生駒山中の山岳寺院 - 神感寺跡

 


 生駒山中の山岳寺院 神感寺跡

生駒山の峠の一つ、暗峠の南方にある府民の森「なるかわ園地=ぼくらの広場=大原山」から続く鳴川谷に面した山腹(東大阪市上四条町)には、古くから寺山と呼ばれるところがあり、大正年間に「神感寺大門瓦 文永十年(1273)・・」の文字の刻印された古瓦が採集されたことから、神感寺という寺の存在が知られるようになりました。
 [大正12年発刊の『中河内郡誌』や片岡紫峰『中河内郡廃寺』に紹介。]
昭和5年(1930)、寺跡の西半附近に龍神の神託により教会が創設されることになりました。現在の八大龍王神感寺です。
建物の工事の進捗の度に、屋根瓦や各種の仏器などが出土したようです。寺の東側には、谷に突き出すように一際高く「塔の台」と呼ばれた方形の2段の土壇があり上面には建物基壇・礎石らしいものがあり、さらに東側の広範囲の斜面には幾段もの土段・建物跡・石垣らしいものの存在が注目されてきましたが、樹木と一面に生い茂る笹のため詳しい全貌は不明のままでした。
昭和37年になって、高圧線が通ることになり樹木の伐採・草刈りが行なわれた結果、伽藍の一部が姿を現わすことになりました。

     
    神感寺跡を南方岩滝山方向から遠望       神感寺跡全景(塔の台より北東方向)

昭和39年8月・40年8月の2回に亘って、旧枚岡市教育委員会を調査主体として本格的な調査が実施され、多数の建物跡・各種屋根瓦・土器類などが出土しました。
二年間の夏の発掘調査といっても、背丈もある笹刈りと根起こし・運搬作業が中心で、高校3年・大学1年の時に参加していました。
神感寺跡は、標高460m前後にあり、中央で十字に交差する山道の東北地域(府民の森の一部)は、シシ垣と呼ばれる深い壕のような周濠で囲まれていて、神感寺の中心伽藍跡である金堂跡・多宝塔跡・中門・池泉・石垣・石敷道・築地塀跡など多数の遺構が残っています。
瓦類は、奈良時代末期~平安初期の瓦片がわずか出土していますが、主要建物のほとんどは鎌倉時代を中心としたもので、檜皮葺きであったようです。

   
        
東北地区の中心建物の金堂跡=東西5間・南北6間(北より)

    
 
   金堂跡の東側にある多宝塔跡=3間四面・中央に7個の礎石が円形に配置(西より)

南西区域(民有地)は、古くから「塔の台」とよばれる所で、谷部に向かってニ段の方形に造成された城郭様の区域で、東側の南北道から上がる立派な石階段があり、上部に東西2つの方形の大小建物跡が検出されています。
西側の建物跡(1辺9m)は、焼土が見られることから火災により焼失したようで、多数出土した瓦類などから同じく鎌倉時代の建物であったようです。東側の建物(3間四面、東西約6m)は、西側建物の焼失後に建てられたようで、塔ではないかともいわれています。

    
      南西地区=塔の台の検出建物(南より)-右側にある立派な石階段で上がってくる

史料あるいは伝世関係品の記録などから、神感寺は奈良時代の末期~平安時代の初期に創立されたようですが、この時期の遺構はまだ見つかっていません。
寺の山号は楉蔵山
(じゃくぞうさん)と呼ばれ、鎌倉時代に一大伽藍が整備され隆盛を極めたと思われますが、やがて南朝方の城塞(神感寺城)となり、ほとんどの建物は焼失したものではないかと考えられています。
ただし、記録によれば「安南院」あるいは「西南院」という塔頭が室町時代にかけてなお存続していたことがわかります。
また、生駒山あるいは山ろくの寺院=興法寺・往生院・竹林寺などの寺と深い関係があったことも分かります。



■神感寺跡の伽藍は、南側の谷に続く道にそって幾段もの平坦部が存在し、僧坊あるいは塔頭が多数存在していたこと、近くに大門があったのではないかと考えられます。
■神感寺跡の背後の大原山(府民の森-ぼくらの広場)の頂上は、古くから「北寺」とよばれ、北西にある管理事務所へ通じる所には、建物跡らしい平坦部があって、神感寺の奥の院ではないかと考えられています。
府民の森の整備が始まった昭和43年に、頂上にある鉄塔の西側尾根筋に、円形1基・方形3基の墳墓を発見し、現在は植哉されて保存されていますが、神感寺に至る間の谷あい斜面の各所からも中世の蔵骨器が多く見つかっていて、寺の背後には住僧たちの墓地や奥の院などが広範囲に広がっていたことが考えられます。



 (資料)

神感寺跡の詳しい資料については、『枚岡市史』第3巻資料編1(昭和41、枚岡市=現東大阪市)や『東大阪市の寺跡』平成12、東大阪市教育委員会)などを参照してください。
なお、神感寺(跡)関係の史料の一部を引用してご紹介します。文字が無く表示できないものがありますが、なにとぞご了承下さい。
(以下、枚岡市史第3巻資料編より転載)

 ○神感寺跡出土平瓦
(刻印) 文永10年(1273)

 神感寺大門瓦 文永十年癸酉
        ニニ月上三日

〔解題〕
四条町字寺山に所在する神感寺跡から「神感寺大門瓦云々」の文字のある屋瓦が出土することは、大正の末年、藤本法城・片岡英宗氏らの踏査によって発見され、『中河内郡誌』や『中河内郡廃寺』に紹介されている。そののちも寺域の各所からいくつかの破片が出土しているが、昭和39年、寺跡の西南の一廓にある建築遺構基壇の東縁で出土したものが、もっとも大きい破片である。
この文字を入れたのは、いずれも平瓦で、その背面に「神感寺大門瓦 文永十年癸酉二二月上三日」と陽刻されている。それはこの平瓦が製作される過程において固めのために使用された棒に文字が刻まれていて、瓦の表面をたたいて固めると同時に文字が表出されたものである。
その際手前の方は力が弱くなり、先の方では力が強く入ったために、文字の最初の部分ははっきりしているが、下の方ははっきり表われていない。
破片に記された痕跡から、たたき棒の幅は約4cmで、その幅一杯に文字が刻まれていたことがわかる。完形のものは発見していないが、破片によって復原すると、幅約25cm、長さ32cm、厚さ2cm前後の平瓦であったと考えられる。
「神感寺大門瓦」の六文字は大きく、長さ11cmにわたって刻まれ、その下に二行に分けて「文永十年癸酉」と「二二月上三日」と刻している。二二月は四月、上三日は上旬の三日、すなわち四月三日のことである。この平瓦は文永10年という年に造られた絶対年代を示すものであると同時に、このころに、神感寺に大門の造営または改葺の行なわれたことを物語る貴重な資料である。
神感寺の大門跡は未だ確認していないが、寺跡の南方、鳴川越えの道に通じる位置に存在していたものと推定される。

 ○『南狩遺文 一』

於鷲尾并神感寺城郭致忠輩事云、日來労勲云、今度忠節殊以神妙也、恩賞事、最前可有其沙汰侯由、旦可令存知侯間、可令下知給旨 天気所侯也、仍上啓如件、
 延元二年三月十一日  勘解由次官光任
  謹上 中院右兵衛督

〔解題〕
これは紀伊の山中信古の編した南朝古文書集で、5巻に付録1巻がついている。後醍醐天皇が延元元年(1336)行宮を大和吉野に還されてから、後亀山天皇が元中九年(1392)京都に還幸せられるまで50余年にわたる遣文残簡を採録して、これを編年体に編集したものである。
これらの文書は、紀伊・和泉・河内・摂津・大和・伊勢・志摩などから収録せられ他地方には及んでいない。
河内関係では、南朝方が河内鷲尾ならびに神感寺城に拠って、北朝の軍に対抗したので、後醍醐天皇が延元2年(1337)3月11日、その忠節に対し、恩賞の沙汰を、中院右兵衛督へ宛て下した論旨を載せている。
四条町寺山に所在した神感寺が当時南朝方の城塞として利用され、神感寺城と呼ばれていたことを知ることのできる重要史料である。
因みにこの文書は、和歌山県旧海部郡雑賀荘和歌村の性応寺(鹿児島県恰良郡へ移転)に所蔵されていたものである。

 『伝法灌頂記』
三宝院文書 大日本史料

 伝法灌頂記
延元四年
己卯十月廿三日戊申 □*宿水曜
大阿闍梨大日如來廿九代資灌僧正法印大和尚位隆譽
御年六十一 登壇四十六臈* 號西南院僧正
受者阿闍梨眞海
年五十八 戒四十一 號空覺房 壷坂中坊之主
   阿闍梨隆觀
年二十三 戒五臈*  號大貳阿闍梨 自十四歳入大阿闍梨室
道場大和國高市郡南法花寺
號壷坂蘿室覺憲僧正住坊 乍昔 (虫喰)
同廿五日庚戊
亢宿金曜
師毘廬遮那如來廿七代資權少僧都法眼和尚位文海
年四十七戒丗二號智恵身院
受者大法師貞舜 年廿八戒十四 河内國神感寺住僧
道場

近曾依世上闘亂金峯山爲皇居、師主僧正御祇□
(虫喰)
彼山之間去八月上旬之比隆觀阿闍梨加行事豫参申
入之處早可如行之由、蒙仰、同十四日歸河州神感寺仰
含、此旨畢而同亦二日賜御使去十六日、主上崩御之間可
爲御前僧之由自准后依被仰下申領状畢、雖然於
隆觀加行者忩可始行之由、承之間、検先規之處、二親重
籠僧事、於仁和寺方者、一廻授與閣之云々、酉酉者上
古同一廻歟近來五ケ月
云々 且成眞阿闍梨爲遍智院、極樂
坊衆之仁多之可爲御讀経衆之由、雖有其沙汰、宿老之所
役依有其憚、豫申止之畢、請定事今度不及其沙汰、若出
請定之時者、可任治承記矣 
 [□*=車へんに尓 臈*---くさがんむり]

〔解題〕
これは醍醐寺三宝院に伝来する伝法灌頂の記録である。
延元4年(1339)10月25日の条に、少僧都文海が師となり、大和国高市郡南法華寺蘿堂を道場として、河内国神感寺住僧貞舜に伝法灌頂を授けている。
かくしてこの受者は比*慮遮那如来の職を受け、自身に密教の法を弘伝する阿闍梨となるわけである。
このあとに隆観阿闍梨加行の事があり、神感寺がこの旨を奉じていることを記している。


 神感寺安南院香炉箱 
永正12年(1519) 唐招提寺所蔵 

 河内國河内郡楉蔵山
 神感寺安南院法通物
 香爐箱也 大聖竹林寺買得
  永正十二年乙亥九月廿五日
  従門葉中寄附也  △□(花押)
    
[△--祐の示へん  □--合の右に牛の一字]

〔解題〕
唐招提寺に伝えられている香炉箱はつとにその銘文が紹介され(広瀬直彦氏「唐招提寺銘文集成」唐招提寺の新研究所収)その存在が知られている。
香炉箱は二つあり、その一つは縦38cm、横33cm、高さ11cmをはかる木製の箱でその外まわりと台座には真鍮がかぶされている。
外線には縦四区・横三区に分け、その一画ずつにそれぞれ蓮華文を彫出し、台座には同じ数の格狭間をつくっている。各々の角と中間には梨子地に唐草文を浮き彫りにした金具を二本の釘でとめるなど、細かい細工を施している。いま一つは、上部は縦38cm強・横33cm・高さ11cm強で、前者ょりやや大きい。細工は同じであるが、縦四区・横三区に輪宝文を彫出している点が異なっている。
蓮華文香炉箱の裏面に表記の墨書がある。これによって、この箱が河内国河内郡楉蔵山神感寺安南院の香炉箱であったこと。永正12年
(1519)9月25日に、門葉中より寄附されたことが知られる。△□は当時の住僧であろう。
「大聖竹林寺買得」の文字は筆跡が異なり、後に加筆されたもので、この香炉箱を竹林寺が買得したことがわかるが、その年代はわからない。
この墨書銘によって、神感寺の山号が「楉蔵山」と呼ばれていたこと。永正12年当時、神感寺に安南院と呼ばれた一院のあったことを知ることのできる重要な史料である。
この蓮華文香炉箱の側面、四つの蓮華文の間に、右から「河州」「河内郡」「往生院」の、縦書の針書銘があり、元来これが往生院の什物であったことが知られる。
さらに注意すると、さきの墨書の下に、それが書かれる前の墨書があったことがわかる。すなわち一行目の「楉蔵山」の"山"の下に"院"と判読できる文字があり、また"河内国"もかろうじて判読できるから、一行目は「河内国河内郡往生院」と記されていたと思われるが、以下は判読できない。
輪宝文香炉箱の方には針書銘はない。裏面にも同じ墨書があったようであるが、大部分がうすくなり判読できない。このもとの墨書と逆の方向「河内国河」に当たる部分の上に「買得也」と記し、中央をのみで削った上に「生駒大聖竹林寺」と記されている。
これはこの香炉箱が竹林寺のものになった際に記されたものであろう。
竹林寺は行基の墓所のあるところとして知られ、奈良県生駒郡(生駒市)生駒町にあった寺であるが、明治12年廃寺となり、その什物一切が唐招提寺の有に帰した。
この香炉箱は歴史の波に乗って、往生院-神感寺-竹林寺-唐招提寺の経路をたどって四転したのである。
香炉箱そのものは、その製作手法、格狭間の様式などから、鎌倉時代のものと考えられ、すぐれた当代工芸品の一つである。

        

       いこまかんなびの杜