奈良 興福寺に存在した住吉社とは


 
奈良 興福寺に存在した住吉社とは

平城宮跡の東に位置する奈良町周辺にも住吉神社が祀られていたり、住吉神を合せ祭る神社が鎮座することを知って以来、現地を訪ねたり関係する文献・史料などを調べてきた。その中で最も興味をもったのは、藤原氏の氏寺で法相宗大本山として発展をみた興福寺の境内地のどこかに、住吉神社が存在していたことである。
 
 興福寺は、平城遷都に伴って和銅3年(710)に藤原不比等の計画によって飛鳥の山階寺(厩坂寺)を平城京の東側に三坊分拡張して設けられた外京の東端、御蓋山のふもとに広がる春日野台地上へと移され、氏神である春日社の勧請・祭祀とあわせて、氏寺としての整備が図られていった大規模寺院である。
 しかし、明治の神仏分離・廃仏毀釈などにより、興福寺は大きく興廃・変貌し、現在一部伽藍の復原整備が進められている。
 当初の興福寺の寺域は、外京の三条七坊全体にあたる約530m四方の広大な敷地を占め、現在の興福寺の北側、近鉄奈良駅の北を東西に走る国道369号の北にある奈良県庁・県警本部・奈良県立美術館など官公庁のある区域も寺域に含まれ、多数の諸寺院が存在していた。

  
               興福寺周辺図(『春日興福寺境内図』ほかより作成)



 さて、興福寺に住吉神社が祀られていた記録は、平安末期の公卿で五摂家の一つ九条家の祖となった藤原(九条)兼実が綴った日記『玉葉』に、治承4年
(1180)12月28日に起った平重衡による南都焼討により、興福寺のほとんどが焼失したことを記す「注進 興福寺中寺外、堂舎宝塔、神社宝蔵等焼失事」という報告(治承5年正月4日付)が載せられている。
 
 堂塔のほか寺域に祀られていた住吉神社などについて次のように記している。(抜粋)

一 寺中、
金堂、講堂、南円堂、食堂、東金堂
塔一基、西金堂、北円堂、東円堂、観自在院 高陽院御願、西院在堂四宇、此内一宇 白川院御願、一乗院 在長講堂、大乗院 在堂三宇塔一基・・・・・・・・ (中略)・・・・・・・ 皇嘉門院御塔、
總宮、一言主社、瀧蔵社、住吉社
鐘楼一宇、経蔵一宇、宝蔵十宇、大湯屋一宇 但釜不
破損 
 已上、堂舎三十四宇、宝塔三基、神社四所、宝蔵、大湯屋等也、此外、・・(略)・・・・


 治承4年(1180)12月28日の南都焼討ちによって興福寺の堂塔の外、寺域内で鎮守として祀られていた「總宮・一言主社・瀧蔵社・住吉社」の四社も焼失したことが判るが、住吉社を除く三社については、江戸期の宝暦10年(1760)以降という「春日興福寺境内図」(奈良女子大学)や、寛政3年(1791)の『大和名所図会』に載せられた「興福寺」境内絵図などでその存在が確認できる。

 この内「總宮」は、五重塔の南東、築地塀との間の地に東西に続く参道と鳥居・社殿を描かれている。この「總宮社」については、鎌倉時代の記録とされる『元要記』に、

 
惣宮社
 神亀3年
(726)、元正太上天皇が病気になられ、7月上旬に星々に祈られたところ、天より日月星の三光が降って御門の守りとなった。これにより病気は快復し社檀を建立して、御門にも曜宿を斎き祀った。神社中宮の祭神は日輪の伊勢大神御垂跡、右宮は月輪で春日大明神垂跡、左宮は明星天子御垂跡すなわち住吉明神である・・・・・・との内容を記している。
 この住吉明神とは、焼失した「住吉社」ではないが、再興の際にこの社へ合祀された可能性も考えられなくはない。

 
        興福寺五重塔遠望                『大和名所図会』に描かれる惣宮

 
        惣宮のあった付近                 惣宮の社壇跡か

 『和州旧跡幽考(大和名所記)』(延宝9年[1681])には五重塔の近く「此辺に月日宮あり、むかしは手分けの森にありけるとそ・・」と記し、『南都名所集』には「東こんどう」の絵図の中に五重塔と並んで月日宮の社殿を描いていて、惣宮は月日宮とも呼ばれていたようである。

            
                         『南都名所集』に描かれた月日宮

 続いて「一言主社」であるが、先に掲げた絵図をみると、南円堂の南西斜面下の壇には「皇嘉門院御塔」と呼ばれた三重塔の東側に「叱天社」「はんにゃ石」と並んで祀られていたことがわかる。

『元要記』には、
 
一言主神社
 嵯峨天皇の弘仁年中
(810-823)に、弘法大師が勧請されたもの。南円堂の建立時、弘法大師が葛木山に神石を請い願われ、この時三つの秘石が飛来して皮堂の南の傍に落ちた。これを崇めて皮堂の鎮守とした・・・・・などの内容を記している。

  
             三 重 塔               『南都名所集』描かれた諸社

   
             三重塔~南円堂付近に存在した諸社『大和名所図会』

 このほか、三重塔の西には、江戸期の『大和名所図会』では眠(睡)明神、『興福寺境内図』には「辨財天社」と記す神社が存在したほか、坂道を北へ少し上がった南円堂の西には「龍社(妙見社)」らしい社殿と鳥居が描かれている。しかし現在はすべて境内には存在していない。
 絵図には描かれていないが、現在、三重塔の北には「窪辨財天」の社名を刻んだ花立石一対ほかが残る神社の跡がある。これは塔の西側にあった辨財天社のものとみられ、明治に入って春日大社の境内へと移された「惣宮」の社殿へと一緒に遷し祀られたのだろう。


      
                     窪弁財天社の跡

 ところで「窪辨財天」について『元要記』は、南西の角を鎮護する、とし、後世の和州旧跡幽考(大和名所記)』によると、
 窪弁財天は、弘仁年間
(810-824)弘法大師が天の川(天河)の弁才天に参籠し、南円堂の建立を祈願された時に宇賀辨財天が出現したことから勧請して祀った宮である。この時、南都に七辨財天が勧請された。その時の神社は、所々に伝え祀られている。・・・。との内容を記している。
 また『平城坊目遺考』
(明治23年)によると、窪の辨才天は宇賀の辨才天ともいう、今はこの塔(三重塔)の中に安置している。との内容を記している。
 弁財天は、現存する三重塔の内陣に祀られていて、頭部に鳥居をのせた弁財天坐像
(宇賀弁財天)である。
 『興福寺濫觴記』
(江戸時代)の鎮守社の内に記される「叱天社」・「窪辨天社」は、ともに弘法大師が勧請し、「眠明神社」は、光仁天皇の宝亀2年(771)2月5日に勧請したもの、と記している。

 瀧蔵社
 南都焼討ちで焼失した内の一社「瀧蔵社」であるが、『元要記』に「龍蔵権現」と記されている社であり、天禄年間(970-973)に社檀を建立、熊野滝本千手像を安置・・・との内容を記している。
 この「瀧蔵社」は『興福寺濫觴記』によると、喜多院の東にあり、本地は千手観音、同じく天禄年間に社檀を建立したことを記している。
 この喜多院とは『春日興福寺境内図』及び『平城坊目遺考』を参照すると、興福寺伽藍の北門、すなわちかつて存在した延乘坊門という北の惣門
(当初の悲田門の跡)の西にあった塔頭寺院で、延寿院との間に「瀧蔵社」が祀られていたことが確認できる。
 『南都七大寺巡礼記』によると、この社は、喜多院二階堂の北にあり、空晴僧都の時、長谷寺から影向されたもので、御神像は禅尼である、などの内容を記している。空晴僧都(878-958)とは、平安時代中期の興福寺別当である。



以上、平重衡による南都焼討で焼失した興福寺内四神社の内「住吉社」を除く三社は、明治以降の廃仏毀釈による移転と合祀を経て再興され、現在は興福寺を離れた春日大社廻廊外すぐ西北、水谷神社へ通じる参道角近くへ、春日大社の末社として並び祀られている。
 この内、南側に祀られている「末社 總宮
(そうぐう)神社」は、三間社流造りの社殿で、春日大社のHPによると「平安時代初期に興福寺境内に創建。明治以降に春日の境内にお遷しされ現在に至っています。・・・」、社前の説明札には「御祭神 総宮大神 天照大神・八幡大神・春日大神・白山大神・三光宮・二上権現・窪弁財天・北向荒神・睡神社 お祭り 六月五日午前十時 ・・」と記されていて、三重塔付近をはじめ、興福寺内の境内社のほとんどをまとめて祀ったようである。

        
                   春日大社境内へ移された惣宮

 また、北側にある「末社 一言主神社」は、一間社流造りで、同HPに「平安時代初期に興福寺境内に創建。明治以降に春日の境内にお遷しされました。 一言主大神様を御祭神としています。・・・」、社前の説明札には「御祭神 一言主大神様 お祭 六月五日・・」と記されていて、一言主神神社をそのまま移転したようである。


        
                 春日大社境内へ移された一言主社

 最後に、平重衡の南都焼討ちによる焼失前、寺域にあったとされる「住吉社」であるが、そもそも興福寺境内のどこに祀られていたのか、また焼失後再興されたのか否か、まったく確認することはできない。
 少なくとも焼失以後の記録である『元要記』には住吉社の記載がないので、再興されなかったと考えられなくもないが、他の三社は再興され後世まで存続しているから、「住吉社」については単独の神社形態をとらず、焼失後に関連社へ合祀する形で再興されたものと考えてもいいのではないだろうか。



 ところで、平重衡の南都焼討ちにより焼失したとされる「住吉社」に関連して、『平城坊目考』(寛政年間)の「鍋屋町」に記される「初宮神社」の存在が注目される。

 
初宮神社 (鍋屋町10) 
 初宮神社は、現在も興福寺の北方、奈良女子大学(奈良奉行所跡)の南東角近く、道を隔てた東側に祀られている。古くは旧興福寺伽藍の悲田門跡に相当する北の惣門延乗坊門の外側の二条大路に接した所で、付近には興福寺施薬院・悲田院があったともいわれる地でもある。  
 神社は、西面して朱塗りの木製鳥居・玉垣の奥に参集殿と「初宮大明神」と刻む石灯籠一対と小さな二間社の本殿が祀られている。
 その右奥にも旧社殿の古い石囲いの中に新しい小さな社殿が祀られている。さらに右手南側には「初宮社 御神燈」と刻む石灯籠1基と、かつて社殿が祀られていたと思われる石段と石積みを施した石基壇が残る。門が閉まっていたので入れず年号等は確認できなかった。

 
 

 この初宮神社について、『平城坊目考』には、
 鍋屋町 別名は石切町といい、黒門前とも呼ばれる。・・・(略)・・・
 初宮大明神 一殿 俗に初度の宮という
 当社は、開化天皇時代の八神殿にあたる。後には御堂関白道長公が再興。康治年間
(1142-1143)と長承年間(1132-1134)には神事が9月17日に行われた。毎年11月27日の春日若宮御祭礼に際しては、田楽法師らが当社の神前で舞曲の奉納を行ない若宮御祭礼の事始まりとなっていた。
 初度宮と呼ぶのは、こうした事による。「源平盛衰記」及び「神明鏡」に記され、治承4年
(1180)12月に平重衡の兵火にかかった興福寺住吉神社はこの社にあたる。宝永元年(1704)4月の火災により、社壇及び在家は悉く焼失したが、同年に神社と鳥居が再興されて正遷宮された。また宝暦12年(1762)の大火により類焼した。との内容が記されている。
 確かに『源平盛衰記』
(鎌倉時代?)にも、南都の合戦により焼失した興福寺の神社として、辨財天を加えた五社が記されているが、重要なことは『平城坊目考』は興福寺の住吉社とはこの初宮神社のことだとしている点である。

 『元要記』には、初宮神社のことについて次のような内容を記している。


 初宮社 
  ・・・(略)・・・。
 その後、この社は殿下御堂関白道長公が再興された。康治年間
(1142-1144)の春日若宮殿造替以前の造立である。長承元年(1132)9月1日、霊験により伊勢両大神宮・春日五所・住吉三所の神々を合わせ祀った。名は初宮大明神。今は若宮祭礼時に初宮社の御前で田楽が舞われる。これは当日の事始めとなる舞である。
・神祇官八神殿宮 内裏坐時宮号也
・神産日神・高御産日神・玉積日神・生産日神・足産日神・大宮賣神・御食津神・事代主神・外宮豊受皇太神宮
・内宮天照皇太神宮
・鹿島大明神・香取大明神・平岡大明神
・相殿両大神宮 若宮大明神 底筒男命 中筒男命 表筒男命 住吉大明神是也
・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
毎年9月16日17日御祭礼 御神供八膳・礼幣四本・神楽等は恒例である。
との内容を記している。
 これによると、神祇官八神殿に加えて長承元年
(1132)9月1日には、伊勢両大神宮・春日五所と住吉三所の神々を合わせ祀ったことになるが、これが半世紀後の南都焼討ちにより焼失した興福寺の住吉社であったといえるのかどうか、近い所でもあるが境外地であり、焼失した住吉社とするには少々疑問の残るところである。



 それでは、さらに興福寺の周辺部で祀られている住吉神社あるいは住吉神を祀る神社を取り上げ、焼失した興福寺の住吉社との関係を考えてみることにしたい。
 まず、現近鉄奈良駅のすぐ北を東西に走る大宮通り(東へ登大路)の北側バス停に面して「見初神社」がある。


 
見初神社 (西御門町14-2)

 この神社は、近鉄奈良駅北側のビルの間、アルミ門扉の奥に鎮まっており、気づかず通り過ぎてしまう所にある。旧興福寺伽藍の西北に存在した「敬殿門」跡の西約200mの位置にあたる。扉の奥には「見初社」と刻む扁額を掲げた覆屋の中に、庇を付けた小さな三間社の社殿が祀られている。左手奥にも何か祀られているが不明。『奈良県史5 神社』(平成元年)には、天忍雲根命・底筒男神・金山彦神を祀る、と記されている。

       

 見初神社が所在する西御門町と神社について『平城坊目考』には次のように記している。
 西御門町 
 興福寺の敬田門通りである。すなわち西御門という。古く三條坊門通は、すべて興福寺の奴婢たちの居住地であった。平城七御門の1ケ所で『元要記』には神亀2年
(725)7月22日、七朝の宮門を建立して七星をそれぞれ配し、西御門には文曲星と豊斟渟尊(とよくむねのみこと)を祀り、桑の木を植えられた、とあって、現在一殿に三座を祀る小社があり、北側に会所のある場所がその遺跡にあたる。
(祭神) 左 春日 中 文曲星 右 住吉
 老翁が言うには、春日の神が本宮嶽に鎮座された時、瑞雲がたったのを見初めし所であったことから、今もこの社を見初の神社というと。神護景雲年は、神亀2年
(725)より40年ほど後であることから、春日社と住吉の神は後に祭り添えられたのであろうか。
との内容を記している。
 この中で『平城坊目考』は西御門町が平城七御門の一つ西御門と関連づけているが、この地は興福寺の西御門すなわち敬田門(俗に酢屋の町門)があった所ではないかと考えられるので、宮の西御門と同様に文曲星と豊斟渟尊が祀られたのかも知れない。
 いずれにしても、興福寺の北~西に位置する初宮神社と見初神社は、共に南都焼討で焼失したとされる「住吉社」だと断定できる史料がないのが残念である。





興福寺の周辺では、さらに住吉神社二社の存在が確認できるほか、有名な式内社率川神社には境内末社として住吉神社が祀られていて、記録に登場する興福寺の住吉社との関連があるか否か、若干考えてみることにしたい。

 今辻子町の住吉神社 (今辻子町10番地) 

興福寺南側の三条通(旧暗越奈良街道)を西へ約500m行った開化天皇陵西南近く、今辻子町(いまづし)西照寺の西隣に小さな住吉神社が南を向いて祀られている。説明板には「御祭神 表筒男命・中筒男命・底筒男命の三神と九頭明神を祀る」とある。

  
                      開化天皇陵
  
                    今辻子 住吉神社

 石玉垣の奥、狭い境内には朱塗りの木鳥居、石燈籠一対、朱塗り春日造の社殿が祀られている。石燈籠の竿に「九頭社」「天保十巳亥年(1839)六月」と刻まれているように、『平城坊目拙解』(享保15年[1730])や『平城坊目考』の「今辻子町」には、共に「九頭明神社」と記して簡単な説明があるが、『奈良市史』を含めて、住吉神社と称するようになった経緯などは記されておらず、説明板には明治以降に住吉大社の分霊を勧請したものと記しており、興福寺の住吉社とは全く関係がなさそうである。

 勝南院町の住吉神社 (勝南院町5番地)

 猿沢池の南方約400mほど行った勝南院
(しょうなみ)町の一画にも西を向いて住吉神社が祀られている。説明板によると、
「祭神は、表筒男命 中筒男命 底筒男命の住吉三神のほか蔵王権現を祀り、当社の御鎮座年月は詳ならざるも、往古元興寺境内勝南院に鎮座さる。宝徳2年
(1450)元興寺と興福寺の争いに焼失。焼跡に民家建て連なり、誰言うとなく現在地に祠を造り、住吉四社大神を祀り、町名を勝南院とし安産・町内安全・無病息災・商売繁盛を祈願し今日に至る。蔵王権現は明治末期より大正初期に町内の誰かが密かに本殿に祀る。」と記されている。

  

 これによれば、住吉社は古くから元興寺境内の勝南院に祀られていたとするが、
『平城坊目拙解』では、町名の由来として興福寺別院の正南院との関係を記しているものの、南都焼討ちで焼失した興福寺の住吉社とは関係なさそうである。

 
 最後に、三条通りを西に行った本子守町に鎮座し、三輪山のふもと大神神社の摂社とされている率川神社の境内に末社として祀られている「住吉社」について少し考えたい。

 率川神社末社の住吉社 (本子守町)

  率川神社は、春日山から流れ下る率川(いさがわ)、別名子守川沿いに祀られる奈良市最古の神社とされ、古くから「子守明神」と呼ばれてきた。東側の「やすらぎの道」から参道を入ると、右手奥の瑞垣内に向かって左から「末社春日社」、中央に「摂社率川阿波神社」、右手に「末社住吉社」の三社が祀られている。

 
               率川神社境内の末社住吉神社(右)

 摂社の率川阿波神社は、式内社で祭神は事代主命、大正9年以前は、南側の西城戸町に祀られていた小祠を境内に移し整備したものである。
 西側に南面して春日造三棟を並列配置した御本殿には、現在は中殿に御子神の「媛蹈韛五十鈴姫命」、左殿に父神の「狭井大神」、右殿に母神の「玉櫛姫命」が祀られていて、大神神社の境外摂社と位置付けられている。
 率川神社本社の由来・祭神の詳細については省略するが、境内に祀られる住吉社に関して、『平城坊目考』に「小社二座春日住吉の二神なり」と登場するものの、『元要記』にはまったく異なる内容が登場する。
 一部内容を抜粋して紹介すると、
 崇峻天皇6年に東に向く社檀一社が建立されたが、元正天皇養老年中に南向きの三社に建て替えられ、この時に子守神と住吉神を加えた三柱の神として祀られた。藤原右大臣是公が再興したものである。中一宮は開化天皇、二宮は子守神 頭振女神、三宮は住吉明神。三宮の住吉四神の本地は明星天子で、垂迹の時は松の木7本、楢7本が天下った。住吉森はいづれも天上の霊木・・・
などと記され、さらに率川社炎上の事として、治承4年
(1180)12月の社檀焼失の際、一宮の御神体、二宮の御鉾、三宮(住吉)の御神体は難を逃れたので、まずは(興福寺の)一言主社内に納め、翌29日に南円堂内に移し奉った、との内容が記されている。
 ここに記される「一言主社」と「南円堂」とは、『玉葉』の「興福寺中寺外、堂舎宝塔、神社宝蔵等焼失事」に記される興福寺の焼失建物と考えられるが、建物の一部が焼け残った祠・堂舎のあった様子が窺える。
 『続群書類従』所収の「率川社注進状」
(正安5年[1299])や「率川御社御遷宮日記」(応永7年~8年[1400~1401])には、ともに東の一殿は率川明神、中の二殿は子守明神、西の三殿は住吉明神となっており、『元要記』の各殿祭神と同じである。御本殿の祭神が、いつから全く異なる現在の祭神となったのか不思議である。
 いずれにしても、興福寺の堂塔伽藍・鎮守社は勿論のこと、率川社についても文治4年
(1188)頃には再興されるが、興福寺の焼失した住吉社を、率川神社の三宮として祀られていた住吉社へ合せて遷し祀って再興したか、あるいは『平城坊目考』が興福寺の住吉社はこの社にあたると指摘するように、焼失した可能性のある初宮社の復興の際に、初宮社へと合祀されたと考えることもできないことはない。
 しかし、そうした経過等を裏付ける確実な史料が見いだせず残念である。




 なお最後に、興福寺の周辺には、東大寺の鎮守社として祀られている手向山八幡宮の境内に、鎌倉時代の住吉社本殿
(重要文化財)があるほか、氷室神社(闘鶏稲置大山主命・大鷦鷯命・額田大中彦命)の山門前の西側(古くは拝殿西にあった)には境内社の住吉社が祀られている。
     手向山八幡宮住吉社          氷室神社本殿前       同境内住吉社

 また、春日大社境内には南都焼討ち前の久寿2年
(1155)に勧請された 末社の岩本神社(住吉三神)が祀られているが、各社境内の住吉社は、 あくまでも各本社と摂社・末社の関係で祀られており、興福寺の焼 失した住吉社を再興するために各社へ遷し祀った可能性はきわめて 低いものと考えられる。

 2018.7.29 





 新たに春日大社・興福寺周辺において、住吉神社2社の存在が確認できたので付け加えたい。(2019.10.17追加 原田)


 高畑町市ノ井の住吉神社

 春日大社の上の禰宜道から南に神苑を出て、高畑の集落を東西に通る「滝坂の道」を東に上がっていくと、能登川に架かる市ノ井橋の手前に親ろく地蔵舎があり、その北側の林の中にひっそりと住吉神社(祭神 住吉三神)が祀られていて、春日大社の境外末社となっている。

 
             春日大社の末社 住吉神社と市ノ井恵毘須神社

 小さな本殿の右横には、赤い神柵の中に磐座石を祀っていて「市ノ井恵毘須神社 (祭神 事代主命)と呼ばれている。
 市ノ井とは、少し上手の水源の能登川から一番目に用水を取水した「一之井」で、相当古い時代から井上町など春日の神官達の社家居住地域や新薬師寺方面へ清水を導いていた重要な井路であった。
 神社の東約80mには、川からの取水口があり、今は金属製の樋門が設けられている。
 ところで、『奈良坊目拙解 八』には、興味深い内容が記されて(私訳)いる。

 
             能登川の一之井橋(左)と一之井取水口(右)

一之井川 橋がある。その水源は高円山より出て春日山の南面から南白毫寺村を流れ下る。下流は能登川である。もとの名は一之瀬。春日神社記には、武雷神(武甕槌命)が神護景雲元年(*767)に一瀬に至るとある、今俗にここを一ノ井と呼ぶ。
酒神小社一座 北方の路傍の岸の上にある。春日大社の末社。祭神は、酒弥豆男命・酒弥豆女命で、俗に壹(*一)神という。・・・・・・。
恵美酢神社 一之井の北の春日山内にあり、当社は若宮神主家が支配する。毎年6月晦日の名越祓には社家禰宜がここに集まり、祓い清めの神事がある。また、一之井川には深い淵があって俗に茶碗淵と呼ばれている。

との内容が記されている。
 現在、住吉神社と市ノ井恵毘須神社が接して祀られているが、上記の『奈良坊目拙解』の記述を考え合わせると、左側の「住吉神社」は、本来は「酒神小社」で、右側の磐座石を祀る「市ノ井恵毘須神社」とは、「恵美酢神社」で、一之井の取水口近くの北側、つまり春日山内、に祀られていたものが、何らかの理由で移されて、酒神とあわせ末社として祀られることになったのかもしれない。両社共に、興福寺境内で祀られていた住吉神社の系譜をひく神社では無いだろう。


 
南法蓮町にあった住吉明神宮跡
 
『奈良曝』(貞享4年[1687])の南法蓮町の説明の中で、かつて「住吉明神宮跡」と記す住吉神社が祀られていたことが分かった。

住吉明神宮跡 南法蓮町の南西角、人家の裏に大きな森があり、木の下に先年まで神祠があったが、倒れて無くなり、建てなおす?人もいない。

と記される(私訳)のみである。
 南法蓮町は、興福寺の北方、江戸時代には広い奈良御奉行屋敷があった現奈良女子大学敷地の西側にある町域で、北は佐保川南岸の東新在家町、南は坊屋敷町に挟まれた所である。
『平城坊目拙解』には、元禄2年(1689)当時、家数6軒、宝永元年(1704)火災で相当焼失したことを記すが、住吉明神のその後については記されていない。
 ましてや、興福寺にあった住吉神社との関係は全くわからない。





 いこまかんなびの杜