河 内 往 生 院 跡


  

 河内往生院跡

平安時代の末期、三善為康が著わした『拾遺往生伝』には、安助上人が長暦
(1037〜1040)年中に、難波の四天王寺西門から真東にあたるところに往生院を建てたことが記されています。
この往生院は、極楽東門の中心にして「西天迎晴夕日可観」と願い、西方浄土への極楽往生を祈る道場として建てられたことがわかります。
生駒山の一峯「岩瀧山」の山ろく六万寺町にある往生院六萬寺は、『拾遺往生伝』に登場する往生院の法灯を継ぐ寺院で、往生院創建時の本尊であったとみられる木造阿弥陀如来座像など平安時代の仏像群がまもり伝えられています。
寺の北側、六万寺谷(ハイキングコース)との間の山腹にあたる九重堂山・九重塔山と呼ばれたところには平安時代の瓦が多数出土し、大きな礎石が並ぶ東西約12m、南北約18mの長方形の土壇・建物跡があり、礎石の配列から南北柱間5間、東西柱間4間をはかる西方の河内平野〜上町台地・大阪湾を向く建物跡で、ここが往生院の金堂跡として、昭和33年に大阪府の顕彰史跡に指定されています。
出土した瓦の内、軒丸瓦の中には中心に阿弥陀如来の種子「キリーク」の梵字を彫だし、浄土信仰の建物としてふさわしい瓦を使用していました。
焼けた壁土などから、寺は火災で焼失したようで、『太平記』に記される正平3年
(1348)の四條畷の戦いで南朝方の城塞であった寺は、戦乱に巻き込まれたのでしょう。
現在の往生院六萬寺周辺には、弥生時代後期の高地性集落の岩滝山遺跡のほか、横穴式石室をもつ後期古墳(六万寺古墳群)、南北朝時代を中心とした往生院又は往生院城関係の遺構が広がっています。

    
      
生駒山の岩滝山・キノキ山のふもとにある河内往生院跡
          
(東大阪市六万寺町、赤い擁壁の上方)
    
       
笹の茂る中に「史跡往生院金堂跡」の石碑がある

         

    木版刷りの『岩瀧山図』。往生院本堂の北側の「九重堂山」が建物跡のあるところ
               (東大阪市立郷土博物館資料参照)


 (資料)

 
『河内名所図絵』 往生院の記載より

「いにしへは、役行者、山獄をひらき、伊駒、鳴川、鬼取につづきて、修験練行の地とし給ふ。
当山、女人の参詣をゆるし給へば、世に女人の大峰とぞ称しける。
○当山より鳴川へつづきたる山路に名所多し大覗岩 小覗岩 浄土原 神縄掛 吹上 国見石 金捨池 八葉峯 鬼足印 行者窟 音無滝 小雨滝 相承滝  影向石 九重塔跡 正行城跡 堂之芝 釈迦嶽                   

 
『拾遺往生伝』続群書類従 第一九六巻

「安助上人者、河内國河内郡往生院之本院也、其性潔白涅而不緇、只以轉經爲業、以念佛爲事、同高安郡坂本村有一古老 姓川瀬氏名吉松、本與上人契在師壇矣、長暦年中、檀越吉松夢、有所領苑、苑中有林、林中有室、室中上人變成金色身、即相示日、汝成人之後、不嗔恚哉否、宅中安佛像、焼香不断哉否、毎日唱佛名哉否、壇越答云依實皆尓也、即讃云、善哉々々、汝有此善、又示日、汝於此所可逮道場、答云、教誠、未訖、忽然夢驚、即有叩門者、其音鼕々、先問其人、安助上人也、即開門迎之、展席謝之、爰上人語云、汝所領園林者、當天王寺之東門、定知極樂東門之中心也、加以西天迎晴夕日可觀、翼建一小堂、送我餘算者、壇越以爲、此言與夢合矣、即任約言、建立一堂、上人住之、修五念門禮拝、讃歎、作願、観察、回向是也 及三箇年、又迎月三五、集衆講論、薫修有日、以期來際、干時長久三年
(1042)八月十五日、壇越齎來 米菓、奉獻上人、上人受之、併供佛前、鳴聲白己、依此壇越之助、將遂我往生之望、以此因縁、生々世々、生一佛土、期三菩提况亦命終日、相見此夕也、啓白再三、流涙漣粫、爰壇越不熟此言、問弟子日、上人日來惱有氣哉、将有狂氣哉、答云、更尤殊事云々、壇越奇而去、其明朝門人來告云、上人去中夜、端坐佛前如眠入滅云々、遠近聞者、莫不哀傷、故此寺俗呼日往生院、自尓以降、念佛行者寺中不絶」

 [解題]
『枚岡市史』より
平安時代末期、浄土教の盛行にともなって往生思想が説かれ、天承2年
(1132)のころに三善為康の著わしたのが『拾遺往生伝』である。大江匡房の『続本朝往生伝』のあとをつぎ、結縁のため、勧進のために著作すると自序している。
これは善仲善算両二人以下僧尼66人・俗人29人、合わせて95人の往生者の伝記を録したものである。
河内では安助上人の伝に、上人が長暦年中
(1037〜40)大阪四天王寺西門から真東にあたり往生院を建てた。そしてこの本院は極楽東門の中心にして、「西天迎晴夕日可観」と願ったものである。長久3年(1042)8月、上人が入滅してから念仏行者の寺中に出入が絶えなかったという。


        いこまかんなびの杜