住 吉 大 社  埴 使 神 事 の 謎


 
                                
畝 傍 山(北より)


  
住 吉 大 社 の 埴 使 神 事


 
摂津国一之宮である住吉大社は、『由緒書』によれば「神功皇后が新羅御出兵に当って、住吉大神の御加護を得て大いに国威を輝かせられ、御凱旋の後、大神の御神託によって此の地に御鎮座になりました。神功皇后摂政十一辛卯年のことで、今から約千八百年前のことでありました」とされ、その鎮座の年は、西暦の211年、神功皇后が海辺の住吉の地に住吉大神を鎮祭された、という。
 また、住吉大社では、毎年の「国の祝日の祭儀のほか、毎月朔日・十五日、あるいは卯の日の月次祭等、本社・摂末社あわせて百三十数度におよぶ祭典・神事がある。その中には住吉大社だけの独特の神事があり、千数百年にわたって古儀がまもられ、伝承されてきた・・」(1977『住吉大社』学生社)とされる。
 その祭典神事の中に、春の祈年祭と秋の新嘗祭があるが、両祭典に先だって祭器の料となる「埴土」を大和三山の一山である畝傍山(標高198.5m、旧大和国高市郡、現 橿原市)へ採取しに行く不思議な神事があり、これを埴使(はにつかい)といい、現在も秘かに続けられている。
 この「埴使」や「埴土」神事の意味については、真弓常忠氏が著書『天香山と畝火山 埴使からさぐる古代大和祭祀権の謎 』学生社(1971) において、その謎解きに挑まれている。
 『住吉大社』学生社(1977)には「同氏は、埴使を古代氏族の祭祀権の問題として捉え、天香山と畝火山をめぐって、中臣氏や蘇我氏のような古代氏族のあらそいの過程を描き、この埴土をもって祭祀を行なうこと、いいかえるなら、埴土の採取権を手に入れることは祭祀権の確保にほかならぬ所以を述べて、天香山なり畝火山なりの埴土がいかに重要な価値があったかを詳述している。」と記して、同氏の論旨を紹介している。

 その詳細については、両書に譲りたいと思うが、ここでは私なりに住吉大社の「埴使」について記されている古書・文献の内容を点検し、近年の埴使の写真などを紹介するとともに、若干の考察を行いたい。
 なお、畝傍山は、耳成山(標高139.3m)と共に火山性の山で、天香具山(標高152m)を合わせた大和三山の内、西南の畝傍山を頂点とする二等辺三角形の頭に位置する最も高い山(比高135m)で、山頂は東~東北方向からのみ秀麗な円錐形に見えるが、他方からは畝のような台状に見え、山上の平坦部分は、北を頭とする勾玉状の形状を呈していて、その頭部山頂に畝火山口神社の跡が存在する。


   
    畝傍山(天香具山の山頂より)           畝火山口神社






1.『住吉松葉大記』に記された埴使神事


 『住吉松葉大記』は、江戸時代の元禄~正徳年間頃(西暦1700年前後)に、摂津住吉大社の旧社人、土師 (梅園) 惟朝により編輯された。その「神事部」には漢文で記されているが、埴使の記録を載せているので、内容を私訳して紹介する。



 「明日、祈年穀祭の料を用意のために、(*住吉神社)神人は、大和国高市郡の畝傍山へ行く。畝傍山は、俗に慈明寺山という。近年、神社に接して寺院が造られたもので名を慈明寺という。山には一棟三社の祠があり、南を向く。縦は柱間1間で12尺、横は柱間3間で、高欄と階段を構える。前には拝殿があり、縦2間半程、横は56間程あり、社は厳重に造営されていて、村民が力を合せて維持していることがわかる。
 神職によると、本殿中殿の祭神は神功皇后、左脇は伊勢大神、右脇は住吉大神で、その他八幡・文殊・弁財天などの末社がある。神名帳に載せられた所謂畝火山口坐神社がこれであろう。また、畝傍山の麓に大谷村があるが、神職はその村に住み大谷氏と名乗る。神名帳にいう東大谷日女命神社は、この由縁によるものか。畝傍は雲飛とも記されて萬葉集に登場する。この山の名を「畝傍」というのは、山容が田畑の畝畔の形をして一方へ寄りかかったような姿で平らな原野から峙っているため、この山名があるのだろう。

 周囲は三十町、麓から八町程で山頂に至る。樹木が覆い神気清浄、普通の山ではない。天香山と耳成山は、畝傍から五十町を隔てて東方と東北にあり、三山が鼎(*かなえ)の脚のようにして峙つ。
 (*畝傍山頂の)社壇より56間左側に埴土を取る所がある。そこは二間四方の板瑞垣を廻し、小石で僅かな壇を築き、瑞垣の西には板戸があって、常は閉まっている。また注連縄が張られ余地はない。瑞垣内には穴があけられているが深くはない。土石は苔を帯び落葉が厚く覆い、賢木柏などの樹が生えている。
 現今、住吉大社の神人が畝傍山へ登る行路は馬に乗り、従者に土を入れる器を荷なわせ、心身を浄めひきしめる事を宗とす。昔は、立烏帽子黄色を着けたが、現在はこれを略している。
 今日まず畝傍大谷氏の下へ行く。下向の際は、銭百文・紙二帖・約一升の精米二袋のほか、従者人足には塩・滑海藻(*アラメ)などを持たせて大谷氏へ与え、古礼により大谷氏は神人を饗する。その日は沐浴の後、大谷氏の先導により山へ登る。神前に拝して祝詞と御祓いを奏し、次に土を取って行器(*ほかい)に入れ、榊と木棉でこれを飾る。翌朝、大谷氏と辞して住吉へ帰る。



           

               
『住吉松葉大記』の埴使の記述(部分)


 二日の夜、行器を社頭(*住吉神社)の御会所の北へ安置し、正禰宜は南面に出でて御祓いを修し、侍者が行器を社前へと安置する。両官が参籠して神舘殿に入る。正禰宜は、行器の前に出で祓いを修す。両度の御祓には散米して禮酒等を供える。明けて三日には、和州から取り来った埴土で天平瓮を作る。四日・五日の両夜に大神の前に供える。

 また、霜月新嘗祭は、子の日に大和へ行き、丑の日に住吉に帰る。寅卯の両夜に大神に供え奉る。その儀式は祈年祭と同様に行う。
 昔、神武天皇が東征の時、賊軍の抵抗により皇軍の利が無かったが、霊夢に天神が現れ、天香山の埴土を取って天平瓮を造り天神地祇を祭ると、朝敵は滅び天下が鎮まった。また、神功皇后の三韓征討に際し、住吉大神が大いに戦いを助けられ、彼の国を制覇されたことから、皇后は田裳見命に命じここに当社(*住吉神社)が鎮座された。
 初めは香山の埴土を採って天平瓮を作り、大神を祭った。この事は、神功皇后が神武天皇の吉例にならい、深く住吉大神の勲労に報われたことによるものなのだろう。今は畝傍で埴土を採り香山では採らないのは畝傍と香山は、異なった場所であるとはいえ、埴土を採り住吉大神を祭ることに変わりない。畝傍山は大和三山の一山であり、国中の幽区神霊の集る所である。香山との優劣は論じえないが、私は実際に畝傍山へ登り、四方を眺望し古跡を訪ねてみた。山へは神人の大谷氏の案内に従った。変わりない自然の山というほかないが、自分なりに推考してその大要を得たので、今日この文にまとめ畝傍山之事として詳述した。」



 このような訳文でよいのだろうか。

 梅園は、江戸時代の早い頃の埴使の様子を詳しく記録している。
 『住吉松葉大記』の鎮座部には、知る範囲で箇条書きした各地の住吉神社50社の中に27番目として「大和國高市郡畝傍山神社右相殿住吉大神」を挙げている。
 同書の中には、いくつかのあまり知られていない興味深い記述などがあり、以下、関係史料と合せて考えてみたい。


 1.    埴使の一行が、畝傍山西北の曽我川の岸辺、旧雲梯(うなで)村萱の森の社に立寄られ、装束を改めることから「装束の宮」とも称されるという、雲名梯社(現在の川俣神社)の事については記されていない。
 後述する『大和名所図会』寛政3(1791)にも記載は無く、ほぼ同時期の『摂津名所図会』寛政8(1796)では、畝火山口神社で装束を改めることを記載している。
 幕末に発行された『西国三十三所名所図会』嘉永6(1853)では、「山の此方なる雲梯社に入て装束を改たむ」と初めて登場するのである。
 したがって、畝火山口神社への途次、装束を改めるなどの目的で雲梯社、つまり川俣神社へ寄るようになったのは、江戸時代の後半の出来事であったと考えられる。その理由は判然としない。
 真弓氏は著書の中で、この雲名梯社が、『延喜式』神名帳の高市御県坐鴨事代主神社とされ、畝傍山の埴土を採りに行くことを御祭神である事代主神におことわりするためだと説明されている。


   
         川(河)俣神社            同社での埴使の様子(2008年撮影)


 2. 現在、畝傍山の西麓、山を背にして鎮座する畝火山口神社(橿原市大谷町)は、延喜式内社畝火山口坐神社と考えられていて、昭和13年に橿原神宮の皇紀二千六百年祭をひかえて山頂から遷祀された神社で、山頂の北端には東西7.3m、南北6.5m程の低い石積方形の社壇跡があり、「畝火山口神殿跡」の標石が立てられている。この石積み社壇跡は、石積みの状況と規模からみて、当時の社壇の位置と規模に近いものと判断される。(下図)
 また、14m程南側には、東西5.3m、南北4.9m程の石積み方形の瑞垣の中に、カシの木が生えた禁足地があり、ここで埴土採取の神事が行われる。
   
        
                  旧境内と本殿跡の社壇


 ところで、『住吉松葉大記』には、かつて山頂に鎮座した神殿などの様子を記録していることは、とても重要である。

 ① 本殿は、南を向いた一棟三社の社殿で、縦は梁間一間で12尺、横は桁行三間と理解できるので、南北3.6m×東西は56m程度の高欄と階段を構えたやや大きな三間社の建物であったことが分かる。後代に本殿の規模が縮小されたようである。

 ② 拝殿は、縦は梁間二間半ほど、横は桁行五~六間との内容から、本殿よりかなり大きな建物であったことが分かる。現在、現地には本殿跡社壇と禁足地の中間に、わずかな石列・石段状の段差を留めていて、これが拝殿の南縁とみられる。後述する『高市郡神社誌』に記された拝殿の規模に近いと見られる。『橿原市史』には鳥居・拝殿が並んだ正面からの写真が載せられている。

 ③ 本殿の御祭神は、中殿が神功皇后、左殿は伊勢大神、右殿は住吉大神を祀る、と記載している。現在の祭神は、気長足姫命・豊受比売命・表筒男命とされている。


 ④ 境内には、八幡・文殊・弁財天などの末社があったことも記録している。

 ⑤ 後で紹介する『高市郡神社誌』(大正11年発行)には、畝傍山頂に鎮座していた当時の社殿配置や建物規模・燈籠などの石造物類・末社など、より詳細な解説のほか、「住吉神社の埴取の事」を記載していて、大正期の神社の全容がわかる貴重な資料であるため、一部を抜粋し最後に紹介しておきたい。
 また、明治期に住吉大社の「絵所預」を務めた日本画家の福井月斎(藤原金穂)は、明治37年に埴使に同行し描いた「畝傍山図」(住吉大社蔵)は、山頂にあった畝火山口神社の鳥居や拝殿のほか、埴使の様子を正確に描いていて、明治期の様子を知ることができる。(『住吉さん-社宝と信仰』1985 大阪市立博物館 図録)

 3. 禁足地での埴土採取神事について

 ① 社壇より(*南を向いて)五~六間(約10m)左側に埴土を取る所がある、と記す場所は、現在の禁足地と変わりないと思われるが、江戸期には二間(3.6m)四方の板瑞垣を廻し小石で僅かな壇を築いて、瑞垣の西には板戸が設けられ、注連縄も張られていたことが分かる。
 板瑞垣は、先端を剣先状に尖らせた木製の板瑞垣を廻らしたものであったと想像する。
 現在の禁足地の状況は、何度も修理が繰り返されてきた様子が認められ、東西5.2m×南北4.8mを測る方形の自然石の石積上に、西面のみ石柱の間の下段に、寄進者の名前を縦に刻む板石をはめた石囲いが残されているのみで、南・東・北の3面は竹垣で囲うだけである。他の面に使用されていた板材3枚は、西側前面に置かれて残っている。垣根の南東角には、石柱に「昭和四十八年〇月改修 住吉大社」と読める改修碑が建てられている。
 紀元二千六百年を記念して発行された『橿原の遠祖』には、畝火山口神社が山頂から山下へ遷座する直前の禁足地の写真が掲載されており、金具や鉄筋で補強された石瑞垣の様子や、扉部分・注連縄の様子、前面に建てられていた「御峯山」と刻んだ石燈籠一対のほか、背後東側にあった瓦葺の社務所らしい建物も写っている。


   
     
『橿原の遠祖』より              禁足地の現状

   
       
禁足地(北西から)               同(西面)

 ② 埴土を採取される瑞垣内中央には、一株から大小10数本に樹幹が分れ、御神体のように守られたカシの古木(白樫か)が生えている。樹齢は不明であるが、『住吉松葉大記』には「賢木柏」と書かれているのみで、当時からの樹ではないように思える。


 ③ 埴土の採取方法は、『住吉松葉大記』では「土を取って行器(ほかい)に入れ、榊と木棉でこれを飾る」とあるだけであるが、『摂津名所図会』では「其時口に賢木葉を含み身を清む、古より其土を取る所定まれり・・・土を取る事三掴(つかみ)半、此山に多く賢木あり、埴使これを折りて埴の器に添ふる」とあり、『西国三十三所名所図会』(嘉永6)でも同様の記述と共に、採取した埴土を納める黒塗り唐櫃の図が載せられている。これは現在使用されているものより大きな唐櫃であり、これについては後述したい。

 
 ④ そもそも、埴土とは如何なるものなのかであるが、これについても改めて最後に考察することにしたい。

 4.
埴使下向時の様子と持参品など


  住吉大社から行程約十里ほど離れた畝傍山へと向かう埴使の一行であるが、住吉の神人は馬に乗り、埴土を入れる器を荷なわせる従者のほか、下向の際に大谷氏へ渡す銭・紙・精米・塩・滑海藻などを持たせる従者人足が登場するが、全員で何人の一行であったかは不明である。
 後に紹介する『大和名所図会』(寛政3)には、禰宜1人・土持ち1人・僕(しもべ)2人・馬1と記し、『西国三十三所名所図会』には、祢宜1人・侍2人・攏人(ろうにん)1人・薙刀持1人・土持ち1人・沓取役1人の都合7人と記し、畝傍山に向かう一行を描いた貴重な絵図などを載せており、大変興味深いところである。
 昭和5年の『住吉大社特殊神事』には、正使1人・副使1人・使丁1人とし、現在の正使・副使の呼び名を使用している。
 埴使の行程は、住吉大社から畝傍山まで直線にして29.6kmほど、時代と共に街道筋を主とした徒歩から電車、自動車を利用しての往復になり、埴使の人数も変化してきたものと察せられる。
 なお、徒歩の時代は、河内から大和に入る道筋として、最も登り下りの少ない穴虫峠越えを想定したいところであり、途中の立寄り地として、別稿で考察している大和川岸にあった「住吉乃淵」を考えたいところである。


 5. 埴土採取の由来と採取地の変遷

 惟朝は『住吉松葉大記』に、埴使による埴土採取の由来について、神武天皇が東征で中州に入ろうとした際、賊軍の抵抗を受けて皇軍の利が無かったことから、天香山の埴土を採って天平瓮を造り、天神地祇を祭ると朝敵は滅び天下が鎮まった。後代の神功皇后の三韓征討に際しては、住吉大神が大いに戦いを助けられ、制覇されて帰還した後、皇后は田裳見命に命じて住吉神社を祀られた。初めは香山の埴土を採って天平瓮を作り大神を祭った。この事は、神功皇后が神武天皇の吉例にならったもので、今は畝傍山で採取するが、深く住吉大神の勲労に報われたことによるものなのだろう、と考察している。
 「初めは香山の埴土を採って天平瓮を作り、大神を祭った」と記すことに関連して、住吉大社の秘記とされる「神代記」(『住吉大社神代記』) があるが、『住吉松葉大記』中にその存在自体を神寶部に記しているが、神封を開けることが出来ないことから、その内容については全く記されていない。
 しかし「神代記」中の一本記「天平瓮を奉る本記」に、大神が神功皇后に我を天香个山の埴土を取り、天平瓮八十瓮を造作って斎祀れ、・・・、との内容を伝える伝承や記録の写しなどが、惟朝の念頭にはあったのだろう。

 この後に紹介する各名所図会には「神代記」の天平瓮のことが登場しないのは、勿論のことである。




2. 『大和名所図会』寛政3年(1791) に記された埴使神事


 『住吉松葉大記』から約100年程後に刊行された『大和名所図会』にも、住吉神社の「埴使」の様子が記されている。原文のままで紹介する。



 畝火山口坐神社
 むかしは畝火山腹にあり。今山頂に遷す。祭る所神功皇后にてまします。畝火明神となづく。[神名帳][三代實録]に出づ。又宮寺を國源寺といふ。西の麓に神祠の址とて石あり。今御旅所といふ。 又山腹に馬繋と云ふ所あり。畦樋・大谷・吉田・慈明寺・山本・大窪・四條・小世堂等の氏神なり。毎歳二月朔日・霜月初子日、摂州住吉社より禰宜一人・土持一人・僕 しもべ 二人・馬一匹を牽き来り、この山の土を取る事旧例となれり。何れの代より始まりしことを知らず。
 此山巖石山 いはやま にて、砥石いづる。また巖の際より陶器出づる。雨後には多く顕れ見ゆる。 これを見るに全く製造のものにて、天造のものにあらず。岩堅くして取るもの少し。形勝 かたち はさまざまあり。いづれも缺け損じて全きもの見えず。
 按ずるに、是則いにしへの埴輪の類なるべし。往昔此地は萬願寺とて四十二院ありしよし。其跡礎石多し。



 と記されている。この中で注意されることを書き上げると、


 ① 畝火山口神社の宮寺を「國源寺」と説明しているが、この寺は畝傍山の東北にあったと伝わり、畝傍山は「慈明寺山」とも呼ばれて、古くは山中に三十六もの坊舎が点在したといわれる(『改定 大和志料』ことから、宮寺は慈明寺の誤りではないかと考えられる。

 ② 西の麓の神祠址・御旅所の場所とは、現在の畝火山口神社の付近であろうか。

 ③ 山腹の「馬繋」の場所は、山上に神社があった時代の事であるので、馬で行かれた埴使が山路の途中で下馬された場所の事をいったのだろう。なお、萬願寺は山中に存在した慈明寺の一坊とみられる。






3. 『摂津名所図会』寛政8(1796) に記された埴使神事

 
 『大和名所図会』とほぼ同じ時期に刊行された『摂津名所図会』には、次の様に記されている。



 埴 使 はにつかい

 祈年祭また十一月新嘗祭両度に、神人大和国に行く。其道筋馬上にて祭衣を着し、祓を修し、路次一日にして彼所へ到る。天香山を去る事半里、畝火山口神社、祭神 神功皇后。埴使こゝに於て装束を改め、香山の社司と共に祓いを修し、かの山に入って埴を取る。其時口に賢木葉を含み身を清む。古より其土を取る所定まれり。ここに神井あり、水極て清冷なり。是即神代の天眞名井なり。 此霊水を汲んで手を浄め、土を取る事三掴半。此山に多く賢木あり、埴使これを折りて埴の器に添ふる。其翌日住吉に帰りて天平瓮を造り、大神に備へ奉る。
 祈年祭は二月朔日に住吉を出で、翌二日に帰る。新嘗祭は十一月子日に出でて、丑日住吉に帰る。両度俱に平瓮を造り、神供の祭器とするなり。抑 埴を取る濫觴を原ぬれば、[日本紀]に曰く、神武天皇天香久山の埴土をとりて、八十平瓮をみづからつくりおはしまして、諸の神を祭り、天下を謐 しずめ させ給ふ。その土をとる所を埴安といふと見えたり。又むかしは天香久山にて埴を取りしが、今は畝火の側慈明寺山にて取るなり。くはしきは[大和名所圖會]にあらはす。




 ① 「畝火山口神社、祭神 神功皇后。埴使こゝに於て装束を改め、香山の社司と共に祓いを修しかの山に入って埴を取る」の文から、埴使は畝傍山の西麓に位置する大谷村で装束を改められたと考えられ、これについては先に指摘した所である。また「香山の社司と共に祓いを修し」は、誤りで「畝火山口の社司」が正しい。

 ② 『摂津名所図会』には、山上の境内に「天眞名井」と呼ばれる神井があったことを記している。幕末の『西国三十三所名所図会』にも記されている。この井は小さく現在も禁足地の東側に存在し、板木の蓋や丸木などで護られている。
 
 ③ 埴土の採取は、真弓氏の著書『天香山と畝火山』に使用されている写真を見る限り、戦前から畝火山口神社の宮司により採取されているが、『住吉松葉大記』・『大和名所図会』・『摂津名所図会』をはじめ、後述する『西国三十三所名所図会』にも、畝火山口神社の社司が採取することは明記していない。

       
      『天香山と畝火山』より          埴使の様子(2008.3.6撮影)

            

                    神井「天真名井」

 このことは、きわめて重要な事柄であり、古くから埴土の採取は、住吉大社の埴使が直接採取されていたことを示している。寛政年代以前とされる玉田永教著の『年中故事』には、畝日()の神主といえども囲いを開ける役を務めても、中に入ることが出来なかったことを記しているのである。以下、参考として住吉埴使の部分を載せておきたい。


 『年中故事』より
「 一、住吉埴使 二日
 摂州住吉の社家、二月・十一月に二度あり。其式、住吉を立て、同日畝日山の社家大谷某が家に著、畝日の神主案内して山の頂へ登る、八町許 頂上に社あり、其前に岳あり、二間四方程の圍ひあり、其戸口には錠を閉しあり、畝日の神主是を開きて、中に入る事叶わず、住吉の社家埴土を取て下向し、是土を以て天の平瓮を作り祭禮をなす。住吉大神は畝日より垂跡し給ふゆへ也。」







4. 『西国三十三所名所図会』嘉永6(1853) に記された埴使神事


  江戸時代の終わり頃に刊行された『西国三十三所名所図会』には、「住吉神社埴使」の項を設けて、埴使一行の様子と埴土を入れる容器である唐櫃及び天平瓮の図を掲載し詳しく説明している。

 この名所図会に記される埴使の内容は、次のとおりである。原文のまま(一部仮名に)紹介する。



 畝火山口坐神社

 むかしは畝火の山腹にあり 今山の頂きに遷す 祭る所 神功皇后なり 畝火明神となづく 神名帳および三代實録に出す 又宮寺を國源寺といふ 西の麓に神祠の址とて石あり 今御旅所といふ 又山腹に馬繋といふ所あり 畦樋 大谷 吉田 慈明寺 山本 大窪 四條 小世堂等の氏神とす 毎年二月朔日霜月初子日摂州住吉社より祢宜一人侍二人攏人(*ろうにん)一人薙刀持一人土持一人沓取一人都合七人古ゝに來り 山の土をとる事旧例なり いづれの代より始りしたるを知らず
 住吉神社埴使  右にいふ如く毎年両度なり 此日當地大に賑はしく祭礼とす
 摂州一宮住吉神社二月祈年穀祭十一月新嘗祭此両度の祭式に當畝火山の土を取て平瓫を作るを旧例とす 則ち二月朔日住吉神官の内にて初冠(うゐかふり)の宮奴一人 神職八才にしてはじめて烏帽子狩衣を着し神につかふ 是をうゐかふりといふ 道條馬乗にて其日に畝火に着す 行程凡十里 山の此方なる雲梯社に入て装束を改たむ 麓の神館を旅宿とし一泊し 翌早天山に登りて土を取る 其時口に賢木葉を含み身を清む 往古より土を取ところ定まりて 周に玉垣を構ふ 又古ゝに神井あり 水極めて清冷なり 是なん神代の天真名井ならんか 此霊水を汲んで手を清め土を取る 山中に榊樹多く生ぜり 此枝を折て埴土の器にそへ住吉に皈る 十一月初子日又斯の如し 抑埴土を取る濫觴は日本紀に神武天皇天香久山の埴土をとりて八十平瓮を自ら造りおわしまして諸神を祭り天下を謐(しづ)めさせ給ふ 其土を取るところを埴安といふと見へたり 尤 昔は天香山にて土をとりしが今は畝火山にて取を例とすといへり

   
              摂州住吉神社埴使『西国三十三所名所図会』より


*[
埴使道中図の説明文より] 


 摂州住吉神社 埴使
住吉年中行事日 二月四日早且両宦出仕 拝大神戌剋四社神供備進祈年穀之祭也
十一月卯之日新嘗會 早且両宦社参戌剋社 祭神供備進 云云
右両度の祭祀に用る
平瓫の料に畝火山の土を取事旧例なり これを埴使といふ
埴の使は畝火の此方雲梯村萱の森の宮にやすらひ 装束を改め而して山の麓大谷村にいたる
故に萱の森の宮を俗に装束の宮といふ

* [唐櫃・天平瓫の図の説明文より]

○土を納る唐櫃の図
 惣黒ぬり也 右二合  (一尺五分 八寸一分)
 蓋深一寸 櫃の高六寸一分 いづれも面をとらず
 足の出一寸 反なし 少し勾配あり 
 是に土を納めて 又一荷の唐櫃に入 擔ひかへる
○當社の神宦は西の麓大谷村にあり 埴土使は是より峯尓上る也
○天平瓫 あめのひらか の図 
 (径六七分 高三四分)
 都合其数四十八
 右両夜の祭式に用ゆるを以て
 九十六枚作るよし
 俗に土團子といふ誤也



 と詳しく絵図入りで解説されている。
 これまでの名所図会などで指摘したことを除き、注目したい点を取り上げると、

 ① 「畝火山口坐神社」の説明は、ほぼ『大和名所図会』の文を引用したものであるが、埴使一行の人数は増え、幕末の世相を表しているためか、侍・攏人(*ろうにん)・薙刀持を合せた警固役4人が加わって総勢7人としている。住吉神社の埴使の主役は、祢宜1人、それも初冠(うゐかふり)の神官が務めたようである。

 ② 埴土を納めて持ち帰る唐櫃と天平瓫の図を載せて詳しい寸法を記している。
 唐櫃は、黒漆塗りで縦15(30.5cm)、横81(24.5cm)、蓋の深さ1(3cm)、櫃の高さ61(18.5cm)、四面の足の出は1(3cm)で少し勾配がある。これに埴土を納め、さらに一荷の唐櫃に入れ、荷って持ち帰ったとある。
 真弓氏の著書のカバー裏表紙にある埴土採取中の写真(昭和10)を見ると、畝火山口神社の大谷宮司の横には、同寸法らしい唐櫃が写っているが、同書本文に使用されている戦後らしい挿図写真、及び2008年に私が実見した唐櫃は、小型の唐櫃が使用されていた。

 ③ 埴土を住吉神社に持ち帰った後のことについては、『住吉松葉大記』に記されているが、『西国三十三所名所図会』には、埴土をもとに造られた天平瓮の詳細について、図を載せて寸法などの説明を加えている。

         
    唐櫃の図と天平瓮の図『西国三十三所名所図会』    天平瓮の図ほか『晴翁漫筆』


 意外なことに、径六~七分(1821mm)、厚み(高さ)三~四分(約9~12mm)程の丸い手づくね極小の器形であった様で、48枚を二夜の祭式用に計96枚を作るとしている。俗に土団子と言うのは間違いだとも記している。極小のサイズから考えると、皿状の器形ではなく古来の手づくね椀形祭祀用土製品の形状を引き継いでいるのだろう。
 幕末に刊行された『晴翁漫筆』(暁鐘成筆)に載せる天平瓮の図にも、同様の極小団子状の土製品のほか、「都久手」と呼ぶ皿らしい土器を合わせて載せている。口径二寸(6cm)、高さ五分(1.5cm)、底径一寸六分(4.8cm)程の小さい皿状のもので、これが畝傍山の埴土を混ぜた陶土を使用したものかは不明である。





5. 『高市郡神社誌』 高市郡教育會(大正11年発行) より抜粋

 
最後に『高市郡神社誌』に載せられた郷社畝火山口神社の中に記された「住吉神社の埴取の事」を紹介したい。



 (郷社 畝火山口神社)
 住吉神社の埴取の事
 毎年祈年祭、新嘗祭の両度に、住吉神社の宮司・禰宜・主典の中交替し、埴取使となり、随員二名、社僕一名を率ゐて当社境内へ埴取に来る。何時の頃より始まりけん。当社に記録、伝説共になく、又彼の神社にも無きとの事なり。場所は本社の左前方なる山巓に方二間の地域を、今は石柵を遶らし中に白檮樹繁れり。樹下の土壌膨軟にして、多く鼠矢(*そし)の如き土粒を生ず。此處埴取の処にして、正面西に向へり。前に石燈籠あり。鐫(*せん)に曰く
 堺住吉
 御峯山 文化三丙寅九月吉日 (高六尺)
 御美祢や満

 埴取使一向、先ず金橋村大字雲梯なる村社川俣神社(実は古への式内大社高市御縣坐鴨八重事代主命神社)に来り此処にて装束を整へ修祓式を行ひ神前に昆布の神饌を供進し、撤饌の後集れる群童に頒与す。里俗此の神社を装束の宮と称せり。斯くて川俣神社を出でて、当社に来り、当社社司に共に祓を修し、神前に幣帛料を奉進し、神饌には鹽洗米昆布を供進し、やがて撤饌して昆布を氏子総代などに頒与し、次に天眞名井の称ある霊水を汲み取りて手を清め、後埴土を取ること三握半之を容器に入れ、翌日住吉に帰るの古式なり。但し、近年交通機関の発達に伴ひ、住吉雲梯間鉄道便開けたるを以て、現今は之を利用して、即日帰社することとなれり。又旧幕時代に於ては、道中乗馬にて鎗薙刀等を用いて行列を整へ、雲梯なる川俣神社にて装束を着し修祓式を行ひ、又乗馬にて畝傍山の中腹なる馬繋と云ふ処にて下乗し、やがて登山埴取をなすの恒例なりき。然るに維新以後は此の行列を廃せり。但し埴取の古式は、既に述べし如く依然として今に残れり。里俗之を住吉の土取と称せり。




6. 畝傍山の埴土とはどのような土なのか


 住吉大社の埴使、あるいは後年には畝火山口神社宮司が代わって採取される「埴土」とは一体どのようなものなのか。
 先に紹介した大正期の『高市郡神社誌』には、唯一「多く鼠矢の如き土粒を生ず」と記して、埴土の状態を記していることは大変興味深い。鼠矢(そし)とは、ネズミの糞の意である。
  真弓氏の著書『天香山と畝火山』には、「畝火山の埴土を盛った天平瓮」の説明を加えた口絵カラー写真が載せられている。また本文中にも埴土について、下記のように記されていて、つかみ採られた土壌に含まれている驚きの埴土の実像を初めて知ることができた。
 「畝傍山の埴土は、山頂のある特定の位置に普通の土に混って存している淡墨色米粒状の団粒である。一握りの中に五・六粒も混っていようか。さほど多いとはいえず、現在はこれだけでは祈年・新嘗の祭典に用いる土器を製するには足りないので、業者に下命して陶土に加えて製するのである。」と記されているほか、「橿原市で刊行されている『橿原市史』に畝火山の埴土について、この埴土は、自然土か、鼠類の糞か、昆虫類の糞かわからなかったのであるが、最近の研究でコフキコガネの糞であることがわかった。(『橿原市史』八四三頁) と記されているが、これがどのような研究の結果かは知らないが、訂正を要することははっきりと指摘しておきたい。わたしの調査の結果は、けっして動物質のものではない。つぶせば土であることは誰の眼にも明らかであり、まして分析の結果も出たのである。」と反論されている。

 『橿原市史』は、昭和37(1962) の発行で、上記に続いて「この埴土は山頂のあちこちのアラカシ、シラカシの根元からいくらでも出て来る。耳成山口神社境内でもアラカシの根元から掘り出され、安産の御守りとして授与されている。」とまで書かれている。
 神聖なる埴使神事で採取される団粒の埴土が、虫の糞と断定され、しかも耳成山でも見つかっているとまで解説されていては、神職の著者として憤慨の念を抱かれたものと想像できる。


         
  埴土(中段)『天香山と畝火山』より       秋殿古墳の横穴式石室(2022.11撮影)


 また、橿原市の東隣り桜井市域は、多数の古墳が分布する地域であるが、畝傍山の東方、鳥見山の南山麓附近に点在する古墳時代後期の秋殿古墳や、赤坂天王山古墳の南に位置するカタハラ1号墳の横穴式石室の床面堆積土からは、発掘調査によって同じような形状の「米粒状物質」と名付けられたものが多量に検出されている。
 調査報告書 [『カタハラ古墳群発掘調査報告書』2000 ()桜井市文化財協会]によれば、「これらの米粒状物質が昆虫、特に甲虫目コガネムシ科の一部の幼虫のフンの特徴にきわめてよく合致することを示している。」と報告されているのである。

 上記から、畝傍山で埴使が採取された埴土は、コガネムシ類の幼虫の糞であると結論づけてよさそうである。

 そもそもの疑問であるが、畝傍山頂において埴土採取の神事が始まった当初から、現在の様に埴使が団粒(米粒状物質)のみを選んで持ち帰り、他の土に混ぜて霊力ある陶土とし、天平瓮を作ったのだろうか。
 それとも、畝傍山頂のカシの根元にある土壌を単に持ち帰って埴土陶土としていたのが、時代とともに米粒状の団粒のみを霊力のある特別な土塊つまり埴土として採取するようになったものか、まったく想像が及ばない。
 もし、はじめから団粒自体を昆虫の幼虫の糞だと理解した上で、埴土として持ち帰られていたものであるならば、聖なる畝傍山の山頂と、そこに多く棲息する昆虫に聖なる霊力を持つものと信じられてのことだったのだろうか。

 天平三年(731)の年紀のある『住吉大社神代記』の「天平瓮を奉る本記」には、住吉大神が神功皇后に、天香个山の社の中の埴土をとって天平瓮八十瓮を作り、住吉大神を斎祀れば、天下を転覆しようとする謀事があっても必ず服従させることができると誨えられ、為賀悉利の祝の古海人老父らに醜き者の姿をさせて埴土を採りに行かせた、という話が本記の形式で加えられている。
 詳しい内容は省くとして、天香久山の埴土の採取は、毎年採取しに行ったものではないと思われるが、いつの時代からか天香具山から畝傍山へ、また毎年春の祈年祭と秋の新嘗祭の祭典を前に、埴土を採取しに行く独自の埴使神事として定例化していったのであろうか。

 おそらく律令国家における神祗全般に関わる法令の制度化に伴い、住吉神社の祭祀に関し、埴土採取の山の変更と、国家祭祀に繋がる春秋二回の埴土採取として固定化されたものとなっていったのだろう。



 2023.08.15 いこまかんなび 原田 修 作成





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