住 吉 乃 淵 と 住 吉 岩



 


 住吉乃淵と住吉岩

大阪府と奈良県を分ける生駒山地の南端、亀ノ瀬を経て西方の河内平野へ流れ出る大和川の出口部北岸は、もと河内国大縣郡(おおあがたぐん)に属し、山の南西斜面から川に沿った所には高井田地区がある。『和名抄』の「大縣郡鳥取郷」域にあたっていた。
 現在は、柏原市高井田にあたり、川沿いを走るJR関西本線の高井田駅の北側の山裾には、170基近い高井田横穴古墳群があり、その中には人物・船・馬など線刻壁画のある横穴古墳が含まれていて、史跡公園として整備保存されている。さらに上方の山間部の平尾山から雁多尾畑地区には6世紀後半〜7世紀前半を中心とした1400基もの横穴式石室を内部主体とする群集墳の平尾山古墳群が広がっている。
 一方、大和川の南岸(旧安宿郡 あすかべぐん)の船岡山(俗称美山)上には、板石の積石塚墳頂に特殊な長持形石棺を納めた前方後円墳、松岳山古墳(全長120m)を中心とした松岳山古墳群があり、その西方の玉手山の丘陵上にも大小10基程の前方後円墳から構成される玉手山古墳群など、多数の前期古墳が分布するほか、丘陵斜面には6世紀後半に営まれた安福寺横穴群や玉手山東横穴群、合わせて80基ほどの横穴古墳群が営まれている。玉手山古墳群の西方、大和川へ合流する石川の西側には、巨大な大王墓を中心とした古市古墳群が存在する位置関係にある。
 周辺に密集する古墳や寺院跡など遺跡の詳細については説明を省くとして、大和川の右岸沿いの高井田地区から西北にある平野地区までの南北山ろくには、7世紀後半に次々と創建された高井田廃寺・安堂廃寺・太平寺廃寺・大県南廃寺・大県廃寺・平野廃寺の六寺の寺跡が連なっている。これらの寺院跡は、『続日本紀』天平勝宝8(756)224日の条に、孝謙天皇が六寺の仏像を巡拝されたことを記す、鳥坂寺・家原寺・智識寺・山下寺・大里寺・三宅寺の六寺にあたると考えられている。(柏原市歴史資料館『平成7年度企画展 河内六寺』図録 ほか)
 松岳山古墳の東方、大和川が大きく屈曲する右岸「竜田道」沿いには、聖武・孝謙天皇に関わり深い竹原井頓宮の建物遺構と考えられる青谷遺跡、左岸の山麓には河内国分寺跡などの官寺跡が存在するなど、河内の古墳時代から〜古代の歴史を考える上で重要な遺跡群が集中している。

 
 
住吉乃淵とは

 さて、江戸時代の寛政6(1794)に刊行された『摂津国一ノ宮 住吉名勝図会』に「住吉乃淵」と呼ばれる淵が名勝の一ケ所として載せられている。

       
             
住吉乃淵の様子『住吉名勝図会』より

 この『住吉名勝図会』は、五冊から成り、秋里湘夕(籬島)[]、岡田玉山[]によって、文字より豊富な画・図を載せて広く住吉神社を世上に紹介することを目的に、江戸、京都、大坂の書肆の連名で発売されたものである。昭和62年には国書刊行会からも刊行されている。
 巻之四には「住吉摂社」など30ケ所、住吉神社に関わり深い近隣の「住吉名所」が65ヶ所にわたって載せられているが、この中になぜか住吉神社から遠く離れた東方生駒山地の南端、大和川岸にあったという「住吉乃淵」を取り上げ、その様子を1枚の絵にして載せている。
 その絵には、山並みと人家を背景に、幾つかの大小の石が転がる大和川の河岸で3人の子ども達が貝を採っていて、旅人の侍らしい人物2人に貝を見せている様子を描いている。平穏そうな絵の様子からは、住吉乃淵の名が付けられて住吉名勝の一ケ所として取り挙げられている理由が思い浮かばない。
 絵の上部には次の説明が付けられている。

「河内の国 平尾山のふもと大和川乃なかれ尓て 土俗住吉の淵と呼り 年毎三月三日四日 住吉浦潮干の日は 此流れも水ぬるく 蛤なとあまた阿りとて おんな童のひろいとりてもてはやしぬるとそ」

と記されている。この場所は、平尾山の山ろくに位置する高井田村の東南端、大和川の河岸の様子を描いているものと考えられる。但し、文中の「蛤」は「蜆」の間違いである。
 確かに『住吉名勝図会』巻之ニには、陰暦三月三日に摂津住吉神社(住吉大社)の西にかつて広がっていた遠浅の「出見の浜(住吉浦)」に人が群集して、潮干狩りを楽しむ様子を描いた「三月三日汐干之図」が載せられている。
 しかし「住吉乃淵」と呼ばれたのは、単に住吉神社(大社)の西に広がる住吉浦の潮干狩りに合せて行楽の貝採りをしたことからその名が付いた訳でも無さそうである。
 「住吉乃淵」に関連し、他の史料・文献の記事を探すと、延宝7年(1679)に三田浄久が著した『河内鑑名所記』には、

「高井田 伽藍の旧跡有、今正観音小堂在。白坂(
しろさか)大明神の社、河はたまします、此社の前の大河にて住吉の社務代十一日間水こりをかき給ひ、塩こり湯こり住吉てかき、冠を着給ふよし、里人のかたりき」

と記されている。
 この内容から、大和川の河端に白坂大明神が鎮座し、この社の前の川で住吉神社の社務代が11日間に亘って水垢離(禊祓い)を行い、潮水や蒸し風呂による禊は住吉の浜などで行って、冠を着けて神職の正装をされたのだと里人が伝えている、という意味であろう。


 
石井と住吉岩

 「白坂大明神」に加えて、享保20(1735)の『日本輿地通志 五畿内志』「河内志」大縣郡の所には、新たな「石井」・「住吉岩」というものが記されている。原文のまま一部を引用する。

「大縣郡
山川 ・・・・・・・・・・・・・・・
竹原井 在高井田村養老元年二月 車駕至竹原井頓宮・・・・・・ 
又有石井在水涯一 傍有石 摂州住吉神人嘗修禊于此因名日
住吉岩

と記されている。これを私訳すると、
 (大和川の)水際に「石井」があり、横には石があって、摂津の住吉神社の神人が、かつてこの場所で禊を行っていた。そのため、石は「住吉岩」と呼ばれている。という意味である。
 ここでは「住吉乃淵」ではなく、白坂大明神の前の川岸にあった「石井」の横の石()を「住吉岩」と呼ぶほど、かつてこの場所が住吉神社と関係の深い禊祓い場であったことを記録している。
 また、『河内名所図会』(享和元年[1801])にも、
「石井ありて水涯に臨む。其傍に石あり。里人云、摂州住吉の神人、ここに來つて祓をなす故に、号て住吉岩といふ。」と記されている。
 さらに、『大阪府全誌』(大正11)には、
「石井及び住吉岩といへるは、部落の東辺なる字龍の子にありて大和川の水涯に臨めり、摂州住吉郡住吉の神人の来たりて禊を爲せし所なりと傅ふ。」と記しており、その場所は、高井田村の東端、大和川の水際で、字名が「龍の子」と呼ばれていた場所であったことも判る。
 いずれにしても、江戸時代の初めには、白坂大明神の前の川岸へ住吉神社の神人が来て禊祓いを行うという謎めいた神事の慣行は、すでに失われていたことも判る。
 現在は、河川改修・整備が行われてしまっているため、昔の面影は全く失われている。
 ただ、水涯に臨む「石井」とは、どのようなものだったのか、白坂大明神の存在と共に重要な意味を持っていたようであり、これについては、後に触れることにしたい。
 

白坂大明神は宿奈川田神

  
             高井田地区と白坂神社(昭和40年 原田撮影)

 「白坂大明神」は、国道165号 国豊橋のすぐ東側、現在のJR大和路線高井田駅すぐ南側の大和川右岸堤防に接した所に、通称「白坂神社」として鎮座している。(所在地 柏原市高井田661番地)
 堤防上の青谷・本堂方面に通じる府道183(本堂高井田線)に面し、神社入口には石鳥居と並んで安永2(1773)ほかの石燈籠が3基、拝殿東側にも天保2(1831)の石燈籠が残り、正面には拝殿と流造りの御本殿が鎮座する。
 境内西端には稲荷祠も祀られており、拝殿を挟んで高井田老人会館や白坂会館の集会施設もある。

 
      右手が白坂神社(国豊橋より)          白坂神社(南から)
 
       境内のすぐ南側は大和川          拝殿と本殿(東から)

 境内地は、堤防の高さとは一緒であるが、神社西側の堤防下から高井田集落との間は、堤防や道路の改修と住宅化に伴って大きく変貌しているものの、西方(下流)に向かって低い地形が続いていたことがわかる。

 ところで、神社に関する史料であるが、
@『河内鑑名所記』には
 「大縣郡 [神廟]
  天湯川田神社 在高井田村西
  宿奈川田神社 在高井田東南 乃北片山村故墟 土人稱白坂明神一」
A『河内名所図会』には、
 「宿奈川田神社 高井田村の東南にあり。土人、白坂明神と称す。此地の産
  土神とす。[延喜式]出。」
B『大阪府全誌』には、
「宿奈川田神社は、字白坂にあり、延喜式内の神社にして宿奈彦命を主神として、相殿に高皇産霊神・科長戸命を配祀せらる。崇神天皇の御宇に初めて祭典を行ひ、天平年中聖武天皇は天湯川田神社へ行幸の砌御参拝あらせられ、宝亀二年(*771)光仁天皇も行幸して御祈願あらせられ、爾後天皇の御不豫或は天下騒擾の時には、勅を下して幣帛を捧げ給ふを例とせりと傳ふ。里人は白坂明神と呼べり、所在地の白坂なるに依れるならん。其の地は往時片山村と稱せしことあるにや、河内志には当社の條下に北片山村の故墟なりと記せり。・・・・・・・・・・・。」
と、詳しく記している。

 すなわち、大和川の北岸に沿った旧高井田村集落の西方には天湯川田神社、東方500m程上流の川岸には宿奈川田神社(白坂神社)、共に式内社で「川田」の名が付く二社が並んでいる。
 両社の立地は全く異なり、大きな前期古墳(鳥坂宮古墳)があった山上を削平して造営された高井田廃寺の塔跡に接して祀られている天湯川田神社は、祭神が天湯川桁命(あめのゆかわだなのみこと)で、古代豪族の鳥取氏の祖とされる。東側の近鉄線を挟んだ丘上にも、金堂・講堂跡などの伽藍が広がっていて、『続日本紀』に記される河内六寺の一寺の「鳥坂寺」と考えられている。『大阪府全誌』によると、のちには「普光寺」あるいは「井上寺」とも呼ばれていたという。

 
                     天湯川田神社

 これに対して、旧集落の東端河岸に位置する宿奈川田神社(通称 白坂神社)は、宿奈彦命(すくなひこのみこと)を主祭神とし、相殿には高皇産霊神・科長戸()命が配祀されている。
 宿奈彦命は、少彦名()命と同じ神であり、『先代旧事本紀』の天神本紀には「少彦根命 鳥取連等祖」と記されているので、天湯川田神社の祭神 天湯河桁命と、宿奈川田神社の祭神 少彦名命(宿奈彦命)は、共に古代豪族の鳥取氏の祖神であることがわかる。
 『式内社調査報告』(昭和52)でも、棚橋利光氏は、次の様に考えておられる。一部を抜粋させていただくと、
 「文正二年(1467)の『大宮大明神末社帳』によると、当時宿奈川田神社は白坂大明神といひ、祭神は宿奈彦名命で、天湯川田奈命の祖神の神であるとしてゐる。右のことから、宿奈川田神社も鳥取氏の氏神であつたと考へてよいのではなからうか。古代において宿奈川田神社は天湯川田神社とともに当地の鳥取氏の氏神として崇拝されてゐたのであらう」・・「白坂明神といふのは、神社の後にある竹原山の土色が白で、山路の坂が白く見えるからであるともいつてゐる。あるいは白坂といふ地名・字名があつて、それによつたのかもしれない。」などと記されている。
 根拠は薄いが、住吉大社の摂社大海神社の北側、岸の姫松で知られ古くから住吉岸・浜松岸と呼ばれてきた地には、もと住吉大社の摂社であった式内社の生根神社が鎮座しているが、同じく少彦名命を祭神としており、何らかの関係があったのかも知れない。
 

 
白坂は白木坂か ?

天平3(731)の年紀をもつ住吉大社の秘宝『住吉大社神代記』には、鎮座の縁起のほか生駒山地や広大な葛城山地と山ろくの地域をはじめ、摂津・播磨地域の神領地が寄せされた経緯ほかを記した「本記」が多数載せられている。(田中 卓 著作集『住吉大社神代記の研究』[昭和60年]を参照)
 その中の「膽駒神南備山本記」には、大和と河内の境に連なる生駒(膽駒)山が垂仁天皇と仲哀天皇の代に住吉の神に神領として寄せられた経緯と四至が記されているが、四至の西・南限の地として「西を限る、母木里の公田・鳥坂に至る」「南を限る、賀志支利(かしきり)坂・山門川(やまとがは)・白木坂・江比須(えびすの)墓」の名の他、「白木坂の三枝
(さきくさ)墓に木船を納め置く」と、白木坂の名が登場する。
 田中 卓博士は、白木坂の地は不詳とされているが、大和川沿いの地で背後に多数の横穴や群集墳など、渡来系氏族(新羅系?ほか)の古墳群がある高井田の地であったとすると、白木坂が白坂に変化し、近くに祀られることになった宿奈川田神社が、通称白坂神社と呼ばれることになった可能性が高い。
 なお、大和川沿いに神を祀った鳥取氏族であるが、『住吉大社神代記』の中に同氏が登場する個所があり、あまり知られていないため一部を紹介しておきたい。

「一 播磨国の賀茂郡、椅鹿山(はしかやま)の領地田畠合す。
 四至 
・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・
 右の杣山(そまやま)地等は、元、船木連宇麻()・鼠緒・弓手等の遠祖、大田田命の児、神田田命等が所領九万八千余町なり。而して気息帯長足姫皇后御宇しし世、大明神に寄さし所奉り巳了(おわ)りぬ。自爾以降(それよりこのかた)、大神社の造宮料を領掌ること年尚(ひさ)し。爰に宇麻()等、皇后に船を造りて貢献る。新羅国を征(ことむ)けたまふ時、好く船を造れるによりて、船木・鳥取の二姓を定め賜ひ巳了りぬ。」記されている。

 『日本書紀』に、垂仁天皇から鵠(くぐい)を捕えるように命じられ、出雲国で捕らえて献上した天湯河板擧命(あめのゆかわだなのみこと)は、賞されて鳥取造の氏姓を賜わった、という話が有名であるが、『住吉大社神代記』に登場する鳥取氏とは、まったく異なる。
 播磨国の広大な山間部に広がっていた九万八千余町もの住吉大社の椅鹿山神領地(杣山ほか)は、もと大田田命の児の神田田命らの所領で、神功皇后の時代に住吉大神に寄進され、子孫の宇麻()らは、大社の造宮を司ったほか、新羅討伐にあたってはよく船の建造につとめたことから船木と鳥取の二姓が定められた、と記している。
 つまり鵠(白鳥とも訳されている)の捕獲ではなく、造船に貢献したので「鳥取氏」の姓が誕生したとしているのは、鳥取氏の本貫の地が大和川の付け根の高井田附近の「鳥取郷」にあたることと関連して大変興味深い。
 

龍田川の水垢離

 話は少しそれるが、亀ノ瀬の上流、奈良県側の北葛城郡王寺町(旧大和国葛下郡)では南方からは葛下川、さらに少し上流の生駒郡斑鳩町(旧平群郡)では、生駒山の東側の生駒・平群谷を南流する平群川〜龍田川(竜田川)が合流している。
 龍田川が大和川へ合流する地点の北西側の斑鳩町神南(じんなん/昔はかんなび)には、『万葉集』や『古今和歌集』の古歌に「神名火」「みむろの山」と詠まれた「三室山」(標高82m)があり、山の中腹には素佐之男命を祭神とする神岳(かみおか)神社が鎮座する。
 三室山に遮られて少し東へ曲げられた龍田川は、今は河川改修されて真っすぐ南方へ流されているが、昔は、三室山東北角から東方の稲葉車瀬村の南側を経たあと南へ大きく曲流する流路であったといわれている。戦後の航空写真でも旧河道らしい曲線が読み取れる。
 三室山の対岸には『万葉集』に詠われる「毛無(ならし)の丘」や「神奈備の伊波瀬の杜」もあったと考えられている。
 これら名所の比定地については、西方、龍田大社の立野方面(三郷町)などの諸説があるが、六人部是香の『龍田考』(弘化2)の説く内容や、次のような禊祓いなどの宗教行事が行われてきた聖地であったことを考えると、斑鳩町の三室山(神南備山)周辺説が妥当と考えられる。

 
             『龍田考』附図より 一部加筆使用

 『大和名所図会』(寛政3[1791])には、
「磐瀬杜(いはせのもり)  神南の東、車瀬村にあり」、「毛無岡(ならしのおか) 目安村にあり。立田大橋より四町ばかり南の川添に、ささやかなる森あり。里人呼んで垢離取場といふ。此所ならしの岡なり。南都春日祭禮の願主人此所にて垢離をとる。龍田垢離といふ是なり。」と記されている。
 春日若宮おん祭りの願主役などを務める大和士(さむらい)が、神事奉仕にあたって精進潔斎を行う参籠所の大宿所(奈良 餅飯殿町)について「大宿所 餅飯殿町にあり、遍照院と號す。霜月御祭に、願主人長谷川黨あつまり、十月晦日に龍田川に行きて垢離し、それより明神を勧請し、十一月二十五日に御湯を奏し、二十六日春日に社参せり。・・・・・。」と記している。
 また、『改訂 大和志料』(昭和19)に載せられた「附録 春日若宮祭禮」に関する文書の中に、垢離に関する興味深い記録が含まれている。
 「一 願主精進初之事 五月晦日ニ立田の鹽瀬ニテ コリヲカキ給フベシ 彼トコロヘ新シキヒシャク コリカタヒラウハ ウハシキヲモタスルナリ サテ
鹽瀬ノエヒスヘ参銭 同ハラヒシタル御子ニモ料足百文又ハ二百文ツゝ・・・・・・・鹽田石ヲ取テ來テ 日コリヲカキ給フへシ ・・・・・・」
とあり、願主が竜田塩瀬の垢離場へ持参する物、塩瀬のエビス神への賽銭のこと、塩瀬の塩田石を持ち帰ることなどが定められていたことがわかる。
 塩瀬や塩田石の名は、潮水のような水が湧き出していたことによるのだろうか。北側の車瀬村の丘に祀られる白山神社は、伊邪那美命を祀っているが、本殿に並んで住吉神社(住吉三神)・塩田神社(塩土神)も祀られていて、気になる所である。
 また、同じく「春日若宮祭祝式流鏑馬起元由緒書」(明治)中には、
「同月(十月)晦日大宿所参勤之大和士 同國平群郡龍田川罷越 身候式禮仕候事
 附 往古者五月晦日大紋風折烏帽子馬上ニ而摂州住吉浦罷越身候 六月朔日ヨリ別火仕候事」
と記され、十月晦日に大宿所へ参勤の大和士は、平群の龍田川で身を清めて式禮を行うこと、往古は五月晦日に礼服と風折り烏帽子を着して馬に乗り、摂津の住吉浦まで行って身を清めていたことを附記していることは大変興味深い。
 龍田川の川瀬での垢離は、春日若宮おん祭の願主だけではなく、『和州祭禮記』(昭和19)には、奈良盆地の大和川流域北半の村々では、神社の秋祭り奉幣神事を前に、当屋たちが龍田川または龍田川の御幣磐近くの淵へ水垢離に行く習しがあることを記している。
 磯城郡の保田村(六県神社)・結崎村(式内糸井神社)・海知村(式内倭恩知神社)・柳本村(式内伊射奈岐神社)の村々では、垢離の際に小石を拾って持ち帰り神事に使用したようである。
 さらに、平群谷の生駒山口神社の秋祭に当たっても、神社下の櫟原川にある御幣岩で垢離取りを行い、小石70個ほど拾って持ち帰えるが、旧来はやはり斑鳩町神南の龍田川岩崎で行われていたという。(『生駒谷の祭りと伝承』[平成3年]参照)
 三室山の東北角から蛇行する龍田川の垢離場は、相当古い時代から、恐らく中世以前の相当古い時代から行われてきた可能性が高いと考えてもよさそうだが、何故そこに行くのかは解明しがたい。

 
       三 室 山              龍田川岸に削られて残る「御幣岩」

 なお、奈良盆地南部の十市・高市・葛上郡など、大和川水系南部の村々の当屋は、はるばる山を越えて吉野川の谷奥に祀られる式内社の大名持神社(妹山)へ大汝(おなんじ)詣りとして参詣し、前の河原の潮生淵(しおふぶち)で垢離を行い、水と小石を持ち帰って神事に使った。この潮生淵は、古くから毎年三月三日、六月晦日には潮水が湧出したと伝えられている。
 

 
石井は井戸にあらず

 さて、話がそれたので、元へ戻すことにしたい。
「住吉乃淵」あるいは「住吉岩」は、大和川の河川敷や堤防の改修、堤防上の道路の整備などに伴って共に消滅しているが、『河内志』や『河内名所図会』に記されている「石井」と呼ばれたものも、ともに大和川岸に鎮座する白坂神社の前の河岸に存在したことには疑う余地は無い。
 では「石井」とは、一体どのような施設または構造物だったのだろうか。
 まず、鎌倉時代の名所和歌集とされる『歌枕名寄』に収められた藤原光俊(1203-1276)の和歌の中に「石井」が登場する。

「竹原乃 石井乃水矢 益流良無 龍田農山農 五月雨野兒呂」
(『河内志』より)
 (竹原の 石井の水や 益するらむ 龍田の山の 五月雨のころ)
『神秘の水と井戸』(昭和53)の著者 山本 博氏は、これについて次のように解釈されている。
 一部をそのまま引用させていただくと、

 「竹原の 石井の水や あまるらん 竜田の山の 五月雨のころ
 歌の意味は明瞭である。地名といい、石井といい、動かしがたい竹原井の歌である。竹原井は、現在みるとおりの石積み井筒だったのである。どこを見ても板井ばかりの時代に竹原井が石積みで作られたから、世上の噂にのぼらぬはずはなかった。太子の耳にもはいったのであろう。太子は一見したいと思った。それが詞書にみえる「出遊竹原井」である。
 竹原井は、今もそのまま松村氏邸の前庭に保存されている。一抱えほどの、大小不揃いの自然石の乱石積み、口縁部平面をほぼ円形にした垂直型の井筒である。・・・」

と説明されている。ここに登場する太子とは聖徳太子のことである。

 山本氏は、井戸を「板井」構造と「石井」構造に分類にされ、歴史的には「板井」から「石井」に変遷したと考えておられるが、それについては理解はできる。
 しかし、高井田の村の中に「竹原井」と伝承して現存する井戸が、石積み井筒の構造であったとしても、光俊の「竹原の 石井の水・・」は、竹原にある石井、つまり石井の所在地を言っているもので、正しくは、竹原にある石井の水量も増えているだろう、と理解したい。
 「石井」の「石」の読みは「いし」・「いわ」・「いそ」なのか、また「井」は、「い」・「ゆ」なのか、確かなところは不明である。ただ「井」の字が後ろに付けば、必ず井戸であるとは限らない。
 例として、石川の上流、錦部郡高向(にしきべぐんたこう)の谷合いに存在した「高向庄」の姿を描いた弘安六年(1283)の「高向庄図」には、二筋の水路が描かれ、一筋には「上原井」の名が付せられている (『井路 -水と田んぼをつなぐ知恵-』平成21年 河内長野市立郷土資料館 図録) ほか、各種の荘園絵図などには、川から堰上げして取水し、潅漑用分水路あるいは井路の名として「〇井」などが記されている。武庫川からの取水の「昆陽井(こやゆ)」、猪名川からの取水の「加茂井(かもゆ)」などがあるが、「井」は「ゆ」と読まれている。
 「石井」を考える上で『大阪府全誌』大字高井田の説明の中には、注目すべきことが記されているのでそのまま引用する。

 「其の大和川に沿へるの辺には本堤あり、本堤の裡に裏堤ありて枝堤といひ、両堤の間なる水を枝川といふ。本堤に樋門あり、上なるは古白坂樋にして、下なるは新白坂樋なり。樋門の水は共に枝川に注ぎ、両堤防と共に北方大字安堂に連れり。」とある。
 また高井田村のすぐ北に接する「大字 安堂」すなわち安堂村の所には次のように記している。

 「其大和川に沿へるの辺は、本堤及び枝堤共に枝川を挟みて南方大字高井田より來り、西方南河内郡柏原町大字市村に連なれり。堤防に築留樋あり、本堤にあるを八尺樋といひ、其の水は枝川に注ぎ、枝堤に山本樋あり、一に五ヶ村樋とも呼べり。他に一樋あり、即ち穴樋にして本堤と枝堤に跨り、枝川の底を貫ける伏樋なるを以て俗に狸樋の名あり。此の穴樋と五ヶ村樋は共に恩智川の水源を爲し、穴樋の下流を穴樋井路、一に西恩智川と呼び、五ヶ村樋の下流を五ヶ村井路、一に東恩智川といふ。雨水共に微々たる小溝なれども、北に流れ大字法善寺に至りて一川となり、更に北に向ひて流れ、幾多の渓水を湊合して漸次其の大を加へ、末は北河内郡住道村大字灰塚に至りて寝屋川に注げり、川は南高安村大字恩智を通ずるを以て、同地の名に因みて恩智川の稱あるものならん。」とある。

 これらの記載などから考えて、

 @高井田集落に沿って大和川の本堤があり、その背後には裏堤(枝堤)があり、両堤に挟まれて枝川がある。大和川の本堤には樋門があり、上流にある樋門は「古白坂樋」、下方の樋門は「新白坂樋」があり、取水された水は、共に北へ大きくカーブしていく本堤に沿った枝川を流れて、北側の安堂村の方へ連なっていたことがわかる。
 A古・新の字を冠した白坂樋であるが、当然ながら上手にある「古白坂樋」の方が歴史的に古いものであろうし、取水地点は白坂神社(宿奈川田神社)の前の河岸であったと考えられる。
 今日までに本堤の改修や上部を通る道路、高井田地区への進入路等が繰り返されてきたため、両樋は無くなり枝堤と枝川(水路)は、一部を除いてほとんどが道路下に暗渠となってる。旧高井田地区には「ここは水路敷で道路でありません。」の標識があり、水路敷であったことを物語っている。

 
     白坂神社と天湯川田神社附近の様子『治水の誇里』(昭和30年)の写真に加筆
 
      白坂神社の西側の様子        高井田村と大和川堤防との間の水路暗渠部

 古代以来、度々の洪水被害をもたらした旧大和川は、宝永元年(1704)に実施された世に有名な「大和川付替工事」により、安堂村前で築留された大和川の水は、短期間で開削築造された新川の堤にそって西方の堺浦へと流され、流路は大きく変わることになった。
 「古白坂樋」や「新白坂樋」などから取水して枝川を流れた用水は「築留」の堤に作られた一番樋門に導かれ、堤の西側に設けられた二番樋と三番樋から取水した水をも合せ、広大な旧大和川下流域の重要な潅漑用水を担ってきたものである。

  

         『治水の誇里』(昭和30年)の写真より「古白坂樋」など

 『治水の誇里』(昭和30年)には明治期らしい古図が掲載され、また、柏原市歴史資料館『河内国志紀郡柏原村柏元家文書目録U[柏原市古文書調査報告第4] 「干川之節水尾跡水尾掘形絵図」には「古白坂樋」などの樋門や河水を導くための砂関・元関などが描かれている。

 ところで、白坂明神(宿奈川田神社)の前、すなわち大和川河岸にかつて存在した「住吉の淵」「住吉岩」「石井」のあった所から取水された「古白坂樋」の水は、天湯川田神社のある丘の麓を通り、谷水なども引水する「新白坂樋」や少し下流に設けられた「八尺樋」の水を合せて枝川を流れ下り、築留一番樋へ送られたことから「一番」と呼ばれ、戦後まで使用されていたようだが、現在は閉鎖され使用されていない。

   
         白坂神社(宿奈川田神社)の河岸の様子 昭和40年 原田撮影

 「一番」の各樋と井水それを流す枝川は、一般的には大和川付替工事を前提とした下流域の用水確保のために設置されてきた取水樋と見る向きもあるが、どうもそうでは無さそうである。
 私としては、恐らく「古白坂樋」は、鎌倉時代に既に存在した「石井」をルーツとする古い時代からの取水樋であった可能性が高いと考えている。
 則ち、先に紹介した『大阪府全誌』の説明は、極めて重要な記述であり、「一番」の枝川の水は、築留までつながる枝堤の付け根の安堂に設けられた「山本樋」別名「五ヶ村樋」という樋などが存在して、恐らく旧大和川が付替えられる以前の相当古い時代から、旧大和川右岸の山ろくに沿った五ヶ村(南から安堂村・太平寺村・大県村・平野村・法善寺村、(さらに下流の恩智川沿い)へ導水される貴重な潅漑用水あるいは飲料水にもなっていたことを物語っている。

  
           河内六寺の周辺(国土地理院 昭和22年の写真を使用加筆)

 途中、川岸へ突き出た丘上に鎮座する式内社天湯川田神社の社地と東側に広がる鳥坂寺(普光寺)跡は、別名「井上寺」とも呼ばれていたというのも、山の下には古い時代から「井」川が流されていたことに起因するのかも知れない。また、「石井」以前には「竹原井」と呼ばれた時代があったと考えられないだろうか。
 さらに想像を拡げると、天湯川田の「湯」は「井」であったかも知れず、天の井の川田の神であったのかも知れない。

 宿奈川田の神と天湯川田の神は、共に重要な井溝と井水を護るために祀られたとも考えられる。
 なお、大和川床(20m)の取水地点から各村まで(18m)の標高差を見ると、井溝などで導かれて河水を流すことは十分可能であり、その井溝は、山ろくに並ぶように南北に存在した古代寺院の家原寺・知識寺・同行宮・山下寺・大里寺・三宅寺の寺院や寺院関係僧侶等の居住区などへの清水を送る井溝であった可能性も十分考えられるのである。
 こうしたことを考えると、摂津住吉神社の神人が、古い時代に「住吉の淵」あるいは「住吉岩」の名の元になった白坂神社前の河原で禊祓を行った行為は、河内六寺ほかの清水の取水地点であったことによるものなのか、それとも古代の住吉大社の神領「膽駒神南備山」の南限の祭祀に関わったものだったのか、いろいろ考えられるが、謎はますます深まるばかりである。

  最後に、地域等は異なるが『常陸国風土記』新治郡の所には、次のように「井」の事を記した個所があり、参考に紹介しておく。
 「
古老はこういっている、――昔、美麻貴天皇(崇神天皇)の御治世に、東方の夷の荒賊
[土地の人はこれをアラブルニシモノという]を討ちたいらげようとして、新治の国造の祖先で名を比奈良珠命というものを派遣した。この人が下向してきて早速 井を掘った。(その井は今も新治の里にあり、時節に応じてお祭りをする。)その水は浄らかに流れたので、すなわち井を治りひらいたということによって、郡の名称として着()けたのである。その時から現在までその名を改めない。[風俗の諺に「白遠新治の国」という。]」(平凡社『風土記』より)
 相当古い時代から井溝が築造され、祭祀が行われたことを表わしている。

 2021.7.26 いこまかんなび 原田 修  
 (2021.8.03・8.13)一部加筆訂正





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