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生駒山地の南に続く二上山〜葛城山の西ろく、南河内郡河南町の平石の山腹 にも饒速日命の降臨地として哮ケ峯・磐船神社があります。高貴寺と共に関 連する資料を紹介します。(2006.11.9 更新) 平石の磐船神社背後の哮ヶ峯(平石トンネル北側から)
高 貴 寺 山腹に高貴寺あり、神下山と號し、眞言宗金剛寺末にして五大明王を本尊とす。 寺傳に依れば役の小角の開基にして、小角の葛城山の二十八谷を、法華経の二十八品に配せし第二十五普門品に當り、地は太古饒速日尊衆神と共に天降り給ひし所なるを以て神下山と號し、山中には供花の多きに依りて香花寺と呼べり。 後、嵯峨天皇の御宇弘法大師留錫して上の太子へ百日の日参をなし、別に山中に草庵を結びて一夏九旬此に安居せり、故に今なほ其の地を字して安居といへりと。 然るに大師安居のとき、一日三密瑜伽の修錬床上に、高貴徳王菩薩の出現を拝せしかば、改めて高貴寺と称し、嵯峨天皐の勅を奉じて金堂・講堂・東西両院・経蔵・鐘楼・食堂・二王門等を創建して中興の祖たり。 大師の高野に去るに及びて、高足智泉其の後を継ぎ、爾後法燈彌輝き、堀川天皇の長治年中には東寺一の長者鳥羽範俊僧正も来りて此に住し、降って元弘元年(1331)後醍醐天皇の笠置を発して平石城に臨幸あらせられし時、北條高時大軍を遣はして来た迫るに及び、衆徒等醜敵降伏の祈祷をなし、果して賊徒戦利ぁらざりしかば、賊軍火を伽藍に放ち挙て烏有となせり。 彼の大塔宮其の跡を御覧ありて、御悼懐の和歌を賜はれり。 恵をはたれ給へかし神仏伽藍を焼きし罪ふかき身に ついで金堂及び寺門六坊を再建し、爾來法燈相承せしも、法隆寺の荘園院及び観心院の槙本院等より兼帯せられて、法灯明ならざりしが、安永年中(1772-1778)に至り慈雲和尚の来りて當寺に留まるに及び、堂塔の修築を行ひ、法燈再び輝きて寺を僧坊と改め、正法律を再興して眞言律宗一派の本山となせり。 慈雲和尚は當代の大徳なり、讃岐高松家の家臣森川氏の出なり。名は飲光、百不知童子と號し、享保三年(1718)七月二十八日大坂の高松藩蔵屋敷に生れ、十三歳にして住吉郡田辺法楽寺の忍綱和尚に就て得度し、旁伊藤東涯に就て漢籍を学び、後諸方の碩徳に参して顕密の法門を修めしが、後には長尾瀧の辺に雙龍庵を結びて勤修し、野中寺に戒律を行ひて専ら密宗を究め、當國高井田の長栄寺・摂津有馬郡の桂林庵を再興せる等、各地に往復して佛法の興隆に盡力しけるに、学徳は年と共に進み、僧俗上下の信仰彌厚く、大和郡山藩主甲斐守保光は入道して法弟となり、道誉高く聞えて遂に遂に宸闕に達し、桃園天皇の御生母開明門院・後桃園天皇御生母恭禮門院の帰信を蒙り、召命に應じて法を説き戒を授けまいらする数回に及びしが、其の来りて當寺に入りしは安永四年(1775)の春なり。 寺は復た已記の如く和尚に依りて中興せられ、和尚は晩年に至るも尚奮闘を継続して、法門の為めに盡力至らざる所なく、文化元年(1804)十二月二十二日金剛経を講じつゝ、八十七歳を以て洛の阿弥陀寺に遷化せり。 其の學は和漢に通じ、特に外典に精しく、識は淵源を究めて著述多きが中に、其の重なるものは梵學津梁壹千巻・十善仮名法語十二巻・為人導等にして、世に大伽葉尊者の再来と称せらる。 而して同和尚に依りて面目を一新したる當寺は、僧坊の憲を守り来りしも、明治五年に至りて之を廃し、翌六年更に高野山金剛峰寺末となる。 寺寶に弘仁元年(810)八月弘法大師自刻自書の卒塔婆、同大師の大唐青龍寺恵果和尚より将来せし世に松虫寶鈴と傅ふる金剛寶鈴、同大師所持の三鈷杵、安永元年(1772)七月宇治田原巌松院の善淳比丘上より慈雲和尚に傅へし印度人筆の貝多羅葉梵書、安永三年正月慈雲和尚の後桃園天皇に奉献したる十善假 (以後 略) |