但馬国養父郡と住吉の世界
但馬国にあたる兵庫県の北部、日本海へ流れ込む円山川の河口から南へ約30kmほど遡った中流域にあたる養父(やぶ)市の中心地、八鹿(ようか)町周辺にも住吉大神の世界が広がっている。
一帯は、西方に聳える妙見山(標高1139m、式内の名草神社が鎮座)から氷ノ山(標高1510m)山系の水を集める小佐川と八木川の二支流が合流して円山川へ流入する古代の養父郡の中心で、両支流域は狭いながらも奥深くまで豊かな水田地帯が形成されてきた。
一帯には群集墳が多数分布するが、円山川の河谷を北へ出れば、但馬国府や国分寺があったとされる豊岡市日高町(旧気多郡)が近く、反対に南へ川を遡ると但馬の玄関口で与付土川・東河川・糸井川などの河川が円山川へと合流する和田山一帯[旧朝来(あさご)郡]には、多数の中~後期群集墳のほか、但馬地域の首長墓とされ多数の遺物が出土した城の山古墳(前期・円墳)と但馬最大の前方後円墳の池田古墳(中期・全長141 m)がある。
『延喜式』神明帳には、養父郡の神社として三十座が記され、但馬国内では最も多い。『和名抄』には、養父郡の郷として糸井・石禾(伊佐波)・養父・軽部・大屋・三方・遠屋・養耆(也木)・浅間・遠佐の十郷があったことを記しているが、支流の小佐川流域が遠佐郷、南の八木川流域は養耆郷にあたっていたとされる。
八鹿町の円山川左岸には上・下網場(なんば)村があり、古来山陰道とつながる舟運の船着場として栄えてきた所といわれる。
また、下網場には鳥取氏族の祖神天湯河板挙命を祭神とする式内和奈美神社が鎮座し、記紀の垂仁天皇の時代に、天湯河板挙命が鵠(クグイ)を追い求めて捕えた和那美の水門あるいは但馬の地とは当地であるとの伝承が残る地でもある。
さらに近くの朝倉付近から八木川流域(朝倉庄・八木荘)にかけて中世朝倉氏の先祖とされる日下部氏の本居として栄えてきた遠佐郷の地域でもあり、周辺地に住吉神を祭祀するに至る大きな理由の一つであったように思われる。
八鹿町舞狂の住吉神社 (養父市)
ところで、網場の東方対岸に聳える舞狂山の斜面にある舞狂(ぶきょう)集落北側、字ミセノマエに住吉神社が鎮座する。
西を向く石鳥居をくぐると、整理された境内には、南面する拝殿と覆屋の中に板張り唐破風流造りの本殿が祀られている。
『兵庫県神社誌』を参照すると、祭神は上筒能男命・中筒能男命・底筒能男命の住吉三神、創立年月は不詳としか記されていない。境内には稲荷社も祀られている。
捕えられた鵠(クグイ)がいったん空に舞い上がって逃れ、再び当地に舞い降りたという地名伝承が残るという。
八鹿町高柳の住吉神社 (養父市)
舞狂の西方約4km、円山川支流の八木川の下流域、八鹿町高柳地区の丘上(標高94m)に住吉神社が祀られている。八木川に沿って古来の旧山陰道(国道9号沿い)が通っていた所である。
昨年11月末に北近畿豊岡自動車道は、和田山から八鹿町高柳(八鹿氷ノ山IC)国道9号まで接続延長された。計画と共に道沿いは市街化が進み、神社の前の国道沿いには道の駅「ようか但馬蔵」、西に接して「天女の湯」が隣接し賑わっているが、神社を参拝する人はわずかである。
高柳の住吉神社の山ろく八木川沿いの丘には、方墳多数と前方後円墳(上山古墳、全長42.5m) を含む国木とが山古墳群など、4~6世紀の古墳群が分布している。内部主体は横穴式石室より箱式石棺が多いようである。
八木川流域は、古代の養父郡養耆(やぎ)郷にあたっていた。中流域の八鹿・関宮両町境には三宅という地区があり、大和朝廷の直轄地である屯倉がおかれたところといわれる。平安時代(9世紀)には河内国錦部郡観心寺との関係が深く庄園が点在していたようだ。
ところで、道の駅の背後の杜(字奥山田)に住吉神社が南を向いて祀られている。急な石段を上がると燈籠(天明7年)があり、左に土俵がある。正面には鳥居・狛犬・拝殿が並び、繋がる鞘殿の中には千鳥破風と軒唐破風を設けためずらしい一間社流造の本殿が祀られる。
『兵庫県神社誌』によると、境内は758坪、ご祭神は、表筒男命・中筒男命・底筒男命。創立の年月は不詳。境内社として稲荷神社(保食神)、祭日は10月3日、氏子130戸、などと記されるのみである。
本殿の西には稲荷社らしい祠と「妙見大士」の碑を祀り、さらに奥にも恵比須・大黒神を祀る社と不明の社が祀られる。本殿東側にも向かい合う不明の二祠が祀られている。
当社背後の山地(標高400m)を越え、北側2.4km隔たった小佐川谷の中心、小佐地区石堂にも住吉神社が祀られている。
八鹿町小佐の住吉神社(養父市)
円山川から支流の小佐川を4.5km程さかのぼった所に八鹿町小佐集落石堂区があり、北側山ろく(標高130m)に住吉神社が祀られている。
『但馬考』(宝暦元年)によると、円山川東岸の舞狂から西方妙見山のふもと火畑までの小佐川流域11村を遠佐郷とし、小佐村について「小佐 枝村四あり、馬瀬・石塔・中村・今井、此内石塔を今は小佐と稱す・・・」と記し、「石塔」が現在の「石堂」に変わったのだろう。
中心となる石堂区から上流の今井区と石堂の対岸の今井区両地区には三柱神社が、石堂の東側の馬瀬区には熊野神社が祀られる。
小佐川流域は『和名抄』の但馬国養父郡遠佐(おさ)郷にあたり、平城京出土木簡に「但馬国養父郡老左郷赤米五斗<村長語部広麻呂 天平勝寶七歳(755)五月>と記されるほか、『河内国観心寺縁起資財帳』[元慶7年(883)]には、観心寺但馬国庄(養父郡)の墾田として石垂水という地名が登場し、隣接して語部(かたりべ)氏守の墾田・雀部(ささきべ)國富の治田という両氏族の私有地と接していたことなどが記されていて興味深い。支流域には条里の遺構が各所に確認されているという。
石堂区の住吉神社は、集落の背後谷口に祀られており、境内に入ると明治17年(1884)一対・天明8年(1788)の石灯籠、狛犬一対、正面の覆屋内にはやや大きな杮葺流造の社殿を中央に、右・左にやや小さな社殿が並ぶ(平成14年一部修繕)。但し右側社殿には、縁・脇樟子が付く。本殿覆屋の左には、改修された覆屋内の岩上に稲荷社の祠を祀っている。
『兵庫県神社誌』には、祭神 底筒男命・中筒男命・表筒男命、由緒 創立年月不詳にして、明治六年十月村社に列せらる、境内八十四坪 官有地 祭日例祭 十月十七日 氏子二十七戸、と記されるのみである。
『角川日本地名大辞典-兵庫県』の小佐<八鹿町>には「・・・。応仁~文明年間に二方郡田公御厨を本拠とする田公豊職が「小佐郷恒富内大畠名」「小佐郷恒富内漆田名、住吉名并壱所三ケ所」を日光院(但馬妙見)に安堵しており、一時期、田公氏の支配下にあったらしい。・・」と記されている。
田公氏は日下部系氏族、但馬妙見は名草神社。中世後半に下る庄園の記録だが、住吉神の祭祀あるいは関係田地の存在が確認できる。
八鹿町の神功皇后伝承と住吉神 (養父市)
八鹿町舞狂・高柳・小佐の各住吉神社を探訪したが、それぞれ由緒・創建年代は明らかでない。
しかし、和奈美の水門の伝承に加えて、八鹿町の中心の屋岡神社に伝わる神功皇后伝承と、円山川の谷と沖積地が北方日高町(豊岡市)へと広がる手前の伊佐に鎮座する舟山神社の存在は無視できない。
式内社の屋岡神社
まず、八鹿町八鹿に祀られる式内社屋岡神社であるが、屋岡の名は八鹿の古名で、天子(あまご)交差点の北、字籠の口に鎮座する。
『兵庫県神社誌』を参照すると、祭神は天照大日留女命・誉田別命、創立年月不詳、伝えによると、この地は神功皇后が三韓征伐凱旋の際に上陸され、御船を覆われた跡(今も船岡と称す)に当社が創立された、と記している。
金津葵園と西村五兵衛正保の二人の調査をもとに記された境内の由来書によると、開化天皇の王子日子坐王のひ孫の船穂足尼命(ふなほのすくねのみこと)が、成務天皇の御代に但馬の国造として来り、現在の天子の地に館を構えた。
船穂足尼命の孫にあたる息長帯比賣命は、仲哀天皇の皇后となり神功皇后と崇められた。応神天皇(誉田別命)の母君でもある。天子の地名は、神功皇后の誕生地に因んで名付けられたもの、と伝える。
八鹿は、北の日高地域よりやや奥まった円山川上流にあるが、古代から日下部氏の祖先が流路を拓き、南方の朝来地域から播磨方面にも通じる水陸交通路の要衝となってきたのだろう。
伊佐の舟山神社
屋岡の地から蛇行する円山川を約3.5km下ると出石に通じる県道2号伊佐橋の東側に、高さ40m程の岩崖となって屹立する舟山と呼ばれる磐山がある。養父郡浅間郷に属し、伊佐(いざ)村と呼ばれる江戸期以降の新田村の一画である。
川の上・下流から見ると船形の磐山で、頂上に元社、北側の山裾(八鹿町伊佐の字舟山)に舟山神社を祀る。
同神社誌によると、祭神は底筒男命と岩樟船命で、由緒・創立年月不詳、境内社に稲荷神社、祭日10月17日、氏子86戸、などと記すのみである。
恐らく地域の支配者が、古来からの神功皇后伝承と河岸に迫る巨大な舟形の磐山の神格を住吉神として祀り、合わせて円山川の水上交通の安全を祈ってきたものだろう。
2017.9.26
2013.8に「いこまかんなびの杜掲示板」に紹介した文章を改編・再掲しました。
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