小山田住吉神社の所在地
河内地方の南端に連なる金剛・葛城山系の水を集めて北流し、やがて大和川へ合流する支流の石川は、河南地域の台地や谷間の田畑を潤してきた。
この石川の流れは、東西二流域に分かれる。東の流れは千早川といい、金剛山(1125m)西ろくの千早赤阪村~河南町へと河南台地を削って流れ、別名を東条川と呼ばれて古来の石川郡域を潤してきた。
一方、和泉葛城山系へと続く神福山・岩湧山・燈明岳などを水源とし、古来の錦部(にしきべ)郡域を北へと流れ下る多数の谷川(石見川・天見川・滝畑川など)は、紀伊国へ通じる高野街道の要所である河内長野で合流するが、最も西側にある深い滝畑谷の谷~高向の段丘を流れ下る川は、石川の本流筋とされ、古来、別名を西条川と称されてきた。
この石川(西条川)の左岸段丘に沿って、幅約1km、比高にして30mほどの低い小山田の丘陵が西南~北東の羽曳野丘陵へと連なっている。
丘陵の東側に沿って、泉州方面に通じる国道170号(外環)が通っている。丘の西側谷口には、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開いたと伝える古刹、真言宗天野山金剛寺の大きな伽藍がある。
西に続く丘陵は、和泉国の国境となっていて、天野の狭い谷を流れる天野川は、同じく北へ蛇行して流れ下って、古代の人工貯水池「狭山池」へと入り、広大な摂・河・泉の田畑を潤してきた。
その両河川に挟まれた河内長野市小山田(おやまだ)の丘陵上に「赤峰」と呼ぱれる所があり、その一画に住吉神社が鎮座している。由緒書によれば「尾上山」と呼ばれる地にあたる。
所在地 河内長野市小山田町453番地
小山田の地名は、神功皇后あるいは住吉神社との関係が深い地名であることを暗示している。この赤峰の一画、北の谷から切れ込む小谷に挟まれて南北約500mの舌状の平坦部をつくっていて、神社の鎮座する聖域としてふさわしい感がする。
ところで、神社に通じる長い南側参道・馬場は、ほぼ南を向き、入口の石鳥居(明治25)をくぐって進むと途中に高天原神社、奥に諏訪社の小祠が祀られる。
奥に直交して並ぶ木鳥居・拝殿・本殿は、東西に並んで西を向き、西下の谷沿いを小山田集落へと連なる細い道から急な石段を上がってくる古くからの参道につながっている、鳥居の左手には社司宅、右手には鐘楼がある。
さて、小山田に祀られる住吉神社の存在については、10年程前から関心を持ち、関連の史料を探してきた。これといった新しい記録を見つけることもできずに経過したが、現時点でわかった神社資料を整理して紹介することにしたい。
まず、小山田の住吉神社の存在を知ったのは、『大阪府全誌』(井上正雄 大正11)に掲載され、住吉三神を祀る清崎神社の存在を知ったことに始まり、地図で神社を探したものの見つからず、小山田には住吉神社が存在することが判ったため、確認の意味で2006年に初めて参拝したのである。
住吉神社は清崎神社 古くは豊浦神社とも呼ばれた
『大阪府全誌』錦部郡大字小山田の「清崎神社」について、参照して私なりに記すと清崎神社は、東南の字尾上山にあって、表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長足姫命・武内宿禰を祀っている。この神社は、神功皇后が三韓征伐のとき、深く三筒男神(住吉三神)に祈願され、凱旋された後の摂政11年4月上の卯の日に摂津国の住吉の地に祀られたあと、同52年4月中の卯の日に小山田のこの地に祀られた。
以来、豊浦神社と称されてきたが、明治の初め現在の社号に改められた。祭典で競馬が催されるのは、神功皇后が凱旋された当時、裸馬の競走が催されたことに依ると伝えている。ほかには1月中の卯の日に射の式が行われる。明治5年に郷社に列し、同40年1月に神饌幣帛料供進社に指定され、40年12月26日には大字下里字青ケ原の村社であった青ケ原神社(国津守・高おかみ神・保食神)と、大字天野山の字高瀬に祀られた村社の高瀬神社(高おかみ神)を合祀している。境内は957坪あって、本殿は檜皮葺住吉造である。拝殿・神饌所・絵馬所・神庫・社務所がある。末社には菅原神社・事代神社・諏訪神社がある。氏地は小山田村・下里村・天野山村で、例祭は10月12日である。
と、記されていた。
この小山田村の「清崎神社」は、昔は「豊浦神社」と呼ばれていたことに驚いたのだが、清崎神社が現在の住吉神社であることには間違いない。
神社の由緒書には
さて、小山田の住吉神社で配布されている由緒書には、次のような興味深い由来が記されている。私なりに要点を簡単に記すと、
当神社は、小山田の東南に位置する尾上山の丘陵に鎮座し、神功皇后が三韓征伐の時、深く住吉三神に祈願され、凱旋ののち天下を巡行された時に、(西方に位置した)和泉国の逆瀬川の上にある「騰跎船」という所にお着きになり、そこから河内国に行幸された時に、弓を射てこの矢の落ちた所を着御の地とお定めになった。その時、その国境に名主で與三五郎という者がお迎えに出て先導され、当神社の南方にあたる高天原にお着きになられた。その後の摂政52年、この地に斎宮を建立された。3月壬朔、皇后は吉日を選ばれて斎宮に入られ、自ら神主となって祭祀された。(ずっと後の)文化10年(1813)12月吉祥日に本殿は建替えられた。神社は、住吉大明神と称してきたが、明治の初めに今の名称に改められた。
例祭は10月(体育の日)、午後3時より祭典、続いて馬駆神事斎行。馬駈神事は、神功皇后の征韓の祝賀として10月中の卯の日(10月12日)に裸馬の競馬を催された由来から馬かけ神事が行われる。
などと記されている。
ところで、この神社が住吉神社(大明神)と称して来たこと以外に、豊浦神社あるいは清崎神社の名の神社の時期があったことは全く記されていない。鎮座地が、尾上山と呼ばれている地であることは、他の文献に記されていないので興味深いが、これは御神山の意味があったのだろう。
なお、神社の西方1kmには、古来の河内・和泉との国境線があり、その和泉側は旧大鳥郡上神(かみつみわ)郷に属した逆瀬川・鉢が峯寺等の地域で、鉢が峯寺には延喜式内国神社(天照大神あるいは大国主命)が鎮座する襲峯と呼ばれる丘がある。「騰跎船」と呼ぶ地がどこを指すのか不明であるが、この地は陶邑の南方、大阪湾(茅渟海)へ流れ込む石津川上流の最も奥にあたる所で、国は異なるが至近の距離の地であることには違いない。
大正11年に発行された『大阪府全誌』の興味ある清崎神社や豊浦神社の名は、いったい何にもとづいたものなのだろうか。小山田の住吉神社が配布する由緒書には、それらの名が登場しない。
小山田人足揃ったか?
大正10年発行の『河南の枝折』(長谷川弥栄著)にも、清崎神社が紹介されている。内容を私なりに簡単に記すと、
清崎神社
天野村大字小山田の東南丘に鎮座する、昔から表筒男、中筒男、底筒男の三神を、祭神とされてきた。神功皇后が三韓征討のときも、深くこの三神に祈願をこめられ、凱旋の後は、摂津の住吉神社と共に、深く尊崇されて「豊浦神社」と称さられていたが、明治の初年に今の名「住吉神社」に改められた。本殿は檜皮葺の住吉造りで、境内には摂社・末社・絵馬堂があって境内は趣がある。
当社には古来より神功皇后に関する種々の伝説が伝えられ、神功皇后が凱旋された当時の古式と伝える裸馬駆けの神事が現在も行われている。また、住吉大社の神輿の渡御式に際して「小山田人足揃ったか?」と唱へられたのは、古来、当社から16名の神輿舁(みこしかつぎ)が、[摂津の住吉大社へ]送られたことによると伝えられている。
と記している。
由来の内容は、『大阪府全誌』とほぼ同様で、豊浦神社の古名を記しているが、合わせて興味深いことは、古来より小山田人足16人が住吉大社の神輿かつぎに送られていたことを記しており、資料として貴重である。どこかのHPで書かれていた記述の根拠となる資料をずっと探してきたのだが、『河南の枝折』の文中で発見できたことは幸いであった。摂津の住吉大社の御神輿のかつぎ手は、小山田の住吉神社の氏子16名が務めてきたもので、住吉大社との深い関係というか、古来より歴史的に深くつながる関係が存在したことを物語るものである。
少し古い明治36年発行の『大阪府誌』には、次のように記している。内容は、ぼぼ『大阪府全誌』と近いが、清崎神社の名称の始まりを明記している。参照して私なりに要点を記すと、
清崎神社
大字小山田の東南丘上に鎮座し、祭神は上筒男、中筒男、底筒男の三柱である。・・・・(略)…昔から豊浦神社と称して来たが、明治の初めに清崎神社と改められたという。・・・・・(略)・・・・。
と記されていて、豊浦神社の名は、古くからの呼び名であり、清崎神社の社名は明治時代になってから改められたことがわかる。
小山田の住吉神社で配布されている由緒書には、もとは住吉大明神と称してきたことを記すが、豊浦神社あるいは清崎神社の名がまったく登場しないのは不思議である。
『日本国誌資料叢書 河内』(太田亮 1925)にも、南河内郡域のその他神社として清崎神社(天野村小山田) もと豊浦神社 住吉四神・武内宿禰を祀る。と記している。
ところで、古い史料を探すと、『河内長野市史』第7巻資料編4には、「十八 元禄五年十一月錦部郡之内本多隠岐守領分寺社帳写」の内容が紹介されていて、小山田村の氏神として「五社大明神」の内容が記されているのでそのまま紹介する。
一 五社大明神 敷地境内 南北百六拾五間 東西五十八間 除地
右社 桁行壱丈六尺 梁行九尺五寸 流作、桧皮葺
神主 善右衛門
宮座七拾五人、年かさ廻り持
薬師
阿弥陀
内陣 大日
観音
地蔵
勧請時代不知
末社 天神 小社
末社 戎 小社
拝殿 桁行八間 梁行弐間半 藁葺
木鳥居 高壱丈 三尺七寸五分廻リ
宮寺無本寺 神宮寺 桁行三間 梁行弐間半 藁葺、真言宗看坊 桜本
開基時代不知
薬師堂三間四面、瓦葺
・・・・・・・・・・・以下(略)・・・・・・・・・・
この史料は、元禄5年(1692)のもので、小山田村の五社大明神とは、流造り檜皮葺の本殿内陣に祀られた本地仏五仏をもって五社大明神と呼んでいたもので、現住吉神社の拝殿裏、瑞垣との間にある江戸期の石燈籠の中に、円竿部分に「住吉大明神」と刻むものがあるほか、中台部分に「五社宮」と刻む角竿の石燈籠があるので、五社大明神とは現住吉神社であることはほぼ間違いないだろう。
境内の・本殿・拝殿・木鳥居の規模のほか、神主善右衛門の名や宮座75人が廻り持ち、境内には、神宮寺と薬師堂があるなど、その詳細を記している。
また『河内長野の古絵図』(昭58年)には、元禄3年(1690)の「河州錦部郡市村新田同小山田村地論絵図」が載せられているが、神社名は無いが一際赤く鳥居や社殿を描いており、これが五社大明神であることはよく判る。
境内の木鳥居の南側にある鐘楼の銅鐘は、先の大戦で古い鐘が供出されたため、近年造りなおされたもので、
河内国錦部郡小山田村
住吉五社大明神
旧梵鐘は氏子中より 天明元年辛丑十一月献納 大東亜戦争の為に供出
と刻まれている。
小山田一帯は住吉大社の神領地
さて、『河南の枝折』に記されるように、住吉大社の神輿の渡御式に際して「小山田人足揃ったか?」と唱へられたことは、古来、小山田村から16名の神輿舁(みこしかつぎ)が送られてきたことを意味し、これに関連する史料を調べてみた。
まず、住吉大社の秘宝で神社の由来を記した天平3年(731)の年紀をもつ貴重な記録『住吉大社神代記』(重要文化財)には、足仲彦(仲哀)天皇が神の教えに従わず崩御、長門の豊浦宮で殯(もがり)の後、齋宮を「小山田邑」に造った( [筑前国] 福岡市東区に鎮座する香椎宮付近とされる)と登場するが、明らかに河内の葛城山ろくと考えられる「小山田」の地名の記載も登場する。
住吉大社の広大な神領地の一つ、生駒山・葛城山地東西周辺の山名や溝の開削・田の開墾と水の灌漑などを記した「山河寄せ奉る本記」には、天野・錦織・石川・葛城・高向などの齋き祀る山名のほか、開墾された田の地名として「小山田」が登場する。その部分を引用すると、
「爰(ここに)に御神児(みこがみ)集ひて佃(みた)を墾開(は)り饗嘗(みあへ)したまふ。其の地を墾田原(はりたはら)と謂ひ、小山田と謂ひ、坂本内墾田(うちのはりた)と謂ふ」との記述のほか、「神児等(みこがみたち)、鼓谷より雷の鳴り出づる如く集いて、墾田原・小山田・宇智の墾田を開墾佃(はりひら)く。・・・・」。
ここに登場する「小山田」は、開墾地。ほかにも文章中に、住吉という俾文を彫った樋を設けた「高向堤」や「墨江堰」など、住吉の神と関係深い名称が登場することから、石川沿い、河内長野の小山田であることは確実だろう。
このほか、小山田の名は、太政官の史を世襲した壬生官務家(小槻氏)に伝来する太政官符や宣旨を編纂した書物の『続左丞抄』第三に、
住吉神領年紀。
垂仁天皇御宇被レ寄レ奉所々。
高向庄。但小山□□□知行□ 御供田。丹下。中村。矢田部。
・・・・・・・以下(略)・・・・・・ とあり、
つまり、住吉大社へ寄せられた神領地に関する年紀の最初に、(河内国錦部郡)高向庄が記され、小山□□□知行□ と但し書きされている。意味は不明であるが、高向庄に含まれた小山田の土地の知行に関するものなのだろう。
錦部郡小山田村と住吉大社とを直接関係づける史料として、社家出身の学者梅園惟朝が編輯した中世・近世の住吉大社研究に欠かせない典籍である『住吉松葉大記』に「小山田」に関わる史料が載せられている。
[供膳部十二 政所膳供] に
一. 二月祈年御祭下行銭一百文自二正官一受レ之 但書二其銭札一日小山田 惟朝云此下行銭昔自二河内國錦部郡小山田一出矣 彼所中世爲二他領一土民不レ勤二神事一故自二神主一下行 又御油料一百文自二權禰宜一受レ之 又自二正禰宜一受物大幣紙四十八枚・・・・・・(略)・・・・・・・
と記され、二月の祈年祭に正官より受け取る下行銭百文の銭札に「日小山田」と但書する。これについて、編者の惟朝は、この下行銭は昔から河内国錦部郡小山田より出されていた。しかし小山田は中世に他の領地となったため、地元民は神事を勤めなくなったために、住吉大社の神主が下行することになった。
ことを付け加えている。また、このほか、
霜月御祭 同二二月御祭一 食波加世紙厚紙十枚小紙廿五枚請二取之一
自二神主一小山田御下行
惟朝云小山田在二河内國錦部郡一邑名 昔小山田爲二當社神領一貢二供菜香菓一來
矣 而中世彼邑爲二他領一不レ貢レ物 闕レ之則廃二神事一 故津守家出二料物一
而使下二役人一調中進之上以レ此云二小山田下行一也
と記され、同じく霜月の祭礼時にも二月の祈年祭と同様に神主が下行した。
これに関しても編者の惟朝は、小山田邑が住吉大社の神領地で、祭祀の供物がなされていたが、中世に小山田邑は他の領地となり、祭祀用の物も貢献されず、これにより神事も廃されるにいたったため、津守家が料物を役人に調進させた、これを「小山田下行」 という。
この解釈でいいのだろうか。
小山田は中世以前に、間違いなく住吉大社の神領地として重要な場所であったことがわかる。
このほか、同書「造營部」には、各地神領地の社殿等造替にかかる負担金であろうか、末尾に次のように記載されている。
一 小山田庄 預所七貫文 下司一貫六百文 庄役三貫五百文
右注進如件
正平九年(1354)八月日
また、神領部廿四 には、
河内国 錦部郡
小山田 日野 太胡賀
とあり、小山田は、南北朝時代の頃までは、住吉大社の直接の神領地として深い関係を維持してきたことが判るとともに、小山田より少し南方に位置する日野地区、太胡賀は恐らく高向地区一帯が、古来の住吉大社の残存神領地として、かろうじて維持されていたものだろう。
こうした住吉大社の一神領地であった小山田に住吉神が祀られ、本社の住吉大社の祭礼にも深くかかわっていたことが明らかになったといえる。
小山田の仲哀天皇宮と御陵
葛城山地のふもとに広がる広大な住吉大社の神領地の一画、河内国錦部郡小山田の丘上に古くから祀られてきた住吉神社(もと豊浦神社・清崎神社)の南側の丘端に、仲哀天皇の御陵あるいは高向王の墓と伝わる大きな古墳があったといわれている。私は、古墳と住吉神社は、密接に深い関係があったと考えている。
まず『大阪府全誌』(大正11)錦部郡小山田村に接する上原村の説明の中に「荒塚(伝仲哀天皇御陵・高向王墓)」が記されている。要訳して紹介すると、
上原村は、古来錦部郡に属し、もと高向庄と呼ばれる地に含まれていた。・・・・・村の西北にある西山の林の中に「荒塚」があり、里人によれば仲哀天皇の御陵だと伝えている。
『前王廟陵記』(元禄9年[1696])にも同天皇の御陵だと記し、他の旧記・旧図にも同天皇の御陵と載せるものが少なくない。しかし仲哀天皇の御陵は藤井寺村大字岡にあるので、「荒塚」は御陵でないのは明らか。『河内志』・『河内名所図会』には、ともに皇極天皇の前婿高向王の墓だとしている。上原の地も昔は高向庄に含まれていたので高向王の墓としているのだろう。・・・・
と記している。
また、ほぼ同時代に出版された『河南の枝折』(大正10)には、「高向王の墓」として次のように紹介されている。要訳して紹介する。
上原村の西に連なる丘陵に接して、周囲ほぼ3町(327m)、高さ10数間(約30m)の円塚があり、傍に松柏の老樹が茂り、近くには八幡宮を祀っていたが、近年になって鎮守の森は伐採され、神社は西代神社に合祀されて、その跡地にはわずかに円塚が残っている。
伝説では、塚は用明天皇の御孫、高向王の墓と伝えているが、元より定かでない。ちなみに南の高向村にも高向王と伝える円塚が現存している。
と説明している。
この説明によれば、高向王の墓と伝える円塚の規模は、周囲は何と約324m、高さは30mほど、直径は約100mもある円塚つまり円墳ということになる。しかし恐らく丘山全体の規模を記しているように思われる。
次に、江戸時代に発行された地誌や名所図会に記された内容を順に見ていくと、
まず、延宝7年(1679)の『河内鑑名所記』には、「上原仲哀天皇御廟」の簡単な説明に加え、廟前の神社境内と建物配置の様子を大きく描いた絵図が付けられている。
その説明文には、
○上原仲哀天皇御廟
社、拝殿、石段、石の鳥居有り、社僧有り、観音堂は普門寺と号す、正観音御長三尺運
慶の作
と記し、絵図には、左上に「御廟のはか山」、下に鳥居と「八まん宮」、その右に「本社」、「はいてん」のほか、階段と階下の大鳥居、参拝者、下方には「うへばら村」の絵を描く。
続いて、享保20年(1735)に発行された『河内志』には、荒墳の一つとして上原村の「大墓」の説明がある。「大墓在二上原村一或日 用明天皇孫 皇極天皇前夫高向王之墓・・・」と紹介し、高向王の墓と言われていることを記している。
続いて、享和元年(1801)発行の『河内名所図会』にも、上原八幡宮・高向王墓のことが記されている。要訳すると次のようである。
上原八幡宮 上原村の西の丘山にあり、地域の産土神である。例祭は8月20日、社僧が守る。
高向王墓 上原八幡の側にあって、世間でこの墓を仲哀天皇陵とするのは誤りであろう。高向王は用明天皇の孫で皇極天皇の前夫である。昔はこの地も高向庄に含まれていた。八幡の神祠であることから仲哀天皇と称したのだろう。国が御陵として一般の侵入を禁止するために設けた制札は、今もなお宮寺の土蔵に残っている。・・・・・ (略)・・・・・今、上原の陵墓の地相を見みると、まったく帝陵ではなく、高向王の墓である。・・・・・ (略)・・・・・と記している。
ところで、幕末の嘉永6年(1853)3月に発行された『西国三十三所名所図会』には、実に見事な全体絵図と共に上原八幡宮・仲哀天皇陵に加えて仲哀天皇宮のことを記している。要訳して記すと、
上原八幡宮
上原村の西の丘山にある。街道の左(*西)に見える神社である。上原村・宗作(*惣作)村・野村の3ケ村の産土神で、例祭は8月15日。
仲哀天皇宮
八幡宮の左後ろ上方にあって、石階の下に拝殿がある。例祭は8月20日、拝殿の傍らに十三重石塔がある。
仲哀天皇陵
八幡宮の後ろにあり、傍に制札が立つ。その文面には、ここは陵の地、東方3間(5.4m)、南方2間半(4.5m)、西方3間(5.4m)、北方3間(5.4m)の内へは、人・牛馬立入り禁止、掃除は油断なきよう申し付ける。よって年貢を許す。子二月。
地元民が言うには、制札は寛政(1789~1800)の頃に立てられたという。秋里湘夕(『河内名所図会』)が記すように、この陵を仲哀天皇陵というのは誤りで、高向王の墓であろう、・・・・・(略)・・・・とし『河内名所図会』に高向王の墓としている。 ・・・・(略)・・・・、と記されている。
『西国三十三所名所図会』に載せられる絵図は、東方から西山の丘上~斜面に存在した幕末期の上原神社・仲哀天皇宮、それと御陵の様子を描いたもので、参道の奥(北側)には「仲哀天皇宮」を、手前参道途中から急な石階を上がった上に「八幡宮」、背後の丘上に「御陵」と記されていて、両社と御陵の位置関係が判りやすく忠実に描かれているのである。
絵図を見ると、上原八幡宮への石階は、中間の平坦部に狛犬が祀られ、石階上の境内には石燈籠1対、奥に小さな本社がある。背後の丘上の御陵には竹垣が廻る。
一方北に位置する「仲哀天皇宮」は、参道奥にある石積みの基壇上には、「宝庫」・石灯籠1基・茅葺の神宮寺とみられる建物を描き、鳥居をくぐって石階を上がると、上原八幡宮にも連なる平坦面に茅葺の割拝殿が存在する。その左手には十三(後記『村明細帳』では十二)重石塔が立つ。横に立札がある。拝殿の背後にも狛犬・燈籠それぞれ1対があり、やや高い石積の間に設けた石階を上がった上面には、築地塀で囲まれた本社が鎮まる様子が読み取れる。
上原八幡宮の背後、急な斜面の上部にある御陵は、立てられていた制札文から、ほぼ直径6間(約11m)円形の柵に囲まれた御禁足地であったことが判るが、中央部は封土なのか、あるいは石を描いているものか不明ながら、わかりやすい実に貴重な絵図といえる。
いくつかの名所図会にも紹介されるほどであったから、当時はかなりの人たちが仲哀天皇宮を参拝したと考えられる。
東方の国道170号(外環)と斜めに交差する手前、野作南交差点近くの旧街道筋には、安政3年(1856)8月に建てられた花崗岩製の道標1基が残されていて、正面には「人皇十四代 仲哀天皇御廟 是ヨリ二丁南?」・「丙辰年(1856)八月吉日」・「すぐふじいてら道 是ヨリ百五十町?」と刻み、仲哀天皇の御廟を案内していたのである。
これらのことから幕末にいたっても、西山の山腹に築かれた円塚あるいは大塚は、仲哀天皇宮の存在と相まって、地元民の間で塚が王の墓とするよりも仲哀天皇の陵であると、強く意識・伝承されてきたことがわかる。
仲哀天皇宮と御陵の場所は
上原八幡宮・仲哀天皇宮の跡地や仲哀天皇陵あるいは高向王の墓と呼ばれた塚が存在した場所については、従来から河内長野市立赤峰運動公園東端の南斜面、鉄塔の建つ周辺と推定されてきた。
明治41年に西代神社へ合祀され前に滝畑の取水口から寺ケ池まで用水溝の経路を描いた「寺ケ池井関新上ケ口工事図」にも、上原村の西方寺ケ池井路の下方に「仲哀天皇」と記し、合祀される前の宮の建物を描いている。
何度か現地調査を行ったが、神社が所在していたその跡地には、まったく石垣や遺物が残されていない。しかし、水路下の竹藪の中や農園内には、本殿や拝殿・神宮寺の基壇跡が残り、南側の塚があったと考えられる丘の上は、今や高圧鉄塔が造られ、柵やビニルハウスで覆われる雑然とした畑に変身していて、相当掘り返されているようである。
いずれにしても、古代から中世にかけて、住吉大社の重要な神領地の一画、(小山田)住吉神社に極めて近い丘の南斜面にあったことを確認することができた。
仲哀天皇の陵との強い地元の伝承は、前方後円墳といわないまでも、山口県下関の長府にあった豊浦宮跡や、小さな「仲哀天皇殯斂(ひんれん)地」の塚のこともあるので、豊浦神社とも呼ばれていた小山田の住吉神社を含めた一体的な考察が必要である。
「上原村明細帳」に記された仲哀天皇宮と御陵の規模
なお、最後に、「上原村区有文書」として『河内長野市史』(第7巻史料編)に載せられている「元禄十四年(1701)六月 上原村明細帳」の中に、仲哀天皇宮ほかの内容が詳しく記述されているので紹介する。
長文になるが、一部を要訳して紹介しておきたい。
一、元禄十四年六月 上原村明細帳
(略)
一 氏神 仲哀天皇宮 敷地境内 長さ127間(約230m) 横69間(約125m)
右の境内は、本多兵部少輔様御代官より寄附をいただいた御墨印を保存している。
山高は5斗、石川主殿頭様の時代(*寛永10年[1633]~慶安2年[1649])に、神社の林
の内に寺ケ池への用水溝を手掘りにより引かれた際に高2石7斗9合を下された。
(略)
一 仲哀天皇宮内陣 五躯竜王
仲哀天皇 左右に駒犬あり
神功皇后
一 社(*殿) 正面7尺(2.12m) 流造り とち葺(板葺) 左右に高欄あり
再興は寛文10年(1670)、本多兵部少輔様より修復を仰せつけられたため後の
元禄7年(1694)、殿様より修復をしていただく。
一 陵 高さ9間(16.2m) 周囲110間(198m) 石塔の高さ2尺(約60cm)、幅8寸(24cm)
(仲哀天皇の)御遺骸は筑紫の橿日宮より長門穴門に送り、豊浦宮よりこの所へ棺
槨を葬った、と申し伝えている。
元禄11年(1698)に御公儀より竹垣の設置を仰せつかり、大坂寺社役の関根庄右
衛門殿・三国市右衛門殿その他下役の同心4人、大工2人で御普請された。竹垣
高さ5尺8寸(1.76m)、幅3間(5.4m)、横3間1尺(5.7m)
拝殿 桁行3間半(6.3m)、梁行2間(3.6m)、茅葺
寛文10年(1670) 、本多兵部少輔様が御寄進にて建て直し。
経蔵 桁行1丈(約3m)、梁行8尺(2.4m)、瓦葺
殿様よりの寄付米で建立
石鳥居 高さ1丈2尺5寸(約3.8m)、横8尺(2.4m)、(柱)回り3尺5寸(106cm)
寛文10年(1670) 、本多兵部少輔様が御寄進
石燈籠 1基 常夜灯寄附米で油代に充当
同年、本多兵部少輔様御内の中村吉右衛門殿が寄進。
石塔 1基 十二重 高さ1丈2尺5寸(約3.8m)
石かんき 長さ2間半(4.5m)、幅4尺(1.2m)、左右に閼伽井が有る。(*石段のこと
殿様の寄付米を充当
石雁木 長さ?6間(10.8m)、幅7尺5寸(2.3m) (*石段のこと)
同上
末社八幡宮(上原八幡宮のこと) 面3尺(0.9m)、流造り、とち葺(*板葺)
氏子中で修復
石かんき 長さ15間(27m)、横4尺5寸(1.4m) ( *石段のこと)
石燈籠 1基 常夜灯
蓮池 長さ7間(12.6m)、幅2間半(4.5m) (*陵の西に池が残存)
放生川 幅1間範、長さ70間(126m)
宮付きの山 長さ420間(756m)、横ならし31間(56m)、氏子の百姓に割付、
内長さ319間(574m)は、野村・惣作村の支配。
(上原村隣接の牛頭天王宮は省略)
氏子祭礼の次第
神事 8月20日 宵宮には神子を捧げ御湯神楽。神主が神寄せを唱える。
夏祭 6月15日 同
火焼 11月15日 同
毎月1日・15日・28日・五節句に社僧が御供する
毎月1日・12日・五節句に神主が出仕し神寄せを唱える。
仲哀天皇の神前に於て
例年、正月・五月・九月に殿様が御祈祷され、大般若経を転読する。
右、両宮の神主は、善太夫、但し一代持、氏子の中から籤引き
神福寺 桁行4間(7.2m)、梁行2間半(4.5m) 庵主 与左衛門
開基の時代は不明、
本尊 阿弥陀如来坐像 長2尺5寸(75.5cm)、作者不明。
(以下略)
なお、『大阪府全誌』によると、上原村の東隣り、西代村西代神社への合祀社の中に、上原村字西山の地には、明治41年2月13日に西代神社へ合祀されるまで、仲哀天皇御陵と関係する村社西山神社が祀られていたことがわかった。
西山神社の「西山」は、仲哀天皇宮を明治になって所在地の名をとって改称したと考えられるが、この西山神社のことは、『河内長野市史』(第8巻史料編5)に、「明治12年12月西山神社明細帳」として明治期の様子が記されている。
一部を紹介すると
河内国第廿六区錦部郡上原村産子 三ケ村 戸数百四十一軒
式外村社 西山神社 祭神 仲哀天皇 神躰木像
相殿 祭神 神功皇后 神躰木像
相殿 祭神 武内宿禰 神躰石
相殿 須佐之男命 神躰幣 明治五年四月同村ヨリ合祭
(以下略)
史料によると、木像の仲哀天皇を主神、相殿には上記三神を祀る本殿のほか、拝殿、境内(153坪)には、木像の神体八幡大神を祀る摂社や小祠・土蔵・官宅があったことを知ることができる。但し、仲哀天皇の御廟や荒塚のことについては記載されていない。
[2015.4~5月に「いこまかんなび杜掲示板」に紹介した文を一部訂正し再掲] 2017.9
いこまかんなびの杜
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