洛 中 の 住 吉 神 と 和 歌 三 神 社



 京都の街は、幾たびもの戦乱と大火が繰り返される中、政治・経済・産業の中心として千二百年もの長い歴史が展開され、工芸や芸術・文学など貴重な日本の伝統技術や文化が醸成・継承されてきた街である。
 平安京の条坊制にもとづく碁盤目状の道路と町割りを保ちながら、後世には豊臣秀吉によって行われた京都大改造の一環として、半町ごとの南北通りである中通りを追加して、短冊形の区画の町割りへと改造されたものが街の原形となっているという。
 これまで京都の市内に目を向けることが少なかったのであるが、近年、京都市内下京区を東西に横切る大動脈である五条通りを挟んだ南北市街地に、いくつかの住吉神社のほか、関連する神社や住吉町が存在することを知った。
 また、史料を調べている内に、北方の京都御苑南側(中京区)や四条西院(右京区)、その他の地域にも記録されていて、かつてはこうした地にも住吉神社が鎮座していたことも判ってきた。
 余談であるが、現在の幹線道路である五条通(国道1・9号)は、平安京条坊制にもとづく古来の道路ではなく、第二次大戦末期に六条坊門小路にあたる小道(豊臣時代以降に五条通り)の南側建物を多数疎開させて造られた防火帯を、戦後になって五条通として造ったものである。二筋北を東西に通る「松原通」が、ほぼ古来の五条大路にあたるといわれている。
 すなわち松原通の北四町(約550m)がほぼ平安京の五条、南は同じく六条ということになる。

      

 
それでは、京都市街地を中心に鎮座する住吉神社と関連の神社について考えていくことにしたいが、以下に紹介する史書文献の文章については、一部(「」)を除いてすべて私訳であるのであらかじめご了承下さい。




 
 1 島原の住吉神社 (下京区西新屋敷下之町)

 さて、まず一番目にとりあげる住吉神社は、下京区の西半、五条大通りJR山陰線丹波口駅のすぐ南側にある京都市中央卸市場に接した「島原」地区の西端、もと島原の西門が存在した所である西新屋敷下之町に鎮座する。
 JR山陰線・千本通に沿ったこの辺りは、古代平安京の中心に設けられていた朱雀大路が通り、渤海使を迎えた東鴻臚館が存在していた所にあたる。

         

  

 島原の街は、現地の説明板を参照すると
「江戸時代以来、公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。寛永18年
(1641)、官命によって島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀野の地に移された。
 その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式地名は「西新屋敷」という。この島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した」と刻まれている。
 南方には、島原を代表する揚屋(料亭)であった「角屋」が唯一残されていて、重要文化財に指定されている。
 
 

  

 島原の住吉神社は、石玉垣に囲まれて南面し、「島原住吉神社」の扁額を掲げた小振りの石鳥居(明治36)、石灯籠と「宇賀宮」の木額を掲げた四脚門、砂岩製狛犬と「住吉神社」の木額を掲げた覆屋に守られて小さなご本殿があり、背後に社務所がある。
 狭い境内の左手には、文政3年庚辰
(1820)の年号を刻む円柱状の燈籠があり、奥には「天満宮」を刻んだ石燈籠、覆屋内には大宰府天満宮にならい「鷽替(うそかえ)神事」が営まれたという幸天満宮が祀られている。
 この天満宮について『京都坊目誌』
[大正4年(1915)]には、

○廃天満宮 島原郭内にあり、もとは揚屋町会所に祀られていた。享保19年
(1734)6月17日に住吉社の境内に移す。延享5年(1748)2月に嘘替の神事が始まり毎年の例となる。安政の火災の後、荒廃する。横に妙見堂があったが明治6年3月、共に廃された。
との内容を記している。

 境内にある拝殿舎に掲げられる「宇賀宮」の額は、島原郭内中之町つまり東方の歌舞練場跡にもとあった稲荷神社の額であったと思われる。
 ところで、島原の住吉神社は、いつの時代に祭祀されたのだろうか。島原の花街は、江戸時代の初めの寛永18年
(1641)に六条三筋町から遷されてきたのだが、同時に遷されてきたものか、それとも後の勧請なのだろうか。
 社前の顕彰碑には次のように記されている。

[島原住吉神社顕彰碑]
(平成13年11月 島原伝統保存会)
「島原住吉神社は、もと島原中堂寺町の住吉屋太兵衛の自宅で祀っていた住吉大明神が霊験あらたかにして良縁の御利益があり、参詣者夥しきため、享保17年
(1732)、祭神を島原の西北に遷座し建立されたものである。その規模は、南は道筋(どうすじ)[島原中央の東西道]から、北は島原の北端にまで及び、広大な境内地を有した。爾来島原の鎮守の神として崇められ、例祭とともに、太夫・芸妓等の仮装行列である「練りもの」が盛大に行われていた。・・・・以下略・・・・・・。」と刻んでいる。

 これによると、現在の神社は、享保17年
(1732)に郭内東南に位置する島原中堂寺町(二筋東側)に住んでいた住吉屋太兵衛なる者が自宅で祀っていた社を遷座させたものだとしている。

 遷座の詳しい経過は『京都坊目誌』
[大正4年(1915)]に、次のように記されている。
○住吉神社 島原郭内下之町にある。千本口の北側 江戸時代の天和年間
(1681-1684) 、泉州堺の人であった住吉屋某は、島原地区の北に位置する中堂寺村に住んでいて、住吉神を信仰し、宅内に勧請した。その後、住吉屋某は島原の郭内へと移住して遊女屋を開業した。住吉の神祠も同時に島原へ遷した。その場所は詳しく分からない。
祭日は6月28日で、やがては島原郭内の鎮守となった。安永9年
(1780)に大祭が行われ祭日を5月28日に改めた。安政7年(1860)に火災に罹り、今の地へ再建された。
明治6年
(1873)3月には一旦廃社となったが、同39年(1906)に再建されて中堂寺住吉神社の御旅所として再び祭祀されることになり、例祭は9月28日となった。私有地30坪を有する。と記されている。
 以上のことから、島原の住吉神社は、北方に位置する中堂寺村内へと移住してきた堺出身の住吉屋某(顕彰碑では住吉屋太兵衛)が、自宅に勧請祭祀していた住吉神を島原郭内への移住・営業と合わせて遷座祭祀したのに始まり、篤い崇敬を受けるに至ったということになる。
 そもそも、島原住吉神社の北東約600mの中堂寺通に面した藪之内町には、中堂寺村の住吉神社が鎮座している。
 水商売人の住吉屋某が、もともと自宅に勧請祭祀した住吉神は、住吉大社から直接というより、中堂寺に古くから祀られてきた住吉神社のご祭神を勧請したとみる方が自然で、その勧請にあたっては中堂寺村や島原の有力者の意向が大きくかかわっていたことが考えられる。



 2 中堂寺住吉神社 (下京区藪之内町)

 次に、島原の住吉神社の北方に位置する旧中堂寺村にある住吉神社の歴史を考えてみたい。神社は、中堂寺通に面した下京区大宮通五条下
西入藪之内町に鎮座する。
 通りの南側の石鳥居
(昭和5年)から狭い境内に入ると、正面に社務所、左手には金比羅神社、右手の赤い鳥居の奥には拝殿と住吉造り風の江戸期本殿が祀られている。

 

 

 拝殿左側の覆屋内には、新しい天満宮社・貫之神社・道祖神社・神明神社の四小祠と、右端には杮葺流造の古風な稲荷神祠が祀られている。奥の本殿左手の植込みには数個の自然石と人面を表したような不思議な加工石が存在する。

宝暦4年
(1754)の『山城名跡巡行志』には

住吉ノ社
(中堂寺)
中堂寺村にあり、門は北向き、鳥居と社殿は東向き、鎮座の記録は不詳。例祭は6月28日。神輿は一基 。近頃、島原町の産沙神ともなり、お旅所の社が彼の地に建てられた。よって23日に神輿は島原へ移る。島原は古くは松原の氏子であった。

と記されていて、江戸時代以降、お旅所となった島原の住吉神社とは深い関係となったことがわかる。
また、安永9年
(1780)の『都名所図会』にも

住吉社
 大宮中道(堂)寺にあり、ご祭神は摂州住吉大社からの勧請である。中堂寺島原傾城町地域の産土神。祭は6月28日。
と説明している。

さらに『京都坊目誌』には次のように記されている。
○住吉神社 
藪之内町の中央南西街の南側617番地の1にある。門は北に面し、華表
(鳥居)は東面、本社も東面している。祭神は表筒男命・底筒男命である。創祀の年月は不詳。一般に中堂寺の住吉と呼ばれている。社記は、天明8年(1788)正月に焼失して伝わっていない。
明治6年
(1873)7月に村社に列する。現在の境内面積は109坪を測る。例祭は9月28日で、境内には天満宮・紀貫之の社ほか五つの末社があるが省略する。
とある。

住吉神社入口に京都市が建てた「説明板」を参照すると次のようである。
「当社は、平安時代初期の延暦年中
(783~806)に建立され、保延4年(1138)に再興された。天正19年(1591)に再々興された。現在の社殿は、文政8年(1825)に修復されたものである。祭神は、表筒男命・中筒男命・底筒男命の三神である。」
 祭神が二神と三神の違いがあるが、相当古い歴史を秘めていることは確かである。

 ところで、当住吉神社で配布されていた「神社由緒書」には、勧請以降の由来が詳しく書かれていて、それを参考に要点を記すと次のとおりである。
 延暦年間
(782-806)に摂津住吉宮から勧請された。その後、保延4年(1138)に中納言藤原顕輔(あきすけ)の殿舎内に再興され、歴朝の歌道伝授の時には朝使が遣わされ参拝された。藤原顕輔(1090-1155)は、平安時代後期の歌人で、顕季(あきすえ)の子、清輔(きよすけ)らの父にあたり、崇徳院の院宣により「詞花集」を撰した。
 神社はその後、応仁の乱の兵火で焼失したため、しばらく油小路通六条に移されていたが、本願寺の移築のために再び旧地(中堂寺)に戻った。一時移転したその地には住吉町という名前が今も残る。
 現在の本殿は、天明の大火以後に建てられ、京都市内に残る江戸時代唯一の住吉造りの建物と思われる。境内には歌道の神として紀貫之大神、天照皇大神、猿田彦大神、天満宮、稲荷社、金比羅社を祭る。  
(中略) 
 また、住吉神社には江戸時代の作で氏子祭の神輿の先導、露払いの祭具である剣鉾三基(松鉾・牡丹鉾・菊鉾)が、担い鉾に改造されているが今も伝わる。住吉神輿は、正徳6年
(1716)の作で、天明8年(1788)の大火によって本殿、神輿ともに焼失したため、寛政3年(1791)5月に「宮殿式切妻造り」の神輿に造り改められた。
との内容が記されている。

 
 
 ここで注目したいことは、中堂寺住吉神社は、平安京遷都の頃に摂津の住吉大社より勧請されたことを伝え、300年ほど後の平安後期にあたる保延4年
(1138)に、歌道師範家の歌人として有名であった中納言藤原顕輔(あきすけ)の殿舎の内、すなわち「六条家」内に再興されて、歌道伝授の際には歴朝の使いが遣されたのだと伝えている。
 六条家の名は、顕輔の邸宅が大宮六条にあったことによる呼称であるが、大宮通のすぐ西に位置する中堂寺住吉神社付近は、条坊制の左京六条一坊十三町に該当し、周辺に六条家の邸宅が存在していたのだろう。
 顕輔の邸宅内へ神社が再興されたのは、当然ながら歌道師範家の隆盛と和歌三神崇敬の高まりによるものだったのだろう。
 平安京遷都の当初に勧請されたとする伝承は興味深いものの、その経過及び当初の鎮座地については不明である。平安京遷都に伴う京域内の鎮護の神あるいは堀川などの人工溝や用水に関わる公式祭祀あるいは当初に居宅を構えた有力者により、六条周辺地に勧請されたものと考えてもよいのではないだろうか。
 次に興味深いのは、神社が応仁の乱により焼失したため、しばらく油小路通六条の地に移されていたことである。その地は、現在の住吉神社の東南450m、堀川通のすぐ東側、西本願寺東北の隣接地が油小路通六条であったという。北は条坊制の六条大路に接し西中筋通を挟んだ一画には、現在でも住吉町の地名が残されている。
 この住吉町について『京都坊目誌』
[大正4年(1915)]には

伝えによると、寺内となる以前に住吉の神祠があった。町名はそれによる。神社の興亡の年月は不詳である。また、本国寺の中には人麿祠があって、五条の玉津島社とあわせて和歌の三神社とされる。今、中堂寺町にある住吉神社がこれにあたるものか。
と記している。
 しかし、和歌三神社の一社と伝える住吉神社は、住吉町から醒ヶ井通を北へ行った高辻下
の地に、藤原俊成の勧請と伝える住吉神社(新住吉神社)が鎮座していて、東南の玉津島町にある玉津島神社(新玉津島社)が近接している。



 3 新住吉神社と人丸社
(下京区醒ヶ井通住吉町)

 現在の五条通りから醒ヶ井通を北へ行き、三筋目の高辻通と交差する南東角に、和歌三神に関わる古い伝承と由来を伝える住吉神社がある。
 醒ヶ井通を挟む両側町の名は、やはり下京区住吉町である。一筋手前の東西通りは松原通で、今では道幅は狭くなっているが、平安京時代の幹道五条大路にほぼ該当し、都の中央を東西に横断する重要な大路であったようで、神社の所在地は、平安京の条坊制では左京五条二坊十二町附近に所在していたことになる。しかし伝承や史書によると神社が中世末期に近辺から移転してきたものと伝える。

 

 板塀で囲まれた西側の冠木門から狭い境内に入ると、すぐに唐破風が付いた割拝殿があり、後部に小さな住吉造りの本殿が祀られている。
 両殿の間には、神供台と屋根を付けた衝立状の木製蕃塀が目隠し用に設けられているようで、上部には、額縁は赤く「住吉宮」の字は金色に塗られた小さな社額が掲げられている。下部の板前面には住吉の松と四羽の白い鶴?が大和絵風に描かれているようである。

 

 

 本殿の右奥には「人丸社」が祀られ、左奥には赤い鳥居・覆屋内に「熊丸稲荷大明神」の祠が祀られている。
 拝殿の上には薄くなっているが、墨書で「住吉神社由来」を記した木製板が掲げられている。内容を略述すると

        

御祭神 天照大神 田霧姫神 底筒男神 中筒男神 表筒男神 神功皇后 武内宿禰命
 後白河天皇は、保元2年
(1157)に和歌の三神を平安京に勧請するよう藤原俊成に命じられた。俊成は命を受けて、摂津国住吉(大社)より五條室町の地に勧請し「新住吉」として篤く祀った。以来、朝廷以下民間からも厚く崇敬され、宮中の和歌所別当が祭祀し、神社として興隆を極めた。応仁の乱の兵火により社殿はすべて焼失してしまった。中世末期の永禄11年(1566)、正親町(おおぎまち)天皇が荒廃を惜しまれ、現在の地に遷座、正殿が造営された。以来再び歴代朝廷の崇敬はあつく、歌道御伝授の儀式に際しては、勅使が派遣され御代拝された。その後、二度にわたり類焼、再造されたが、明治32年(1899)正三位伯爵冷泉為紀卿の呼びかけで広く寄附を募り、同11月に現在の社殿が建立された。
との内容を記している。

 正徳元年
(1711)の『山州名跡誌』神社部には「新住吉社」として紹介されている。
○新住吉社 醒ヶ井通高辻の東南角にあり、門も社も西を向く。祭神は摂州住吉社と同じ神である。当社は、和歌の神である故に三位藤原俊成卿の勧請した社である。と記すほか、
安永9年(1780)の『都名所図会』には
新住吉社は醒井通高辻角にあり、祭神は摂州住吉明神である。藤原俊成卿が勧請したものという。
との内容を記している。

 さらに、大正4年
(1915) の『京都坊目誌』には
○住吉神社
西高辻町醒が井の東北角の207番地1・2、及び住吉町481番地にある。古くから住吉町が祭祀している。門は西と北にある。拝殿・本社共に西に面している。
祭神は天照大神・田霧姫神・底筒男ノ神・中筒男ノ神・表筒男ノ神・神功皇后・武内宿禰を祀る。
後白河天皇は、保元2年
(1157)藤原俊成に命じて五條宅に勧請させた。すなわち和歌の神であるによる。応仁元年(1467)兵火に罹りわずかに神宝が残る。永禄11年(1568)に現在の地へ遷座した。これは正親町天皇が命じたものと言われる。中御門天皇の正徳6年(1716)に神輿と鉾等を下賜された。
歴代天皇は、玉津島神社と同じく歌道伝授の儀に際しては、使を遣わし参拝させた。天明8年
(1788)正月の大火で社殿が焼失し、新しく造営された。元治元年(1864)再び兵火により社殿を焼く。朝廷より金幣を下され、前後に亘り下された献物は多い。
明治6年村社に列し、同30年に町民その他有志は、社地を整備し社殿を造営した。例祭は5月28日。現在の境内面積は67坪4合5勺を有し、官有地と民有地が混じる。
との詳しい説明がのせられている。

 以上の記録や史書を参考にすると、現在の住吉神社は、応仁の乱による兵火で焼失した後の永禄11年
(1568)に現在の醒ヶ井通へ遷されてきたもので、神社は平安時代の末期の保元2年(1157)に、後白河天皇が藤原俊成に命じて、和歌の神である摂津国住吉の住吉神を、俊成の五條宅へ勧請させ「新住吉宮」として祀ったことに始まるようである。

 明暦4年
(1658)の刊行の『京童』の補遺である『京童跡追』には、
○新住吉 この宮は五條高辻にあり、むかし三位俊成卿が摂州住吉大明神を勧請した所である。古くは神社の境内は、方一町ほどあったが、応仁の乱で焼失した。・・・
との内容を記し、合わせて絵図を載せている。

           

築地塀内の境内には、瑞垣で囲まれ千木鰹木をのせた住吉造りの本殿と拝殿、その前には凧揚げなどして戯れる5人の童たちを描いている。
 ところで、俊成の五条の邸宅であるが、由来書にもあるように五条室町の地にあったとされる。
 『京都坊目誌』によると、藤原俊成邸宅の場所について、伝えでは「五條京極の家」と呼ばれる京極町の西側方一町の地のほか、五條にはまた別の邸宅があったという。すなわち後述する玉津島神社がある玉津島町から烏丸通の東側、俊成町にかけて広い邸宅が存在していたようである。
 現在の新住吉神社のある高辻通を東へ450mほど行くと、菅大臣神社があり、さらに東に行った所には海神の宗像三女神を祀る「繁昌神社」がある。さらに一筋南の松原通を少し東へ行った南には、住吉神社と同様、和歌の神とされる衣通郎女(そとおりいらつめ)ほかを祀る「新玉津島神社」が鎮座している。また、すぐ東側の烏丸通交差点南東側のビル下には、「俊成社」の小祠が祀られている。
 これらの関連する神社については引続き紹介していくが、新玉津島神社の鎮座地付近は、藤原俊成の邸宅の跡であったようで、住吉神・玉津島神、後述する人麿神の和歌三神が、同時に勧請されて祀られたものと考えられ、一帯は平安京条坊の左京六条三坊九町、烏丸通の東は十六町にあたる。

 ところで、住吉神社の本殿右側に祀られている「人丸神社」であるが、この社について『京都坊目誌』は、次のように記している。
○人麿ノ社
住吉町の東側、人家の後の園に祀られ「人麿御霊」と称されていた。勧請の年月は不詳である。明和6年
(1769)に町民が祠を再建したが、天明8年(1788)に類焼したため再造された。元治元年(1864)に再び焼失したため、以後は住吉神社の境内に遷して末社とした。社は西に面している。稲荷社もあるがこれを省略する。
と記している。
 すなわち、もとは住吉町の東側に祀られていたが、江戸末期の元治元年の火災以降は、現住吉神社の境内に遷されたことがわかる。ところで遷される以前の人麿御霊社の様子については、天明7年
(1787)の『都名所図会拾遺』に、次のように記されている。

人麿御霊社 (ひとまろごりょうのやしろ)
醒井通高辻の南東側、人家の奥にある。初めはただ御霊社と呼ばれていた。昔、俊成卿の宅地に和歌三神が勧請された。住吉・玉津嶋社は現存して前篇(『都名所図会』)にも載せられたが、人丸の祠については載せられていない。しかし、近年の明和6年
(1769)の春、正二位冷泉前大納言爲村卿は、この人丸社が不明となっていることを惜まれて、付近の街々に祀られる祠を調べさせた所、ついに人丸祠を見つけることができ、これこそ遠祖の俊成卿が勧請された一社であるとして尊崇され、町中の人たちも初めてこれを知って社を修造し、祭事を改めて3月18日とした。為村卿からも和歌をいただき、今は町内に蔵めている。との内容が記されている。
 
 すなわち現住吉神社境内に祀られる「人丸社」は、江戸時代の明和6年
(1769)に冷泉前大納言爲村卿により不明であった人丸神祠が見つけられ、幾度かの火災・再建をへて、元治元年(1864)の火災の後、住吉神社の境内に遷されてきたものだということになる。




4 旧本圀寺境内にあった人丸社 (下京区柿本町)

 ところで、柿本人麿を祀る人丸社あるいは柿本神社は、全国に250以上もの関係神祠があるといわれるが、下京区内にはもう一社、醒ヶ井通住吉神社の西南方、五条通りの南側堀川通りのすぐ西に位置する柿本町に、町名の由来ともなった柿本神社(人丸社)が存在していた。

       

 もと西本願寺の北方には、昭和46年に山科へと移転した日蓮宗の本圀(国)寺という大寺院と多くの塔頭があり、安永9年
(1780)の『都名所図会』「大光山本圀寺」の境内図には、伽藍北側に位置する方丈の北方に「人丸社」が描かれている。
文中には、人麿社 方丈の庭にあり。尊氏公ここに楼を建て観柳亭となづく。と記している。
 また、宝暦4年
(1754)の『山城名跡巡行志』には
○人丸社
方丈の北にあり南を向く。柿本人丸を祭る。紀貫之が勧請し、その後洪水のため社地が失われた。世人は人丸塚と呼び、その後、俊成卿により再興された。
と記している。

少し古い正徳元年(1711)の『山州名跡志』にはさらに詳しい記述が載せられている。
○人麿社 
方丈の北にあり南面する。祭神は柿本人麿。本圀寺の寺記によると、人麿社は、はじめ紀貫之が勧請したものである。しかしその宮は、延喜年間に洪水によって失われ、社地だけが高く残り、傍に柳の古木があった。よって後世に「人丸塚」と名付けられた。
その後、藤原俊成卿が帝都に和歌の三神を祭るに至り、神殿を再興した。さらにその後、この場所に本圀寺を移すにあたって、足利尊氏公は、この神祠を再興して、前には堀河の流れを通し、幾品の草花を植え、傍には亭閣を建てて観柳亭と名付けた。
・・・(略)・・・・。との内容を記している。
 貞享3年
(1686)の『雍州府志』にも「人丸塚」の由来に関する記載がある。
人丸塚 
古くは日蓮宗本國寺の中にあった。寺の旧記によると、本國寺の第二世日静上人が相模国鎌倉松葉ヶ谷から京都のこの寺に遷られる時、上人は本尊等と一緒に小さな船で北の方の一條堀河から流れ下られたが、ちょうど人丸塚の前で船は留まり、そこに寺を建てたという。和歌三神社の内、現在洛下にあるのは住吉社と玉津島社はあるが人丸社は無い。よって本國寺の中にある人丸社がそれにあたるだろう。
今、八坂郷の法観寺の北にも人丸塚と呼ばれる塚があるが、はじめは本國寺の地にあり、寺を建立する際に人丸塚を今の地に移し、塚の上に社を建てたものだろうか。
との内容を記している。

 人丸塚の存在も気になる所だが、幕末に醒ヶ井通住吉神社へ遷し祀られた「人麿御霊社」のほか、紀貫之が勧請し藤原俊成が再興したと伝える本圀寺方丈の北に存在した人丸社(柿本神社)を合わせて、東西二つの「人丸社」が存在したことになる。
 醒ヶ井通りの住吉社神社境内に移された人丸御霊社は、俊成が住吉社・玉津島社の勧請と合わせて、本國寺の造営以前から荒廃していた人丸社を再興した際、その分霊を邸宅または付近に勧請したと考えることもできよう。
 なお、人丸社すなわち柿本神社の所在地であるが、本圀寺の方丈・庭園が存在した五条通の南方には、現在、京都東急ホテルが建っていて、全く旧状は失われている。
 『重要文化財本圀寺経蔵(輪蔵)移築工事報告書』や『日蓮宗本圀寺史料』の付図・写真を見ると、方丈書院の北側の庭園を画する東西築地塀に沿って、数十m程の細長い築山と池泉が存在し、その東端に近い所の石橋を渡った築山上に石鳥居・柿本神社が存在したことがわかる。
  参照「六条の地に於ける終竟の本圀寺」

 人麿社は、寺院造営以前の平安時代末期、藤原俊成による社の再興よりはるか以前の10世紀初めの平安前期の歌人、紀貫之
(866?~945)が勧請したものだと伝えていることは大変興味深いものである。
 平安時代~鎌倉初期には、付近には鳥羽皇后美福門院の乳母伯耆局宅、後に摂政・関白を務めた近衛基通
(1160-1233)の邸宅「猪熊殿」があったといわれ、

宝永2年
(1705)の『山城名勝志』には、
○猪熊殿 六條北堀川西にあった。本國寺の方丈北端に御所の跡があり、今も古い堀跡が残る。同所には柿本社がある。本國寺の寺記には、この地は源義経の旧跡云々・・・(略)・・。と記されるほか、
『山州名跡志』には、
源家堀河館 これ即ち源爲義
(*1086-1156)より頼朝に伝わる所である。その地は現在本國寺の本房より南の方である。方丈の東北の竹林の地は、いにしえは馬場だったという。・・・(略)・・・・
と記されるように、河内源氏累代の居館も隣接して存在していた所でもある。
 堀川は、平安京の造営に際し南北に開削された幅の広い人工運河であるが、洪水による被害や火災により、周辺がたびたび荒廃したようである。
 紀貫之が人丸社を勧請したとの伝承が正しいものとすれば、当時、左京六條堀川近くに構えられた公家や武家の邸宅・居館内への勧請であったものと考えられるが、関係する史料を見いだせないのが残念である。
 なお、『山城名跡巡行志』によると、坊城通西高辻南の地、すなわち壬生寺の南方にもう一つ、由来不明の人丸塚があったことを記している。




 5 新玉津島神社 (下京区玉津島町)

 さて、和歌三神の一神として藤原俊成卿により勧請されたと伝える玉津島神社は、平安京のほぼ五條大路にあたる松原通に面した下京区玉津島町の一画、ホテルや商店の入った大小ビルに囲まれた所で、すぐ東側には烏丸通が通る。平安京の条坊では、左京六條三坊九町の北端にあたる。
 

     


 松原通に面した入口の冠木門前には「新玉津嶋神社」の社号を貼った銅版製の扁額を掲げる石鳥居と石の社標があり、石敷参道の奥には拝所を兼ねた幣殿と流造りの本殿が直交して祀られる。参道途中右手には、覆屋根で守られて摂社の天満宮、末社の秋葉神社が祀られている。
 
 

 本殿左右には「奉燈」と刻んだ角柱形の石燈籠1対がある。幣殿の参道側軒下には、欠字があるものの、平成26年に復元調製された長文の由緒銘板が掲げられている。
 神社入口に京都市が設置した説明板には次の様に記されている。
[京都市の説明板]
新玉津島神社(にいたまつしま)
この神社は、文治2年
(1186)後鳥羽天皇の勅命により、藤原定家の父で平安末期から鎌倉初期の歌人として名高い藤原俊成が、五條大路(現在の松原通)烏丸から室町にかけての自分の邸宅地に、和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている歌道の神「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」を勧請したことに由来する。
 それに先立つ寿永2年
(1183)、後白河法皇の院宣により、藤原俊成はこの邸宅を和歌所として「千載和歌集」を編纂し始めた。ちょうどその年、木曽義仲が京に攻め入り、平家一門は都落ちするが、門下の一人である平 忠度(ただのり) は、危険を顧みずこの屋敷に引き返し「一首なりとも選んでほしい」と自分の秀歌の巻物を献じた逸話は有名で、俊成は、その中から次の一首を選び、千載和歌集に載せたという。
  さざなみや 志賀の都は あれにしを
         むかしながらの 山ざくらかな
 江戸時代には、「源氏物語湖月抄」などの古典注釈の第一人者で、松尾芭蕉の師である北村季吟が、約七年間、この神社の宮司として住み、万葉集の注釈書「万葉拾穂抄」の編纂に励んだ。
 これらの由縁から、今も多くの人が短歌、俳句、文章の上達祈願に訪れている。
と記されている。

 大正4年
(1915)の『京都坊目誌』には、次の様な内容を記している。
○玉津島神社
玉津島町の南側309番地にある。鳥居は北面し、社殿は西を向く。祭神は、雅日女命・息長帯日女命・衣通郎女である。文治2年
(1106)11月、藤原俊成が勅旨を受けて勧請し社殿を造営した。その地は俊成の宅地であった。貞和2年(1346)に再建され、邸内には和歌所も再置された。
貞和6年
(1350)、足利尊氏が修理し、経賢法印を別当職に補任した。応永24年(1417)には足利義満が修造した。また永享6年(1434)火災に罹り造営された。さらに応仁元年(1467)には兵火に罹って焼失し再び造営された。天正年間(1573-1592)には後陽成天皇より新玉津島の宸翰を賜わる。天明8年(1788)に類焼したため再造された。元治元年(1864)、兵火に罹り社殿を失ったが、朝廷から特別に金百両を賜わり、再建の資金とした。明治6年(1873)7月に村社に列し、玉津島神社と称した。
境内の面積は75坪8合2勺で民有地一種。例祭は11月3日。
・・・以下略・・・
○和歌所の跡
玉津島町南側の地にある。中世以来、天皇の意向により和歌所が設置され、当職の者が玉津島神社の別当に補せられることが通例となる。その後、和歌所は廃されて神社だけが残ったもの、との内容を記している。
 参道沿いに祀られる摂社天満宮と末社の秋葉神社については、宝暦4年
(1754)の『山城名跡巡行志』に、
天神社・稲荷社は本社の左右にある。(本社の)例祭11月13日、天神祭6月25日、稲荷祭2月初午。
と記している。

また、『都名所図会』安永9年
(1780) には、
新玉津嶋社は松原通玉津島町にあり。祭神は衣通姫で、紀州玉津島と同神である。俊成卿が勧請したもの。祭は11月13日である。(爲家卿が若年の時、この社に毎月六度ずつ百首の歌を奉ったという。
との内容を記している。
 なお、『同書』に掲載されている「新玉津嶋社」の絵図は、当時の神社の様子を詳しく描いており、築地塀と門、広い境内奥の石壇上に三つの拝殿、その中央奥には立派な流造の本殿を描いている。

    
         
『都名所図会』                 『京 童』

 三つの拝殿の内、左側には「天満宮」、右側には「稲荷」、中央奥に祀られる御本殿には「玉津嶋明神」と記している。つまり、古くは左右の拝殿内に、現在参道にある小祠が祀られていたようである。また、拝殿前には「住吉松」と記した大きな松が描かれ、江戸時代にはかなり広い神域であったことがわかる。また、明暦4年(1658)の『京童』にも、神社境内の「住吉の松」と入口の門前で参拝の許しを求めているのだろうか武士と従者の様子が描かれている。
 
 『山城名所寺社物語』享保年間(1716-1736) には次のように記している。
○玉津島 松原通からす丸西へ入南角  
当社は、和歌の御神玉津島の明神である。五條三位俊成卿が都の内に和歌三神を勧請した。住吉の社は醒井高辻に、人丸の社は本國寺の内に、玉津島は当社である。この地は俊成卿が住まれた邸宅の跡で、薩摩守忠度
(ただのり)が狐川から戻って一宿した所である。・・・・(略)・・・
との内容を記している。

 この中で、人丸社については、醒ヶ井通の新住吉神社近くで見つけられた人丸御霊社ではなく、本國寺の人丸社の方を挙げていることが興味深い。




 6 班女塚と住吉姫松の碑
(下京区繁昌町)

 玉津島神社のある松原通の一筋北、高辻通室町西入の繁昌町に、田心姫命・端津姫命・杵島比売命の宗像三神あるいは辨才天を祭るともいわれる繁昌神社(班女の社)がある。海神を祭る宮である。

  

 この神社の西側に建つマンション
(カノン室町四条)の横、旧参道であった道を奥に入った所に、1m以上の赤黒い大きな自然石を塚石に据えた「班女の塚」が祀られている。自然石はやや光沢のあるチャートの様である。

 

 塚の横に建てられた説明板によると「今は昔、平安京の頃、この辺りには藤原氏の邸宅がありました。その庭の中島に弁財天を勧請したのが「班女の宮」の始まりと伝えられます。
・・・(略)・・。鎌倉時代の逸話集「宇治拾遺物語」第三章の長門前司の娘の話の舞台は、この地に符合することから、少なくともそれよりかなり古くから神が鎮座していたことを裏付ける証しとされます。・・・・」と記されている。
 物語の続きは、亡くなった娘のため築かれた高い塚が付近にあったこと、塚上に社が造られた、ということである。
 ところで、班女の塚のすぐ右に接して、鉄柵に囲まれて小さな覆屋があり、中に黄灰色で柱状の凝灰岩らしい碑が保存されている。
 碑面には大きな文字で「住吉姫松」と刻んでいる。聞くところによると、塚と並んでいるが繁昌町域ではなく、そこは糸屋町だということで由来は聞いたことがないとのことであった。碑面には大きな文字で「住吉姫松」と刻んでいる。
   

 聞くところによると、塚と並んでいるが繁昌町域ではなく、そこは糸屋町だということで由来は聞いたことがないとのことであった。

もと班女の社について『都名所図会拾遺』には、
元はん女社
高辻通室町の西、北側人家の奥にある。昔この地に「はん女の塚」があり、今でも神祠が営まれ、鳥居の扁額には「半女社」と書かれている。その地には庭石が多数あって、はじめは画工狩野氏の宅地であった。現在は、江戸狩野栄川の所有地であるようだ。
との内容を記していて、赤黒い自然石は、庭石の1つと見られていたようだ。
『京都坊目誌』には、
中世には、真言僧が守る功徳院という寺院となっていた。本尊は毘沙門天像を安置していたが、天明・元治の火災に罹り、明治初年の神仏分離後に社殿が建てられた。
との内容を記しているが、班女の塚・繁昌神社と「住吉姫松」の碑に関連する記録は見いだせない。
 この碑は、江戸時代のものと考えられるが、元はどこに、いつ建碑されたものか不明である。
 古来、住吉といえば住吉神のしるしとしての「松」が多くの歌に詠まれ、姫松といえば、『伊勢物語』の「我見ても 久しくなりぬ住吉の 岸の姫松 いくよへぬらん・・・」が知られている。
 班女の塚・社の南東、松原通の玉津島神社付近には、藤原俊成によって勧請された住吉・玉津島・人丸の和歌三神社と邸宅が存在したと考えられ、邸宅あるいは神社境内には、松が多く植わっていたことは十分考えられる。
 また、先に「新玉津島神社」の所で紹介したように、『都名所図会』に載せる境内を描いた絵図には「住吉松」と明記して松が描かれているほか、
『京都坊目誌』は、松原通の街名起源として、応仁の乱の後は荒廃した、ただ玉津島神社の並木の松樹だけが繁茂していたので、当時よりの言い伝えにより松原と呼ぶようになったらしい。ことなどを記しており、一帯が松とかかわり深い地域であったことは間違いない。
 直接関係するものか不明であるが、宝暦12年出版の『京町鑑』(『京都叢書』)には「玉津島町」の説明に興味深い記事がある。
この町の南側に新玉津島社がある。社はすなわち俊成卿が勧請された所である。社内には歌学に名高い北村季吟(俳諧道では貞徳の門人、芭蕉翁の師)が住んでいた。門内には泉州住吉屋上
(おくじょう)の松を移して植えられた。との内容を記している。
 ただし「泉州住吉屋上
(おくじょう)の松」は、語訳の間違いと思われる。正しくは「泉州住吉尾上(おのえ)の松」が正しいものと考えるが、「班女の塚」の横奥に残されている「住吉姫松」の碑は、恐らく玉津島神社の「住吉松」、あるいは、もともと近辺にあったとされる住吉神社跡の住吉松の横に建てられていたものが、いつの時代にか移設保存されたのかも知れない。




 7 俊成社と藤原俊成邸の跡 (下京区松原通烏丸)

 

  さて、『京都坊目誌』によれば、平安時代末期の文治2年
(1106)11月、藤原俊成は後白河天皇に命じられ、和歌三神の一神である紀伊国和歌の浦の玉津島神を、それから遅れて保元2年(1157)には同じく住吉大神を俊成の五條宅内に勧請し、社殿を造営したことになる。
『同書』には、
「藤原俊成の家址」京極町の西側より方一町の所である。伝えでは五條京極の家というのがこれにあたる。俊成を京極または五條と称するは、俊成の家があったからであろう。また別の邸宅が五條にもあった。
・・・・・
との内容を記している。
 東西二か所の邸宅の内、五條にあった俊成の邸宅は、玉津島神社の地を含み烏丸通を東に入った所にある「俊成町」周辺であったとされる。

『同書』の俊成町「町名起源」・「俊成の祠」の所を見ると、
伝わる所、この地は藤原俊成の宅跡であった。俊成の家は五條京極にあったが、別に五條の家も存在し、その旧跡は玉津島町にあった。江戸時代の延宝年間
(1673-1682)前後には、因幡堂前町・紙屋町の町名もあった。宝暦年間には門出稲荷と称する神祠があったが、廃亡の年月は不詳である。
○俊成の祠
俊成町438番地の富永某宅地内にあり、町民が私的に祭祀する。境内はわずか1坪で、ご祭神は皇太后宮の大夫正三位藤原俊成という。社伝は不詳。明治36年11月30日に七百年祭が行われた。明治44年には烏丸通の道路が拡げられた際、富永宅が狭小となることから、俊成の祠と俊成の木製坐像を因幡堂の境内へ預けられた。との内容を記す。
『山州名跡志』によると、社は西を向いて祀られていたようだ。

 

 現在、俊成社は、松原通烏丸交差点の南東角にホテルの入ったビル下の狭い空間に移され、石燈籠一対と小祠が通りに面して祀られている。

           

 天明7年
(1787)の『都名所図会拾遺』には、当時の俊成社の様子を描いた絵図が掲載されている。それによると、屋敷の裏庭の奥に建てられた二つの土蔵の間に、覆屋と垣に守られた流造の本殿と入母屋風の拝所と鳥居があり、お参りに訪れた人なのか、2人の町人と案内する子どもを描いている。
 絵図には「松原通烏丸東民家裏 俊成卿社」の説明が添えてある。




 8 西院春日神社境内の住吉社  (右京区西院春日町)

 四条通にある阪急西院駅から西北へ約300m、佐井通
(別名春日通)を少し北に行った所に西院春日神社がある。
 西院駅は、大学時代に駅前の「西大路四条」駅から市電に乗り「衣笠校前」まで行き来していた懐かしい駅である。
 ところで、平安時代、佐井通は道祖大路と呼ばれていた。道祖は「さい」と訓む。さいの神の「さい」である。

 

 佐井通に面した春日神社の鳥居をくぐり境内参道を西に進むと、広い神庭には10月の春日祭の際に2基の神輿が還御の「拝殿回り」を行う拝殿があり、右奥には立派な朱塗りの横拝殿がある。その奥の瑞籬の内庭には、建御賀豆智命・伊波比主命・天児屋根命・比売神の春日四神を祭る春日造の本殿4棟が並ぶ。
 社頭の説明板によると、西院春日神社は、
「平安時代の初期、天長10年
(833)2月28日、淳和天皇が仁明天皇に皇位を譲られ、淳和院(西院)にお移りになられました。この時、勅命により奈良の春日大社よりご分霊をお迎えし、守護神とされたのにはじまります。」

 

と書かれ、平安遷都後まもなく勧請されたことがわかる。
 神社の東側一帯は、右京四条二坊十一町~十四町までの方二町の範囲に、淳和天皇
(在位823-833)の後院「淳和院」があったほか、西南付近には院の火災を避けて正子皇后が避難したとされる淳和院の別邸「松院」が存在したともいわれている。
 また付近には、平安後期に丹後や備後など7カ国の受領を歴任した藤原邦恒
(986〜1067)が、西院の領所に営んだ阿弥陀堂「邦恒堂」などもあったといわれている。

 さて、拝殿西側には舞殿や皇后正子内親王命ほかを祀る「還来
(もどろき)神社」があるほか、奥には淳和天皇を祀る「西院宮」と、住吉三神と大帯姫命(神功皇后)を祀る「住吉社」があり、さらに奥に弁天社・稲荷社を祀る神社が祀られる。

 
                   
住 吉 社 (右)

 この内の「住吉社」であるが、向拝柱に付された説明札によると「かつては正子内親王が貞観年間
(859~876)に仮御座所とされた松院(現在の寺ノ内町)に祀られ、明治6年(1873)に現在地に移された・・」と記され、現在の寺ノ内町に存在した淳和院の別邸「松院」に祀られていた神社であったというのである。
 「住吉社」がもと祀られていたという「寺ノ内町」の場所については、町名が消滅しているため、どの辺りにあったものか不明であった。
 『京都市の地名』によると、西院村は「明治6年
(1873)12月、一村を車之路・出在家・立倉・今在家・奥・中・寺之内・藪之内・新在家の9町に分けられた(『京都府地誌』)」とあり、「寺之内町」の地名が登場するが、現在の何町にあるのかよく判らなかった。
 『都名所図会』に載せられた「梅宮」の境内を描いた絵図の右手遠くに、左から「西院春日社」・「西院住吉社」・「さいの野の宮」の3社が距離をおいて並ぶ様子が描かれていて、現在の西院春日神社と野々宮神社を結ぶ中間あたりに元の「住吉社」があったことが判った。そこが「寺ノ内」の手懸りである。

   

 さて、西院春日神社西側の佐井西通(宇多小路)を南に進み、四条通を越えると西院松井町、西には西院坤
(ひつじさる)町という町域がある。
 『山城名勝志』には、永享日録に記される松井寺について、
○松井寺 西院村内の西南隅に寺町がある。ここは松井寺の旧跡か、松院の旧跡をこの寺としたものか。と解釈している。

 松井町の北西端、綾小路通の手前に浄土宗の松樹山寶蔵寺という寺があるが、この寺の西側の古い町並みを残す路地の角で、偶然にも扉に「寺ノ内町々内会」と書かれた古い赤い消火器の容器を見つけることができた。さらに北に曲がった路地の一画で、西に向けて祀られる「住吉大明神」の祠を見つけることができたのである。
 春日神社境内に祀られる住吉社は、もとこの地にあったのである。すぐ東側には何と住吉の名の付くコーポもあった。

  
            
       宝蔵寺と西側の路地
  
                   
住吉大明神の祠

            

 付近は、四条通のすぐ南に位置し、右京五條三坊八町にあたる所で、平安中期には淳和院の別邸の「松院」、平安後期には「邦恒堂」と呼ばれる阿弥陀堂、あるいは松井寺という寺が存在したと考えられている地域にあたる。
 寺ノ内町の住吉社の跡に祀られた小さな住吉大明神の祠は、覆屋の中に比較的新しい流造りの小さな社殿が祀られており、左前には幕末期のものか笠石を載せて「住吉大明神」と刻んだ角柱状の燈籠1基、正面には旧住吉宮のものとみられる盃状の凹みが付けられた台石が残る。
 
 ところで、西院春日神社と住吉宮、さらに野宮の三社は、昔から深い関係があったようだ。
『山州名跡志』葛野郡には、
○春日社 西院村の北、平林の内にある。鳥居は西向で木柱。拝殿と社殿は南を向く。地元の産土神である。例祭は8月28日。神輿は2基あって、その1基は住吉社の神輿である。
○住吉社 同村の西にある。鳥居は北向きで木柱。社殿は西を向く。
○野宮   齋宮ともいう  西院の西5町程の平林の中にある。拝殿と社は東を向く。ここは今、春日社と住吉社の祭日には、神輿の御旅所となる。
との内容が記され、『山城名跡巡行志』もほぼ同様の記述である。

 一方『都名所図会拾遺』の説明は少し異なっていて、次のように記す。
春日社
西院村の北のかた林の中にある。昔は神祇官にあり、そのため神祇官春日社と称した。地元の産土神である。例祭は9月9日で、神輿は2基ある。
住吉社
同村西の方、南へ半町ほどの所にある。その付近、昔は伽藍があって当社はすなわち鎮守であった。所在地の字名は「寺の内」という。6月28日に御祓が行われる。
野宮
西院村から5町ほど離れた往還の西、林の中にある。ここは、嵯峨と同じく齋宮の居所となっていた所で潔斎の地であった。今は西院春日明神の御旅所となっている。
寶蔵院
西院村の宗圓寺の南隣りにある。浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。則ち草堂と呼ばれる。この寺の西に太田氏という農家がある。ここには昔から伝来する三尊仏があって、阿弥陀仏の坐像は5尺ほど、脇士は観音・勢至菩薩である。
この地は、前に記した住吉社の南にあたり、ここの字名も「寺の内」といい、昔は寺院があった。その本尊が残されて現在も民家に安置されているのである。
との内容を記している。宗圓寺の存在は不明である。
 
 以上、今なお小さな祠として祀られている「住吉大明神」の本来の「西院住吉宮」は『都名所図会』「梅宮」の背景に描かれ、『都名所図会拾遺』には字名が「寺の内」にあったことを明記している所から、現在の寶蔵寺を含む西側背後の大きな伽藍跡、つまり「寺の内」の一画に、伽藍の鎮守として「住吉宮」が祀られてきたことは間違いない。その古い伽藍が「松井寺」あるいは「邦恒堂」であったのかどうかは判らない。
 また、太田氏に伝来したという阿弥陀三尊仏は、邦恒堂に祀られた定朝作の阿弥陀如来像であったのだろうか、さらに現在も付近には太田姓の家が点在するなど、たいへん気になる所である。

       
                
西院野々宮神社

 ところで、元の「住吉社」は、『山州名跡志』によると木製の鳥居が四条通の方向つまり北を向き、社殿は西を向いていた。また、江戸時代から春日神社の2基の神輿の内の1基は住吉宮の神輿で、両社の例祭(春日社の例祭日は記録に異同あり、現在は10月)の時は、共に御旅所となってきた西方の「野宮」へ巡幸していたことは、現在も変わらない。
 ただし、江戸時代から春日神社に住吉社の神輿がなぜあったのかというのは、どのように理解すればいいのか。住吉社が境外摂社・末社であった可能性は低く、その創祀の年代は松院の時代に遡るものと考えるのも面白い。





 9 源 高房邸と住吉別宮の跡 (中京区菊屋町の南)

 京都御苑の南方、丸太町通から一筋南側にあたる竹屋町通(大炊御門大路)と南北通りの柳馬場通(万里小路)が交わる南東側に京都市立御所南小学校がある。学校の東側の富小路通は、平安時代にはやや東側を通り、おなじく富小路と呼ばれ、南側の夷川通は、冷泉小路と呼ばれていた。
 学校敷地を含む一画は、左京二条四坊十一町にあたる。

 

 この辺りは、『平成5年度京都市埋蔵文化財調査概要』1996によると「白河天皇の大炊御門殿、後鳥羽・土御門・順徳三上皇の大炊御門京極殿、後嵯峨天皇が後深草天皇に譲位した冷泉万里小路殿など、天皇の仮御所や貴族の邸宅などが立ち並ぶ邸宅街であった。
 当地は、文献史料から11世紀後半には源高房、12世紀後半には藤原経房の邸宅があったことが知られる。」とされ、御所南小学校の発掘調査では、平安時代後期~鎌倉時代の遺構として、大炊御門大路の路面と南側の溝、井戸・溝・掘立柱列・土器溜・土壙などが見つかっている。学校の東南側、富小路通にある富有自治会館前には、富有同窓會による「大炊御門万里小路殿」の顕彰石碑が建てられている。

             

 さて、源 高房の邸宅について『京都坊目誌』には、
○源高房の亭跡 菊屋町の南側の地にあたる。高房は 宇多源氏で有明親王の玄孫
(やしゃご)にあたる源行任(ゆきとう)の子である。正四位下但馬守となり宮内卿に任じられた。大炊御門万里小路(おおいみかどまでのこうじ)に住んだ。
延久4年
(1072)12月8日、後三條帝は、帝位を皇太子の白河に譲り、16日に二條第へ御幸され、翌5年(1073)4月には、高房亭へ移られ5月7日にそこで崩御された。大治(1126~1130)の初めには一時鳥羽上皇の御在所となったこともある。
○住吉神社の跡 同所にある。廃亡の日などは不詳。『諸社根元記』に「大炊御門萬里小路住吉ノ別當但馬前司高房鎮守」云々と記す。
との内容を記していて、源高房邸内に鎮守としての住吉神社が祀られていたことがわかる。
 高房の邸宅は、関連史料として載せる『古事談』・『百練抄』の記録には「高房朝臣大炊御門亭」と記され、大治5年
(1130)7月10日に火災で焼失した。その後、邸宅跡は、白河天皇の大炊御門萬里小路殿ほかへと変遷していったようである。
 
 ところで、『諸社根元記』に記されているという「大炊御門萬里小路住吉ノ別當但馬前司高房鎮守」の「住吉ノ別當」については、『京都市の地名』も菊屋町の箇所で『京都坊目誌』に記す『諸社根源記』の文をそのまま引用しているが、そもそも高房の鎮守とあるのに「住吉別当」というのは理解しがたい。
 何度か『諸社根元記』の内容を確認したが、「大炊御門萬里小路住吉ノ別當但馬前司高房鎮守」の記述自体も見つけられなかった。
 
 幸いなこと、宝永2年
(1705)刊行の『山城名勝志』(「京都叢書」)を見ると
○高房朝臣亭
古事談には、延久5年
(1073)5月7日、太上皇の後三條は、高房朝臣大炊御門亭において崩御。大炊御門の南、萬里小路の東。
○住吉ノ別宮
諸社根源記にいう 大炊御門萬里ノ小路住吉ノ別宮 但馬ノ前司高房鎮守
と記されているのである。
「住吉ノ別當」ではなく「住吉ノ別宮」である。
 これをさらに木版刷りの『山城名勝志』で確認すると、間違いなくやはり「住吉ノ別宮」で正しかった。

 11世紀の後半、左京二条四坊十一町の大炊御門萬里小路に邸宅を構えた源高房の鎮守「住吉別宮」とは、摂津の住吉大社の別宮の意味であるのか、あるいは既に平安京内のどこかに勧請されていた住吉神社の別宮の意味だったのだろうか。今は神社の痕跡も見当たらない。

 

 高房の時代には、この地から三町西方、東洞院大路の西側の三坊十四町に『枕草子』にも登場する冷泉の「少將井」があって、『百練抄』に「永久五年
(1117)正月十三日。祇園ノ別宮少將井炎上」と記されるように、祇園社の別宮(御旅所)が存在した。
 その地は、現在の四条通にある四条御旅所に移される前の古い時代の御旅所で、祇園会には櫛稲田媛命(祇園少將井)の神輿を迎えて井桁の上に置き御霊会を行ったという。
 同じように「別宮」の名を付す「祇園の別宮少將井」と高房朝臣邸に存在した「住吉別宮」が何らかの関係を有したのかどうかは不明であるが、平安京内に営まれた公家たちの邸宅に付属して祀られてきた神祠の変遷と興廃の歴史を考える上で重要な記録の一つといえるだろう。


 本稿は、2016.4~6月「いこまかんなび掲示板」の投稿を一部訂正・再掲したものです。
 2018.5.29



             いこまかんなびの杜