播 磨 国 の 住 吉 酒 見 社



 
播磨国 住吉酒見社

 天平3年(731)の年紀をもち、住吉大社の由来が記された『住吉大社神代記』(重要文化財)には、まず御神殿・神戸・斎垣内の四至のほか、大神の宮(九宮)・部類神(五神社)・子神(二十九神社)の名と所在地が列記されている。

 この中で、住吉大社に極めて関係の深い大神の宮として、住吉大社のほか座摩社(西成郡)・社(菟原郡)・住吉酒見社(播磨国賀茂郡)・住吉忌宮(長門国豊浦郡)・住吉社(筑前国那珂郡)・丹生川上天手力男意気続々流住吉大神(紀伊国伊都郡)・住吉大神社(大唐国)・住吉荒魂(新羅国)の九社が登場する。

この内、三番目に記された住吉酒見社(三前 三烟)は、田中卓博士の『住吉大社神代記の研究』所収「訓解住吉大社神代記」によると「今、加西郡北条町に住吉神社あり。この地、もとの酒見郷なり。式にも同郡に住吉神社の名みゆ。」と注釈されている。
現在の所在地は、兵庫県加西市北条町北条(字垣ノ内)にあたる。

      
                『住吉大社神代記』の一部

『延喜式』には、確かに播磨国賀茂郡八座として崇健神社・石部神社・坂合神社・菅田神社・木梨神社・垣田神社・乎疑原神社と共に住吉神社が記されている。
 播磨国賀茂郡は、現在の加古川を挟んで東西約27km、南北約16kmの加西市〜加東市と小野市を含む広大な地域で、『播磨国風土記』には「賀毛郡」にあった里名として、上鴨・下鴨・修布(すふ)・三重・楢原・起勢・山田・端鹿(はしか)・穂積・雲潤(うるみ)・河内・川合の計12の里と地名の由来が記されている。

 修布里について『大日本地名辞書』(明治33年)は、「北条町 加西郡の首邑とす、酒見北條と呼ぶ、或は云ふ、北條は風土記に修布里品遅部村とある地にして、北條は品遅部の訛なりと。」の説を載せている。
 『和名類聚抄』(平安時代中期)には、賀茂郡に属した郷として、三重・上鴨・穂積・川内・酒見・大神・住吉・川合・夷俘(えみし)の九郷を載せている。
 この中で「酒見郷」と「住吉郷」であるが、『住吉大社神代記』の大神の宮の一社として記される住吉酒見社が、酒見郷にあったことについては異論は無い。

「住吉郷」については、賀茂郡の東半、後の加東郡一帯に多数の住吉神社や住吉神を祀る神社が存在し、住吉大社の重要かつ広大な杣山神領地域であった「播磨国賀茂郡椅鹿山領地田畑」との関わりを考えてみると、小野市の垂水に鎮座する住吉神社が式内社であった説が有力であることに加え、加古川へ合流する東条川(椅鹿川)の下流域に「住吉」・「船木」などの地域が存在することから、一帯が住吉郷であったと考えている。
 なお賀茂郡は、早くから加古川を挟んだ西が「賀茂西」、東は「賀茂東」の二郡に分かれ、さらに貞和4年(1348)の『峯相記』の書かれた頃には、すでに加西郡・加東郡の名が登場していて、郡の名称が変遷してきている。

 北条の住吉神社について

 加西市の北条町は、北方に中国山地の裾山が迫り、瀬戸内海から20Kmほど内陸に位置する町で、西方は神崎郡福崎町を姫路市方面(飾磨浦)へと南に流れ下る市川と、東方は社町を南流する加古川との中間に位置し、加古川右岸の支流である万願寺川・下里川に挟まれた丘陵地の谷合に古くから交通・商業の要衝として栄えてきた町である。
 中世以前は、住吉神社と酒見寺の門前町・市場町として、さらに丹波・丹後・但馬・あるいは山陰・山陽方面へ通じる西京街道の宿場・商業の町として栄えてきた。
 現在は市街地の北を中国自動車道が走っている。また住吉神社の東にある北条町駅まで小野市粟生駅からローカル線北条鉄道が通じている。

     
               北条町(国土地理院より-昭和23年)

 古い歴史のある北条町の住吉神社は、街道に南面して、東には天平17年(745)に行基の開基伝承を持つ酒見寺(真言宗)と社寺一体となり鎮座している。 古くは播磨国の第三の宮と称されていた。
 街道に面した大鳥居をくぐると両側に門麿社があり、白い小石で清められた広い境内中央には周囲約30m、高さ1m程の「勅使塚」と呼ばれる土饅頭があり、毎年節句祭りの夜には頂上で「鶏合せ」の神事が行われる。
 大きな石灯籠一対の背後には立派な拝殿があり、左右に接続させて方形に廻らした一段高い石玉垣の内には、さらに瓦葺板塀状の瑞垣で囲まれて比較的新しい幣殿(大正5年)があり、奥には石積で一段高くした社壇上に切妻造りの大きな本殿3棟が東西に並ぶ。

    
                    南より
 
        勅 使 塚                南西より
   
                    南東から

『加西郡誌』(昭和4年)から、ご祭神や神社の由緒について参照すると
 中社殿 底筒之男命・神功皇后
 東社殿 中筒之男命・大歳神
 西社殿 上筒之男命・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
と記され、この内東社殿の大歳神は、北條町黒駒にあった大歳神社を、西社殿の応神天皇・仲哀天皇・神功皇后は、富田村西上野にあった八幡神社をそれぞれ明治42年に合祀したという。したがって、住吉神社は古くから住吉三神と神功皇后を祀ってきたことになる。
『加西市史』によると、住吉造りを真似た桁行四間、梁間一間の大きな本殿の建立年代は、嘉永5年(1852)に上棟された建物で、石玉垣の四隅外側には各々小さな社殿が付属し、東南隅が一王子、西南隅が二王子、西北隅が三王子、東北隅は直毘社(なおびしゃ、古図では妙見社)と呼ばれ、古図にはさらに酒見社の東に四王子、五王子が並んでいる、と記されている。
      
           
住吉神社と酒見寺配置図(『加西市史より』)

『加西郡誌』には、一王子神社(祭神底津綿津見神)、二王子神社(祭神中津綿津見神)、三王子神社(祭神表津綿津見神)、直毘神社(祭神神直毘神)との祭神名が記されている。
 神直毘神は、伊弉諾尊の穢れの禍いを治そうと生まれた一神であり、三つの王子社の綿津見三神は、続いて海潮で禊祓いをした時に住吉の神である筒之男三神と共に生まれた神々で、海人族の安曇(あづみ)氏族の祖神として祀られる神である。

 
        
神 輿 舎               白髭社(左)と粟島神社

      
              
  御本殿の背後から

 さて、境内広場と拝殿の西側にかけて、南から二基の立派な神輿が納められた神輿舎、白髭社、通路の北には拝殿覆屋を設けた粟島神社(少彦名神)が南を向いて祀られている。また、本殿背後の森には稲荷社が祀られている。
 播州三大祭の一つとして有名な神社の祭礼として、毎年4月第1土曜日・日曜日に北条地区の東郷・西郷に分かれて神輿2基・化粧屋台14基が出て盛大に行われる「節句祭」がある。
「浦安の舞」や「龍王舞(ジョマイ)」が行われるほか、本宮の最終を飾って、「勅使塚」の上では平安時代からの伝統を受け継いだ「鶏合わせ神事」が行われる。昔は、神輿の還御の際は、神事の前に勅使塚の上にまず神輿を奉安し、その前で龍王舞が行われたという。

 
                   酒 見 寺


 
『峯相記』に登場する酒見大明神

 ところで、『峯相記』には「次に酒見大明神ハ」の書き出しで、神社の由来について次のような興味深い伝説を記している。(以下私訳)

 養老6年(722)、住吉大明神と五所ノ王子は当国に入坐され、まずは上鴨西條鎌倉の峰に顕現された。付き従っていた佐保明神は思う所があり、この峰は宜しくないと三重の北條へと誘い込み、鴨坂北谷石上で休息されている隙に、佐保明神は神宝(御裹)を盗みだして、賀東川の東へと逃げ去った。佐保明神を追いきれなかった王子は怒りに触れ、遠くへ崇め祀られることになった。
 ここに山酒人という者がいて、門田六町の田に稲を植えようとした日、門内に突然槻の木が生えてきたが、そこに白髪の老翁と貴女と若君三人がそろって現れて、御宿を借りたい、我らは摂州住吉の地から参ったと仰せられた。
 山酒人は、その一行のご容姿が凡人では無いことから、仰せに従って御宿としてお貸しした。酒人が植えた稲の苗は、一夜にしてすべて槻の木となった。 山酒人は、その林の中に御宝殿を造って両大明神を崇め奉った。社の形式は、住吉本社の風儀に従った。山酒人の子孫は神主職として奉仕した。住吉は本地が高貴徳王菩薩、酒見は十一面観音である。
 毎年四月の初丑の日には、餝万津(しかまつ)へ御祓いのため(神輿が)出御された。後世は田原川へと出御されることになった。鈴の森の地である。現在は社頭の南方にある常滑へ出御されている。氏人・神人・僧侶らが出御に奉祀している。祝谷で御神遊される。御車は石で出来ている。数百年使用し壊れたものが今も残っている。そこは車谷と呼ばれる。
 第一代神主であった山の光時の代、長暦元年(1037)に神殿が焼失した。長久・承保・嘉承・永久の頃には国司らから度々のご寄進を受け、田園は四十余町にも及んだ。保安三年(1122)三月三日に鶏合せが始まった。国中では第一の神事で見物である。・・・・・・以下略・・・・・。
との創祀以来の伝承を載せている。

 この中で注目したいのは「御宝殿を造って両大明神を崇め祀った」「住吉は本地が高貴徳王菩薩、酒見は十一面観音である」の箇所である。
 すなわち『住吉大社神代記』の始めに「大神の社」の一社として記される「住吉酒見社」とは、三前と記されているが、住吉大神と酒見大神を祀る社だったと考えられる。

 上記の『峯相記』と『加西郡誌』に記された神社由緒記とは内容がかなり異なっている。神社や寺院に残る旧記等が元来のものとして由緒大要を解説している『加西郡誌』(「」)の方は、
 @   養老六年(722)を「養老元年(717)」のこととしている
 A   住吉大明神とあるのは「老翁・老媼の神」と記している。また神宝を盗んだ佐保明神を追い切れなかった王子は「第四と第五の二王子」と明記し、川が増水して川東へ渡れなかったとの理由が付いている
 B   白髪の老翁と貴女と若君三人は「白髪の翁・媼と三人の貴人」となっている
 C   山酒人が林の中に御宝殿を造って両大明神を崇め奉ったという個所は、「酒人は四月卯日その松の林の中に神殿を造って祀り、酒見大明神と名付けて長く国家の鎮守として崇めた」と記している
など、相違している個所や修飾・加筆がみられる。
 恐らく『峯相記』をもとに神社等の由緒が作り直され、改められていったのではないかと想像する。
 また、佐保明神を追いきれず怒りに触れた王子を祀る神社であるが、酒見寺のすぐ東南の大信寺の裏側に、祭神四王子命・五王子命を祀る磯部神社(字江ノ木)が鎮座している。

 
         
                    磯部神社と扁額

 拝殿の扁額には、磯部社と岩崎大明神の名が刻されている。『加西郡誌』にも簡単な説明が載せられているが、『酒見寺記』には「駆逐する所の三神子、その一は在田磯部の祠、二神今本殿北に別斎す」と記しているという。王子は三神子とする伝えもあるようだが、『峯相記』には何人の王子であったかは書いていない。
 さらに同記によると、はじめ酒見社の神輿は、陸路または市川の舟を利用して、遠路25km南方の餝万津すなわち飾磨の湊へ御祓いに出御した。その後、西方7kmの神崎郡に入った市川の河畔近くの鈴の森(福崎町)へと御祓いに行ったとある。
 古代の餝万津の場所は不明であるが、市川河口域の地形は大きく変遷してきたことを考えると、妻鹿(めが)辺りではなかったかと想像している。いわゆる「浜降りの神事」が行われていたことが判る。
 また鈴の森は、福崎町田原の辻川山のふもとに民俗の森として整備されて、柳田國男生家や民俗資料館と並ぶ「鈴森神社」があり、近くには旧鎮座地と伝える古宮の巨岩もある。

      
                   鈴の森神社

 祭神は、彦火瓊々杵命・天児屋根命・太玉命・大山積神を祀り、『播磨の伝説』(大正7年)に、大己貴尊が峯相山から宍粟(しそう)郡へ遷座の時、播磨の国のありとあらゆる神々がこの森に集まり、その時、神鈴が絶えず森を鳴り動かしたので鈴の森の名がある、との伝承を伝えている。
 『峯相記』が書かれた鎌倉時代には、すでに御祓いは北条から南方3.3km程南に行った近くの常滑へ変わっていたことを記している。
 この常滑は今の鎮岩(とこなべ)で、下里川沿いにある「潮の井」別名「ブツブツ」さんと呼ばれる所である。
 ここには、小さな堂と何時造られたか不明であるが、数段の石段が付設された石積み長方形の潮の井があり、神輿かつぎの人達は、現在もなおガス泡の出る聖水につかって水垢離を行っているといわれる。
 『加西郡誌』には、鎮岩の地名について一書(漢文)には、少彦名命が紀伊国熊野へ行かれたとき大己貴命の事を思って熊野の海から潮を汲みこの潮の井に送り続けている、潮の井は朝夕満干がある、との由来を載せている。

 
       
                  鎮岩にある潮の井

  
住吉酒見社を祭った山酒人と醸酒

 さて『加西郡誌』の住吉神社の解説は、かなりの紙数を考察にあてている。 中でも注目されるのは、山酒人・山氏に関連して『播磨国風土記』に景行天皇の時代の話に登場する、賀毛の郡の山直(やまのあたい)らの始祖息長命またの名は伊志治という人物に注目し、
「息長命、一名伊志治は大中伊志治とも云ひ、出雲臣比須良比売を妻とし、賀毛郡の山直の祖となった人で大中はオホキナカで、息長と同語であると云ふ。その息長命を祖とした山氏が当神社を創祀し山氏の子孫代々が当神社の神主であったことは当神社の古記録にも見えて居る。その山氏が何によって当神社を「酒見」と號けたか、『地名辞書』にも「酒見と名つくる所以を詳にせず」とある通り、今猶確には知るを得ないが・・」と記している。
 『播磨国風土記』には、賀毛郡楢原里玉野村の根日女命の説話の中にも「山部小楯」の名が登場し、山直・山部が広大な賀毛郡一帯の山を管理していたことが考えられるのである。南東2.4kmには古墳時代中期〜後期にかけた史跡玉丘古墳群があり、全長109mを測る前方後円墳である玉丘古墳は、針間鴨国造の墓と推定されている。

 
                   玉丘古墳群
        

 また『加西郡誌』でもう一つ注目したいことは、
「酒見社の名は、サカミ・サカヒ、音相通じるから延喜式に「坂合神社」とあるのが当神社[*北条の住吉神社]の事だと云って居る、即ちサカミがサカイとなりサカアヒと記されたものだと云う」
と指摘するほか、「延喜式にある[*賀茂郡]坂合神社は、今の加東郡社の佐保神社がそれであると云ひ、佐保神社は初め「境の神」と称し、その境を二字に改め「坂合」と書いた。それが後に「佐加穂」となり更に「佐保」となったと云って居る。
 その佐保神社は、垂仁天皇二十三年の創祀であると伝えており、鎌倉峰から御遷座あったものだと云ふ。・・・」「その佐保神は当住吉神社の従神で、ともに鎌倉峰即ち今の加西郡多加野村河内の普光寺山に降りられた神であることが当(*北条の住吉)神社記にも佐保神社記にも他の書にも明記されてある。
 また当住吉神と佐保神とは御同体であると伝へて居る書もある。これらによって当神社と佐保神社とは深い関係のあることが知り得られる。」
とも記している。
 さらに、もとは北条住吉神社の境内地であった北条坂合町(寺内村)には、式内社とされる坂合神社の小祠があることを指摘し、「この坂合神社は、山直氏の祀った旧祠の趾を後世に証するための小祠ではなかろうか。今の坂合神社は人家の裏手にあり極めて貧弱な小祠であるが・・・・。或は当住吉神社は、初め今の坂合神社のある所にあって、その当時は「坂合神社」と称していたのを、山酒人が現地(由緒記に謂う松の林の中)に新に社殿を造り遷し祀って、その新神社を「住吉酒見神社」と改称したのではなかろうか。・・・」と記していることは大へん興味深い。
 その坂合神社の小祠であるが、未だ現地を確認していないが、『兵庫県神社誌』(昭和13年)にも「当社(*住吉神社)附近の街路を現今も坂合町と呼べり、而して坂合町内の坂合家の裏庭には往古より祀り来ると称せる坂合神社あり、社は二尺四方にして三尺の高さある石台に安置す」との補足説明がされている。

  逃げた佐保明神は今の佐保神社?

 ところで、神宝(御裹)を盗み出し賀東川の東へ逃げた住吉大明神の従神の佐保明神であるが、北条の住吉神社の東方約12.5km、加古川のすぐ東側、三草川の南の丘陵西端に佐保神社が鎮座している。
 この地は、加古川左岸の支流=千鳥川へ三草川が合流する地点にあり、但馬・丹波・播磨灘・明石方面ほかへの交通の要衝にもなっている。社町の名は神社に由来している。
 この辺りはもと賀茂郡域の中央部にあたり、東北方から南方の山間部・丘陵一帯には多数の住吉神社が祀られ、住吉神の世界が広がっている。
 式内社の中には佐保神社という社は無いが、この神社はもと式内社の「坂合神社」であったとも伝えている。

 
                   佐 保 神 社

『加東郡誌』(大正12年)には
「 縣社 佐保神社 社町社字宮ノ前777番地
 一、祭神 左殿(東) 天照大神 
      中殿(中) 天児屋根命   (三座)
      右殿(西) 大己貴命
 一、由緒 当社は元坂合神社と称し、延喜式所載の神社なり。
 はじめ加西郡鎌倉峯に天降り住み給ひしが、後、針間鴨国造の苗裔阿部三郎太夫に神託ありて、現在の社地へ遷り來ませるなりと云ふ。垂仁天皇二十三年の創立にして、元正天皇養老六年(722)御遷座の説あり。・・・・
 平安朝末期より源平時代に亘りて、神威頗る隆盛、社頭大いに整備して、郡内第一の大社となれり。されば、国内神名帳には当社を特に太神の部に掲げ、郡内随一の名刹御嶽山清水寺の鎮守六所の中には、佐保三所を勧請するに至れり。・・・いつしか加東郡における惣社の格とはなれり。・・・
 御祭神に就いては古来学者間に異説ありて、或は酒見大明神の従神と説ひ、或は住吉大神と御同体なりと謂ふ、鴨国造の祖かといふもあれば、坂合部氏の祖神夜麻等古命と書けるもあり、されど何れも未だ考證を究めざるを以て、社記並に明細帳に従ふより外なし。[佐保神社誌抜書]」
と記されている。
 同掲の[佐保社神記]には、北條の住吉神社近く坂合町(寺内村)邸内に祀られ式内社とも伝わる坂合神社小祠を取上げ、岸田氏が邸内に佐保神社(坂合神社)から勧請したものだと、佐保神社が式内社坂合神社である正当性を記す。

 佐保神社の境内には、随神門・弊殿・拝殿、その奥には延享4年(1747)に再建された正面千鳥破風三間社流造りの本殿があるほか、境内社として恵比須神社・諏訪神社・八幡神社・神明神社・愛宕神社・金比羅宮・稲荷神社・先宮社・天神社などが祀られている。
 『社記』などには、「加茂郡由羅野カ原境の神社」とか「由良野丘」と記されていて、一帯が由羅(良)野と呼ばれていたことが判る。
 『峯相記』では、住吉大明神から神宝(御裹)を盗んで逃げた従神であったのに対し、佐保神社『社記』では、垂仁帝の時代に地元の老大家であった阿倍三郎太夫が神託を受けて、現在の社地へ遷座させて「境の神」として祀ったという、全く事件性の無い話となっている。
 現在の祭神は、住吉大明神の従神「佐保明神」とは考えにくいが『峯相記』に記される佐保明神が、本来は「境の神」「坂合神」であったとすると、北条町・社町の二つの坂合神社のどちらが式内社であったかどうかの問題もあるが、境または堺を守護し、斎祀る神とは、はたして如何なる世界の境または堺を護るための神であったのだろうか。

  
住吉大社の杣山神領地と境の神

 『住吉大社神代記』の中には、播磨北部の山間部にあった広大な住吉大社の神領「播磨国賀茂郡椅鹿山の領地田畑」が記されている。
 広大な杣山地などで占められる神領地は、もと船木連宇麻[呂]・鼠緒・弓手等の遠祖である大田田命の子の神田田命らの所領九万八千余町であった。
 息長帯姫命(神功皇后)の世に住吉大明神に寄せられた神領地である。
 その神領地の範囲つまり四至の西を限る地名として「猪子坂・牛屋坂・辛国太乎利・須須保利道・多可・木庭・乎布埼」の地名が記されている。
 この内「須須保利道」の須須保利については、「辛嶋恵我須須己利」の名で登場する渡来系氏族と同族であり、田中 卓博士は、脚注で「古事記に須々許理、日本決釈に須曽己利、姓氏録に曽々保利と見え、造酒の才あり。賀茂郡酒見郷の住吉酒見社に縁あるべし。今の加西郡北条町なり」と指摘されていて、ここに重要なヒントが隠されているように思う。
 『古事記』の応神天皇の代、百済から受け入れた多数の優れた渡来氏族の中に、酒を醸す技を熟知した仁番(にほ)、またの名を須須許理らの氏族名が登場する。
 また『姓氏録』右京皇別の酒部公の説明に、先祖は仁徳天皇代に韓国から渡来した曽曽保利の兄弟は酒造の技にすぐれ、酒看郎子(さかみのいらつこ)、山鹿比唐燻看郎女(さかみのいらつめ)の名を賜った、よって酒看郎(さかみのいらつこ)を氏の名前とした、との内容が記されている。異本では酒看都子となっているらしい。酒看は酒見に通じる。
 こうしたことから、播磨国神崎郡に接する賀茂郡の西端、すなわち椅鹿山神領地の西境(堺)にあたっていた北條の地は、山氏一族の支配下で、酒を醸す技をもった須須保利一族、後の酒看郎一族らが居住する酒見の集落として栄え、境にも意味が通じる「酒看」は「酒見」とも書いて、住吉大社の聖なる神領を外部から侵犯されないよう祓い浄めるため、広い神域内に住吉大明神と酒見明神の社を近接して祀った神社、すなわち『住吉大社神代記』に「大神の社」として記される「住吉酒見社」であったのだろう。
 酒見明神というのは、神領を外敵から守る境の神つまり坂合神社であったと考えられる。

  佐保明神が盗んだ神宝のこと

 最後になるが、『峯相記』に従神の佐保明神が盗んで逃げたとされる神宝(御裹)とは、いかなる宝であったのだろうか。「裹」の字は音が「カ」、訓では「ツツム」「ツツミ」「タカラ」などと読むらしい。
 社記等では、境の神・式内社坂合神社を主張する社町の佐保神社であるが、東北12.4km離れた加東郡鴨川村平木(加東市平木)にそびえる御嶽山(標高525m)上に、欽明天皇の代あるいは推古天皇の代に法道仙人による草創、郡内随一の名刹といわれる清水寺(天台宗)の盛衰と深い関わりがあったようである。 『加東郡誌』所収「神崎兵部撰佐保大明神社記祓書」には、
 大同年間(806-809)、法道仙人草創の五嶽山清水寺を開基の際、荒れた山を容易に開くことができなかったため、佐保三社大明神に寺の開基の守護を祈るため千日の祈願をしたことから、難なく山を開くことができ、清水寺根本堂の左に社を建てた。
 現在も寺僧が3年3ケ月にわたる山籠りの時はこの社に日参し、千日行法の結願の時は「本宮坂合詣」といって佐保(坂合)神社へ社参する慣行であった、という内容の記録があり、佐保神社と清水寺とは深い関係でつながってきたことを示している。
 同「社伝」には、もと佐保神社境内の西南隅の低地に「神宮寺井戸」と呼ばれた大きな古井戸があったが、付近は寺屋敷と呼ばれ、往古御嶽山清水寺がこの地に神宮寺を建てたがその後荒廃した、と記されていて、佐保神社が長らく清水寺と深い関係で繋がっていたことが考えられる。
 その清水寺のある御嶽山は、住吉大社の「椅鹿山の領地田畑」と記される杣山神領地内の東寄りに位置しており、すでに『住吉大社神代記』の中には、古くから斎祀ってきた御神山に、時として乱入する公民らが神山の木を切り取り、山地をふみ穢したため、大神は杣山を焼き滅ぼし三ケ年燃え続けた、・・・・・四至の堺を定めて(*船木氏より)寄進された
との内容が記されている。
 これに対し『加東郡誌』所収の清水寺「記文」中には、人皇12代景行天皇より嶺の四隅一里の地は、法道仙人に与えられ御嶽と呼ぶことになり、十五代神功皇后の異国征伐の時には住吉大神が御告げに立たれ、勅使はこの峯の護りを法道仙人の加持の力を頼りとすることになった、との内容が記されている。 魚澄惣五郎氏の『古社寺の研究』「播磨清水寺文書に就いて」の中には、平安時代末期頃から地元住吉社家との間で、寺領と神領地の境界をめぐる確執訴訟が続き、鎌倉時代中期以降は、断然寺運の隆盛に圧され、自然と住吉社家もそれに属するかのようになった、と指摘する。
 広大な住吉神領地を守ってきた地域の社家にとどまらず、賀茂郡で大神の宮として中心的な位置を占めてきた北條の住吉酒見社、もと境の神あるいは式内社の坂合神社・惣社と主張する佐保神社など、神社相互の力関係、神領地域の守護保全の上で大きな影響を及ぼすことになったに違いない。
 『峯相記』に住吉大明神の従神でありながら、佐保明神が隙を狙い盗んだという「神宝(御裹)」とは、まさに神領の境に祀られていた境の神・坂合の神であったのではないだろうか。

(2018.9.16)


             いこまかんなびの杜