三昧尾山遺跡・十三重石塔 (石切辻子谷)


  


 
三昧尾山遺跡と十三重石塔

生駒山頂の西側山腹、近鉄奈良線石切駅から音川沿いに辻子谷道(づしだに=鷲尾越)を登ると、谷奥北側に興法寺、南側の尾根上には三昧尾山遺跡・石造十三重塔があります。
辻子谷道は、江戸時代以降栄えた生駒山宝山寺へ通じる参詣道としてにぎわった古い道で、戦前まで沿道にはたくさんの水車が稼動し薬種粉末の製造を行っていました。
三昧尾山遺跡は、その名のとおりサンマイつまり古代〜中世にかけた頃の墓地であったようで、周辺の五輪石塔や陶製の蔵骨器が出土することから、北に興法寺(古くは鷲山寺)を望む尾根上に墓地が営まれ、供養の石塔が建てられたようです。

   十三重石塔 高4.98m、 時代 永仁7年(1299) 
   昭和49年、東大阪市の文化財(建造物)に指定 
   基礎石に銘文(下記)が刻まれています。

    
             辻子谷の奥に興法寺と三昧尾山遺跡があります

     
             三昧尾山石造十三重塔 (西野早苗氏撮影)
           現在は石塔の背後の木々が茂り、興法寺は望めない

 
      

              (銘文)
               鷲 山 寺
               奉造立石塔一基
               永仁七年巳亥三月九日
                   願主僧良弁
                   大工平吉国
       



『枚岡市史』第2巻別編より「三昧尾山十三重石塔」の説明を引用紹介。

「興法寺の門前から2町ばかり下って渓流を渡り、目の前に聳える三昧尾の峯に向って登る。およそ3町ばかりで尾根の西端に出ると、そこの空地の中央に、この石塔が見事な姿を示して建っている。
花崗岩製、 高さ498cm、第11重、第12重と相輪とは後補。初重四面には観音寺石塔(東大阪市西石切町)と同様に、スペース一ぱいの月輪内に、大きく梵字をあらわして、古調を示している。
梵字は金剛界の四仏種子を薬研彫で刻む。後補の2枚を除いて、他の古い屋根は、軒裏に一段の垂木型を作り出し、軒口は適度に厚く、両端に向って力強く反る。すべて鎌倉中期の様式を示して余すところがない。
基礎は、現在下部2/3ほどが、土中に埋れているが、向って右の面に、見事な鎌倉時代の書体で次の銘文(上記)が鮮明に読まれる。文字が長く土中にあったために、風化を免がれたのであろう。
この銘に見える鷲山寺は、現在の興法寺に当ることは、前に同寺本尊の彫刻について記したところで述べた通りである。
この石塔造立を発願した人は僧良弁で、鷲山寺の僧と考えられるが、どういう経歴の人か知るところがない。
今この石塔の脇に「良弁大僧正墓所」と刻んだ近世の石標が立っているが、東大寺の良弁僧正と誤解されやすい。墓ではなくて、僧良弁が願主となって造立した供養塔である。
この銘文中で、いま一つ重要なのは製作した石大工が平吉国であると記していることである。
全国に石造美術遺品は多いが、石大工名を伴うものは極めて少い。
その稀な例であると同時に、この石塔に見られる平吉国の作例が、従来一つだけ知られていたのと結びつく点で、貴重な資料を加えたのである。
それはもと南河内郡の旧平尾寺十三重石塔の基礎であったもので、現在は大阪城天守閣登り口右側にあり、徳治2年(1307)の造立銘があり、それに「大工平吉国」の名がある。
平尾寺は南河内郡の古寺と思われるが、枚岡からは西南四里ばかりの距離で、そこに同じ石大工の作品があったことは、不思議ではない。鷲山寺塔の方が、8年早く造られている。
平吉国は、一応河内の石大工と思われるが、近江によく似た名の「平景吉」の作品が二例ある。
滋賀県蒲生郡蒲生町石塔寺の正安4年(1302)宝塔と、犬上郡甲良町西明寺の嘉元2年(1304)宝塔とである。
年代的には景吉と吉国は同時代の石大工で、平姓と名の一字に吉がつくのが偶然なのか、然るべき関係があるのか、今の段階では明らかでない。景吉は近江、吉国は河内で、地理的には結びつけにくいが、一応参考として附記しておく。

『枚岡市史』第2巻別編より抜粋 


       いこまかんなびの杜