肥前国松浦と住吉の世界



 
                  虹 の 松 原


  肥前国松浦と住吉の世界

 佐賀県の北西部、旧肥前国松浦郡の東半に位置し、唐津湾に臨んだ地域は、古来より玄界灘に浮かぶ壱岐・対馬の島々を経て、朝鮮半島・大陸へ通じる直近の海の門戸として重要な位置を占めてきた。
 松浦川の河口部に位置する唐津の町は、豊臣時代の慶長年間に寺沢志摩守広高によって築かれた城下町として発展してきたが、唐津湾に面した松原の海浜には、延々4.3kmに亘って見事な名勝「虹の松原」が続いており、古代には砂州の内側には唐津のシンボルである鏡山(284m)山ろくまで潟が広がり、南方からは松浦川、東方からは玉島川などの河川が流れ込んで、鏡山の周りにはいくつかの古代の湊が存在していたと考えられている。
 当然ながら、古代の末盧国の中心に比定される地域だけあって、周辺には甕棺を中心とした共同墓地と豊富な副葬品、住居跡などが発見されている宇木汲田遺跡や菜畑遺跡などの弥生時代から古墳時代にかけた遺跡・古墳が数多く存在している。
 『肥前国風土記』によると、
「昔、気長足姫尊(*神功皇后)が新羅を征伐しようとお思いになり、この郡にお出かけになって玉島の小川のほとりでお食事をおすすめした。そこで皇后は縫針を曲げて釣針とし、飯粒を餌とし、裳の(*糸を抜きとってその)糸を釣糸として、河の中の石の上に立って・・()・・釣針を投じられると、ほんのしばしのあいだに、はたしてその魚がかかった。皇后は「なんと希見物ぞ」(希見をメヅラシという)と仰せられた。それにより希見国 めづらのくに といったが、今は訛って松浦の郡といっている。・・・・・」
 
(『平凡社『風土記』「肥前国風土記」』より引用)

と記されるように、神功皇后にまつわる伝承が多い地域であるのは当然ながら、三韓征討にあたり三軍神
(みはしらのいくさのかみ)として師船を守り導いたと伝える住吉三神(『住吉大社神代記』)を祀る神社の存在も多い地域である。
 佐賀県北部、玄海灘や壱岐水道に面した旧松浦郡の海岸地域や西方の伊万里湾にかけて、住吉大神や神功皇后を主神として祀る神社は、下記のとおり約十数社ほど確認できる。漏れた所もあると思うが、中には海岸から若干離れた鎮座地もあるとはいえ、ほとんどが海浜に近い地や玄界灘に浮かぶ離島に鎮座している。

玉島神社(神功皇后宮) 佐賀県唐津市浜玉町南山2369 祭神 神功皇后
住吉神社 同 唐津市浜玉町平原68
唐津神社 同 唐津市南城内3-13  祭神 住吉三神
鏡神社  同 唐津市鏡1827 祭神 神功皇后
住吉神社 同 唐津市神集島(かしわじま)
住吉神社 同 唐津市双水
住吉神社 同 唐津市厳木町本山15
住吉神社 同 唐津市鎮西町馬渡島(まだらじま)宮の本
       (但し馬渡神社へ合祀、壱岐島の途中の島)

住吉神社 同 唐津市肥前町田野高串浦字土井浦
住吉神社 同 唐津市肥前町大字納所(のうさ)字西
()戸渡島神社 同 伊万里市立花町84 (香橘神社へ合祀、現在の伊萬里神社)
        祭神 住吉三神
住吉神社 同 伊万里市山代町楠久津  祭神 海童命
白幡神社 同 伊万里市東山代町日尾 祭神 住吉三神
住吉神社 長崎県松浦市志佐町浦免1501-3
住吉神社 同 松浦市鷹島町里免114

 上記の神社から、玉島神社・平原住吉神社・唐津神社・鏡神社・神集島住吉神社・()戸渡島神社について考えてみることにしたい。




 玉 島 神 社 [唐津市浜玉町南山]

 現在は、虹の松原の砂州を切って直接唐津湾へ流れ出る玉島川の約2.7km遡った唐津市浜玉町南山の玉島山(標高11m)に「聖母(しょうも)大明神」「神功皇后社」とも呼ばれた玉島神社が鎮座している。
 付近は肥前国松浦郡南山村に属していた。古代には付近まで潟がせまっていたといわれ、社の前を流れる玉島川は、現在、河川整備が進められているが、支流の小川沿いを少し東に行った「万葉垂綸石公園」には「垂綸石」と呼ばれる2mほどの自然石が保存されている。

 
             国土地理院1947年の航空写真に加筆

 『住吉大社神代記』には、神功皇后の新羅征討前のこととして
「北のかた火前国松浦県に到りて、玉嶋里の小河の側に進食す。是に皇后針を勾げて鈎を為り、飯粒を取りて餌にし、裳の糸を抽き[取りて]
(つりいと)にして、河中の石の上に登りて、鈎を投げて祈ひて日はく「朕(あれ)、西のかたを征ちて、財の国を求めむと欲す。若し事を成すことあらば、河の魚飲鈎へ。」因りて以て竿を挙げて乃ち細鱗魚を獲つ。時に皇后日はく「希見しき物なり。」と。故、時人その処を号けて梅豆邏(めずらの)国と日ふ。今、松浦と謂ふは訛れるなり」と記されている。(「訓解住吉大社神代記」参照)

        
 

 玉島里の小河つまり玉島川の河中の石の上で年魚を釣られたという伝承地に、神功皇后を祭神とする玉島神社が祀られることになり、年魚を釣る際に登られたと伝える石が垂綸石として保存されている。
 玉島神社は、玉島川(別名梅豆羅川)に向かって島状に突き出た長さ400m程の船形の丘「玉島山」の突端にあり、境内へは国道に面した高い石垣に設けられた急な石階を上がる。石階の前にある安永2(1773)の石鳥居には「神功皇后宮」、石階上にある天保15(1844)の石鳥居には「玉嶋神社」の石の扁額を掲げる。

 
      

拝殿の左には、摂社須賀神社(祭神 素盞鳴命ほか九座)があり、境内右側の巨岩が露出した残丘の窪みには釣竿竹が植えられている。

 拝殿の背後一段高い位置にある御本殿は、銅版葺流造で同社発行の「神社の栞」によれば、祭神は息長足姫命、享保21(1736)3月に藩主土井侯の建立と記されている。
 そもそも神社は、人皇28代宣化天皇の時代に創建され、別録縁起には30代欽明天皇24年と記されているという。
 神社名の「玉島」の由来については、「珠島と云ふは、皇后三韓征伐の役に向ひ給ふ時、干珠満珠の二宝を海人に得給ひ、暫く此の地に秘蔵し置き給ふ故に珠島と日ふ」とあり、三韓征討出発の前にしばらくこの地に干珠・満珠の二珠を秘蔵しておかれたので「珠島」の名が生まれたという。
 また、『東松浦郡誌』(大正14)には「聖母大明神 今の玉島村南山の玉島神社」として紹介され、祭神は神功皇后、珠島の由来、年魚釣りの伝承を簡単に載せている。

 また、天保12(1841)の『太宰管内志』には次のような内容が記され (私訳) ている。
 神功皇后社の下を通る道の東に沿って玉島河が流れている。この辺りの河中に神功皇后の上がられたという石が近頃まであったが、今は埋もれているという。人家は河の東西山裾にあるが、この社も人家の際にある。『書紀通證』には、玉島河の岸に大石あり、方7尺ばかりあり、俗に紫石の名があり神功皇后が釣をされた所と伝える、一方『柳園随筆』には、神功皇后社の前の河中に大石があり、その形は兜櫃のようで紫色である、この石は皇后が釣をされた石で、常は河中に埋もれて見えない、時には河瀬が変わり現れるという、・・・『古事記』にはこの礒を勝門比賣と呼んだ・・・、
などと記されている。


 
                    垂 綸 石

 珠あるいは玉の地名と「勝門比賣」の勝の付いた地名・地形などが同所に存在していることは、両者には密接な関係があったことを示すものなのだろう。また紀伊国和歌浦の玉津島神社の本来の祭神は神功皇后であったようであるが、玉島神社の「玉島」は「玉津島」と同じ意味であり、遠く離れているものの良く似た由来・伝承にもとづいて創祀されたものなのだろう。





 
平 原 住 吉 神 社  [唐津市浜玉町平原(ひらばる)]


  

 玉島神社の前で南方から支流の小川(平原川)が合流しているが、平原川の谷合いを行くと、平原の集落が点在し、字中原に住吉神社が祀られている。

 平原の地域は、『和名類聚抄』の松浦郡「庇羅 大沼 於保奴  値嘉 知加 生佐 伊岐佐 久利」の五郷の内の庇羅郷に比定され、山越えによる大宰府への官道がこの谷合いを通じていたといわれる。
 『佐賀県の地名』(平凡社)によると、平安時代に松浦庄が京都の最勝光院領となり、神社の少し西北にある座主(ざす)の地に真言密教の殿原寺(でんげんじ)が建立され、鎌倉期には草野氏が鏡神社大宮司となり、草野庄が確立されてその領域となったという。



 住吉神社は村の北寄り、小川と旧村道と挟まれた位置に北西つまり玉島神社の方向に向いて鎮座している。小さな石橋を渡ると、元禄期と思われる年号を刻み、「住吉宮」の扁額を掲げた石鳥居・狛犬一対があり、石階を上がった社壇上には建立年不明の石鳥居、奥には瓦葺の拝殿と銅板葺流造三間四方の朱色の御本殿が続く。


 

 拝殿前には大正期頃の文面による
神社の由緒板が建てられていて、少し解りにくいので、それを書き改めると、
 村社 住吉神社 東松浦郡浜玉町大字平原59番地
    祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命
    祭日 115日 百手祭、413日 神幸祭、1213日 秋祭
 由緒 当社は神功皇后三韓征伐の時に勧請、二神が両郷の征討軍を補佐した
    一神は浜崎郷の諏訪大明神、一神は平原郷住吉大明神
 考えるに、神功皇后の三韓征伐が終り松浦の地に住吉三神の御神助をかしこみ、崇高なる思し召しにより勧請されたものである、明治40年合祀令により当神社・稲荷神社・八代龍王社・愛宕神社・飯盛神社の5社を合祀、大正14年に本殿新築、拝殿修理及改修
との内容が記されている。
 浜崎郷の諏訪神社とは、現玉島川の河口近く、虹の松原の一画に古くから港町として繁栄してきた街で、延暦3(784)勧請と伝え、健御名方命を祭神としている。
 『松浦叢書』所収の「松浦記集成」によると、
「住吉大明神社  松浦郡平原村、祭日 正月十五日 十一月十五日
當社者神功皇后三韓征伐之時、勧請二神於両郷、而爲行軍之補佐也、一濱崎郷諏訪大明神。一當村住吉大明神是也。」
と記されていて、住吉神社は神功皇后の三韓征討の時に行軍を補佐したとして、浜崎郷に諏訪大明神、平原郷には住吉大明神が勧請されたとの由来を記している。







  唐 津 神 社 [唐津市南城内3-13]


 
              国土地理院1947年の航空写真に加筆

 松浦川は、唐津湾に沿って続く「名勝 虹の松原」の西端を切り取って湾に流れ込んでいる。その河口の西に築かれた唐津城の南西に広がる城下町の中央、唐津市南城内の一画に住吉三神を祀る唐津神社が南を向いて鎮座している。
 西に接して秋の収穫感謝の意を込めて盛大に行われる秋季の大祭、唐津神祭(からつくんち、112日〜4)で町内を巡幸する14台の曳山を展示する「曳山展示場」がある。
 唐津神社は、同神社発行の『由緒書』を参照すると
御祭神は、一ノ宮 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
       二ノ宮 神田(こうだ)宗次公・相殿 水波能女神
であり、その創祀は、神功皇后が三韓征討への渡海にあたり、海路の安全を住吉三神に祈願され、無事に帰朝された後、その御神徳の深さに感謝されて、松浦の海浜に宝鏡を捧げ住吉三神の霊を祀られた、下って天平勝宝7(755、孝謙天皇の御宇)当時の領主であった神田宗次公が、ある夜、神夢を見て海浜へ行くと一つの筐が浮び寄ってきた、これを探して開くと一つの宝鏡が入っていた、これはまさしく神功皇后が捧げられた鏡であるとかしこみ天皇へ奏聞された、これによりこの年の929日に「唐津大明神」の神号を賜わった、また、文治2(1186)領主の神田廣は、社殿を再建して家祖である神田宗次公の神霊を合祀し二ノ宮として祀った、現在地に祀られたのは、慶長7(1602)初代の唐津城主であった寺澤志摩守が、唐津城の築城の際に社地を設定し、社殿を新築して領内の守護神としてあつく崇敬した、その際、城下の火災鎮護の神として水波能女神を相殿として勧請した
との内容が記されている。




 唐津神社は、神功皇后が神徳に感謝され、松浦の海浜で宝鏡を掲げて住吉三神を祀ったことにはじまるという。
 大正14年に出版された『東松浦郡誌』(松代松太郎著)は、神社の由緒書とほぼ同じ内容であるが、松浦郡浦川内村の庄屋秀島寛三郎の書いた「松浦記集成」『松浦叢書』を引用して、唐津神社の祭神について、
 祭神 一宮 磐土命 赤土命 底土命 大直日神 犬綾日神 海原神
      二宮 八十任日神 神直日神 大直日神 底津少童神 底筒男神 中津少童神 中
       筒男神 表津少童神 表筒男神

    相殿 水ノ神罔象女ノ神
 寺澤侯御築城之時、火災守護として御勧請有之此爲相殿
と、住吉三神のほか多数の神々の名を記している。
 また別の同社縁起も載せていて、その要点を記すと次のよう(私訳)である。
 天平勝宝7(755)926日、底江五郎宗次は、夢の中で白衣の老僧が枕上に現れ、三日を待って北方の海辺に出れば必ず不思議なことがあるだろう、とのお告げがあったところで夢がさめた、翌日の夜も同じことであったので、奇異の思いから日を待って供の用意をし、海辺に出て遥かに沖を眺めていたところ、不思議にも一つの筐物が照り輝いて波に浮かんでいた、間もなく渚に漂着したので、潮で身を浄めてその宝筐を持ち帰った、・・()・・・、宗次がこの地を支配したのはそう昔でもないのに、このような夢をみることができたのは神明のお告げにちがいない、と思い、清浄の地を選び、先の神所石の宝殿のあった所に奉納したという、時に天平勝宝7929日であったという、その後五郎宗次は、都の蔵人豊胤の館に行って、不思議な夢物語りの話をしたところ、豊胤も後日同様な観世音の物語の夢を見たといい、この不思議な霊夢の話はついに天聴に達し、孝謙天皇は詔命を下して、唐津大明神の神号を給わった・・・、
などと記されている。





  
鏡 神 社 [唐津市鏡宮の原]





 唐津市街地の南東、松浦川の東にそびえる鏡山の西ろくに、神功皇后の三韓征伐にかかわって創祀されたと伝える「松浦総鎮守 鏡神社」が鎮座する。

 鏡山(標高284m)は、「松浦山」といい、後代の佐夜姫伝説を伝える�示搖(ひれふる)山、褶振峰、頭巾麾峯、領巾振山(ひれふりやま)とも言われている。平坦な山上には鏡神社の上社と佐用姫神社が鎮座している。
 西方の松浦川、北方の虹の松原を望む鏡山の西ろくには、南北・東西とも約800m、標高5mほどの、あたかも鏡形をした低い微高地が広がり、その中央部に鏡神社が鎮座する。昔の航空写真を見ると西北に湊のような入りくんだ地形が観察できる。
 神社の東側を斜めに通る県道40号は、筑前国怡土郡〜長崎へ通じる古来の大路と重なるようで、東の大路、鏡山がせまる東方を向いて神社は鎮座している。
 広い境内のほぼ正面奥に、東を向いた「二の宮」、右に折れた奥には南に向いた「一の宮」が鎮座する。

   

 鏡神社の境内由緒書などを参照すると、
 鎮座地は、鏡宮の原と呼ばれ、旧称は、鏡宮・松浦宮・鏡尊廟・松浦廟宮・板櫃社など色々な社名であったことを記す。
 「一の宮」のご祭神は、息長足姫命(神功皇后)で、神功皇后は三韓征討の時に松浦郡に至り、七面山(今の鏡山)山頂で宝鏡を捧げて天神地祇を祭られ、異国降伏を祈られた。その後、宝鏡は霊光を発したため、凱旋の際にその宝鏡をとられ、自ら生霊をこめてこの社に鎮め給われたという。


       二ノ宮                     一ノ宮

 一方「二の宮」は、大宰府の次官となった大宰少貮藤原廣嗣朝臣を祀っている。廣嗣朝臣は、当時重用されていた僧玄�遭らの処分を求めて挙兵したが(廣嗣の乱)、官軍によって鎮圧・逃亡し、松浦郡(唐津)で斬られて亡くなったという。
 その後、廣嗣の霊威がしばしば顕れて、災害がしきりに起こったため、肥前国守の吉備真備が勅を求め、天平17(745)、鏡の地と東方の無怨寺 (浜玉町大村神社、玉島神社の対岸地)両所に廟を建立して、廣嗣公の霊を祭ったという。
 中世には、草野大宮司と称して近郷を支配し、草野氏族として勢力を伸ばした。草野氏の滅亡と共に社運は衰退したが、唐津藩主初代の寺澤氏以来、歴代城主の祈願社として尊崇された。
 残念にも明和7(1770)に一の宮が炎上し、宝物・旧記が失われた(8年に唐津藩主水野忠任が再建)という。

 また、江戸時代末期の『大宰管内志』に記された内容の要点を抜粋(私訳)すると、
 『松浦古來略傳記』に、鏡大明神第一ノ宮は神功皇后、第二ノ宮は太宰大貮正二位藤原散諸公である、神主は草野宗瓔(*そうえい)の一族、120町を領す、下社家数は10軒、諸寺院は合わせて123軒で天台宗、・・・・、日本国中の諸大名が年々馬市を執り行った(但し9月の一月間)、神主の草野宗瓔は、大村の鬼城に住み23,000石を領していた、寺院は安國寺・長永寺など185ケ寺に及んだ、うち法頂坊・宮師坊・御燈坊の三ケ寺は神社内にあった、この社は、七堂大伽藍が整い、東の金堂の本尊は毘沙門天、西の金堂の本尊は薬師如来、茅葺の彌勒堂・神楽堂・法蓮花経堂があった・・・・・・・・・坊の名に国々の名が付いているのは、昔、馬市を行う時など国々から多数の人々が詣た時の宿坊となり各々の国名が付いたと聞く、『名所小鏡』には、肥前国鏡宮は松浦山の南西の麓にある、この神は太宰小貮の御霊を祀り、松浦と筥崎は一体である、宮は東を向き北西は海である、宮の10町ほど西に、南から北の浦へ流入する汐入の大川が二瀬あって、松浦川また鏡渡とも栗屋川とも世俗では言うとある・・・・この()山を「まつら山」といい、磯は「まつらがた」ともいう、・・・ ・・・、ここを鏡ノ里といい鏡の神・鏡の山というなど、これはみな鏡神社の事であり、小夜姫が石となったというのも神功皇后の御鏡が石となってこの宮に坐すとの伝えがねじれたもの、・・・・・・、この社の鳥居は東表にあり、神官等の家は鳥居の側に西を向く、鏡神社は鳥居を入って右の方にあり南を向いている(鳥居は寺澤志摩守の建立)、板櫃神社は正面の少し奥の方にあって、東を向く、この社も初めは南向きであったが土地が狭いため近頃向きを変えたという、今の配置はこの社が本社のようで紛らわしい、鏡神社・板櫃神社ともに造リ様は少しも異なっていないが、鏡神社の方が少し広い、・・・・・・・、
昔は境内8町四方あり、その堺に四隅塚と呼ぶ塚を造っている、塚は今も残る(西の塚のみ無い)、社僧は2人で、 宮司坊・御燈坊ともに真言宗、社家の二人は多治見氏と坂本氏である、この他、神官の屋敷の跡と呼ばれる林が田圃の中に所々ある、大祭は99日で、古くは825日から草野大宮司がこの社に来て祭式を執り行ったという、さらに昔はこの日に虹ノ松原まで神輿の神幸があったが、今は御領などもなく祭の行列も無くなり、馬場の中程の石壇の上まで神幸がある程度、近頃までは9月の祭に群集の人々は多く、馬場の内は往来しにくい状況であったが、今は少なくなった、この馬場の東北の隅から西南の隅を通る大路があり、この道は筑前国怡土郡から肥前長崎に通じる道筋である、領主唐津城主の寺澤家・土井家の時までは神領も多少なりともあったが、現在の水野家に至っては社領も絶えた、・・・・・・・、

などと詳しく記されて(私訳)いる。

  

 なお、『松浦古來略傳記』に記す二ノ宮の祭神太宰大貮正二位藤原散諸公というのは、廣嗣のことなのだろうが、二ノ宮が板櫃神社であり、廣嗣の霊が祀られているのには間違いない。
 『神祇志料』によると、後鳥羽天皇文治2(1186)12月癸未、将軍源頼朝は、草野永平を本社の宮司職に補任した(東鑑)と記している。







 神集島 住吉神社  (唐津市神集島)




 唐津の市街地から唐津湾西岸の松浦半島沿いに「相賀」を抜け、国道204号を10km程北へ行くと、唐津湾の西出口附近に「湊」の漁港がある。

 途中の「相賀(おうか)」は、『肥前風土記』松浦郡の所に登場する「逢鹿駅」のあった地に比定され、神功皇后(気長足姫尊)が新羅を征討するため行幸された時、道で鹿に遭った所であったので、逢鹿駅の名があるという。また「松浦記集成」『松浦叢書』には、旧跡の「湊浦」は神功皇后が出船された和珥津であり、「神集島」は唐津八島の一つ、神功皇后がこの島で神軍を集めたといい、島には「弓張の石」と呼ばれる石が残ると記されている。
 湊から約600m程の沖合に、神集島(かしわじま)がある。湊から島へは唐津汽船の定期船が出ている。
 神集島は、周囲約8km、高い所で標高約83mほどの玄武岩で出来上がった小さな島であるが、西方へ帯状に伸びた砂嘴状の西海岸一帯は、黒い玄武岩礫が広がっていて、その突端に湾奥の集落の方向を向いて住吉神社が鎮座している。

 

   

 岸から参道にかけて4基の石鳥居が連なるが、岸の鳥居は紀元二千六百年を記念に建てられたものであるが、奥の二つの鳥居は江戸期の建立と見られる。
 拝殿前には文化5(1808)、安政4(1857)他の石燈籠と蒙古碇石があり、コの字形の石積み域内に銅板葺流造で色鮮やかな本殿が祀られている。


 『東松浦郡史(大正14)には次のように記して(私訳)いる。
 住吉神社 湊村大字神集島
 祭神  底筒男命 中筒男命 上筒男命 息長足姫命 天ノ児屋根命
 神社はもと島の弓張山に鎮座していたが、元禄7(1694)に宮崎の地に遷座した。神功皇后は三韓征討の時に数日間滞留されて、諸神が集められ、干珠・満珠が納められた神社だと伝えている、このことから「神集島」と名付けられたという、明治6年村社に列す、神社の宝物である干珠は、直径36分の自然石の球体で、金色の光を放つ。満珠の方も直径33分の球体の自然石で、青黒色の色彩を帯びている、また3体の木像があり、精巧を窮めて極彩色を施したもので、県内では佐賀市の楠公社にある木像と同様、他に類例のない尊像とされる、・・・・・・・・・・・。
との内容が記されている。

 

    

 また、『太宰管内志』には興味深いことが記され(私訳)ている。
 ○柏島亭 
 『万葉集』15巻、天平8(*736)丙子夏6月、新羅国に遣わされる時に使人等が 云々、
肥前国松浦郡の柏島(狛島とある本は悪い)の亭(*とまり)に舶泊りする夜に、遙かに海浪を望み各々旅の心を慟んで作った歌七首    (七首略)
 『延喜式』には、肥前国柏ノ牛牧などが登場し、『松浦古來略傳記』には、神集島の津守の侍二人無足五人、また『扶桑紀勝』五巻には松浦郡柏島の図を載せている、その説明に、人家の前に入海があり、その所には船舶のために石の堤を築き廻らしている、地元民は神功皇后が新羅征討の時にこの堤を築いて兵船を集めた、と伝えている、後代には秀吉公が名古屋に下られた時、すべて神功皇后の跡を慕ってこの地の石堤なども補修されたという、また地図には松浦郡呼子より東北の方に神集島が描かれている
との内容が記されている。

 神集島の山中には、先土器時代〜縄文時代の遺跡のほか、横穴式石室のある古墳時代後期の鬼塚古墳群があり、古くから古代人が生活を営んでいた島である。
 神集島は、古代の記録に登場する「柏島」で「柏の牛牧」があり、神功皇后の三韓征討と関り深い湊であった可能性が強いことから、島に住吉神社が祀られた必然性は極めて高いと考えられる。








 ()戸渡島神社 [伊万里市立花町(香橘神社へ合祀、現在の伊萬里神社)]



         戸渡島神社が合祀されている香橘神社(現在の伊萬里神社)

 深くV字形に切れ込んだ伊万里湾の最奥に流れる込む伊万里川の北岸、市街中心地を見下ろす「岩栗山」と呼ばれる丘の上に「香橘の宮 伊萬里神社」が鎮座する。旧大坪村大字町裏。
 神社の由緒書を引用すると、「香橘(こうきつ)神社として景行天皇二年に現鎮座地に創建され、昭和34年8月戸渡嶋(ととしま)神社が合祀。昭和37年6月岩栗(いわくり)神社も合祀され、昭和37年11月「香橘神社」から「伊萬里神社」と改称された。伊万里の総鎮守として、この地一帯に住む人々をはじめ崇敬される人々を広く守護しておられます。」と記されている。各社の御祭神は、
 香橘神社  橘諸兄命・伊弉諾尊・伊奘冉尊・天忍骨尊
 戸渡島神社 底筒男神・中筒男神・表筒男神(住吉三神)・綿津見神
 岩栗神社  彦太忍信命
となっている。詳細を省くが、この中で住吉三神を祀っていた戸渡島神社とは、如何なる神社であったのだろうか。

 まず『佐賀県神社誌要』(大正15)には次のように記して(私訳)いる。
 村社 戸渡島神社 西松浦郡伊萬里町
    祭神 表筒男命・中筒男命・底筒男命
 神功皇后が三韓征討のとき、この伊萬里からも出船された、三韓を平定され凱旋の際、伊萬里の沖にある戸渡島(伊萬里湾内には多数の島があるが、最大の島を戸渡島という。父島の意味である。)に御船を着船され、三韓を征討できたのは、住吉大神の神護によるものだと自ら住吉三神を祀られた、地元民が石祠を建て祀ったのが当社の創始であり、その後、文禄年間に豊臣秀吉が征韓の軍を起し、鍋島直茂の父子も命に従って正に出発しようとした際、当社の霊蹟があると聞き、自ら参って海路安全の祈願をし、凱旋の後に一株の松を戸渡島に植えられた、今の金比羅山(則ち昔の戸渡島)の海岸の岩上に生える曲がりくねった老松がその松であり、株の辺りに戸渡島大明神と刻んだ石碑があるという、のち木須搦(がらみ)へ遷座し、再び現在の地へ移転した、明治5年村社に列せらる。
との内容が記されていて、神社の様子が解る写真が掲載されている。
 現在の地の詳細は不明であるものの、写真から見ると大正15年の時点で伊万里市街中心部の伊万里川に架かる「相生橋」のたもとに鎮座している様子が知られる。


  『佐賀県神社誌要』の戸渡島神社      『伊萬里案内』に載せられた戸渡島神社

 しかし、ほぼ1年後に発行された『伊萬里案内』(昭和2)にも、同様の説明が載せられているものの、掲載されている神社の様子は全く異なっていて、所在地は「上土井町に鎮座」と記されている。
 さらに重要なのは、往時は本郡牧島村大字木須搦に祀られていたが、嘉永5(1852)5月に伊萬里の街に移されて社殿が建築された、明治5年に村社に列せられ、大正811月に神饌幣帛供進神社に指定された、大正15年に相生橋が改築されるに当り、現在の上土井の地に移し奉った、境内の坪数は325坪あり、例祭は1015日である、
と記録されているのである。


 これらの事から、戸渡島神社の元の鎮座地は、現在の伊萬里神社の地から北西約1.5kmの木須町の伊万里川河口に望む金比羅山の附近に祀られていたようで、附近には字名で戸渡島・古戸渡島という地名が残っている。
 神社は、幕末の嘉永5年に伊萬里の街中、()相合橋北詰め、御舩屋遊郭の東側に遷されたと考えられ、さらに大正15年に実施された新相合橋の架設工事に伴い、『伊萬里案内』の地図を参照すると、上土井町の水路の南側に鳥居のマークと「戸渡島神社」「龍神宮」の記載があることから、その地(現伊万里郵便局の西隣り蓮池児童公園辺りか)へ移転を余儀なくされ、昭和38年には再び伊萬里神社の前身社である香橘神社へと合祀により遷座されたということになる。

 

 伊万里に住吉三神が祀られていた戸渡島神社の歴史や合祀の経緯を少しでも明らかにできたことはとても幸いである。
 なお、地図には同じく合祀された岩栗神社の旧鎮座地も記されていて大変興味深いが、説明は省きたい。


  2020.4.25 原田 修 作成



         


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