古 代 河 内 の 洪 水 ・ 治 水 年 表
    古代、河内平野の歴史を考える上で、河内平野を北〜北西に流れていた旧大和川の治水は古代
    国家の発展の上で極めて重要な問題であった。
    史書から河内と旧大和川を中心とした凄まじい洪水と、それに挑んだ治水工事に関わる記事を
    ひらってみました。今後さらに関係記事を増やしていこうと思っています。
     
いこまかんなび 原田 (2017.1.22修正)
崇神天皇 62年  10月に依網池、11月に苅坂池・反折池(さかおりいけ)を造る
垂仁天皇 35年  秋9月、五十瓊敷命に河内国に高石池・茅淳池を、10月には大和の狭城池と
 迹見池を造らせる(印色入日子命が血沼池や狭山池・日下の高津池を造る)
 この年、諸国に800の池溝を造らせる
仁徳天皇 11年  4月  難波高津宮のまわりの広大な低湿地には田圃が少なく、川の水が横に流れ
 て、長雨ともなれば潮水が逆流して大きな被害が生じているため、掘って
 海へ通じさせるよう命じる
10月  宮の北方の郊原を掘り、南からの川水(大和川など)を引入れて西の海(大阪湾)
 へ流出し、そこを「堀江」と名付けたまた北河(淀川)からの大波と流入を
 防ぐため、茨田堤を築いた、しかし堤が壊れ、天皇は武蔵国強頸と河内人
 茨田連袗子の二人に河の神を祀らせ、ようやく長大な堤が完成
13年 10月  和珥池(大和)を築く、この月に横野堤を築く
14年  感玖の大溝を築造
11月  猪甘津に橋をかけ、小橋と名付ける、また京中に南門より真っすぐ丹比邑
 に通じる大道をつくる
皇極天皇 2年  7月 643  茨田池の水が満ち、口の黒い白い虫が水面を覆う
 8月  茨田池の水が藍汁のように変色し、死虫と死魚が水面を覆う
10月  茨田池の水がきれいにもどる
 (以上「日本書紀」)
慶 雲 3年  2月 706  河内と摂津国など7国が飢饉となり救済する
和 銅 2年  5月 709  河内と摂津国など5国が長雨で苗が被害を受ける
天 平 4年 12月 732  河内国丹比郡の狭山下池を築く
5年  2月 733  大倭と河内国の五穀が実らず、飢饉のため農民を救済
13年  4月 741  従四位上巨勢朝臣奈麻呂・従四位下藤原朝臣仲麻呂・従五位下民忌寸大揖
 ・外従五位下陽候史眞身等に、河内と摂津両国が争っている河堤の所を視
 察させる
19年  2月 747  河内や摂津国など15ケ国が飢饉
20年  7月 748  河内と出雲の二国が飢饉となり救済
天平勝寶 2年  5月 750  京中が大雨で氾濫、また伎人・茨田などの堤が各所で決壊する
天平宝字 6年  4月 762  河内狭山池場が決壊し、83,000人で修造する
 6月  河内国の長瀬堤が決壊し、22,200余人で修造する



8月
 風雨がやまず人々が大変困っていた、大和川の水上より櫛笥(くしげ)と橘を
 流し、そのとどまった所を祝い祭れば水難を避け人々を安穏にさせよう」
 との八幡宮のお告げが有り、大和国と河内国の国境からお告げのとおり櫛
 笥
(くしの箱)とを流し、智識寺の山上より西・北に分れて流れた 櫛笥の流れ
 着いた所には「玉櫛明神
(津原神社-旧大和川の支流の玉櫛川沿い--東大阪市)」を
 祭り、橘は旭神社の旧鎮座地、賀美郷の川中の小島
(現大阪市生野区正覚寺町)
 に流れ着き、このことが孝謙天皇の耳に達したことから「東大寺の八幡宮

 (手向山八幡宮)
」を勧請して若宮と仰ぎ祭り、橘をご神木と定めた
 
『河内国渋川郡賀美郷橘嶋荘正覚寺村旭牛頭天皇若宮八幡宮縁起』 
7年 5月 763  河内国が飢饉となり救済
8年 8月 764  使を派遣して大和や河内等の国に池を築く
天平神護 2年 6月 766  河内国が飢饉となり救済
宝 亀 元年 7月 770  志紀の渋川・茨田などの堤を30,000余人で修造する
3年 8月 772  朔日から大雨が続き、やがて大風が加わって河内国茨田堤6ケ所、渋川堤
 11ケ所、志紀郡5ケ所が同時に決壊する
5年 5月 774  河内国が飢饉となり救済
9月  天下諸国に池溝の修造をさせ、五畿内の陂池(つつみいけ)を修造させる
6年 4月 775  河内摂津両国の五穀草木が鼠害
11月  五畿内に使を派遣し池溝を修造をさせる
延 暦 3年 9月 784  河内国茨田郡堤が15ケ所が決壊し、64,000人で修築する
4年 9月 785  洪水の水が河内に溢れ、農民は船中や堤上での生活となり、食料がなく苦
 しんでいることが報告され、使を派遣
10月  河内国の堤防が30ケ所が決壊し、307,000余人で修築する
7年 3月 788  中宮大夫従四位上兼民部大輔摂津大夫和気朝臣清麻呂が、河内と摂津両国
 の境に川を掘り、堤を築いて、荒陵の南より河内川を導いて西方の海へ通
 したら、沃えた土地を広げ、開墾できると進言する          
 朝議はこれを認めて清麻呂に工事を命じ、総数230,000余人により工事を
 実施
 (以上「続日本紀」)
16年 7月 797  河内國高安郡は昨年の大雨で山がひどく崩壊したため、陰陽少屬従八位上
 の菅原朝臣世道陰陽博士と正六位上中臣志斐連國守らを大和國平群山と河
 内國高安山に遣わし、大雨と二山が崩れて人家が埋まらないよう祈る 

 『類史』
18年 2月 799  和気朝臣清麻呂亡くなる、水害から守るため巨費を投じた工事も完成に至
 らなかった
4月  河内国が飢饉となり救済
  (以上「日本後紀」)
19年 10月 800  河内など諸国民10,000人を動員して葛野川堤(京都)を修築
 (以上「日本記略」)
大 同 元年 8月 806  霧雨が止まらず天下諸国が洪水、被害甚大 (「日本後紀」)
10月  河内と摂津両国堤を定める  (「日本記略」)
5年 2月 810  河内国が飢饉となり使を遣わして救済
弘 仁 2年 4月 811  河内国税分銭300貫を3年にかぎり国内堤防決壊箇所の修築費にあてるよう
 命じる
6年 6月 815  河内国を救済
 (以上「日本後紀」)
9年 4月 818  河内国飢饉のため救済(「日本記略」)
12年 10月 821  河内国境の被害がもっとも甚大
天 長 9年 8月 832  大雨大風で河内摂津国が洪水、堤防決壊(「日本記略」)
承 和 12年 9月 845  河内と摂津両国に難波堀川に生えた草木を苅り払うことを命じると共に石
 川龍田両河諸流の水を西海へ通じさせた
15年 8月 848  摂津河内両国に使を派遣、水災者の状況を巡検させ、近くの蔵をあけて救
 済する
嘉 祥 元年 8月 848  大洪水が発生し人々や家畜が流失、茨田堤がいたる所で決壊する、大同元
 年に発生した洪水の2倍以上の水量という
9月  左中弁従四位上藤原朝臣嗣宗、治部少輔従五位下藤原朝臣直世、 外従五位
 下山代宿弥氏益・六位判 官4人・主典4人等を遣わし、茨田堤を築かせる
 (以上「続日本後紀」)
3年 12月 850  堤根・津島女神を従五位下に叙する
仁 寿 2年 3月 852  使者を遣わし河内・若狭・因幡3国の難民を救済(「文徳実録」)
貞 観 4年 3月 862  木工頭従五位上兼行左衛門權佐紀朝臣春枝、従六位下守右衛門大尉藤原朝
 臣好行が遣わされ、河内摂津両国が相争っていた伎人堤について、裁定を
 下した
12年 5月 870  河内国の年穀が登らなく飢饉となる、このため太政官は富豪の貯稲
 13,000束を借りて難民を救済
7月  従五位上少納言兼侍従和気朝臣彜範を検河内国水害堤使に任じた、この後
 、藤原良近を築河内国堤使長官に任じる、さらに大僧都法眼和上位慧達、
 従儀師博燈満位僧徳貞、將導師薬師寺別當傅燈大法師位常全、西寺權別當
 傅燈法師位道隆、元興寺僧傅燈法師位玄宗らに河内国内の堤防工事の進行
 状況を視察させる
 また、朝使を派遣して河内国内の堤防工事が未だ完成しない内での洪水の
 発生を恐れ、水源の大和国の三歳神、大和神、広瀬神、龍田神に、水害が
 発生しないよう祈らせている
15年 6月 873  京や河内国が飢饉となり救済する
17年 2月 875  正五位下守中辨兼行丹波權守橘朝臣三夏を、築河内国堤使長官に任ずる
元 慶 元年 正月 877  去年干害で京師と畿内諸国が飢饉となり、河内と和泉国の被害が最も激しく、
 河内・和泉両国を救済
2年 2月 878  備前国に命じ不動穀一萬斛(こく)を河内国に配送し、農民を救済
 (以上「三代実録」)

                いこまかんなびの杜