ぬ か た  縁 起

 ぬ か た 縁 起  『枚岡市史』第3巻資料編 (昭和41) 所収 
   

 河内國額田邑寺社縁起

 額田大明神

額田大明神は額田大中彦皇子の奇魂(くしみたま)を鎮祭社なり 皇子は應神天皇の御子にて母は高城入姫命 仁徳天皇の異母の兄なり 先に河内國河内郡額田邑に宮を造りてましませり 故額田皇子と稱す 史を按ずるに仁徳天皇六十二年大仲彦皇子闘鶏野(つげの)に狩したまひ 老翁の氷室を作るを見たまふことあり 高城入姫命の神霊をも爰(ここに)にいはひまつる 今の高城の神社すなはちこれなり 継体天皇の御宇に巨勢男人大臣に勅有て神社をつくらしむ 巨勢氏も又武内大臣の末なり 桓武天皇の御宇に大納言征夷大将軍紀古佐美の朝臣に詔有て再興さしめ紀氏の裔式部位子額田首に職を兼しらしむ 首代々勅詔のかしこきをあふぎ奉りて神明に心在の誠を致せり また此里に古佐実の朝臣の別業の跡あり その所を大納言といひ首が本居の跡をも式部省と呼 ことみな此ゆゑなり 古佐美をも神にまつり今高佐美の社と稱す 高内が祭る古佐美の社といふことを略し あやまり傳へてとなふるなるべし

  寶祚社

聖武天皇の御宇 寶祚を祈らむがため明経博士額田首東内千足、詔をうけたまはりて天照大日靈尊天児屋根命を此の地に齋祭る 其後八幡大神を祭りて三社となす 今棟高明神と稱すこれなり 東内(*とうち)は家號なり

  額田寺

額田寺は弘仁年中に弘法大師高野山をひらき 京より南山に至り平城より難波へ越たまふ路次の止宿のために額田首高内皆人の皇子社のかたはらに一寺をいとなむ これすなはち皆人大師に帰依するがゆゑなり 大師も亦自薬師の像を刻みこゝに安置す 高内は家號なり

  長尾岡瀧寺

弘法大師ある時この里の山中なる陰陽の瀧に登りてづから五大尊の像をきざみ額田首皆人と力を合せて堂塔を造り瀧の麓長尾岡に安置す 今長尾山不動寺と稱すこれなり 又山上に五智如来を安す 其かたはらに霊水あり 大師加持の威力によって瀧出て今に増減なし その外辧才歓喜の二天を安す 柿本紀僧正も爰に来りておこなひし所なり 仁明天皇承和十三年(846)勅ありて額田首高内皆人右京の五條の三坊に貫附せしむるの後 皆人をも神に祭り 今俗に呼てみなうどの社といふはこれなり
 右に載するところの神社仏刹等度々の兵火にかゝりて縁起社傳あるひは亡ぶといへとも聊(イササカ)先祖の旧記をかうかへ後昆に遺さむがために記す
 応永二年(1395)乙亥三月日 高内大郎左衛門尉額田首重行
  寛永年中(1624-1644) 源 宣慶卿添書
河内の國伊駒の麓額田の里に額田首の姓尸(うじかばね)を負ふ高内某重正といふ者あり 其家に昔より祭る神社寺塔ありて いにしへの記録等は失ぬれども猶旧記をのこせり 今某に縁起を求むことを望む 故に書をひらき粗考へ見るに太朝臣安麿の古事記舎人親王の日本書紀等に天津彦根命の苗裔額田部連あり 源順の倭名抄にも額田邑あり 爰を以てこのところの久しきをしる 菅野眞道等の勅撰の続日本紀に額田首人足あり 同紀に額田首千足あり大政大臣良房公の勅撰の続日本後紀承和十三年九月詔あり其紀日河内国河内郡の人式部位子従六位下額田首皆人本居を改て右京五條の三坊に貫附すとありて又中務卿萬多親王右大臣藤原朝臣園人等の姓氏録の河内国の皇別を見れば額田首の姓尸あり 共根源を尋ぬれば孝元天皇の皇子彦太忍信命の後胤武内大臣の末なり 正に考へしるこの里に額田首の姓尸を負て永く本系のみだれざることのかぐはしきによつて寛永年中の仙洞の御照覧にそなへ奉るに上古久しき祖より絶ず神を祭ること神妙におぼしめさるゝ御氣氣色なり 仍書之畢
 干時寛永十九年(1642)八月上旬
 従宇多天皇二十四代後胤
  葛岡氏
   従五位上修理権大夫源宣慶書之
右奥書は某し後水尾院につかへ奉りし時高内重正望にまかせて書之畢 今また重正子息高内某常春の氏神牧岡大明神にて奇瑞ありしを某に記さしめて後代に残さんことを望む 前の縁起は後水尾帝御手にとらせたまひ御照覧ありしゆへにあらたむることを得ずして白紙をそへて書之
天正年中(1573-1592)近衛関白前久公薩摩の國へ御下向の時河内國牧岡大明神へ御参詣あそばされて御當座の御歌
 つゞきつゝ近き衛もそれならで身は百敷の遠つ島守
はるばるつくしまで御下向ならせたまふゆへにや御先祖天児屋根命の御土器(*みかはらけ)こはせたまひ御前に捧げたりしに三方の上の御土器をのれとわれければ神人おどろき取かへ奉るに又前のごとし かゝるゆへに前久公より御みききこしめされけるとなり、御子孫ながら當御位の高くわたらせたまひ御徳のすぐましくてかゝる不思議ありけるかと世の人今にかたり傳るなり 其後生駒山の麓御覧ぜられ額田の長尾寺にいらせたまひて御當座の御歌
 枯のこる長尾の岡の薄原霜もしらけていとゞ寒けき
此御歌によりて此岡の薄を賞翫せしむ また此寺を瀧寺となんいふこといかなるゆへにと御尋なされければ御供にありける額田首高内正定かしこまりうけたまはり 昔弘法大師額田寺より此上の陰陽(*めお)の瀧に登りて行ひたまひ自ら五大尊を作り此長尾の岡に安置まします故にこの寺に詣で彼の瀧にぅたれなば病を治すと申ことの御座あるよし申上ければそれより瀧へ分入らせたまひて御當座の御歌
 尋ずはありともこゝに山鳥の長尾の奥の瀧のしら糸
それよりして此瀧を長尾の瀧と世の人となへり
                 源宣慶(花押)

  元禄年中卜部兼敬卿奥書

河内國河内郡額田邑額田大明神者人皇十六代應神天皇第一皇子大仲命也 額田部首紀式部位子社例傳日 額田大明神社人皇二十七代繼體天皇御宇始而鎮座也 人皇五十代桓武天皇延暦七年夏四月自去冬不雨ヲ 仍同年五月差使七道名神祈雨 大納言征夷大将軍古佐美朝臣奉勅祈雨於諸社 于時到河内國河内郡額田邑拝一宇社 因額田部首紀位子之日所祠 之社者何 答日応神天皇第一皇子 又應験而祭耶 答先朝継體天皇御宇夏不雨五穀不滋登百姓餓死 仍アリテ大臣巨勢男人創額田大明神之社 祭?祈五穀滋登 
大鷦鷯天皇六十二年五月大仲彦皇子獵于闘鶏(ツゲ) 皇子自山上望之瞻ミソナハスルニ野中有物其形如廬(シイホノ) 遣使者 令玉視還ヘリテ来之日 窟也 因喚闘鶏稲置大山主之日 有其野中窟矣 啓之日 氷室也 皇子日蔵如何亦奚用焉日掘土丈餘 以草其荻取以置 既夏月而不?(キエ) 皇子則将来其氷御所 天皇歓玉之自是以後毎當季冬必蔵氷至春分(テアガツ)也 なかにも稲置大山主氷経夏月不?といふは天地潤澤の良能五穀滋登の徳功を稱する語にして然も其氷を得たまふは大仲彦皇子なりと

尊信して巨勢男人始めて此地に神殿を建 則額田大明神と申て齋ひ奉る神なりと語る於是 大納言古佐美朝臣感歎し帝に奏し更に神地神戸を定め齋部乃齋?以下津磐敷堅遠山近山乃大峡小峡仁生立留大木小木乎齋斧以伐操利本末乎波山神仁祭理中間以齋柱太敷立城闕崇華樓臺壮麗く造営奉り則額田大明神と御名稱テ言壽鎮志女奉理 則額田部首紀式部位子を宮司として永く寶祚無究風雨順時五穀豊饒を祈り奉る社なり
 右一巻者高内家之所傳来也 頃因證明今般
 繕寫シテ而以加奥書
   元禄巳卯歳(1699)仲秋十三日
 神祗道管領侍従卜部朝臣 兼敬 朱印


 縁起追考

  額田大明神
額田大明神はぬかた邑にありて往昔より廃絶せしことなし 然れども数度の兵亂に放火せられ荒蕪して今は僅の小社となれり ○額字は額田大明神とあり長壹尺九寸幅五寸餘行書にて有栖川幸仁親王の書せたまふなり ○境内は四十間四方ばかりもあらん此ノ内薮林などあり外に馬場長百間餘もあるべし之は皆いにしへより有来りしまゝにて近きころのことにはあらず ○元禄十年九月近衛家より今大路兵部太輔殿を以て額田大明神并高城ノ社古佐美ノ社皆人ノ社等の事を御尋ありし時式部丞常春ことごとく御返答申上るのよし舊記に見えたり
 (この間 省略)
文政庚寅仲秋 江戸高内首永種 識 男 眞足謹校額田辨
大仲彦皇子を額田大仲彦と申し奉りしゆゑはいかにといふに 此處の額田邑はもとこの皇子の御母高城入姫命に由ある地なれば皇子此處に宮を造りたまひて居ませり故に此地名に據りてかく稱し奉りしなるべし 一説に大和國平群郡額田郷に據れる御稱なりと云へるは非がことぞ さて額田といふことはいと古くよりありし名にて古事記神代巻に天津日子根命者凡川内國造額田部湯坐連云々等之祖也 また書紀に天津日子根命此茨城國造額田部連等之祖也 また姓氏録左京神別に額田部湯坐連天津日子根命子明立天御影命之後也 允恭天皇御世被薩摩國隼人復奏之日獻御馬一疋 額有町形廻毛 天皇喜之給之賜姓額田部也などと見えて額田の名義は姓氏録にて分明たり ぬかは即チひたひのことにて町形とは田の町の形なり 或説に定額の田の義といへるはあたらず定額をぬかと云ひし例なし さて神名式に伊勢國桑名郡額田神社あり 書紀顕宗御巻に倭國山邊郡額田邑あり 和名鈔に平群郡額田奴加多あり また此處に此名ありしこともいとふるきことにて和名鈔に河内郡額田沼加多と見えたり 凡てこれらは皆先にいへる額田部湯坐連より出たる稱にて其枝ゝの氏人栄え廣ごりける故にあそここゝの地名にも移り残れるなりべし また神社に此名負せしも決て其氏人の中に徳のすぐれたる人を祀りたるか 或は別なる功勲をなせし人をまつれるかとまれかくまれ此額田部に故あるべけれ 本居宣長の説に類聚國史に額田國造と云姓の人あり これは額田部と同姓か異姓か詳ならずといはれたるはもとより他姓のことにて委穿鑿(アキラメ)のとどかざるなり 抑此額田國造といひし人は我三十五世の遠祖にして今足(イマタリ)と稱せり まさに孝元天皇四代の孫武内宿禰三男平群木菟(ツク)宿禰の苗裔(ノチ)なり 然れば額田部と額田とは同姓のごとききこゆれど自ら異姓にして即遠祖は別なりかし 額田部は天津日子根命末にて額田は孝元天皇の裔なり 此事正しくは姓氏録河内國皇別に額田首 早良(サハラ)臣同祖平群木菟宿禰之後也 父氏姓額田首 不父氏といふはもとより紀氏なるを今足の祖父人足といふ人此御に住居 其地名によつて改めて額田首といへり 首は尸(カバネ)なり と見えたり
     額田首眞足 誌




     額田と額田大中日子命


           いこまかんなびの杜