住吉大神の宮 長門国豊浦郡 住吉忌宮



『住吉大社神代記』に「凡そ大神の宮、九箇所に所在せり」と記される内の長門国豊浦郡住吉忌宮とされる山口県下関市にある長門国一の宮 住吉神社と忌宮神社を訪ねた。

 
忌宮神社と豊浦宮跡

  

忌宮神社は、本州の西端、毛利氏の城下町で知られる山口県下関市長府にある。
長府は、古くは穴門と呼ばれた長門国の中心地で、外海の響灘とは関門海峡を隔てた内海に位置し、長門国府などが置かれて九州〜半島に対する古代戦略拠点であった。
垂仁紀に穴門の人伊都都比古、仲哀紀には西征にあたり、穴門直踐立(あなとのあたいほむたち)という人物が登場する。
仲哀天皇と神功皇后の船は「豊浦津」で合流し、皇后は海中で「如意珠」を得たという。
また宮室の「豊浦宮」が置かれた所が、今の長府、古代の豊浦の地であった。
長門国二ノ宮で式内社である忌宮神社は『忌宮神社由緒』を引用すると、「当社は第十四代仲哀天皇が九州の熊襲ご平定のために西下、穴門(長門)豊浦宮を興して七年間政務をとられた旧趾にある。
天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出せられたが、一年にして崩御せられたので、神功皇后は喪を秘して重臣武内宿禰に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯斂(仮埋葬)せられた。
そして皇后は御懐妊中ながら、熊襲を煽動していた新羅征伐をご決行、ご凱旋ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられた。
これが当社の起源である。そのあと、皇后は皇子(のちの応神天皇)をご安産になった。
くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して「忌宮」ととなえ、さらに応神天皇をおまつりして「豊明宮」と称し、「豊浦宮」「忌宮」「豊明宮」と三殿別立の古社(延喜式内社)として栄えたが、中世の火災により中殿の忌宮に合祀したため、次第に「忌宮」の名をもって呼ばれるようになった。」と記されている。
神社は、豊浦宮に付属して斎宮
(いつきのみや)に神祇を祭られたのが忌宮の起こりともされる。
 御祭神 仲哀天皇・神功皇后・応神天皇
神社は海を向かず、旧海岸線に沿った南方、土肥山の仲哀天皇殯斂地を向いている。

 
        
拝殿・本殿              豊浦皇居趾の碑

拝殿下の境内広場には、鬼石が祀られる。
豊浦宮に新羅の塵輪
(じんりん)が熊襲を煽動して攻め寄せ、皇軍は奮戦したが仲哀天皇は自ら弓矢をとって塵輪を射倒し、賊は退散した。皇軍は歓喜のあまり矛をかざし、旗をふって塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが天下の奇祭「数方庭」の起こりと伝えられる。また、塵輪の首を切ってその場に埋め上に石を置いたが、塵輪の顔が鬼に似ていたことから、これを「鬼石」と呼んだという。
社前を通る山越えの一ノ宮路を2km程西に行くと長門国一ノ宮住吉神社が鎮座する。

 仲哀天皇殯斂地

仲哀天皇殯斂(ひんれん)地は、忌宮神社の南方約500m、壇具川を越えた所にある日頼寺(長府侍町)の境内裏山、通称土肥山の北端に位置する。
土肥山の名は、平家追討使となった土肥次郎実平の居館に因むとの説があるが、古くはこの山を「豊浦の山」、縮めて「豊の山」、さらには「トヒ山」と呼んだとも考えられている。
寺の境内右手に参道があり、狭い石段を登った丘上が仲哀天皇の仮埋葬されたいわゆる殯斂伝承地である。拳〜頭大の自然石を環状に巡らせた高さ50cm、径3〜4m程の円形墳墓状の高まりである。

 

     

詳細は不明であるが、寺の観応2年
(1351)の綸旨は御殯斂地であることが確かなものとして、明治35年に指定されたという。(参照『豊浦郡郷土誌』)
なおこのほか、仲哀天皇の仮埋葬伝承地として、長府の北方22km程の所、豊浦郡の中央にそびえる崋山(げざん 713m)の西の嶽(伏拝の峯)の頂上に祀られる「嶽の宮」の地も「仲哀天皇御殯殿靈跡傳説地」とされているようだ。

  豊功神社と満珠・干珠

仲哀天皇殯斂地のある日頼寺の東、北から続いてきた豊浦の浜(今は埋立地が続く)が切れて、海へ突き出た松崎の鼻(字宮崎)の岩壁の上に「豊功
(とよこと)神社」がある。
境内は、重なるように沖合1.2kmに「干珠」、さらに2km程沖に「満珠」の二島が展望できる景勝の地で、二島は忌宮神社の飛地境内となっている。
忌宮神社所蔵の鎌倉後期とみられる「忌宮神社境内絵図」には、興津嶋満珠、平津嶋干珠と記され、江戸期の境内絵図にも満珠沖津、干珠平津と書かれているという。
豊功神社は、明治10年に長府毛利氏の祖先秀元外十二神霊を祀る神社として創祀された社であるが、大正6年に忌宮神社境内より今の地に奉遷され「松崎神社」(村社)に合併されて豊功神社(県社)となったものである。

 

     

もともと鎮座した松崎神社の祭神は、応神天皇で、その創建は建武以前にあり、古くから武門の崇敬が篤かったという。
伝説に満ちあふれた満珠・干珠の島であるが、古来、二島の名称は多く、八雲御抄、枕草子、藻汐草等には、二島をすべて豊浦の島といい、初学抄には豊浦の小島といい、あるいは美知比乃志麻という。
満珠は、沖の島、沖津、興津、淑津、息津、於伊都
(おいつ)、潮満瓊(しおみつたま)などいい、干珠を前の島、邊津(へつ)、倍伊都(へいつ)、潮涸瓊(しおひるたま)などと呼ばれたという。
仲哀紀に(神功)皇后豊浦の津に泊まります、この日皇后如意の珠を海中に得給う、とあることから、如意の珠とこの島との因縁は深く、満干の二島は如意の珠の変化したもの、あるいはその珠をこの二島に収めたものとも伝わる。
神話と伝説・信仰の島として広く親しまれている満珠・干珠の島である。
 
(『忌宮−長府祭事記』参照)


  長門国一の宮 住吉神社

長府の忌宮神社の西方約2km、霊鷲山の北麓を通る一ノ宮路の逢阪峠(70m)を越えた真西の丘に、長門国一の宮の住吉神社が祀られている。
神社の所在地は、下関市一の宮住吉1丁目となっているが、古くは豊浦郡(勝山村)楠乃という地にあたっていた。

 

     

神功皇后の三韓征伐のとき、住吉大神の和魂
(にぎたま)によって王身が守られ、荒魂を先鋒として師船が導かれて無事に戦勝凱旋することができた。住吉大神は再び皇后に、わが荒魂を穴門の山田邑に祀るように誨(おしえ)られた。
穴門直
(あなとのあたい)の祖の踐立(ほむたち)と津守連(つもりのむらじ)の祖の田裳見宿禰(手搓足尼-たもみのすくね)は、住吉大神が鎮まることを望まれる地を必ずお定めされるよう進言した。
皇后は、踐立を荒魂を祀る祭主とし、祠を穴門の山田邑に立てた。摂津国墨江(住吉)にご鎮座の前年にあたり登場する祠とは長門国一の宮住吉神社のこととされている。
 御本殿(国宝) 春日造り風の九間社流造り、応安3年(1370)再建
 ご祭神 第一殿 住吉大神(底筒男命・中筒男命・表筒男命) 荒魂
     第二殿 応神天皇(八幡大神)
     第三殿 武内宿禰命(高良明神)
     第四殿 神功皇后(息長帯比売命)は、奈良時代に
     第五殿 建御名方命(諏訪明神)は、後世に祀られたという。
神社の特殊神事の内、神功皇后が社を創祀の時、神主踐立に命じて旧元旦の未明に南方壇ノ浦で和布を刈りとらせ神前に供えた事に由来する和布刈
(めかり)神事のほか、12月8日から15日の間、神功皇后が住吉大神の教えを奉じて齋宮を立て、自ら斎戒して執り行われたことに始まる御齋祭(おいみまつり)は、厳重な物忌みの中で秘伝の神事として継続されてきたもので、忌宮神社の御齋祭と一体の神事として古くから執り行われてきたのだろう。
関門海峡の対岸(北九州市門司区)には、和布刈神事で有名な和布刈神社がある。



          いこまかんなびの杜