石巻の大島神社(住吉神社)と海神の世界



 
石巻の大島神社(住吉神社)と海神の世界

 宮城県の北東部、牡鹿(おしか)半島の西に広がる石巻湾へと流れ込む旧北上川の右岸河口部、石巻市街地の一画に住吉三神と速須佐之雄尊を祀る大島神社がある。
 大島神社は、旧北上川の西岸に接した住吉山・立烏帽子山・愛宕山などと呼ばれる南北約50m、東西約30mを測る標高9m程の小山の裾部に鎮座し、石巻市住吉町1-3-1に位置する。

 
         
  大島神社は旧北上川のすぐ西側に位置する

 地図上では住吉公園と表示されている中に、燈籠・歌碑・板碑のほか神宮寺の名残と思われる鐘楼などがあるが、西寄りの参道手前から「大嶋神社」と刻んだ扁額を付けた石鳥居、入母屋造で「石巻揔鎮守」の扁額を掲げた拝殿、その背後の覆屋内に御本殿が、南流する旧北上川の方向を向いて鎮座している。
 『石巻の歴史』第4(平成元年)によると、覆屋内には、小さな同様式の一間社流造本殿2
(大島神社・八雲神社)が祀られていて、棟札から明治18年の建築とされている。
 拝殿の右手には、奥まった位置に朱色の八幡神社が祀られ、手前には石鳥居の奥の壇上に「住吉神社別当 熊子坊供養碑」(大正9)と、覆屋内に稲荷神社と天満宮、虚空蔵尊の小祠を祀っている。
 背後の住吉山へは、南・北から石段が通じ、頂上部には壇上に小さな石塔状の愛宕社を祀っている。

    
                 大島神社の境内

 
        背後の住吉山              拝殿と背後の覆屋
    
                           拝 殿
 
       拝殿の扁額「石巻揔鎮守」          拝殿右手の末社
 

        拝殿右手より                社前の様子

 一方、参道入口の南側、旧北上川の護岸からすぐの河中には、細長い舟形の石積みで護られた御島(おしま)があり、その北端右手の河中に、石潭・石巻の地名の発祥となった有名な「烏帽子石」あるいは「巻石」と呼ばれる霊石が頭を出している。御島は「住吉嶋」とも呼ばれたようである。
 探訪したのは、東日本大震災の後であり、大津波による被害が痛々しい。

   
                御島の様子(南西から)


       御島(右は大島神社)              烏帽子石

 神社は、『延喜式』神名帳に陸奥国牡鹿郡の神社として挙げられる「零羊崎神社(ひつじざき)・香取伊豆乃御子(かとりいづのみこ)神社・伊去波夜和気命(いさはやわけのみこと)神社・曾波(そは)神社・拝幣志(はへし)神社・鳥屋神社・鹿島御兒神社・大島神社・久集比奈(くすひな)神社・計仙麻(けせま)神社」十座の内の「大島神社」に比定されている。
 『石巻市史』(昭和31)の大島神社の説明中に載せられている、松本家に伝わる「住吉大明神之事」という古文書によると、旧北上川対岸の牧山南ろく、鹿妻に住居していた四代目松本但馬兼光は、寛永11(1613)に石巻中町へ引越した際に、鹿妻の伊原津に祀っていた住吉神を石巻住吉町の大島神社へと移し祀ったといい、この時から大島神社は、住吉神社と呼称され始められたかのように捉えられているがはっきりしない所があり、伊原津の住吉神社と大島
(住吉)神社との関係については、最後に改めてふれることにしたい。

 さて、栗田寛『神祇志料』(明治20)によると、
「大島神社 今石巻村にあり、住吉明神と云ふ、陸奥式社考、封内風土記、巡拝旧祠記、清和天皇貞観五年十月戊子、勲九等飯大島神に從五位下を授く、盖此神也。三代実録 凡其祭三月十五日を用ふ。陸奥式社考
とあり、この神社は、『三代実録』(延喜元年[901])に、平安時代の初めの貞観5(863)に從五位下の社格を授かった「飯大島神」であったと考えられている。
 ところで、牡鹿郡という地域であるが、『大日本地名辞書』(明治40)によると、
「今、桃生郡の南東なる、北上川の海口左右の地、及び遠島(牡鹿半島とも呼ばれる)を以て、一郡境とす。・・・・・・・・・・。牡鹿は、和名抄、乎志加と注し、三郷に分つ。・・・牡鹿の名は、天平九年(*737)、城柵として初めて見ゆ。後、建てて郡と爲る、天平勝宝五年(*753)以前に在り。尋いて、其北偏に、桃生城を起し、桃生郡離立す。」、「碧河郷(ヲカハ) 和名抄、牡鹿郡碧河郷。〇今、石巻四近にあたり、・・・」
と記されるように、現在の石巻湾沿いの石巻市南半・牡鹿半島・女川の地域にあたり、さらに石巻の町周辺は、牡鹿郡碧河郷と呼ばれる地域であったようである。
 牡鹿の名が初めて登場する牡鹿の柵は、『続日本紀』天平9(737)に日下部宿禰大麻呂が守護した柵の名として登場し、大島神社の祭祀は日下部氏との関りを考えてもいいのかも知れない。

 大島神社が『三代実録』の「飯大島神」と考えられていることに関し、さらに『大日本地名辞書』には、「飯石大島神社(いびしおほしま)」として興味深い話が載せられて
(私訳)いる。

 考るに、御島住吉祠の水辺の河中には水面に突き出た霊石がある。石潭(いしのまき)の名は、ここから生まれたという。そうだとすると、飯大島神とは、飯の字の下にあった石の字が脱落した名前であって、本来は「飯石」であったのだろう。霊石を、古名「飯石(いびし)」と呼んでいた例は、『出雲風土記』の中に「飯石郡の飯石郷に伊毘志都幣命の神が鎮座する、だから飯石(いびし)という」と載せられた例がある。・・・・・。この地、石巻の霊石を「烏帽子」と呼ぶのは、間違いなく「イビシ」が訛った言葉であることは明らかであろう。・・・・・。

と記していて、飯大島神は、もと飯石大島神であった、と指摘する。
 大島神社境内の説明板には、「明治7(1874)4月村社に列し、住吉神社を排し、大嶋神社または飯石(いびし)大島神社と称します。」として、飯石大島神社の説を採り入れている。

 『増訂 石巻案内』(明治44)には、住吉神社(大島神社)として次のような案内が載せられている。長文だがそのまま紹介する。
住吉神社 
 住吉町の南、川に臨みて一丘陵あり、元、立烏帽子山と呼べり、大島神社の旧地とす。現在の社は、宝暦三年
(*1753)の建築にかゝるものにして、八雲神社を合祀す、左に菅神、頂に愛宕の両社あり。
 境内は、老樹枝を交へ梢をわたる川風いと静なり、探梅納涼及観月に名あり。社前に川村孫兵衛紀功の碑あり、此地往古袖の渡の地にして、また古渡山萬福寺のありし所なり。
 烏帽子石
 住吉社前、北上川滔々南に流る、其右岸近く御島あり、これ、古の眞野川の遺蹟にして、老松蟠屈古藤懸垂し、花時には社頭一層の風光を添ふ。島端碧潭(*へきたん)中に一巨石の現はるあり、これ即ち折烏帽子(おりえぼし)石にして、北上開鑿前より海湾の渦中に現はれたりしもの、高六尺南北三尺東西九尺、其象眞に烏帽子に似たり、往古、迫、眞野の諸水、逆流の海水と回旋して渦紋をなせるが故に巻石ともいふ。石巻の稱、盖此に起ると。付近柳橋畔、又白帆を数ふべく、愛宕社頭、展望を擅にすべき勝景、尚少からず。
 袖の渡
 住吉社東の地は、往昔、眞野(まの)、迫(はざま)両川の合流地點にして、湊、稲井への渡船場なり。口碑に日ふ、九郎判官義経東下りの際、鎧の袖を舟子に與へて、其の勞に酬いたりと、よりて袖の渡といふと。」
と記している。

 これらにより、大島神社のご祭神の内、速須佐之雄尊は、合祀された八雲神社の祭神であることが解るほか、神宮寺の一寺が「古渡山萬福寺」であったことも判るが、下記の『封内風土記』では「古渡山廣深寺」となっている。また、社前の河中にある御島の場所は、旧北上川の対岸湊村ほかへの渡船場、「袖の渡」と呼ばれる水上交通の渡し場であったことも解る。

 さらに、仙台藩の儒学者田辺希文が著した『封内風土記』
[明和9(1772)]を見ると、詳しい古い時代の様子を知ることができる。少し長くなるが、漢文であるため要点のみ私訳して紹介することにしたい。

 石巻村。戸数はおよそ333戸。市店があり宿駅がある。住吉と呼ばれる地域がある。そこに市店がある。・・・・・・。
 大島神社 地元の人は、今は住吉神社と呼ぶ。そのためその地を住吉と呼ぶ。社はいつ勧請されたかは不明である。伝えでは、石巻の鎮守で鎮座して千年以上といわれ、「延喜式神名帳」に載せられた大島神社で、本郡(*牡鹿郡)十座の中の一社である。昔は末社が93社もあった。
 「名跡志」には、石巻の北市に社があり、地元では住吉大明神と言っている、この社は昔の大島神社である、と記している。外には牛頭天王、菅神、愛宕小社が並んでいる。宮の社は、元和年間(*1615-1624)に修造されたもので、上棟文にも大島神社と書かれている。牛頭天王社も住吉の地にあるが、いつ勧請されたかものか不詳である。道返神社・愛宕神社・天神宮も同様である。
 また仏堂が二宇あり、伝えでは観音堂は東山天皇の元禄12
(*1699)の創建、辨財天堂は住吉島の中にあるが、いつ頃の創建か不明。寺院は5寺があり、海石山大善院壽福寺は、眞言宗で京都智積院の末寺である。伝えでは、昔は葛西家の祈願所となっていた。住吉の別当は大善院で、もと天台宗であった。その後、和州郡山の僧であった宥快法印が住職となって来住して真言宗に改め、寺を住吉社の前に移した。烏帽子石があることから海石山壽福寺と名づけた。然し年々の洪水の被害に遭い、寺は市場のある地へと移された。・・・。古渡山廣深寺は、住吉にあり、臨済宗で松島瑞巌寺の末寺。・・・・。
 名所である衣袖(ソデノ)渡は、住吉社の東側の渡口である。「名跡志」に、住吉社の前から水門・大瓜の二村に行く渡津である。古の衣袖渡である。・・・。
 名石一、烏帽子石 川中の島にある。高さ六尺、東西九尺、南北三尺八寸あり、地元では昔から石巻石と呼んでいる。「名跡志」に、住吉社の鳥居の前の湾の所にある。巨石が一つあり、その形は烏帽子のようである。上部に天女宮を祀る。その下は青い潭(ふち)となっていて、河水が渦となって回り、自然と紋となり、物を巻くに似て、地元では石の形から、烏帽子石と呼ぶ。潭は石旋(いしのまき)と呼ぶ。・・・・。
との内容で詳しく記されている。

 石巻の地名のルーツにもなった霊石「烏帽子石(巻石)」のふちに渦を巻く石旋、その北に低い岩山として突出する「烏帽子山」(住吉山)の南面に鎮座する大島神社は、近世以降は俗称として「住吉神社」とも俗称されてきたが、『延喜式』に載せられる式内の古社であり、さらに古名が「飯石大島神社」であったとすると、平安時代初めよりも古い時代から祀られていたことは間違いないものの、当初から住吉三神を祀っていたものか、その創祀・創建がいつの時代にあったかは明らかでない。
 鎮座地である烏帽子山が、古代においては旧北上川河口の内側に広がった内海に突き出た小さな岩山であったものと考えると、奈良時代以前から進められてきた蝦夷地域の征夷計画の際に、重要な陸奥地域の門戸・湊の近くに存在した岩山つまり霊石を磐座として、岩上に「飯石大島」の社名にふさわしい航海の守護神でもある海神の住吉大神を祀ったのではないか、と考えたいものである。
 住吉大神の創祀は、対岸の牧山に祀られる零羊崎神社の創祀とも大きく関わっているように思われる。


  
海神の豊玉彦命を祀る零羊崎神社

 大島神社の対岸、旧北上川の河口部左岸にそびえる牧山(標高247m)の頂上に、式内社で海神の豊玉彦命(大綿津見神)を祀る零羊崎(ひつじざき)神社が、南方石巻湾の海浜までの間に広がる鹿妻(かつま)・伊原津と呼ばれる山ろく方向を向いて鎮座している。
 零羊崎神社は、大島神社と同様、『延喜式』の牡鹿郡十座の一社として載せられている零羊崎神社にあてられており、伝えでは応神天皇の勅命によって西国から龍巻島あるいは龍巻山に鎮座したとされている。

  
   大島神社と零羊崎神社の位置(国土地理院1967の写真を使用・改変)

 旧北上川に架かる内海橋を渡り湊町 (昔の湊村)に入ると、式内社とされる拝幣志神社(祭神 高皇産靈命)があり、大門町との境に突き出た「大門崎」と呼ばれる尾根筋には神社への長い旧参道が通じている。
 長い参道を上がった山上の平坦部には、石鳥居・社務所の奥には朱塗り入母屋造りの古い大きな仏堂があるが、この建物は『石巻の歴史』
(平成元年)によると、明治初期の神仏分離の際に、牧山観音堂の建物(方5間)を神社の本殿・拝殿兼用にした建物であり、昭和3年にその背後に一間社流造の現本殿が新築されたことがわかる。

 
                 牧山の零羊崎神社の社前
 
               零羊崎神社の拝殿兼旧本殿
 
        上記建物の左面               同右面
  
              
新しい御本殿

 神社の南西尾根上には、坂上田村麻呂の創建と伝える魔鬼山寺跡(牧山寺・鷲峯山長禅寺)のほか、神仏混淆の時代には、牧山周辺には多数の寺院があったが、現在は三吉神社(祭神 三吉大神ほか)・栄存神社(祭神 片桐栄存) 、東側の谷合いには貞治2(1363)に開山という両峯山梅渓寺(曹洞宗)が残るのみである。

 さて、零羊崎神社でいただいた『零羊崎神社由緒』によると、
 神社は「応神天皇2年に神功皇后の御勅願により涸満瓊別神
(ひみつにさけのかみ)という名を賜り、東奥鎮護のため牡鹿郡龍巻山にお祀りされました。社号は年を経て零羊崎(ひつじさき)となり龍巻山の龍は除かれ牧山となったのであります。爾来皇室を始め国司・領主の崇敬が篤く、貞観元年(*859)正月に正五位下勲六等より従四位下に位を進められ、1100年前の延喜の制には名神大社に列せられ名神祭にあずかり、朝廷より幣帛を奉られたのであります。」

と、興味深い伝承が書かれている。

 すなわち零羊崎神社の創祀が、応神天皇の2年、神功皇后の勅願により涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)という名を賜ったというその神とは、まさに『古事記』などに登場する、海神宮で綿津見大神が火遠理命(山幸彦)に授けた鹽盈珠・鹽乾珠、すなわち満珠・干珠を祀る神の社という意味であろうから、零羊崎神社の祭神が、海神の豊玉彦命であることは納得できる。

 『封内風土記』[明和9(1772)]には、零羊崎神社の古い時代の様子を知ることができる。漢文で記されているので私訳して要点を紹介する。
 湊 邑
戸数は約326軒。市店があり宿駅でもある。牡鹿本郷といい、鹿妻・伊原津・吹上・大門崎・御所入・箱崎・不動澤・藤巻・井内・磯田と呼ぶ所がある。・・・。神社は17社である。
 零羊崎神社。今の白山神社である。伝えでは豊玉彦命を祭神として祀る。神社は、延喜式神名帳に載せられる本郡(*牡鹿郡)神社十座の内の一社で、昔からの大社である。湊村七郷の鎮守で、応神天皇の勅命によって西国から当村の龍巻島に鎮座したといい、あるいは龍巻山ともいわれている。現在の牧山にあたる。山の各所に摂社・末社が多くある。その中で、
火折宮は火火出見尊を祀り、龍巻山頂に鎮座する。現在の三巻山である。この山の北を松渓という。
豊玉宮は、豊玉姫命を祀り、桜渓に鎮座する。ここは往古、桜樹があったことからその名がある。
玉依宮は、玉依姫命を祀る。梅溪に鎮座している。ここは往古より梅樹があるためその名がある。
風招
(かさをき)社は、零羊崎の神を祀る。荒魂であり風吹珠であることからその山を風招と呼ぶ。現在は、これを吹上と呼び牧山にある。
龍頭社は、石龍を祀る。龍王が石龍の神となったもの。今は龍口(たつのくち)という。この石龍が海門山(みなとのやま)を数重に巻いたため、山を龍旋(たつまき)島という。あるいは石巻山ともいう。後世これを呼んで牧山という。
鹿鼻社は、白牡鹿を祀る。零羊崎神の白鹿が石と化したもので、社を建てて鹿崎社と称した。
龍尾社は、石龍の尾を祀り、龍頭社の傍に鎮座する。修験者の普明院家の伝える説では、普明院の先祖は旧零羊崎神社の社司であったという。・・・()・・・。

とあり、今では確認できない大変興味深い内容を知ることができる。
 神社が鎮座する牧山は、もと「龍巻山」・「龍旋山」・「石巻山」・「三巻山」・「魔鬼山」など、多くの名で呼ばれていたことが解る。

 神宮寺として盛衰した牧山観音については、『増訂 石巻案内』(明治44)には、次のような案内がのせられているので、そのまま紹介することとする。

牧山観世音 牧山観世音は、龍宮出現の霊佛にして、桓武帝の延暦年中(一四五一)坂上田村麿 勅命を奉じ、大嶽魔鬼の賊党を退治せんがため、観世音菩薩に祈願し、大悲威神の力を仰ぎ、遂に魔鬼の党類を悉く誅殺して 勅命を全うし得たる霊験に報ぜんため、当山に一宇を建立し、観世音菩薩を遷座して、永く国家の安穏を祈念し奉りしなり。蓋し往古は魔鬼山(まきやま)と唱え書したるも大嶽魔鬼を退治してより、後改めて牧山と書するに至れり。・・・。(牧山観世音菩薩畧縁記)

と紹介されている。

 現在は梅渓寺に遷し祀られているという牧山観世音像が、龍宮出現の霊仏と伝えるのは大変興味深い。
 なお、『大日本地名辞書』の零羊崎神社の所には「零羊は、和名カモシカなり、此に、古傍訓ヒツジといふは、夷言に因るものとす、最事實を得たり。」と記しており、牡鹿の伝説などと考え合わせるととても興味深いものである。

 ところで、牧山の北側背後を旧北上川へ合流する真野川の奥、真野村の内山という地にも零羊崎神社・白鳥神社が鎮座している。
 『宮城県神社庁』のHPによると、零羊崎(れいようさき)神社と呼んでいるらしく、祭神は豊玉姫命、倉稲魂命。大宝2(702)の創祀と伝え、元白山神社と称して真野村の鎮守で明和9(1772)ごろ、すでに地元では式内社の零羊崎神社だと考えられていた、という。

 『封内風土記』では、眞野村の白鳥神社について、詳しく次のように記している。正しく私訳できているか不安であるが、要点のみ記すと次のようである。
 眞野邑
 白鳥神社 いつ勧請されたものか不詳。伝えによると、眞野邑の鎮守で、地元民は古来の零羊崎神社といっている。考えてみると零羊崎神社は初めから湊邑の牧山にあった。葛西家が眞野邑に祭田を寄せられたが、牧山の社が焼失したため中古に暫く真野邑の丸山と呼ぶ所に社を移された。・・・・。
 神社の社地は、未
(ひつじ)の方を向いていたため、村人はこの社を零羊崎神社にしたという。しかし、事実はそうでは無い。御陽成帝の天正時代の末期に葛西家は采地を失い家も滅亡したため再び神社は荒廃し、神輿は牧山へ移し観音堂へ収納された。近年に至り神輿をみる者も多くなったが、神輿の由来を問う人もおらず、僧侶ばかりである。零羊崎神社の神号をでっちあげ、白山之社だと唱えている。後世までの妨げとなることを憂慮するものである。遂に神輿も失われ、すべてその悪巧みから起こったことである。誠に嘆かわしいことである。
と書きしるしている。
 祭神が、牧山鎮座の零羊崎神社の祭神豊玉彦命(大綿津見命)の女である豊玉姫としている所が面白いが、社地が未(南南西)の方向を向いているからという理由もとても興味深い。
 私としてはやはり以下に考える鹿妻の地の存在と相まって、牧山の零羊崎神社が式内社として相応しいものと考えている。


 
 鹿妻(かつま)の地名が意味するもの

 さて、牧山の南ろくと石巻湾の海浜に挟まれた地域に広がる「鹿妻(かつま)」の地名であるが、鹿にまつわる伝説に加えて、海神の伝説に深く関わった名前だった考えている。

 
           牧山の零羊崎神社から鹿妻方面・牡鹿半島

 鹿妻地域の東側には、牡鹿半島に喰い込む形で汽水の海跡湖である「万石浦」が広がっている。古代には、万石浦につながって「長浜」と呼ばれた白砂青松が続く海浜の背後には、鹿妻・渡波地域の山ろくまで湾入していた時代があったことが地形から読み取れる。山沿いには貝塚遺跡や海蝕洞が存在している。

 そもそも、牡鹿(おしか)の名の発祥伝説について、『牡鹿郡誌』(大正12)に次のような伝説を紹介している。私訳して要点を記すと、

 鹿妻の洞穴 牧山の南に鹿妻という所にある有名な洞窟で、昔、ここに牝鹿がいた。常に根岸へ往来して牡鹿に逢いに行っていた。故にこの地を牡鹿という。牡鹿の松というのは、根岸村の山上に形の変わった松があり、牡鹿の松と呼んだ。昔、ここに牡鹿がいて、牝鹿を愛して鹿妻の地へ通い、帰ってきてはこの松の下で哀しく鳴いた。牡鹿が死んだ後、この松の下に埋められた。それにより郡の名を牡鹿郡という。(『仙台郡村古事考』)

との伝説をのせている。
 ここに登場する牡鹿・牝鹿は、ともに本来は海神であったのではないだろうか。

 使用漢字は別として、「かつま」と呼ばれる地名は、全国には海浜を中心にして河川の下流域に結構存在していて、多いのが「勝間」である。「かつま」等に関連する主たる地域を挙げると、

 旧摂津国住吉郡勝間村(大阪市住吉区)  住吉大社の摂社大海神社(祭神 豊玉彦・豊玉姫)の西側の海浜部。但し「こつま」と読む。古くは「古津女浦」「古妻浦」とも呼ばれた。

     

            摂津 住吉大社と古津女浦・勝間村位置図

 
       住吉大社御本殿             住吉大社摂社の大海神社

 旧筑前国糟屋郡志賀島勝馬浦(福岡市志賀島)  志賀島に祀られる志賀海(しかのわたつみ)神社(祭神 綿津見三神)は、もと島の北側「勝馬浦」から遷されたという。海神総社・龍都とされる。

 
         志賀海神社             志賀海神社の勝馬旧地

 旧周防国佐波郡勝間郷勝間浦(山口県防府市)  防府市街の南東、勝間の地はもと海浜で、勝間浦があった。景行天皇が熊襲征討の時に、勝間の浦に三女神(宗像の海神)を祀られたと伝える浜宮神社の跡がある。

 
     防府天満宮の勝間御旅所           勝間浦浜宮神社跡

 旧出雲国島根郡名分村勝間山・勝間神社の跡(松江市鹿島町名分)   古代には宍道湖の北の佐陀川沿いに佐太水海が広がっていた。その最奥、佐太神社(祭神 佐太大神ほか)の北方の勝間山に摂社の大勝間宮(祭神 正哉吾勝命)が祀られていた。『風土記』の「加都麻社」。
 旧讃岐国三野郡勝間郷(香川県三豊市勝間) 海浜より離れていて勝間の由来は不明。

 その他、海浜から離れた内陸部で勝間田池(大和・下総)・勝間井(阿波)などの伝説地や、勝田(美作・遠江)と書いてカツマタと読む所があり、ヤマトタケルの櫛笥伝説や勝間田氏族の広がりに関わるともいわれている。これについては、いずれ改めて考察してみたいと考えている。

 ところで、『古事記』の中に、山幸彦(火遠理命(ほをりのみこと)、またの名は天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほでみのみこと))は、鹽椎神(しおつちのかみ)の教えにより、海神(綿津見神)宮に行くために造った「間无勝間(まなしかつま)の小舟」、さらに海神宮から戻る時に海神から与えられた「鹽盈珠(しおみつたま)・鹽乾珠(しおひるたま)」という小舟と珠が登場する。
 まなしかつまという小舟とは、「目が堅くつまった竹籠の小舟。書紀には無目籠とある。」と解釈されている。(岩波文庫『古事記』)
 「勝間」「かつま」の意味が、海神の宮へ行くことのできた小舟であったと考えると、海神豊玉彦を祀り、神功皇后の勅願により涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)という名を賜ったという社伝が残る零羊崎神社の山ろく~海浜部の「鹿妻」「かつま」の地、とくに伊原津の海浜は、海神との関りが深い「勝間」「勝馬」と同じように、古くから海神宮(龍神の宮)へ通じる海道の入口として考えられていたのではないだろうか。
 とすると、大島神社や鹿妻周辺に海人族である安曇氏族が居住し、太平洋岸の重要な湊を形成していた可能性も大きくなってくる。
 こうした事を考えると、牧山に鎮座の零羊崎神社は、延喜式内社であり、当初の鎮座地は、社名の零羊崎を重視すると、牧山の南南西に位置する参道の入口付近、鹿妻に近い大門崎付近に祀られていたのかも知れない。


 伊原津の住吉神社とは

 なお、関連することとして、『封内風土記』(明和9)には、鹿妻の伊原津に「住吉神社。在伊原津。不何時勧請。」と記すように、江戸時代中期に住吉神社が祀られていたことが分かる。鎮座地の詳細は不明である。

   
     鹿妻の海辺は「長浜」と呼ばれる白砂青松の海浜が続いていた(日和山より)

 『石巻市史 第2巻』 (昭和31)の大島神社の解説中に、松本家に伝わる「住吉大明神之事」という古文書の原文が掲載されており、伊原津の住吉神社について知ることができる。要点を私訳すると次のとおりである。

 信濃国松本庄に居城があった時代に内神として奉齊していたのが住吉大明神である。その後の慶長年間(1596-1614)に奥州へと下られた節、牡鹿の湊村伊原津に宮を造営された。祖先は三代目まで鹿妻に住居があり、四代目の松本但馬兼光は、寛永11(1613)に石巻の中町へ引越した際に、今の住吉町に大神を再び遷したのである。慶長13(1608)610日には御輿を新造し奉納している。・・・・・・・・。但し、住吉の古社は、現在も湊村鹿妻に残っている。慶長14(1609)から寛文4(1664)まで56年になる。・・・・・後略・・・・・・・。
との内容が記されている。
 また、石巻の大島神社
(住吉神社)の南西にある曹洞宗永厳寺の略歴によると「当寺開基松本但馬兼満の祖先は信州松本の城主であったが、秀吉の全国平定の際、一族と共に石巻に鹿妻に遁れた。慶長11年兼満の代その居を現在の仲町に移した時、先祖の遺骨を八ツ沢松本山(現石巻小学校背後)に改葬、一庵を結び菩提庵と読んだ。・・・・・・・・・・。」とあり、松本氏は一族と共に石巻の鹿妻に遁れてきたということになっている。
 松本氏の先祖が鹿妻出身の氏族であったのかどうかは不明であるが、鹿妻の港と解釈できる伊原津の「いはら」という地名は、「いばら」「うばら」など、住吉神社の所在地などと関係深い地名であることから、想像にすぎないが、零羊崎神社と合わせ住吉神社も古くから祀られていた可能性があるのではないだろうか。

 原田 (2019.12.16)



           いこまかんなびの杜