生駒山中にある役行者ゆかりの髪切山慈光寺について


    

   いこまかんなび
(生駒神南備山)山中の谷あいにある山里、髪切(こぎり)山慈光寺、ここ
   は葛城の北峯の宿の一所、役行者ゆかりの修験道の寺としてよく知られています。
     東大阪市東豊浦町髪切 072-981-8211 
     近鉄奈良線枚岡駅から東2.5Km  徒歩山道60分



     


 慈 光 寺
 (真言毘慮舎那宗 寺の配付縁起パンフレットより紹介します)

創建は1300余年前、天智天皇の御宇、役行者の開基になる。
当時、生駒山中に前鬼後鬼の二鬼賊が住み、人畜を殺傷していたので、行者はこれを退治せんとして不動明王の秘法を修して鬼賊を捕えられ、鬼賊は前悲を悔いたので行者は頭髪を切って義学義賢と名付け、弟子として随侍された。これより当山は髪切山
(こぎりさん)と号し、修験道の道場として栄えた。
弘仁年間、弘法大師は行者の遺跡を歴訪して当山に巡錫され、荒廃した堂宇を修築せられ、十一面観音を安置されてより真言宗に改められた。鎌倉時代には亀山法皇が熊野行幸の折に親臨せられ、寺禄3000石を賜わり多くの寺田と六坊を構え、寺門大いに興隆した。
しかし、応仁より天正にわたる再三の兵火によって、堂塔伽藍は悉く烏有に帰したが、役行者自作の尊像は恙なかった。
四代将軍家綱の頃、亮海和尚は荒廃した堂宇を再建し、宝暦3年領主鯰江唯意は深く霊地の荒廃せるを嘆き、自ら檀越となって堂宇を再建し、文化九年正法律を振興した鑁慶和尚が入山し留錫数十年に及ぶや、その徳を慕い法を学ぶ者数多く、当山は律寺として隆盛を極め和尚は当山の中興となった。
大正11年には開山堂を、昭和12年には本堂が修営されて寺容大いに整備され、昭和22年より真言毘慮舎那宗に改められた。
古来ほととぎすの名所としてその名は広く知られ、また生駒山の西腹にあって春は桜夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪と四季を通じて景観が良く、土地高峻で河摂二州を一眸に収め、昭和13年5月11日大阪府より指定名勝に指定された。
毎年3月18日の戸開式、9月18日の戸閉式は有名で近郊からの参拝客が多い。
本堂(本尊大日如来)開山堂(行者三十六才の自作像)客殿のほか十三石仏、水子地蔵、寺務所などがある。 
(河内西国第二十四番札所)

  慈光寺 年中行事
 不動明王息災護摩供  12月28日〜1月4日
 節分星供大祭      2月3日
 役行者尊戸開式     3月18日
 弘法大師正御影供    3月21日
 名勝ほととぎす     5月中旬より7月まで
 施餓鬼會        8月21日
 地蔵盆會
(水子供養)   8月24日
 役行者尊戸閉式     9月18日

 
 (現在は戸開・戸閉式の日はそれぞれ第3土曜日に変わっています) 

    
             
髪切山慈光寺『河内名所図絵』 より




 
慈光寺銅鐘銘文 (大阪府有形文化財 高73cm)

  河内国河内郡葛木北峯
  慈光寺字神切山鐘也、本
  鐘奉鋳年号承保二年
乙卯
 
 七月八日、所奉鋳鐘依少、奉
  寄進、阿闍梨増寿之一周忌
  仏事、用途、於門弟僧実弁之
  沙汰、寺僧等相共所奉鋳改之也
  
 正應五年壬辰十月廿四日
      一和尚阿闍梨弁円
        大工山河貞清
       勧進聖人僧行音
           僧覚秀
           僧聖音

  (注)鋳の字は銘文では示に壽の字で誤記とされる。
           



 「慈光寺略史」 阪上敏男氏著 『郷土誌ひらおか6』 河内郷土研究会 1959より紹介します。

 1 創建時代
髪切山慈光寺が開創されたのは、寺伝によると今を去る凡そ千三百年前、奈良時代初期に当る天智天皇6年
(669)の事で、修験道の開祖、小角が36歳の時に葛城山で修業のみぎり、生駒山中に2人の鬼賊が住居し、付近の村落に出没しては人畜に危害を加えていると聞き、良民を救う為にはこの鬼賊を捕えて訓戒せねばならぬと思われ、三七二十一日の間、不動明王に呪縛の祈誓を行ったところ難なく結願の日に此の両賊を捕捉せられた。
それから此の地の山を鬼取山(又は鬼取獄)と呼ばれるに到った。両賊は小角から受けた訓戒により前非を自悔し、その誓いとして小角は両賊の髪を切り名を義覚義賢と付け、小角に随持する前鬼後鬼として爾後使役とせられたのである。
現在小角の尊像には必らず前鬼後鬼の侍立するは此の由緑に端を発している。この両鬼の髪を切った所は「くすまろ石」と呼ばれ慈光寺の東方、生駒山に至る山道の傍らに存在し、髪を埋めた所は「精心田」又は「鬼髪田」とよばれ、峠部落の西方街道の傍らに標石が建つている。
其後、前鬼後鬼を使役として生駒山で修業を続けた小角が、とある高峯で熟眠のさなか遥か西方の山嶺から一条の光明が輝くを見て怪しみ乍ら其の所へ足を運んだところ、身長一尺八寸の黄金観音像を見つけ、早速この大悲の尊像を本尊にして草庵を建立し、髪切山と号したのが慈光寺の始まりなのである。
この時、小角は36歳の自作像を刻み共に本堂に安置した。この右手に剣を左手に独鈷を持する悪魔退散不動権現の霊像は今もなお行者堂にその尊姿を拝する事ができる。
また大悲観音出現の霊地とは慈光寺の西方約4丁にある観音獄の事で、何時も変らぬ麗姿を乾谷池の水面に映ぜしめている。
鬼賊に関する草創縁起に就いては『役ノ行者』の著者山田文造氏が調査した異説もあるが、茲では寺伝による世上に周知された由緒のみを記し詳細なる検討は後日を期したい。
小角はさらに修験宗の大道場開創の大望達成のため前鬼後鬼と共に慈光寺を去るに臨み、今迄背負われていた笈摺をばその要なしとて残していかれたが、この笈摺は現在寺宝として保管せられている。
(22頁図版参照)
かくて真言宗の開祖弘法大師の訪れる迄の創建時代約150年間の慈光寺は役ノ小角の衣鉢を継いだ幾多の行者達修験練行の霊地としての法燈が続けられたのであった。 

     

 2 平安時代
唐士より帰朝した弘法大師は大同2年
(807)平城天皇より密教布教の宣命を受けて全国巡錫の旅に出られ、この生駒山西麓に立寄ったのは、弘仁年間の事であった。
大師は役ノ行者旧跡として慈光寺の荒廃甚しいのを嘆かれ、双身歓喜天を勧詣して本堂・行者堂・五重塔・山門等の諸堂を再建せられた。
時の住職は大師の再建を機会に大日如来を本尊とし、真言宗へ改宗の大転向を行ったのである。
また大師は髪切の里に飲料水が尠い為に村人の雑渋するを見られ、御祈祷加持によって一晩の間に堀った井戸から清水湧出するの奇瑞があり、此の井戸は「大師の一夜井戸」として慈光寺境内に今尚残っている。
当時の慈光寺の全容に就いては資料がない為に言明はできないが、相前後して建立せられた鷲尾山、興法寺、恵日山千手寺、鳴川峠神感寺等の真言寺院と甍を競い、真言密教の本拠として山岳仏教の本領を遺憾なく発揮した事は想像に難くはない。
かくて真言宗改宗後の慈光寺は高野山金剛峯寺未として追々繁栄に向い、子院として奥ノ坊・上ノ坊・中ノ坊・向ノ坊・北ノ坊・西ノ坊の六坊が建てられた。
この子院六坊の位置については今日判然としないが、現在慈光寺の西方2町の所に小字門口という土地の在る事から、ここを寺門の所在地と考えるならば約3町歩に至る広汎な寺域を有し、真言宗の隆昌と相俟って恐らく慈光寺の全盛時代ではあるまいか。
当時この生駒山中には白水千坊と云って数多の寺院が存在していたが、慈光寺の六坊も白水干坊の一に算えられたと思われる。
さて平安時代末期になると慈光寺の存在した確たる事実が現われてきた。それは始めて慈光寺に梵鐘が鋳造された事である。之は現存するする梵鐘の銘文に「承保二年乙卯七月八日所奉鋳依少云々」とあり承保2年
(1075)に鋳造されたことが知られる。勿論鐘楼も建立されたであろうがその遺跡は何物も残っていない。

 3 鎌倉・室町時代
鎌倉時代に入ると始めて慈光寺住職の記録が現われてきた。それは弘安2年(1280)4月増寿が中興として入山した事である。
然しこの増寿が如何なる事蹟を残したかと云う事は判明しないが、現存する梵鐘の銘文に「阿闍梨増寿之一周忌仏事用途云々」と在る事から、相当慈光寺の復興に尽力した事は間違ない。在往僅か12年で増寿は正応4年
(1292)2月に入寂し、次いで翌5年(1293)に入山した弁円の時代に府下現存の梵鐘が鋳造された。
最初の梵鐘が鋳造されてから225年であるが、弁円の入寂年月は何等の記録も見当らない。
正応3年
(1291)紀州根来に移転して新義派の旗を掲げて高野山に対抗した大伝法院の勢力は鎌倉中期より全国の真言寺院を風靡する状況となってきたが、慈光寺もこの時から高野山より離脱し根来寺派に属する時代が暫く続いたのである。
また奈良時代末期から菩薩称号を唱えた修験道に依る本地垂迹説の思想は、平安時代には更に進んで権現の称号に移り、その結果各地に澎湃として権現崇拝熱が旺盛を極めた。
かねて鎌倉中期の弘安年間に後宇多天皇は河内郡を熊野の神領に加えられた為、慈光寺境内には十一社権現(祭神大山咋命・応神天皇・天児屋根命)が鎮守として祀られたのである。
この十一社権現は天児屋根命即ち春日大神を祭る所から枚岡神社奥ノ院として世人から非常な崇敬を受けていたのである。
降って正平3年
(1347)における楠木正行の四条畷合戦では、四条隆資の率いる河内・和泉・紀伊の兵をもって混成した三千余騎の第三軍が、この慈光寺を本拠として高師直軍を牽制しつゝ飯盛山上の敵に対し暗峠の山地を北進したのであった。
室町時代の初期には名僧賢空が入山した。その年代は不明であるが、徳望名声は河内一国はもとより、遠く京都の天聴に達したと云われ、元中年間
(1390年頃)後亀山法皇は熊野行幸の砌り賢空上人の徳望を慕われ、わざわざ聖駕を慈光寺へ親臨され十善法戒進授の栄を受け寺禄三千名(石?)を賜い併せて勅願寺とするの光栄に浴した。
之は慈光寺沿革史上特筆大書すべき1ページで慈光寺全盛時代の最極点であるまいか。
室町時代末期に於いて住職円秀の時、天文18年
(1549)8月14日極彩色の板絵千手千眼観世音像が作られたが、之は何時の頃にか豊浦村の中村代官の菩捏寺である来迎寺に移されてしまった。                                やがて750余年も続いた慈光寺の全盛時代も終止符を打つ時がきた。それは応仁元年に始まった戦国動乱によって、河内は管領亀山・三好の争乱から引続き織田信長の攻略となり、天正2年(1575)織田信長の三好残党及び本願寺門徒の一掃に当り遂に慈光寺は六坊諸共兵火の為に敢えなくその雄姿を地上から消したのである。

 4 桃山・江戸時代
いま本堂の傍らに天正19年
(1591)辛卯10月15日と銘した石造十三仏があるが、之は戦国動乱のあと庶民の間に石造仏の信仰が広まった証左の一で、中河内に於ける貴重な在銘遺物である。
天正2年の兵火で堂宇を焼失した慈光寺は慶安元年
(1648)2月、亮海和尚が入山する迄の73年間は旧址に雑草の繁茂するままの状態であった。
亮海の再建した全容は明瞭ではないが、今を去る300年前の事で和尚は慈光寺の中興と謂われている。万治元年
(1658)8月16日、諸堂再建の大事業を成し遂げた亮海和尚は入寂したが、其後の住職には次の如き変遷があった。

 晃 明   明暦3年5月入山    天和元年6月寂
 慈門信光  延宝8年10月入山    宝永4年8月寂
 安 信   元禄13年2月入山    正徳2年12月寂
 本立覚抖*  宝永6年3月入山    享保9年11月寂 (
註 抖は石へん)
 祖順瑞岳  享保9年11月入山    宝暦2年8月寂
 粛翁慶岳  寛延元年5月入山   安政3年5月寂
 諦見寛怒  宝暦2年5月入山    安永5年10月寂
 深法慈海  安永5年11月入山    文化8年9月寂
 鑁慶鳳寛  文化9年2月入山    文政12年12月16日寂
 梵明智光  天保4年4月入山    明治2年3月寂
 亮円諦聴  文久元年入山      寂年不詳

このうち安信和尚の代に堂宇の修営が行われたが、その状況及び年月は判明しない。
次の本立覚*抖の代即ち正徳2年
(1712)には寺島良女が『和漢三才図絵』を著作して世に慈光寺を紹介した。
その文に日く「鬼取嶽在闇上峠之北山有 寺号慈光寺 役行者開基 本尊観音十社権現 行者之笛錫杖斧等霊有役行者持孔雀明王呪捕 当山鬼神切髪為奴改名日義学義賢一人常住反山獄飛行如鳥 以蹊諸山」云々と。
寺宝に行者の笛錫杖斧等が挙げているがこの三品は現存しない。また次の祖順和尚の代である寛保3年
(1743)3月には豊浦村の代官中村四郎右衛門唯意自ら檀越となって再度堂宇の修営が行われた。
当時の全容は幸にして58年目の享和元年
(1801)に秋里籬鳥の著した『河内名所図会』に載せられているが、此の絵図は慈光寺の昔を語る唯一のものである。

         


ついで住職となった諦見和尚の宝暦8年(1758)には正法律の開祖である慈雲尊者が額田村の長尾滝双龍庵に於いて15年間幽棲し仏学の奥義を究明せられたので、その滞在中に慈光寺を屡び訪れ数多の事跡を残されたのであった。
境内に尊者の筆跡を刻した石碑1基が建っている。この尊者が高井田の長栄寺と関係のある所から慈光寺はその頃から根来寺末より別れて、高野山の古義派にもどり長栄寺末となった。さらに次の深法和尚の代に至るや、豊浦村の来迎寺に安置されていた慈光寺の板絵千手千眼観世音像が代官中村四郎右衛正孝の同族の手により返還されたのである。時は享和元年
(1801)の事であった。                       ついで入山した鑁慶和尚は稀に見る名僧智識で幼時から生国である武蔵国葛飾郡昇合寺の寺僧となり、のち慈光寺で留錫する事数十年宗門菩薩流の開祖となってその徳望遠近に聞え、入門して法を学ぶ者数百人に及び、再び慈光寺には全盛時代が招来したのである。
また和尚は俳句を良くし号を花亭と名付け、当時豊浦村に居住する中村来耜を始め芭蕉の俳風を継ぐ数多の俳人と親しく交遊し慈光寺の名声をして普ねく全国文人墨客に喧伝したのである。慈光寺中興として鑁慶和尚の残した功績は非常に大きい。
鑁慶和尚の後を経いだ亮円は比丘僧であるが在職中に豊浦村の同宗地蔵院修営の願主となり、安政4年(1858)4月24日に之が唆工を見ている。

 5 明治・大正・昭和時代
王政維新の神仏廃合令により鎮守十一社権現即ち東山神社は明治5年
(1872)6月に廃社となったが、髪切村民の復旧請願で同13年(1880)6月11日に復帰を見たが、同40(1907)には枚岡神社へ合祀されるに到った。
いま慈光寺客殿の庭内に寛文9年
(1669)9月と刻された燈籠一基が在りし日の鎮守の俤として残っている。
さて亮円入寂後
(没年不詳)は、明治28年(1895)亮道和尚の入山する迄はしばらく住職の任命は無く留守居の番僧が寺を守護していた。その間に堂宇も相当に荒廃を来し、また長栄寺とは別れて寂静院の末寺と変ったが大正年間からは蓮華三昧院の末寺に属している。
亮道和尚は入山するや諸堂のいたく荒廃せるを嘆き鋭意寺域の整備に意を注いだ結果、慈光寺も復興の曙光を見る事ができ、また行者講の結成は信徒の結合を密にし慈光寺発展の基礎を固められたのである。
大正10年
(1921)8月亮道和尚の後住職として入山した智道和尚は翌11年(1922)に行者堂の修営を行い、更に昭和12年(1937)には本堂の修営を完成した。明くる同13年(1938)5月1日、役ノ行者の旧跡であり時鳥の名所である理由のもとに大阪府より名勝の指定を受け、同32年(1957)智道和尚転職の後任として入山したのが現住職実善和尚である。
役ノ小角開創このかた悠遠千二百余年、詳細に亘る治革史は後日の機会に譲り、こゝでは慈光寺の略史を書き誌して筆をおく。  終


   いこまかんなびの杜