多 田 と 住 吉 の 世 界


 
             多田荘平野湯 ・ 多田の湯浴室 『摂津名所図絵』 より



[多田と住吉の神霊]

大阪と兵庫の府県境となっている猪名川沿いを少し川西市の山間部に入った所に、源家発祥の地とされる多田の山里が広がる。
ここは摂津国河辺郡の東北部に位置し、多田で大きく屈曲して流れる猪名川の北岸には、清和天皇の曽孫源満仲(法号満慶)と子頼光の御廟と、頼信、頼義、義家を合せて祀る源氏の祖廟多田神社(元多田院)がある。
境内西側には、多田庄の総社として住吉大明神、稲荷大明神、天照光大神、賀茂大明神、春日大明神、熊野権現を祀る六所宮が鎮座する。

多田の地が多田荘として源家発祥の地となったのは『摂津名所図絵』に次のように記している。

ある時、満仲が住吉明神に参籠し、七日七夜祈念のあと靈夢に従って多田の地に赴き九頭の毒蛇を平らげ、天禄元年(970)三月十五日に多田荘に入城した、この城を新田城と名付けた。城の二十四町西に一寺を建立し、法華三昧院(鷹尾山法華三昧寺多田院)と名づけた。多田の地は住吉大明神より授与された霊場なり、と記していることは注目される。

 
        多田神社(多田院) 猪名川の南より             六 所 宮


このあたりの経過は『多田五代記』に詳しく記されている。千余人の武士らを引き連れた参籠は康保五年(968)春二月のこと。拝殿で祈念を続けていたある夜中、神殿の扉がきりきりと鳴り、位官正しき老人が声を出して示現して、王法守護のため住所を求める志が深いため矢を授与する、虚空に向いて射れば必ず住所に落ちるので、その地を尋ねて住居にするようにとの神勅を受け白羽の矢を射ると雷のような音を鳴らして北を指し、五月山より戌亥の小深い谷陰に光を放って落ちた。

満仲は、猪名の奥へと駒を進め、岩山を上った峰の松下に庵があって、出てきた老僧に矢の事を尋ねた。老僧は山の麓の谷には千尋の池があり、その池には近寄った人を呑みこむ九頭の大蛇がいる。去る明け方、空から光物が飛んで来たが、大蛇は山も崩れるばかりの声をだし、山を突き切って水は流れ去って平地となったという。これによりその地を矢問村と名付けられたという。

その後、満仲は麓に下って見ると、巨大な毒蛇の九頭の角の間に矢が刺さり心臓を貫いていた。首を切り九頭明神と祝い祀ったという。水が引いた跡は多くの田の様になったので多田と名付け土地を整地して家を建て新田城を築いたという。


 [多田荘平野の湯と住吉神社]


ところで、多田の地は、現在能勢方面~篠山に通じる国道173号線と妙見口あるいは日生中央へ通じる能勢電鉄が平行して走っている。多田駅の次はすぐに平野駅で、ここから北の一の鳥居駅との間は谷口が狭まり、能勢方面への入口となっている。
道路と線路に挟まれ、山下方面から流れ下る細い谷川が流れる。この谷川の名は塩川と呼び、東側には広くフェンスで囲まれた三ツ矢サイダーの工場跡地があるが、奥の谷口にある小高い所には、サイダーの製造に欠かせない炭酸ガスを含んだ源泉を汲みあげる三ツ矢塔が移設復元され、狭い丘上には明治30年に三ツ矢平野水と呼ばれた宮内庁御料品製造の建物跡(三ツ矢記念館)が残されていて、その奥に探していた住吉神社の小祠が祀られているのを確認できた。
アサヒビール(株)の説明板には、
この神社は「平安朝のころ清和源氏の祖源満仲によって創建されたと伝えられています。源満仲が、当地平野で湧き出る鉱泉水を発見して薬用に利用したところ、たいへん効能があったことに感謝して、日ごろ信仰している
摂津一の宮の住吉大社から住吉大明神を勧請したのが、この神社のはじまりであると言われています」とあった。

  
 奥が三ツ矢塔(手前は工場跡・右は能勢電鉄、左は国道) 三ツ矢塔の丘上にある住吉神社(後ろ崖下は塩川)



現在も神社下の塩川河岸や工場跡地から鉱泉が湧出して硫黄の様な臭いが漂っている。

ところで平野の住吉神社と鉱泉であるが、『摂津名所図絵』に「多田荘平野湯」として景観図が描かれ詳しい説明が載せられている。

「平野湯本町の中間にあり、浴室の廣さ方五丈許、中を隔て男女を分つ、後に釜あり 是より薪を焚て温湯とす・・町の北に薬師堂あり、其岸の本より水勢沸々として霊泉湧出す、其色鶏卵を解たるが如し、上に釣瓶を設てこれを汲上げ、かけひより浴屋へ流れ通ふ、これを湯にして諸人浴す・・入湯の旅舎両側に建ならびて壹町余あり、家数二十四戸、何れも素簾に座鋪を設て諸方の客を宿す・・・
それ平野湯は・・・・多田荘の山中に金山ありて金取坑所々にありその脈ここに通じて水精露れり、全き冷泉にもあらず完き温泉にもあらず其中間にして湧出する事滔々とたり、味は醎く渋味を帯たり これを焚火して湯とし入浴す・・里諺日ふ、もとこの金泉は始め源満仲公神明の告によって感得し給へるより湧出、次中頃洪水に山崩れて滅び、また現れあるいは隠れし事数度に逮ふ・・」とある。

今は往時の面影を全く失っているが、絵図を見るかぎり名所湯の町として大いに繁栄していたことが想像できる。
絵図には薬師堂と塩川岸の湯口、対岸の住吉神祠も記録されている。丘上に「住吉」と書いて本殿建物を、石段の途中に「古社」と記す謎めいた神祠を描いている。

     
               『摂津名所図絵』に描かれた平野の湯と住吉・古社



 [多太神社と平野大明神]

もう一つ、平野の地には延喜式内の多太神社が鎮座している。平野駅の南西手前、国道173号線の信号を西に入った所に鎮座する。

延喜式内社であるので、満仲が多田荘に入る前の古い時代から平野の地に鎮座していた神社ということになる。山ろくの広い境内に拝殿と覆屋に護られて、大きな春日造らしい本殿が南を向いて鎮座する。
『兵庫県神社庁』の神社データでは主祭神が日本武尊、配祀神として大鷦鷯尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀るという。

社前の説明板によると「その建築年代は、内陣厨子内小箱の墨書により元禄六(1693)の造営であることが確認される。・・・ただし背面の蟇股や脇障子の欄間などに桃山風が認められる。記録によると天正六年(1578)にも再建されたことがわかるので、これはその際の遺材であろう」という。
本殿の右には、元禄九年
(1696)平野大明神と刻んだ石灯籠一対のある「北摂七福神 福禄寿」の木札を掲げた神社があり、本殿左側にも正徳五年(1715)摂津多田庄平野社御寶前と刻む石灯籠一対のある天照皇太神宮・八幡神社・春日神社の三神社を三間社として祀る境内社がある。
『神祇志料』には、「多太神社 今多田庄平野村にあり、仍て平野明神と云ふ」とある。太田亮著『日本国誌資料叢書 摂津』を見ると、多太神社の祭神を大神氏の祖である大田田根子命あるいはその祖廟とする史書が多いのが注意される。これは多田の語源がタタにつながると考えられてのことだろう。

ところで元禄14年(1701)に完成した『摂陽群談』には、河辺郡の「平野湯」と「平野神社」について次のように記している。
「平野湯 川辺郡平野村祭神平野の社鳥居(原文は衡門)の下にあり、土俗の伝にいわく、往昔の温泉山なり・・・・・・・・」。
「平野神社 同郡多田庄平野村にあり、社家記に云く、山城国葛野郡平野社に同じ、祭る所四座也、載せる所は延喜式神名帳河辺郡の多太神社とす、公事根元に云く、山城国葛野郡平野社四坐今木の社は日本武尊、久度社は仲哀天皇、比咩の神は天照大神、古開の社は仁徳天皇、都て四座也と云々、多田満仲公艸創の姓神たり」と記している。
つまり、京都の平野神社と同じ祭神四座であり、延喜式内の多太神社とする。多田源氏の祖の満仲が創祀した氏神である、ということになる。

しかし、現在の多太神社は、平野湯跡の下方に位置している。

 
     
式内社多太神社の拝殿         本殿両横境内社前の平野大明神と刻む石燈籠



『神祇志料』に平野大明神とし、平野大明神と刻む燈籠などのある現在の多太神社は、摂陽群談の説明とは合わない。

『摂津名所図絵』(寛政8年[1796]以降に刊行)に、谷口にあった「平野湯口」の丘上に「住吉」・「古社」と記される二社の存在が確認できるが、後世に多田荘平野の発展に伴って神社の整理移転と整備が行われたと考えると、謎めいた「古社」が平野神社あるいは式内社の多太神社であった可能性もある。


 [多田 と 田田邑]


多田の地域が源氏発祥の地となったのは、源満仲が住吉大明神の神意に導かれ、九頭の大蛇が滅ぶと共に、池水の引いた跡は多くの田の様になったことから、多田と名付け、新田城や多田院を築いた多田の地は、住吉大明神より授与された霊場なりと伝えていることも大変重要である。

さて、多田の地と住吉大社の歴史とを繋ぐ手掛かりは、当然のことであるが『住吉大社神代記』の中にあった。

神代記には、生駒神南備山をはじめ葛城や北摂方面のほか、播磨にかけた広大な神領地などを本記として四至や由来を記録している。

その中で大阪府と兵庫県両府県境の北部にまたがる「河辺郡の為奈山(別名は坂根山)」の東に存在した「豊嶋郡の城辺山」神領地の文中に「塩川」「田田邑」などの地名が次のように登場する。


 豊嶋郡の城辺山 

四至(東を限る、能勢国の公田。南を限る、我孫ならびに公田。西を限る、為奈河・公田。北を限る、河辺郡の公田。)
右の杣山河の初まりは、昔、橿日宮の時代に神功皇后が(住吉大神への)供神料として寄せ奉られた所の杣山河である。はじめ偽賊土蛛がこの山の上に城と堀を造って居住し人民を略奪していた。軍大神(住吉)がことごとく亡ぼされ、大神の杣地として支配された。その山の南には広大な野があって意保呂野といった。
山の北には別に長尾山がある。山の嶺は遠くまで続き、長尾と呼ぶ。(城辺山の)山中には辛き水が流れ、塩川という。河中には塩泉が湧出ている。豊嶋郡と能勢郡との中間にこの山があり。
(城辺山と名付けたのは、土蛛の城との界にあったためである。) 山中に直道がある、天皇が丹波国に行幸して還り上られる道である。
広い郊原があり、百姓は谷を開いて耕し、そこを田田邑と名付ける。
(私訳)

ところで、文中の塩泉の湧き出る塩川とは、猪名川(為奈川)が大きく屈曲する多田駅の西側で能勢妙見山の南ろくから流れ下って合流する細い川を塩川と呼び、合流店の少し北にあたる平野の湯跡と住吉神社の所在地は、まさに河中から塩泉が湧き出る地点として符合する。
また田田邑の場所は、まさしく多太であり多田の地である。多田は河辺郡の端に位置しているが古くは猪名川を境にして以東は豊嶋郡域であったと見てよさそうで、その呼称は源氏の時代を越え相当古い時代に遡ることは間違いなく、住吉大社の一神領地として住吉大神の祭祀と大きく関わる杣山河地域であったことが分かる。
なお、神代記には他にも「為奈河・木津川」など北摂山系の神領地の興味深い由来を記しているが、これについては改めて検討することにしたい。

 [2010.10.1]


       いこまかんなびの杜