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生駒山地の南に続く高安山(488m)の山嶺、古くからこの山のどこかに『日本書紀』の天智天皇6年(667)11月条に記され、わが国の最後の防衛のために築かれた古代城郭「高安城」の跡があると考えられてきました。 「高安城を探る会」(会長 棚橋利光氏)のメンバーは、昭和53年4月に長年の念願だった幻の高安城の倉庫跡礎石群を、高安山の東斜面-奈良県平群町久安寺の「金ヤ塚」と呼ばれる尾根筋周辺に埋もれていたのを苦心の末に探しあてられた。 まさに執念と努力の賜物であった。建物跡はその後奈良県による詳しい発掘調査が行われ、現地には整然と並ぶ倉庫の礎石群を見ることができます。(上の写真は1号建物跡周辺) 高安城の詳しい資料については「高安城を探る会」発行の各種資料の方をご参照下さい。 「高安城」が登場する記録 参照 『高安城と烽-25周年記念-基本資料集』平成13年 高安城を探る会より引用 『日本書紀』抜粋(720年成立) [天智6年(667)11月条] ○是月、築倭國高安城・讃吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。 [天智8年(669)8月条] ○秋八月丁未朔己酉、天皇登高安嶺、議欲修城。仍恤民疲、止而不作。時人感而 嘆日、寔乃仁愛之徳、不亦寛乎、云々。 [天智8年是冬条] ○是冬、修高安城、収畿内之田税。干時、災斑鳩寺。 [天智9年(670)2月条] ○又修高安城、積穀與鹽。又築長門城一・築紫城二。 [天武元年(672)7月条] ○初将軍吹負、向乃楽至稗田之日、有人日、自河内軍多至。則遣坂本臣財・長尾 直眞墨・倉墻直麻呂・民直小鮪・谷直根麻呂、率三百軍士、距於龍田。復遣佐 味君少麻呂、率数百人、屯大坂。遣鴨君蝦夷、率数百人、守石手道。是日、坂 本臣財等、次干平石野。時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍、知財等来、以 悉焚税倉、皆散亡。仇宿城中。會明、臨見西方、自大津・丹比、両道、軍衆多 至。顕見旗○。有人日、近江将壹伎史韓国之師也。財等自高安城降以渡衛我河 。與韓国戦于河西。 財等衆少不能距。先是、遣紀臣大音、令守懼坂道。於是、財等退懼坂、而居大 昔之營。 是時、河内國司來目臣鹽籠、有歸於不破宮之情、以集軍衆。爰韓国到之、密聞 其謀、而将殺鹽籠。鹽籠知事漏、乃自死焉。 [天武4年(675)2月条] ○丁酉、天皇幸於高安城。 [持統3年(689)10月条] ○冬十月庚戌朔庚申、天皇幸高安城。 『続日本紀』抜粋(797年成立) [文武2年(698)8月条] ○丁未、修理高安城。天智天皇五年築城也。 [文武3年(699)9月条] ○九月丙寅、修理高安城。 [文武・大宝元年(701)8月条] ○丙寅、廃高安城、其舎屋雑儲物。移貯于大倭・河内二国 [元明・和銅5年(712)正月条] ○壬辰、廃河内国高安烽、始置高見烽及大倭國春日烽、以通平城也。 [元明・和銅5年8月条] ○庚申、行幸高安城。 2号建物跡礎石 3号建物跡礎石 [高安関係参考史料] 『古事記』仁徳の段 此之御世免寸河之西、有一高樹、其樹之影、當旦日者、逮淡道島當夕日者、越 高安山、故切是樹、以作船、 『日本書紀』斎明天皇元年(655) 空中有乗龍者 貌似唐人 著青油笠 而自葛城嶺馳隠膽駒山 及至午時 従於 住吉松嶺乃上 西向馳去」 『類史』 延暦十六年(797)六月壬午接都下、非無差廢、宜半免之、唯河内國高安郡者去年 遭霖山阜頽崩損傷己甚、虚役之國不在此限同年七月 遣陰陽少屬従八位上菅原 朝臣世道陰陽博士正六位上中臣志斐連國守等、鎮祭大和國平群山河内國高安山 先是□霖雨 二山崩頽埋人家也 [高安関係の氏族] ( 太田亮著『日本国誌資料叢書 河内』 大正14年 より引用 ) 高安漢人 本(高安)郡に住せし漢人なり、高麗帰化族なれど其のもとは後漢光武帝裔と稱す。 高安村主 『播磨國正税帳』に「上長門國鋳銭司民領少初位下高安村主三事」なるもの見ゆ。 高安下村主 『姓氏録』右京諸蕃に収め「高安下村主出自高麗國人大鈴也」と註す。 高安造 高安漢人の首長なるべし、天平神護2年(766)10月紀に「河内國人大初位下毘登 戸東人等九十四人賜姓高安造」と見ゆ。『姓氏録』河内諸蕃に収め「高安造、八 戸史同祖、盡達王後也」とある。 高安連 桓武後紀に高安連眞笠なる者あり、此氏後内蔵朝臣を賜ふ、即類聚符宣抄第 七 、貞元2年(977)5月10日の太政官符に「右少史高安連佐忠、給内蔵朝臣姓」と見 えたり。 高安公 元慶3年(879)10月紀に「河内國高安郡人常澄宿禰秋雄等、自言先祖後漢光武皇 帝孝章皇帝之後也 裔孫高安公陽倍、天萬豊日(孝徳)天皇御代、立高安郡陽倍二 字意興八戸両字語相渉、仍後賜八戸史姓」云々と見ゆ。 高安忌寸 『姓氏録』未詳雑姓河内の部に「高安忌寸、阿智王之族也」と見ゆ。 高安宿禰 高安公の後なり。元慶3年(879)10月紀に「河内國高安郡人常陸權少目従八位上 常澄宿禰秋雄、權史生従八位上常澄宿禰秋常、河内國検非遣使従七位下八戸史野 守、安藝醫師従八位上常澄宿禰□吉、河内國高安郡少領従七位下常澄宿禰宗雄、 式部位子従六位上常澄宿禰秋原等六人、賜姓高安宿禰、秋雄等自言、先祖、後漢 光武皇帝孝章皇帝之後也裔孫高安公陽倍、天萬豊日天亀(孝徳)御世、立高安郡陽 倍二字、意興八戸両字語相渉、仍後賜八戸史姓、末孫正六位上八戸史貞川等、承 和三年(836)改八戸史賜 常澄宿禰、望請改八戸常澄両姓、復本姓高 安也」 また同5年(838)5月紀に「河内國高安郡人右近衛旡位常澄宿禰藤枝、右近衛旡位 常澄宿禰常主、位子旡位常澄宿禰季道、旡位八戸史善賜姓高安宿禰、去元慶三年 、藤枝等父並改本姓、賜高安宿禰、藤枝等脱漏不載官符、故追賜之」など見えた り。 高安氏 高安公、造、漢人等の族なり (この後省略) 高安(たかやす)の地名・氏族と中国との関係は ? 高安山のふもとに居住していた高安(常澄)氏一族は、上記の史料によれば、先祖が中国の後漢の光武皇帝、孝章皇帝の子孫にあたる渡来氏族ということになります。 高安氏は、7世紀中ごろにあたる孝徳天皇の代、つまり高安城が築かれた天智天皇6年(667)の前に、河内国の一郡にあたる高安郡を立てたものだということが分かります。 また『住吉大社神代記』の膽駒神南備山本記の中には、諍石が置かれた場所として登場する「母木里と高安国との堺」の高安国にあたり、渡来氏族の高安氏が治める地域であったことが考えられます。 高安氏が朝鮮式山城と推定されている高安城の造営を行った可能性は極めて高いといえるでしょう。 高安の地域には住吉大社と関係の深い玉祖神社・恩智神社などの古社が多くあります。 ところで、高安山は『大日本地名辞書』(吉田東伍、明治33年)には「高安城址 高安 の鉢伏山に在り、五老峰とも称す。 天智天皇初て此に築き烽火を置き、難波津大和京の警備と為す、和銅五年、高安烽を高見(生駒山)に移し本城廃したり」と記され、『河内名所図会』(秋里籬島、1801年)巻五高安郡の所には、 ○高安故城 法蔵寺の上方にあり。伝云、天智天皇八年二月、高安城を修す。持統天皇元年冬 十月、高安城に幸す。文武天皇二年八月、高安城を修す。又、大宝元年八月、高 安城を廃して、其材具を大和、河内の民に賜ふと、云々。五老峯といふ。永禄年 中、松永久秀の塁あり。 ○鬼額 五老峯の中にあり。土人、鬼が舌といふ。其上方を四百殿といふ字の地あ り。相伝ふ、松永の軍勢四百人、ここに籠りし所となり。 ○高安山 一郡の東にあり、平城都の御時、烽燧を挙し址あり。 と記されるように、高安山は「五老峰」と呼ばれていたことも分かります。 高安を古くは「こうあん」と読めば、中国的な呼び名である五老峰と合わせ、そのルーツは、やはり中国大陸にあるのかも知れません。 中国の大河、長江流域にある九江市の南方、江西省の省都-南昌からさらに61kmの所には、高安市(人口78万人)があります。 この間には南北25kmにわたり標高1300m~1500mを測る99の峰が続く天下の名山、廬山(ろざん)があり、断崖絶壁と峡谷が多く 滝も多い。 この中で、5つの峰が続いて5人の仙人が東に向いて並んでいるように見えるという峰の名は「五老峰」とよばれ、唐の詩人李白の詩で知られるように頂上からは鄱陽湖が長江に連なるあたりが霞んで眺められるといいます。 雄大さでは比較できませんが、古代の高安氏族は、河内平野を蛇行して流れる旧大和川と河内湖を望む高安山から信貴山周辺にかけた山々を、まさに中国の故地の景色や由来などに重ね合わせて、名称を付けたものかも知れません。 いこまかんなびの杜 |