謎の反正天皇御廟所 - 石切神社の三角縁神獣鏡と前期古墳 - |
古絵図に描かれた反正天皇御廟所 謎の反正天皇御廟所 - 石切神社の三角縁神獣鏡と前期古墳 - 「反正天皇御廟所」と記載されている古絵図は、石切芝村の旧家長曽根家に残る文化10年(1813)4月の古絵図で、昭和60年に刊行された『石切小学校創立百周年記念誌』にその一部が掲載されています。 山腹にそって真言宗の古刹千手寺の境内と本堂・釣鐘堂・行者堂などの建物が描かれ、当時の寺の様子を知る上で貴重な資料ですが、千手寺のすぐ右側には禅宗の正興寺の本堂のほか、その背後に樹木で覆われた一際小高いドーム型の山が描かれ、不思議なことに「圓山 反正天皇御廟所」と記載されており、なぜこの生駒山ろくに反正天皇の御廟所=墓と記されているのか、まったく驚かされました。 この圓山は、円山=丸山という意味で、正興寺の東背後にあるところから正興寺山と呼ばれていて、西方の新石切駅方面から見ると、ホテル青龍と近鉄奈良線の下に、周囲に樹木が残り上部が削られた姿を見ることができます。正興寺山はもと標高80m、東西160m、南北130mを測り、斜面に1つの小丘を形作っていました。 戦前まできれいな山容をとどめていたと思われますが、昭和30年代に上部が大きく削られてしまい、もとこの山には古墳があったように言われるものの、はっきりしませんでした。 大正年間にまとめられた『大阪府全誌』の大字芝神並の正興寺の記載の所に、「寺後に一小邱あり、樹木を生ぜず、丸山と呼べり、傅えて古墳の類とす、河内志に「圓塚ニ在神並」と記せる其の一ならん」と記されているほか、『中河内郡誌』にも同様の記載のほか、五色山とも呼ばれたことも記しており、古墳が存在したことはほぼ間違いなく、江戸時代には正興寺山上の塚が、反正天皇の御廟であると伝えていたことになります。 5世紀の頃、石切を含めた日下の地は、仁徳天皇と日向髪長姫との間に生まれた大日下王・若日下王の兄妹が住み、のちに雄略天皇が若日下王に妻ごいするなど、倭の五王の時代には生駒山ろくが歴代天皇家にとって、ひじょうに大事な場所となっていました。 こうした時代背景もあり、何らかの理由により「反正天皇の御廟所」という伝承を残すことになったのかも知れません。いずれにしても天皇の御廟と伝えるほどの重要な古墳の存在が、当時知られていたのでしょう。 享和元年(1801) に刊行された『河内名所図絵』の石切劔箭神社の絵図のところには、遠くに正興寺と圓山が描かれていますが、残念ながら特別な記載はありません。 反正天皇は、考古学では古墳時代中期前半、5世紀の前半に活躍した第18代天皇で、頻繁に中国との通交を行い、大きな権力を握った倭の五王である讃・珍・済・興・武の中の珍にあたるといわれ、名は多遅比瑞歯別(タジヒノミズハワケ)といい、仁徳天皇と磐之姫との子である履中天皇(讃)と允恭天皇(済)と三人兄弟のニ番目にあたります。 応神・仁徳天皇以降、5世紀代の天皇陵に比定されている巨大な前方後円墳が、河内や和泉など大阪南部の丘陵地を中心に次々と築造されていきました。 反正天皇の陵墓は、『古事記』によれば毛受野(モズノ)、『日本書紀』には耳原陵に葬ったと記されていて、堺市に分布する百舌古墳群の最も北端、三国ヶ丘町に存在し、前方部を南西に向け前方部幅の広がった、墳丘長148mを測る前方後円墳の百舌耳原北陵=田出井山古墳に比定されていますが、考古学会では史書に登場する天皇の活躍ぶりや古墳の規模・形態などから、大方において田出井山古墳はふさわしくないとされています。 絵図中の圓山に明記されている「反正天皇御廟所」の記述から、当然反正天皇の墓は、他の巨大な前方後円墳に譲らなくてはなりませんが、少なくとも圓山の山頂に何らかの古墳が存在したことは確実のようです。 これを裏づけるように、昭和30年代後半に藤井直正氏によって撮影されたと思われる、6世紀の双円墳、夫婦塚古墳の写真の背後には、北側の正興寺山で進められる採土工事の不思議な様子が写っており(下記の写真)、平坦な山頂に、古墳らしい墳丘の残りと、大きな石らしいものが残されている様子、さらに削り取られた崖面に人工的な盛土を施したような土層が認められる様子などから、ほぼ古墳の存在が確認できます。 土採りの工事は、これより古い時代にも山頂周囲で行われた形跡がありますが、その際は工事によって相当数の遺物などが出土したのではないかと考えられます。 古墳の規模は、恐らく直径20m以上の円墳または小型の前方後円墳、高さは5m以上はあったとみられ、古墳の立地や「反正天皇の御廟所」の伝承事実などから、古墳時代中期以前の古い時期の古墳と考えられ、「正興寺丸山古墳」という名称で呼ぶことにしました。 昭和35年ごろの正興寺山(中川忠雄氏撮影・提供) 破壊が進む正興寺山(手前は夫婦塚古墳) ところで、この古墳のすぐ北西に鎮座する式内社の石切劔箭命神社は、この地を支配した古代豪族、物部氏の祖神の饒速日命(二ギハヤヒノミコト)を祀り、境内には穂積氏の氏寺であった法通寺跡が存在しています。 昭和60年7月17日、新聞各紙第一面に「東大阪石切神社 四世紀後半の三角縁神獣鏡」「石切神社蔵の金銅柄頭 奈良群馬出土品と同鋳型」などと、同社に古くから伝わってきたという三角縁神獣鏡3面を含む銅鏡12面のほか、青銅に金メッキを施し、環頭の中に鳳凰を鋳造した単鳳環頭太刀柄頭(つかがしら)1、巴形銅器5、銅剣1、銅鏃1、碧玉製の石釧4、車輪石1、鍬形石1、石製鏃8、などの石製品類をはじめ、ヒスイ製の棗玉1、碧玉製?の管玉24点を含む合計58点にも及ぶ古墳の一括遺物が保存されていることなど、奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター(田中琢氏ら)による調査の結果が報道発表され、東大阪にとどまらず、日本の古墳文化研究の上で、大きな発見となりました。 『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国の卑弥呼が、魏に朝貢した際に贈られた銅鏡百枚は、三角縁神獣鏡であったといわれますが、今回調査の三角縁神獣鏡3面は、それまで最も多数の鏡を副葬していた京都府の椿井大塚山古墳や、岐阜県の長塚古墳出土の鏡と同じ鋳型で製作されたもので、単鳳環頭太刀柄頭は、物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮所蔵のものなどと同一の鋳型で製作されていると発表されました。 ところで、これらの一括遺物は、まぎれもなく4世紀後半の地域の首長級の古墳に副葬され権力を象徴する一括遺物で、現在は神社の社宝として、本殿裏に新築された穂積殿に保存されています。 それでは一体いつ、どこから神社へと納められることになったのか。 その経緯はまったく不明です。 新聞報道には、調査の際の状況として「これらほとんどの遺物には、朱が付着していたことから、神社近くの古墳に副葬されていたものが発掘され、江戸時代末期ごろ神社に寄進された可能性が強いという」、「盗掘後、神社へ寄進されたらしい」などと、古墳の遺物であったことを推定するコメントが記されていただけです。 本当に江戸時代の盗掘なのか、昭和であったのか不明ながら、恐らく近辺の前期古墳であったと推定されます。 郷土研究家の荻田昭次氏は、これらの遺物は、石切神社の東参道付近、同社の西方の植付に存在する径30mほどの円墳と推定される塚山古墳(前方後円墳か)のほか、私と同じく正興寺山の三ケ所の古墳のどこかから出土したのではと、想定されています。 私は、こうした遺物の副葬された前期古墳とは、まさに「反正天皇御廟所」と伝えていた正興寺丸山古墳が、それに最もふさわしい古墳であったと確信しています。 (平成13年6月 原田 修) 石切劔箭神社『石切劔箭神社』(解説書) 平成7年 荻田昭次著『東大阪研究』平成12年 石切小学校創立百周年記念事業委員会『東大阪市立石切小学校創立百周年記念誌』昭和60年 大阪府全誌発行所『大阪府全誌』大正11年 『河内名所図絵』享和元年 いこまかんなびの杜 |