饒速日山と哮峯に関する資料 |
善根寺春日神社の本殿(東大阪市善根寺町) 饒速日山と哮峯に関する資料 生駒山の西麓、古代の日下(草香)の一画に位置する善根寺村(旧河内郡)では、古くから饒速日命の降臨伝承や神武天皇御東遷の聖蹟の地であることから種々の伝承が残されてきた。 紀元二千六百年記念を前に行われた全国的な聖蹟調査に並行して、地元善根寺村では村内に鎮座する春日神社社務所の発行による神社の由緒や日下地域の歴史をまとめた『孔舎衙春日宮社記』(変形B6判30頁、昭和15年2月11日発行)、及び聖蹟を中心に記述され、神武天皇聖蹟顕彰会を著者とする「肇國の聖蹟 -孔舎衙村を中心としたる- 」(七つ折 啓発用 同15年5月11日発行)が発行・配付されている。 今ではこの両書は郷土の貴重な資料となり、生駒山の北嶺の一画に「饒速日山」と「哮峯」と呼ばれる山名の伝承地が存在したことを示す資料となっているため、一部の抜粋になるが、両刊行物の内容を紹介したい。 『肇國の聖蹟 - 孔舎衙村を中心としたる - 』(昭和15年発行) 『孔舎衙春日宮社記』 (春日神社内 高松米三郎著 昭和15年2月発行) 一 饒速日命の御降臨 竝 草香考 草香に在します村社春日神社の御由緒を記し奉るには、先づ神代の頃天孫饒速日命の當哮峯に天降りましませる事実より申上げねばなりませぬ。 天照大御神は、御子天忍穂耳尊に代って、皇孫瓊瓊杵命をして中國を平定せしめんとの大御心から、八咫の御鏡、八坂瓊の曲玉、叢雲の御劒の三種の神器を御授けあそばされ、 豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、是れ吾が子孫の王たるの地なり、宜しく爾皇孫就きて治らせ、行きくませ、寶祚の隆えまさむこと、常に天壌と與に窮まりなかるべし。 といふ御神勅を賜はり、瓊瓊杵尊は群臣を率ひて威風堂々日向の高千穂の峯に御降臨あらせられました、これと殆んど同時に大御神は天忍穂耳尊の長子饒速日命に十種の神寶を授け給ひ、同様の御目的を以て大和に御降しに相成ったのでありました、即ち舊事記に「瓊瓊杵尊の日向に降る前に、天神は其兄火明命を大和に降す、これ即ち饒速日命なり、命既く世を去り、其長子天香語山命は紀伊熊野にあり、次子宇摩志麻治命は大和にあり、共に瓊瓊杵尊の後なる、神武天皇に復し、尾治連、物部連の祖となる」とあり、或は「饒速日命天磐船に乗りて、河内國河上の哮峯に天降ります、即ち大倭国鳥見の白庭に遷座ましま翔す、所謂天磐船に乗りて大虚空を翔行し、是即ち巡唲して天降坐せり」とあるが如く、瓊瓊杵尊高千穂御降臨前兄君饒速日命は河内の哮峯に天下りましまして在ったのであります。 この河内の河上の哮峯に就ては、古来諸書に異説が澤山ありますが、事實は當神域の山頂草香山なることが信ぜられます、官幣大社住吉神社の古記「膽駒神南備山本記」に 四至、東限、膽駒川、龍田公田、南限、賀志支利坂、山門川、白木坂、江比須墓、西限、母木里公田、鳥坂里、北限、饒速日山、 とあるが如く、饒速日山即ち哮峯であったことは確かであります。 又たこれを地勢から見ましても、鳥見との関係、大和、中國の要路としても、將た又た同峯に水源を発する諸川に天の川、日の川の名ある、又後世草香が日下即ち日の下の文字を使用せるは、天孫宮居の下の意味を持つ等、何れも天孫降臨の地たるを證せるものではありますまいか、又た此峯を現に驛館場といへるは、大和朝時代直越の中心として驛館の設けられたる跡を證せるものであります、既に天孫草香峯に天降りましまし、十種の神寶を神鎮め給へるよりして天孫と河内との関係は深く、河内の神別日下部の神は、饒速日命の孫比由支命、即ち天孫本記に所謂彦湯支命であり、十種の神寶は草香の峯に神鎮り給へるを後に西麓草香の大宮に御遷座申上げたるも當然であり、又たそれが日下部氏や、川上氏や、津守氏等の祖神として尊信せられたるも必然でありませふ、申すまでもなく往古は祭政一致でありまして、政のあるところ必ず祭りがあるのでありますから、當地に於ても別に諸神奉齋の史傳なくとも河内の政権が草香にありし以上は、其處に大宮があり、國民の尊信を集めて居ったといふことはいふまでもありません、而して其後宇摩志麻治命は神武天皇との和なり、橿原朝廷の國政に参與することゝなったので、其子彦湯支命が草香の若宮に居られ、河内の祭政を司って居られたのであります、それは偖て置き舊事記には饒速日命の天降り坐せる時の御有様を堂々と記して、三十二人の防衛の神、五部の人、五部の造、天の物部二十五部の人々などの御徒を副へ降し給ふと記して居り、現に當地には二十五部の人々の末裔と稱する二十五氏族が連綿として存續して居るのであります、本居宣長翁は瓊藝速日命は天上より降れる神なること論なけれども、姓氏録にも此の神の子孫なる氏々は皆天神の部に載せ、續後紀にも天神饒速日命とあり、何神の御子と知り難し、思ふに天照大御神の御子孫にはあらで、他天神なるべしといってゐられるが、古事記には日子番能邇々藝命(瓊瓊杵尊)の御兄を天火明命とし、書紀一書には兒天火明命を生む、次に天津彦根火瓊瓊杵尊を生みまつるとあり、又同一書には天萬栲幡千幡姫を娶りて妃となし兒を生む。天照国照彦火明命と號すとありますから、火明命即ち饒速日命は天孫の正統なることは明かであります。更らに書紀に據りますと「是時運鴻荒に属し、時草昧に鐘る、故蒙以て正を養ひ、此西偏を治む、皇祖皇考乃神乃聖、慶を積み、暉を重ね、多く年所を歴たり、(註日、天祖降跡より以て今に逮ぶ一百七十九萬二千四百七十餘歳)」と記して居るのであります、亦た以て高千穂朝廷御三世の御代が如何に悠久であったかを知ることが出来ると思ふのであります、即ち神武天皇は御東遷の御會議に於て宣曰く、「又塩土翁に聞く、日く東に美地あり、青山四方に周り、其中に亦た天磐船に乗り飛び降りたるものあり、余れおもふに彼の地必ず當に以て天業を恢弘し、天下に光宅するに足るべし、蓋し六合の中心乎と、厥の飛降る者は謂ふに是れ饒速日歟」云々と、天皇は既に饒速日命の中國御降臨を御承知になって居給ふたのであった、而して更らに饒速日命の御治績は夙に西偏の地にまで喧傳されて居ったのであります。 高千穂朝三世の御治世が既に悠久計り知るべからざるものがあったとすれば、哮峯に於ける饒速日命の御治世も亦た當然悠久なるものであったに相違ありません、其間草香の文化も亦た相當発達して居ったものと思はれます、然り草香は有史以前既に殷盛を極め、饒速日命の御一族の御本據は山上を東に降りて鳥見に居られたのでありますが、他の御一族は西麓に降り給ふて草香に居られ、其處に大宮が置かれてあったのであります、さればこそ神武天皇が草香に御上陸遊されるや、直に神域尊上山に天神地祇を御祭り遊され、七日七夜の孔舎衙坂の御難戦に、天祖天照大御神は神武天皇に神霊憑りまし教え覺し曰く「吾は日の皇子、日に向ひて戦ふことよからず、今よりは日を背負ひて神影の如まに壓躡みせん」と、即ち軍を還して南し給ふ、この靈感ありしの故を以て、天皇は中國御平定橿原御奠都の春、即ち辛酉の春四月十五日、勅使手研耳命、天富命、天種子命、宇摩志麻治命、道臣命等を遣はされ、宇摩志麻治命、國造彦己蘇根命大前に宮座主となり、中國治定の御奉告祭がありました、これ當社王代津祭の濫觴であります、而して爾後毎年勅使御差遣の儀がありましたが、天皇崩御の後は皇子神八井耳命は御位を、皇弟綏靖天皇に御譲り遊ばされ、當大宮の神主と御成り遊ばされました、和州五郡神社神名帳大畧註解によれば、「綏靖帝二年春中、皇弟神八井耳命、自帝宮以降居於當國春日縣、造營大宅、塩梅國政、斯葢起立神籬磐地、祭禮皇神天神、陳幣物、啓祝詞、以答神祇之恩、而主神事之典焉」と故に春日宮と謂ふ、これ春日神名の最初であります。 爾来草香の津は益繁栄し、大和朝廷と出雲、中國等交通の要衝であった関係から、高貴の方々の御住居も多々あったのであります。仁徳天皇の皇子若日下部皇子の御邸宅も此地にありまして、雄略天皇は直越を越へて常に行幸遊ばした事は有名な談しであります、其他行路の人々の歌も萬葉其他に數多く見られ、又た蓮の名所としての草香江は當時殊に賞美されましたもので、引田部赤猪子の歌は古事記にも載せられて居ります、此蓮は今猶ほ當地に現存し、(大阪府史蹟名勝天然記念物指定) 奈良の萬葉植物園にも採取されて居ります、殊に堀河天皇の朝勅使として源兼昌卿が當社に御参拝ありし時、 生駒山手向けやこれや此の空に 磐座うちて榊たてたり と歌ひ給ひし一首は、正に神威の彌嚴なるを現はし得て至言といふべきであります。 二 神武天皇の御親祭 竝 孔舎衙坂の御戦跡 日本書紀によりますると、神武天皇の舟帥は紀元前三年戊午の歳二月十一日丁未、舟帥遂に東し、舳艫相接して浪速國に抵る、三月十日丙子、流を遡りて河内の草香邑青雲の白肩の津に至るとあります、即ち天皇は乙卯の春三月吉備の高島に至り、行宮を造り居り給ふこと三年、其間舟檝を整へ、兵食を蓄へ、将に以て一舉に天下を平げんとの意気を以て東に御進發遊ばされ、浪速の急潮も何のその、舳艫相接するの大船隊を以て、一舉に青雲の白肩の津に御上陸になったのであります。 秘に當時の地形を慮みるに、第三紀層たる大阪高臺の地は南より北に突出し、武庫山麓と相擁して其處に急潮を爲したのでありましょふ、其内海は即ち北は池田まで灣入し、千里山の岬角を洗ふて東し、山崎八幡の地峡に達し生駒山の西麓に添ふて龜瀬邊に大和川、石川を吸入し、更らに北折して浪速の碕に至る、今日の河内平野は一大入海であったのであります、故に皇帥一度浪速の岬角を越ゆれば、直指東に見ゆる鬱蒼たる生駒の連峯は、誠に青雲の靉靆たるが如く、渚を洗ふ白波は正にこれ白潟の打ち連なれるが如き絶景であったのである、其處に大宮始め幾多の人家の建て連なれるを見た皇軍絶嘆の一聲が、この青雲の白肩といふ美辭となつて現はれたのであります、草香の津は曩にも申しました通り、宇摩志麻治命は鳥見に居ませしも、其子彦湯支命の御一族は河内の國政を執って居られたのでありますから、皇帥堂々東を指して舳艫相含んで進入するを見るや、それ天孫の御巡幸といふので、彦己蘇根命始め幾多の國人は梛木の枝を打揮りながら、皇帥を迎え奉ったといふ傳説さへあるのであります、即ち皇帥は何等の抵抗を受くることなく草香の津に御上陸になった、當時の御布陣の御模様は現在残れる各其地名によつて略推察することが出来るのであります、即ち「向河内大殿」は皇帥本營を置き給へる所、「御番所」は皇船警備の所、「門兵」は皇軍前衛のありし所、而して「上酒呑」「下酒呑」は天皇賜酒の所といはれ、「尊上山」は即ち天皇御親祭の靈趾であります、又た「楯津濱」は皇軍南に御發向の際、天皇親から楯を樹てて雄誥し給へる聖跡であります、現地に臨んで其雄大なる布陣の有様を想像すれば、如何に皇軍の威風堂々たるものありしかを推察するに餘りあるのであります、此處に於てか書紀に所謂舳艫相接すといふ言葉が単なる形容でないことが判るのであります。 舟行一ヶ月の御労苦は御上陸の皇軍をして多少の休養を必要と致しました、殊に膽駒の天嶮遽かに越ゆるべからず、加ふるに鳥見の長髄彦の軍は、皇軍の大和侵略を疑ひ防備おさおさ怠りなしとの情報さへあります、皇軍は休養と軍旅の整備及び情報の蒐集に約一ヶ月を費やし、四月九日膽駒の嶮を避けて間道を龍田に出で直に大和平野に出でんとし給ふたのでありましたが、道路嶮隘なる上に草木繁茂して踏むところなく、到底人をして並行せしむることは出来ませんでした、故に軍を還して天嶮突破を覚悟し給ひ、愈直越の公道により膽駒山中央突破の軍を進め給ふたのであります、軍議既に定まり、愈総進撃に決するや、四月十五日天皇は當神域尊上山に神籬を樹て、親ら神主となり給ひて天神地祇を祭り給ふ、即ち天皇神主として其主座に着き、皇兄五瀬命、稲飯命、三毛入野命等左右に侍し、群臣百僚之に従ふ、其盛儀譬ふるに物なしと申すことでありました、一方長髄彦の軍は山上饒速日山の頂上に其本営を置き、直越の嶮路を扼して防戦しました、皇軍は草香の濱の御本營を進發し、「門兵」の前衛を先遣部隊として、今日の「八幡山」「厄山」を経て前衛は「屯場」に屯し、一舉山上の軍を敗らんとしたのでありましたが、この戦いは七日七夜を費したと申傳へて居ります、皇兄五瀬命は軍を督して「厄山」の邊りに至り給ふや、長髄彦の軍「覗端」の嶮崖を扼して亂射し、命は不幸流矢に中つて其肱を傷き給ふたのでありました、故に此處を「厄山」と申して居ります、即ち還りまして「龍の口」の清泉に其傷を洗ひ給ふ、故に「龍の口」の水は今日に至るまで諸病を癒すと傳へて里人の尊信するところであります、これを孔舎衙坂の戦と申すのであります、日本書紀は此條を例の麗筆を以て舒して居ります、即ち「時に長髄彦は之を聞きて曰く夫れ天神の子等来ます所以は、必ず将に我國を奪はんとすといひて、即ち盡く属するところの兵を起して、之を孔舎衙坂に徼へ、之と與に會戦ふ、流矢あり五瀬命の肱脛に中たり、皇師進み戦ふこと能はず、天皇之を憂ひ給ひ、神策を意の中に定め給ひて(或は天照大御神の神憑の御教へに據る) 曰く、今我は是れ日神の子孫にして、日に向ひて慮を征つはこれ天道に逆ふなり、退き還って弱きを示めし、神祇を祭禮して日の神の神威を背負ひ、神の御影のままに壓ひ躡まんに若かず、かゝれば即ち曾て刃に血ぬらずして慮必ず自ら敗れなむと(こ詔は古事記には五瀬命の御言葉として居ります) 僉曰く然り、是に於て軍中に令して曰く、且らく停まれ、復進む勿れと、乃ち軍を引いて還り給ふ、慮亦た敢て逼らず、却って草香の津に至り、楯を植てゝ雄誥を爲す」云々と記してあります、天皇はこの御神教を感謝し給ひ、且つ神祇を祭禮してその御誓言を御實行遊ばさんが爲に、御即位の翌年春四月皇長子神八井耳命其他を勅使として、再び當山に御親祭あり、且つ國人に酒餅を賜ふ、此に於て爾来二千六百年、當神社に於ては王代津祭に、天皇の御仁慈を追憶せんが爲に、村民一同に酒餅を頒與して居るのであります。 三 春日神社略記 竝 古傳の祭儀 社格 村社 春日神社 (大阪府史蹟名勝天然記念物指定)
(参考地図) 『神武天皇御聖蹟「孔舎衛坂傳説地」及び「盾津推考地」二関する請願書概要』昭和15年より 2020.4.6 原田 修 作成 いこまかんなびの杜 |