡の中心地、明治以降は大山田村と呼ばれた東西5km程の広い田畑が流域に広がり、山丘のふもとには炊
(かしき)集落などが点在する。
川名は山田川へ移り、その中心部の旧伊賀街道沿いにあたる平田には、寛弘元年
(1004)に播磨国広峰山から鳥坂神社へ勧請されたという健速須佐之男命に櫛名田毘賣命を主祭神に、多数の周辺神社の神を合祀した旧郷社植木神社が鎮座する。
神々の多数は、明治末期に周辺村々の神社合祀によるものだが、祭神の中には住吉三神が合わせ祭られている。
『三重県神社誌』によると、住吉三神は、神社合祀の際、東方に位置する鳳凰寺(ぼうじ)村の住吉神社、北西方に位置する炊
(かしき)村の住吉神社、南西眞泥(みどろ)村の豊松神社祭神中の住吉神を合祀したことがわかる。
まず、炊村の住吉神社の跡地を紹介する。
炊の集落は、東から上炊・中炊・下炊に分かれているが、中炊の集落センターの奥に五輪塔残缺がある池辺山大蔵寺という小堂があり、少し登った所が住吉神社の跡で、山神の神石を集めて今も鳥居を建てて祀られている。
山は「住吉山」と呼ばれている。


       

『三重県神社誌』によると、住吉三神は、神社合祀の際、東方に位置する鳳凰寺
(ぼうじ)村の住吉神社、北西方に位置する炊(かしき)村の住吉神社、南西眞泥(みどろ)村の豊松神社祭神中の住吉神を合祀したことがわかる。
ではまず、炊村の住吉神社の跡地を紹介する。
炊の集落は、東から上炊・中炊・下炊に分かれているが、中炊の集落センターの奥に五輪塔残缺がある池辺山大蔵寺という小堂があり、少し登った所が住吉神社の跡で、山神の神石を集めて今も鳥居を建てて祀られている。山は「住吉山」と呼ばれている。
また同誌には、古老の言い伝えでは、この社は葉寶大明神と称した。和泉国の住人正次という者は、日ごろ住吉大明神を崇敬し、伊賀の樫木(炊)村へ来てとどまる事3年、ある夜、われは隣国の住吉神である、この里に迎えまつれば水難火難を除こう、との神託があった。
里人に語ると直ちに堺住吉大明神の御分霊を乞い、樫木村に帰って葉寶大明神と同社にして住吉大神と号した。その時、神供用の井を堀り、和泉井戸と名づけた。その井水で日々神饌米を炊いたので炊村と改めた。今に至るまで住吉神社の氏子。今でも和泉垣内・片平宮谷・宮の下の字名が残る。なお、炊井戸は今も残り、和泉垣内は正次の古屋敷の場所という、と「明細帳」の由緒を記している。

いつの時代か不明ながら、葉寶大明神とは、西吉野の波宝神社のことなのだろう。葉寶大明神に住吉勧請神を合わせ祀ったということなのだろうか。


  7. 鳳凰寺にあった旧住吉神社の跡

鳳凰寺の地名は「ぼうじ」と読む。集落は、服部川(山田川)が東から北西へ谷合を抜け出た右岸の丘陵端に位置し、植木神社の東方700mの所にあたり、東からの谷川である高砂川沿いに民家が並ぶ。

      


集落入口の広場の北に丘を背にして大師霊場と刻む石標のある薬師寺があり、右手奥には鳳凰寺公民館が隣接する。
薬師寺の山号は「轟山」といい、所在地も旧鳳凰寺村字轟となっている。
『三国地誌』に「里俗相伝ふ、聖武帝の創建にして、帝こゝに行幸あり、乃ち北八大寺の一なりと云、古伽藍の礎石今尚存す」とあり、本堂の裏には「舊跡鳳凰寺遺趾塔之心礎」を刻む標石の建つ礎石が残る。
境内の碑文
(昭39)では「・・日本書紀に記されている天智天皇の采女宅子は山田郡司の女で、壬申の乱後、郷里に帰り我が子弘文天皇の冥福を祈って建立せられたと考えられ、当時の伽藍が相当の規模であったことは今に残された礎石によって想像される、鳳凰寺はその後幾変遷して今より三百八十年前、天正九年伊賀の乱に堂宇悉く兵火に罹り慶長三年僧清存法印が当山を中興して轟山薬師寺と改号、鳳凰寺は郷名として今に残ったと傳えられている」と刻んでいる。

 
   

集落の奥の谷合には、鳴塚という全長37mの前方後円墳(横穴式石室/6世紀前半か)がある。昔から「天皇の御譲位がある度に塚が鳴る」ということから「鳴塚」と言い伝えられ、鳴塚社が祀られていた。被葬者は、一帯の開発を行った山田郡司の墳墓あるいは宅子または大友皇子の陵墓との伝承がある。
 ところで明治の合祀で移転した住吉神社跡であるが、薬師寺のすぐ東側に「住吉社」「慶応元年」を刻む燈籠1基がかろうじて残されており、南側の「ふるさと とどろき館」に展示された明治7年の鳳凰寺村絵図を見ると間違いなく公民館のある場所(字轟349番地)であったことが確認できた。

 
   

『三重県神社誌』を参照すると、勧請年月不詳、言い伝えによると、本社は古く竹原郷城内村に鎮座し、山田郡司某の氏神であった。郡司の女は名を宅子姫といい、天智天皇の后となって伊賀采女と称した。二男一女御降誕され、一女は阿雅皇女といわれた。皇女は、氏神の境内に住まれたので、その場所を御所の内という、皇女はつねにこの神を崇敬された、・・・和銅2年
(709)年5月26日に崩御され、杉坂に葬られたという。・・・のち天正の兵火で殿舎などや記録一切を焼失したが、慶長年中に小社が再興され、産土神として崇敬された、などと記載されている。
鳳凰寺にあった寺跡や住吉神社は、伝承によると伊賀国山田郡の郡司、天智天皇の妃となった女の宅子姫さらに大友皇子ほか一族の本拠地となっていた。
『三国地誌』に、共に鳳凰寺村にあったという宅子の父郡司某の屋敷跡・大友王城についての記載があり、以下そのまま紹介する。
  宅子父郡司某第址
永閑記引國分日 山田郡尓御所の内とて大なるかまへ侍る こゝはむかし此國より采女をたてまつりける 此國の郡司の娘成けるに宅子姫と云あり 天智帝尓つかへ奉りて御子三かた於ハします 一かたハ大友皇子 一かたハ阿閇皇子 一かたハ阿雅皇子(女?)と申ける 伊賀采女といひしも此事也 郡司程なく徳つきて 後にハいみしき長者のやう尓なりて 此國尓子孫も猶すゑずゑまても侍ると云
按 鳳凰寺村ニアリ
  大友王城
准后伊賀記日 城村之内山田郡にあり 大友御在城之所也 城村権現大友をまつるところなり
按 亦鳳凰寺村にあり 東西に城墟ありて 其山につゝき住吉の社地あり 又其上に経塚山あり 其山の麓を呼て轟と云 是至尊の御車の通ひし處なりと」
現地、鳳凰寺跡・住吉神社跡の背後の山上一帯に轟城跡と呼ばれる城跡の遺跡が残っている。城の年代は不明であるが、どうも中世以降の城跡のようである。古代の郡衙や郡司の居館・氏寺などは山ろくにあったに違いない。

  





  
8. 眞泥の旧豊松神社と住吉三神

伊賀の住吉神探訪は、もと眞泥村にあった豊松神社跡の紹介を最後としよう。
先に紹介した鳳凰寺集落の南西、服部川(山田川)の左岸に連なる眞泥山の山裾に眞泥集落がある。「眞泥」と書いて「みどろ」と読む。大和の古瀬谷の「水泥」、京都は上賀茂の「深泥
(みどろ)池」ほか、同じ水に関わる語源なのだろう。
豊松神社跡は、眞泥集落の西端(字寺垣内)山裾に、別当寺であった豊松山報恩寺を南側にして同じ境内地にある。

 

 集落を向いた石階奥の社壇面には、合祀の経過を刻んだ「元村社豊松神社跡」の標石が建てられ、現在も覆屋内に神社が祀られている。
神社は、明治41年に鳥坂神社に合祀(山田神社と改称して今の植木神社に合祀)された。(炊村と鳳凰寺村の住吉神社も同じ合祀経過)
祭神は、『伊水温故』には本宮三座として勝手明神・八幡大神・子守明神(住吉明神)とし、『三重県神社誌』には、明細帳記録として古老の伝えでは、当社は朱雀天皇の時代に高松某と申すものが、応神天皇を勧請して高松大明神といったが、その後、字桜谷という所に大和の吉野から子守・勝手の両社を遷座合祀して、豊松大明神と称した、・・・と載せる。

   

また、『伊賀國誌草稿』には、同じ高松某による勧請経過のほか、境内605坪、誉田別尊及び天忍穂耳尊、表筒男命・中筒男命・底筒男命を祭る、祭日は4月16日・10月16日、・・・明治5年壬申正月村社に列す、氏子85戸、などと記されている。

 [2017.9.18]



この「伊賀国と住吉の世界」は、2013年1〜6月に「いこまかんなびの杜掲示板」に紹介しました探訪記をまとめて修正・再掲したものです。


           いこまかんなびの杜