因 幡 国 鹿 野 と 住 吉 の 神
   

 鳥取市鹿野町水谷の住吉神社

鳥取市の西部、日本海浜村海岸の宝木谷を流れ下る河内川 (河内川の主流は、古くは鹿野の西方で、勝見谷のさらに西にある逢坂谷(気高町)を北へ流れていたという)を約6kmほど遡ると、妙見山の鹿野城跡を背後にして鹿野
(しかの)の城下町があり、その東南側の水谷地区には、中国山地の一峰、鷲峰山(920m)から流れ下る支流の水谷川を見下ろす山すそに住吉神社が祀られている。
鹿野の街から北へ1.6km程行った河内川沿いの宿集落の東側(気高町)には、古くは勝嶋大明神あるいは片嶋明神などとも呼ばれた式内社の志加奴神社(祭神大己貴命・素盞鳴尊・少彦名命・保食神)が祀られている。志加奴は「しかぬ」と読む。
この神社は、亀井氏による鹿野城下町の造営・洪水により北方の現在地に移祀されたもので、神社の名は、鹿野の地名のルーツとなっている。

 
         
河 内 川                 志 加 奴 神 社

一帯は、伯耆国に接する旧因幡国の西端、気多郡(のち気高郡)に属し、鹿野町一帯は『和名抄』記載の大原・坂本・口奴・勝見・大坂・日置・勝部の七郷の内の「口奴郷」にあたっていたようで、「しかぬ」「しかの」に変わってきたようだ。
「しかぬ」の周辺に「勝」の字が付く地名が気になる。玄海灘に面して海神の綿津見三神を祀る志賀海神社の「シカ」や付近の「勝馬」の地名など、海人族が存在したことと大いに関係するのだろう。

 

さて、水谷川を望む丘
(標高約100m)に鎮座する住吉神社であるが、社頭の鹿野町教育委員会の説明板には次のように書かれている。
「村社住吉神社の創建の年代は不明である。祭神は□津見神の他三神を奉る。往時の社殿は壮麗であり、和泉式部がわざわざ安産を祈りに来て、小式部内侍を産んだとされる「産湯の井戸」と言い伝えられる井戸が近くにあることから考えると有名な神社であったのではないかと考えられる。
その後、亀井茲矩(鹿野城主)が兵主源六の金剛城を焼討ちした際に社殿が類焼し、往時の壮麗な社殿を偲ぶものはないが、慶長十六年、亀井家より社領一反歩、寛文二年池田家より高一石八斗二升(約五俵)を与えられ現在に至る。例祭は毎年十月二十日である。」と説明がされていた。
(文中□は消されている)。
やはり、ここの神社の歴史も、和泉式部に深い関わりがあったことがわかる。
『鳥取県神社誌』
(昭和9)によると、字雲龍寺山という丘に鎮座、鹿野の雲龍寺の寺領だったのだろう。祭神は、綿津見神、底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神、山神、稲荷神、この内、山神は摂社で字大應寺より、稲荷神は境内末社を明治元年に合祀したもので、祭礼は10月20日、氏子は60戸、
など記されている。説明板の記載は『神社誌』等を参考にしたものだろう。
丘上に続く細い参道を上がり石鳥居
(昭42)を抜けて急な石階段を上がった所に、文政8年(1825)と文久2年(1862)の口水谷村中奉納の石燈籠があり、境内奥に鹿野の町を向いて拝殿と流造りの本殿がある。

 
 

拝殿内には、安永3年
(1774)・大工市左ヱ門などと墨書した社殿の優れた彫刻部材が保存されている。
ところで『因幡誌』
(寛政7年[1795])には、住吉神社のことが次のように登場する。
「○鹿野(水谷。西谷) 戸数東町百三十軒・・・西町ニ百二十軒・・・鉢屋村十一軒
  氏神 勝嶋大明神 在宿村祭九月十九日東町祭之 
   同   勝宿大明神 在寺内村祭日九月廿一日西町祭之
   同   住吉大明神 在水谷村祭日九月廿日小屋人町祭之 社領一石八斗二舛」
([私注]東町に属していた)
     (略)
 ○住吉大明神
水谷村東の山丘にあり 山地境内長百五十間横百十間 本社方三尺餘 神樂所方二間 花表の石柱南に向く 昔は五間四面の宗社にて巍々たる拝殿もありしと 古き扉に『言の葉を手向の麻にひきはへて身を須みよしの神にまかせん』と詠たる和歌のありしとなん 以前は側に薬師堂もありしと 本尊は住吉明神の木地佛にて 往古は奥の院にありしとかや 是は慶長年中凌泰寺の忠岳和尚四月七日摘華の序に 此谷にて木佛を得て一宇を建立し瑠璃山薬師寺と名く 然るに寛永の末比華嚴坊と云へる山伏彼堂に住けるが いつしか本尊を京都に負去て失へり 其後堂宇も破れ今は跡さへ知れすなりぬ」
と記されている。
拝殿内に保存の建築材は『因幡誌』に記されている立派な拝殿あるいは本殿のものだったのだろう。

  
小式部内侍の「産湯の井戸」

住吉神社前から丘に沿って南へ200m程行った水谷川近くに、和泉式部がわざわざ住吉神社に安産を祈りに来て、小式部内侍を産んだ際の「産湯の井戸」といい伝えられる円形石積みの小さな井戸が残されている。横に建てられた説明板によると、
「大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず 天橋立」の百人一首の歌で有名な小式部内侍は、鹿野で生まれたと伝えられています。また、彼女の母は、歌人として有名な和泉式部で、この和泉式部も鳥取(湖山)が生地と伝えられています。
和泉式部は、お産のため因幡(鹿野)に帰り、鹿野町水谷の住吉神社の近くに家をかり安産を祈ったと言われています。そして、満願の日に、めでたく女の子が生まれました。この時、生まれたのが小式部内侍で、その時産湯に使ったのが、この井戸の水であったと言い伝えられています。 鹿野町教育委員会」と記されている。

 

『因幡誌』
(寛政7年[1795]) に記された「小式部産湯之水」を参照して記すと、
鹿野の東、田の中に小丸山という一つの丘があり、この山の下に小式部産湯之水という小さな池があったという。その昔、和泉式部が京都に居たとき、某人の子をやどし、因幡の国に帰って、由縁あるこの里で小式部を産んだが、和泉式部は再び京に戻り、小式部は三歳の時、京から使いが来て都へ連れ帰された。産れた時にその池水を産湯に用いたというので、伝えて小式部産湯の水ということである。
母の和泉式部は、高草郡湖山村(*鹿野の東北に位置する)の出身で、都に上って一條天皇の皇后上東門院(藤原彰子)の女房辨内侍として仕えた。
後には、和泉守橘道貞の妻となって小式部内侍を生んだ。道貞が死んだ後は、丹波国藤原(平井)保昌と再婚したとされる。因幡の国は、式部の故郷であるので、伝承は妥当なところだろう。
さらに、湖山村には大江定基屋敷跡と呼ばれる所があり、ここは和泉式部屋敷とも言い伝えられていて、むかし和泉式部の親が住んでいた屋敷があった所といい伝えている。
と記している。
旧湖山村は、鳥取市街地の西、大きな湖山池の東岸に位置する地域で、屋敷跡は、新川(湖山川)の池口を西にまわった山上というから、鳥取大学の辺りだろうか。

ここ、鹿野の住吉神社の祭祀のきっかけは、海人族の拠点であった地を支配することとなった大江氏族、あるいは和泉式部や夫の平井保昌などと密接な関係があったのだろう。


 2017.9.20
 (2014.8の「いこまかんなびの杜掲示板」の投稿を改編・再掲)



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