生駒(日下)山中にある イノラムキ古墳


    
                                   石室入口部


 イノラムキ古墳 

 イノラムキ古墳は、生駒山の西側山腹、近鉄奈良線石切駅の北方尾根上、標高360mを測る尾根の突端部(日下町8丁目)に所在している。
 周辺では、これほど高所の山腹に築造された古墳は、他には存在しない。
 石切駅の北側には、旧生駒トンネルの口と旧孔舎衛坂駅の跡があるが、北側の谷に沿った「府民の森」の日下園地へ通じる「くさかハイキングコース」の山道を約20分ほど登りきると、分岐点へとたどり着く。
 分岐の右手は、こぶしの谷を経て管理道に通じるハイキング道が続くが、分岐点をまっすぐ細い小道を行き、北側のゆるやかな尾根筋に移って下り、高圧線の鉄塔の下を抜けてしばらく下って行くと、尾根の突端へ出て、その手前左側の南斜面に回り込むとイノラムキ古墳がある。


 
   尾根筋から古墳を見下ろす         石室入口部から西方向

 古墳の存在については、山に入ることが多かった日下の地元民には古くから知られていたようで、古墳から出土した須恵器高杯の上部と土師器片が某宅に所蔵されていて、旧枚岡市の郷土史家では、古墳の存在が注目されていたようだ。
 この古墳については、昭和34年3月に旧枚岡市教育委員会から発行された『枚岡の文化財第1集 古墳』に初めて紹介された。続いて『枚岡市史』には実測図など詳しい内容が紹介されている。
 さて、この古墳は比較的整美化が進んだ段階の石積み手法を用いた無袖式の横穴式石室で、南方へ開口して南〜西方の眼下には生駒山山麓〜河内平野が広がっている。
 墳丘は、上部の土が流出しているが、南面する石室入口部から墳丘西辺にかけた墳丘上段には、ほぼ直角に平板な立石などを立て並べた外護列石が施されていて、西側の小径沿いには更に下段の石列が確認でき、墳丘東側にも崩れてはいるが直線的な列石が遺存していて、南北約18m、東西約15mを測るめずらしい方墳であったことが分かる。

  
   石室入口西側の上段角部分の石   墳丘西側の上段石積と下段石列(右)

     
            イノラムキ古墳実測図『枚岡市史』本編の図に加筆

 尾根の南斜面を削平整地して石室を構築するための土壇を含めると、墳丘は3段築成となる。
 現在、墳丘の上には天井石が露出し、その背後の尾根筋を背面カットした部分には、人偽的に配置したかにも見える大きな自然石の立石など数個の石があり、意図的に配置されたかのような状態で古墳との関連が注目される。
 横穴式石室の規模としては、幅1.9m、長さ6.35m、高さ1.9mを測る。当初はわずかな袖を持つ片袖式とみられていた。西側壁の設置ラインは真っ直ぐであるが、奥壁から三石目で上に向かって壁は少し張り出して積まれている。
 現在では無袖式と考えられている。

     
                 石 室 内 の 様 子

      側壁と奥壁の様子        石室入口(天井石が採石で崩壊している) 

 奥壁の様子(隙間なく積まれている)    石室実測図日本横穴式石室の系譜より

       東壁の二つの穴               西壁の穴

 使用されている石材は、付近の花崗岩の自然石を使用したもので、両側壁の下段には縦長の大きな石材を並べ、その上の天井石との間には一部割石にした大小横長の石材をはめ、石材同士の隙間を出来るだけ少なくして内面の整美化を図っている。奥より二石目の天井石の内面は、ひじょうに平滑で、石の表面を小叩き加工が施されているようにも見える。
 入口の天井石とそれを支える東側壁石は、後世の採石によって崩壊し、斜めに落下しているが、初めてこの古墳に南の谷から直登した際、谷底に石室の軒先部に載せられていたと見られる長い石材が転がり落されているのを確認しており、石室入口には天井石がもう一石載っていた可能性がある。石室入口天井石には屋根状の割石を用いるなど、整美化の進んだ石積加工と手法が見られる。
 注目したいのは、入口部の東壁には、大きな四角い凹み穴と小さな穴があけられ、西壁の天井石近くの石材にも小さな丸い穴があけられていて、もと石室を閉じる扉状の設備があったことを示している。
 古墳時代終末期の7世紀中ごろの築造と考えられる。

 古墳の名称については、土地の呼び名を付けたものであるが意味は不明で、南側の道は東方の生駒山北嶺の「ボタンザキ」あるいは「草香山」「饒速日山」「北嶺の巨石遺構」に通じる古い道にあたるところから、草香山の祭祀にも関わった古代氏族日下連 くさかのむらじ 一族の墓である可能性が高いとみられる。

古墳は他にもあり「日下山古墳群」と命名

 日下の山腹、尾根上にあるイノラムキ古墳であるが、昭和30年代の発見以来、ずっと尾根の突端部分を造成して築造された古墳時代終末期の単独古墳と考えてきた。
 
平成8年(1996)に東大阪市教員委員会から発行された『わが街再発見 東大阪市の古墳』の編集に関わっていたが、当時は単独墳との報告をしている。
 
その後の再訪の際(2003年)に、途中にある尾根の突出部、鉄塔のすぐ西側の部分が除草された直後であったことが幸いし、石室は開口していないが、古墳とみられる方形二段の墳丘(一辺15m程)の存在と、西側斜面の奥には数mにわたって自然石を1〜2段積みした外護積石の存在を確認できた(2号墳)。


 高圧鉄塔下の墳丘(2号墳)南東より           同  西より
      
              墳丘の西北部分の石積み

 また、上方の分岐点から西に派生した小尾根筋上には、横穴式石室の天井石(高さ1.8m、奥行2.6m)と、それを支える側壁石らしい巨石が露出して、南の谷を向いて存在していて、これも横穴式石室を内部主体とする古墳の一基と考えている。
 
この他にも、鉄塔までのやや緩やかな斜面には、大きな自然石が露出したり、破壊された墳丘の一部ではないかとみられるマウンド状の部分が確認(2021年)でき、尾根の周辺には合計10基ほどから構成される古墳群が存在していたことが考えられる。

    
                 
3号墳の小尾根筋を北側から望む

    分岐点近くの古墳(3号墳)南より         同 南西より
  
              
イノラムキ古墳と周辺の古墳らしい所

 
最も東側に位置する尾根上の円丘部は、盟主墳の可能性が考えられるが、現在のところ詳細は不明である。今後の調査が望まれる。

 
これらの古墳をまとめて、新たに「日下山古墳群」と命名することにしたい。
 
イノラムキ古墳については、昭和40年の夏に、古墳の上にテントを張って1泊の墳丘測量を行ったが、その時、初めて大型の外護列石を伴う方墳であることが確認できたのが懐かしい。改めて新しい調査技術により行政の確認調査の実施などが望まれるところである。


  [参考文献]
 『枚岡の文化財第1集 古墳』昭和34年3月 枚岡市教育委員会
 『枚岡市史 第3巻史料編』昭和41年3月 枚岡市役所
 『枚岡市史 第1巻本編』昭和42年1月 枚岡市役所
  藤井直正・都出比呂志・河内歴史研究グループ『原始古代の枚岡 第1部各説』昭和41年
 
土生田純之『日本横穴式石室の系譜』1991 学生社
 
『-わが街再発見- 東大阪市の古墳』平成8年3月 東大阪市教育委員会


 2005.1    いこまかんなび 原田 修 作成
 
2023.8.30 全面更新





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