生 駒 山 と 暗 峠 の 由 来 に つ い て 
 

 
 生駒山と南側に位置する鞍部 暗峠 (くらがりとうげ) の由来を紹介します。



  生駒山の由来

生駒山が記録に現われるのは、神武天皇の東征伝承の中のよく知られる一節です。
「三月丁卯朔丙子 遡流而上 径至河内国草香邑青雲白肩之津 夏四月丙申朔甲辰 皇師勒兵歩趣龍田 而其路狭嶮 人不得並行 乃還更欲東踰膽駒山 而入中州 時長髄彦・・・・・・・・」 『日本書紀』
大和へ入る上での難所として「膽駒山」が記されています。当時膽駒山一帯は、既に天磐船で天下った天神の子櫛玉饒速日命の一族(物部氏)の支配するところであったという。
時代は下って、大化改新の前夜にあたる皇極天皇2年
(643)、蘇我入鹿が皇位継承問題を一拠に解決しょうと斑鳩の山背大兄王の宮を襲撃した一節中にも次のように登場します。
「(十一月)山背大兄、仍取馬骨投置内寝 遂率其妃并子弟等 得間逃出 隠膽駒山(略)入鹿由是止行、遣軍将等 求於膽駒山 竟不能覓」 『日本書紀』
山背大兄王らは「膽駒山」中にのがれています。
また、古代において神の山であったことを記し、天平3年
(731)の年紀をもつ『住吉大社神代記』の「膽駒神南備山本記」には次のように登場します。
重複を避けて一部のみ引用します。
膽駒神南備山本記
四至 東限 膽駒川・龍田公田
   南限 賀志支利坂 山門川 白木坂 恵比須墓
   西限 母木里公田 鳥坂至
   北限 饒速日山
     (この間省略・・・)
自長柄泊登膽駒嶺賜 宣賜 斎祀我山本實 (この間省略・・) 為後代験 納置膽駒山長屋墓石船 白木坂三枝墓木船矣 ・・
(以後省略、HP本文を参照して下さい)
上の記録は、実に神秘な記録で、「膽駒嶺」「膽駒山」と登場します。膽駒山一帯が仲哀天皇(神功皇后)が熊襲と三韓を平定して帰還後、住吉大神に寄進され、神領とされた、と記しています。
さらに、古代から奈良時代中期までの和歌集である『万葉集』には、生駒山が比較的多く詠まれています。
  遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思當所誦詠之古謌
 夕さればひぐらし来鳴く伊故麻山越えてぞあがくる妹が目を欲り
  右一首 秦 間満
 妹に逢わずあらば術無み石根ふむ伊故麻乃山を越えてぞあが来る
  右一首 暫還私家陳思
上の両歌は、天平8年
(736)のものです。また、天平16年(744)帝都が難波宮へ移され、奈良の大宮人が平城の都を懐かしみ、故京の荒れゆく様を悲しんで詠んだ長歌には次のように登場します。
 やすみしし 吾が大君の 高敷かす・・・・・・・(中略)・・・・秋さり来れば射駒山 飛火賀嵬に萩の枝をしがらみ散らし・・・・・・・(後略)

上の歌に登場する射駒山飛火賀嵬(とびひがたけ)は『日本後紀』(延暦16年-798撰)の元明天皇和銅5年
(712)正月の条に、「廃河内国高安烽 始置高見烽及大和国春日烽 以通平城也」とある高見烽で、和銅3年(710)3月、都が飛鳥の藤原京から平城京に遷されたのに伴って高安烽を廃し、改めて射駒山の山中、暗峠の北側に置かれ、平安遷都に伴って、桓武天皇の延暦15年(796)に牡山烽火が置かれる頃までの80余年間置かれていたものと考えられています。
『万葉集』には、この他
  二月十四日常陸国部領防火使大目正七位上息長真人国島進歌 太田部三成
 難波とを 漕ぎ出てゝ見れば神さふる 伊駒高ねに雲そたなぴく
  詠黄葉
 妹がりと 馬に鞍置きて射駒山 打越え来れば紅葉散りつつ 
など、『万葉集』には「射駒山」「伊駒山」「伊故麻山」などと現われます。
また、聖武天皇の代、左大臣の地位にあった長屋王(天武天皇の孫)が、天平元年(729)2月、密告により自経させられた時の話として、「甲戌遣使葬長屋王吉備内親王屍於生馬山」とあり、「生馬山」が登場します。 
この他、9世紀末から10世紀初頭に成立した『伊勢物語』中に、
「河内の国生駒の山を見れば、曇りみ晴れみ立ちゐる雲やます・・・・・・」のほか、
『後拾遺和歌集』(応徳三年-1086年撰)
『新勅撰和歌集』(貞永元年-1232年撰)
『続後撰和歌集』(建長3年-1251年撰)
『続古今和歌集』(文永2年-1265年撰)
『続後拾遺和歌集』(正中2年〜嘉暦元年撰)
『新千載和歌集』(正平14年-1259年撰)
『新後拾遺和歌集』(元中元年-1284年撰)など、
平安時代以降の物語、歌集中に生駒山あるいは生駒の嶽の様子が詠まれています。
また、南北朝の戦記物語の『太平記』にも、四條縄手合戦之事付 上山討死事の節 正平3年
(1348)に、
「佐々木佐渡判官入道ハ、二千余騎ニテ、伊駒ノ南ノ山二打上り、面二畳楯五百帖突並べ、足軽ノ射手八百人馬ヨリヲロシテ、打テ上ル敵アラバ・・・・・・」と記され、伊駒山上での陣形の有様を記しています。



十分に記録を拾ったわけではありませんが、現在、我々が「生駒山」と呼ぷ山並みは、神武天皇東征伝承は別としても、少くとも記紀撰上前の7世紀中頃より古い時代から「いこまやま」と呼ばれてきたものと考えられます。
また、山名の用字も膽駒山−射駒山・伊駒山・伊故麻山・生馬山−生駒山への変遷が考えられるところです。
しかし、いづれにしても、その山名の中心は「駒」であり、変るところのないものでした。
この「駒」に関連するものとして、文永6年
(1269)に成った仙覚『万葉集註釈』(仙覚抄ともいう)には、次のように記しています。
「昔百済国より馬をこの国へ献りたり、それを秦氏の先祖よくのれりけり、さて帝これをいみしきものにせさせ給ひて、うまと云こと定り始て、いこま山に放てかわしめ玉ひけり」
『古事記』応神天皇の段には、
「亦百済国主照古王、以牡馬壹疋牝馬壹疋、付阿知吉師以貢上、此阿知吉師者 阿直史等之祖」
とあることから、『大日本地名辞書』(吉田東吾・明治33年)も「其時の放飼の故事によりて駒山の名起る歟、伊駒の伊は発語を冠らせたる者に似たり」と推論しています。
つまり、生駒の山の名のおこりは、駒すなわち馬と関連するものであったというものです。
『古事記』には、「いこまの山」に馬を放ったとは記されておらず、『仙覚抄』の注釈は、いかなる所に根拠を置くものか判りませんが、いづれにせよ大きな手掛りとなりうるものです。
後世のものですが『河内鑑名所記』(延宝7年
(1679)三田浄久著)にも「生駒山いつの此にかありけん、唐土より和国へ駒を渡されける、河内山ニはなたしめ給へハ、駒共いさミきをふて、わつらハしき駒も、生のひてめでたけれハとて、生駒山と名付給ふと申伝へ待る」とし、駒=馬の放飼と山名の誕生伝承を記しています。
たしかに、生駒山を境とする河内・大和の地方には、応神王朝以来、次々と朝鮮半島から進歩的渡来氏族が来朝、居住しました。西文・東漢氏族です。
とくに生駒山の西麓に位置する讃良郡・河内郡の他を中心にして、娑羅々馬飼部、菟野馬飼部の両馬飼集団や河内馬飼部の集団が集住して、西文氏の配下で軍事用を中心とした良馬の量産と飼育に従事していたことでしょう。

生駒の山並みは、北は淀川、南は大和川ではさまれる形で、東西4〜5km、南北35kmの細長く続く山地で、その地質学的な位置づけは別として、西には、渡来系氏族が数多く分布し、高い生産力を秘めて大陸への門戸的役割を果した広大な河内の入江〜摂津難波の地域を擁し、東には生駒川〜龍田川の生駒平群谷、矢田丘陵をはさみ、古代国家の中枢大和盆地を抱えています。
その山容は、標高642mの生駒山頂付近は蓋形をなし、その北側につづく嶺は平均320mの北嶺をなし、南側は455mの鞍部「暗峠」で高さを減じ、536mの小嶺(大原山)をはさみ、鳴川峠から平均450〜430mに続く南嶺が高安山をへて、亀の瀬へその高さを減じています。
河内平野あるいは古代において存在したという河内の入江を想像して見た生駒山の西面観は、実に単純で柔和な山容である一方、荘厳さを秘めていて、山ろく一帯に配された馬飼部の集団が、国家的に重要な軍事目的の下で、多くの馬=駒の群れを放牧飼育し、その山容も相まって駒の群らがる山、あるいは駒形の山として、古代人の意識の中にその山名を生むこととなったものでしょう。




  暗 峠 の 由 来

      
                暗 峠 ( 東より )

さて、生駒山にかかわる問題として、生駒山頂の南側に位置し、松尾芭蕉の「くらがり」の句で有名な「暗峠」があります。この峠の名は「くらがり峠」と読みます。
この峠を越え、摂津難波〜河内〜大和奈良を東西にほぼ直線短距離で結ぶ道が暗越道で、近世以降、脇往環として旅客、貨物の運送で栄えた道として知られていますが、平地部の道自体の移動、変遷を考慮しても、生駒山を越える上での重要な峠道として、この暗越の道が古くから存在してきたものと思われます。
神武天皇の東征の際の孔舎衛坂、あるいは雄略天皇の山越え道として登場する日下の直越の道がこの暗越の道であるかどうかの議論は別にして、この「暗峠」の由来については種々の説があります。
『河内名所図会』(享和元年(1801)、秋里籬島)には「椋ケ嶺峠」と書き、「世に暗峠という者非ならん・・・・中略・・・・・・生駒の山脈続て小椋山という。故尓椋ケ根の名あり、一説尓は此山乃松杉大ひ尓繁茂し、暗かりぬればかく名付くともいう」としています。
また、近年の研究では「くらがり峠とは普通には暗がり峠であって、樹林の鬱蒼と繁茂した昼なお暗い山越えの道であると解釈されて居るが、或はその「暗がり」の言葉の起源は、「鞍借り」とか、「鞍換へ」とかから来るのではないだろうか」とする説(中村直勝「枚岡の語らい」『郷土誌ひらおか』第1号 昭和33年)、あるいは「本来"椋ケ嶺峠"といったもの(秋里離島著『河内名所図会』)で、その訛音がクラガリ(「闇上り」とも「暗」とも書く)とみられる」とする説があります。(西宮一民「文学」『枚岡市史』第二巻 昭和40年)

 この他、伝説として、「五世紀の初め頃、神功皇后三韓征伐に当り 、朝の鶏鳴を合図として生駒町西畑を出発したところ、あまりにも 鶏が早鳴きしたために峠へ到着しても夜が明けずに暗かった、ある いは8世紀の中頃、道鏡がこの峠で和気清麿を暗殺しょうとした時に 、俄かに雷雨があって一面真暗となりその目的が果せなかった」な どがあったという。
(河内郷土研究会「史跡名所めぐり・暗峠(闇峠)」『郷土史ひら おか』第2号 昭和33年)

この「くらがり峠」についての記録類はあまりなく、応仁、文明の大乱によって派生した畠山義就と河内国若江城に拠を構えた遊佐長直との戦いである文明9年
(1477)9月27日の合戦を記した『大乗院寺社雑事記』に「生馬鬼取之トヲリハ」と記す所は、くらがり峠の道筋と思われますが、下って大坂冬の陣の直前の慶長19年10月25日、徳川方の藤堂高虎らの一軍の行動を記した『藤原忠勤録』には「廿五日、郡山より河州国府へ御打出、自和州河内へ出ル道筋クラカリ越、亀瀬越、竜田越其外所々、此出口有御吟味處ニ」とあります。
同じく『譜牒余録』にも「大和暗峠」「大和越闇加利峠」と登場します。
この他、『河内鑑名所記』(廷宝7年
(1692)三田浄久著)や『世間胸算用』元禄5年(1692)など文学作品等に「くらがり峠」が登場しますが、その名称の由来については参考となりません。

 
  ま と め

以上の諸説、伝説、記録をみる限り、峠の名は「くらがり」「くらがね」の名で呼ばれ、ほとんどが、峠の様子、状況が暗いということに拠っています。
『名所図会』では、当時の俗称「暗峠」を否定し「椋ケ嶺峠」と説明していますが、同時に「暗がり」説も捨てていません。
「くらがり」の呼称については、江戸時代以前の相当古いところから呼ばれてきたと思われますが、「くらがり」の語源は一体何であったのでしょうか。
暗がりの起源は、「鞍借り」「鞍換へ」とする中村直勝氏の見解は、暗がりにこだわらない意見として傾聴すべきものです。
しかし、これまで述べてきましたように、生駒山は、古代において、駒=馬の山と考えられていたと判断されます。
生駒山頂の南側、小嶺との間に位置する鞍部「暗峠」付近は、まさに馬の鞍=くらであり、この鞍上り=くらあがりの道、あるいは峠の呼び名が、長い長い歴史の変遷の中で、本来の意味を失い、くらがり=暗(闇)と呼称されるようになったものと考えられます。

 
河内ふるさと文化誌-わかくす』 通巻第11号 昭和62年 拙稿 「駒と鞍」 より


           いこまかんなびの杜