生駒山地の北端が切れ、淀川へと合流する天の川沿いに広がる交野ケ原(かたのがはら)地域の背後にひときわ高くそびえる神奈備山が交野山です。標高は341mあり、行くには南側にある交野CCの方面からが便利でしょう。
山頂附近には花崗岩質の巨岩が露出し、ひときわ大きい「観音岩」とよばれる巨岩のほか、梵字を刻んだ巨石がみられます。
また南側の麓〜谷あいには平坦部がいくつか存在し、鎌倉時代に山ろくの神宮寺から移されてきた「交野山岩倉開元寺」という山岳寺院の遺跡が残されています。
交野山(こうのさん)--北側の白旗池方面から遠望
こうの山は『諸山縁起』の中に記される「葛城の峰の宿」のさらに北方、葛城山地の北方に続く生駒山地の峰々にかって存在した「葛城北峰の宿」17ケ所の霊所の一つで、甲尾(こうのお)と記されています。
『河内名所鑑』・『河内名所図絵』には、鴻尾山とかかれ、交野尾とも言わていたことが判ります。交野の山ろくは、古くは肩野物部氏族の支配する地域であったほか、住吉の神を祀る神社が多く、また山のふもとには、交野山を拝するような形で機物神社が鎮座しているなど、古くから交野地域の聖なる山であったことがわかります。
観音岩の全景-高さ約15m、階段を上がった所に「交野山古代磐座趾」の碑が建てられている
北側の梵字石「ア」 観音岩側面の納経孔
荒神を祀っているのか-ウンの梵字が刻まれている
南側、岩倉開元寺跡からの登山ルート
開元寺は、山ろくの神宮寺にあった古代寺院で、『興福寺官務牒疎』に「開元寺 徳泉寺 津田寺 在同郡(交野)倶宣教大師開基坊舎八舎宛有之」と記されていて、奈良時代に興福寺の僧であった宣教の開基と伝えています。神宮寺には奈良時代の伽藍の礎石が出土しています。
神奈備山であったこうの山は、平安時代以降に修験者の霊所となり、鎌倉時代頃に山岳伽藍が整備されたと思われますが 、二度にわたる災にあって、かっての伽藍をすべて失いました。
江戸時代の寛文のころ天台宗京都猪熊荒神別当實傅という僧が山頂の八間四方の巨岩側面に観音の種子「サ」を表す大梵字を刻み、近くの巨石にも三宝荒神の種子「ウン」と金剛界
大日の種子「ア」を刻み、中心の巨岩(観音岩)の側面に一穴を彫って法花経六十六部を納めるとともに、ふもとの寺院に仏像を安置、整備するなど寺の中興につとめたといわれます。
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