遠 江 の 国 と 住 吉 の 世 界



 
                   『遠江国風土記伝』の地図より


 遠江の国と住吉の世界


太平洋に沿った静岡県の地域は、古代以来、東海道を構成する15国の内、西から遠州灘に沿った「遠江国」、駿河湾を擁する「駿河国」、山岳半島として太平洋へ突出する「伊豆国」、3つの国域に分かれていた。
 この中で最も西に位置した遠江国は、北は信濃国の急峻な山岳部と接し、西は浜名湖の西方で三河国と接し、中央部には暴れ川の天竜川が流れ出、東端は駿河国との境となってきた大井川までの間、東西80Kmにわたり太平洋に沿って湖と川と丘陵の連なる国であり、東・西日本の文化は、海岸沿いの陸路と海路を通じて往来・発展を遂げてきた。
 現在の行政区画でいうと、西は浜名湖西側の湖西市から東は島田市・榛原郡吉田町辺りまでの地域にあたり、長い歴史の中で大規模な洪水や地震・津波が繰り返し多発し、大きな災害を受けることが多かった地方でもある。

ところで、遠江(とおとうみ)の名は、『和名抄』に「止保太阿不三」、『万葉集』には「等保都安布美」「等倍多保美」、つまり「とおつあふみ」と訓まれるように、遠淡海の意味がその名の始まりとされ、後に国郡制が定まる頃に、近淡海すなわち近江に対して遠江の字が付けられたという。
 遠江国は、西から濱名郡(はまな)・敷智郡(ふち)・引佐郡(いなさ)・麁玉郡(あらたま)・長上郡(ながのかみ)・長下郡(ながのしも)・磐田郡(いはた)・山香郡(やまが)・周智郡(すち)・山名郡(やまな)・佐野郡(さの)・城飼郡(きかふ)・蓁原郡(はいばら)13郡で構成されていた。
 静岡県下には、住吉神社と称し、住吉大神を祀る神社は意外と少ない。明治期以前の文献等から住吉神社あるいは住吉系の神社の存在が確認できたのは下記の通りである。

1.志太郡東川根村藤川 住吉神社
           ()静岡県榛原郡川根本町、
*明治期に志太郡、
2.榛原郡吉田村吉田  片岡神社(通称)住吉神社
 住吉四大神
           (
)静岡県榛原郡吉田町吉田2212-1
3.周智郡熊切村越木平 住吉神社
           ()静岡県浜松市天竜区春野町越木平、
秋葉山本宮の東
               北

4.浜名郡笠井村    住吉神社
           ()静岡県浜松市東区常光町
*旧長上郡内
5.浜名郡芳川村金折  住吉神社
           ()静岡県浜松市南区金折町 *旧長上郡内
6.浜名郡芳川村都盛  津毛利神社  住吉三神
           
()静岡県浜松市南区参野町 *旧長上郡内
7.浜名郡新居村新居  住吉神社
 大綿津見三神 (底筒男命・中筒男命・上筒男命)
           ()静岡県湖西市新居町1347
(泉町)
8.浜名郡新居村白洲浜 住吉神社
 綿津見三柱神
           
()静岡県湖西市新居町住吉
 の8社を見出すことができる。

 この他、浜名湖北部の旧引佐(いなさ)郡山間部の村々や、古くは現天竜川の両岸(麁玉郡・長上郡・敷智郡)に広がっていた旧天竜川低地域の村々のほか、磐田市街の西南側にかつて存在したといわれる「大乃浦」周辺の村々には、「六所神社」の社名で綿津見三神・住吉三神を祭神とする神社が相当数存在していることが注目される。例えば引佐郡だけでも十数社が確認できる。他にも祭神は明確でないものの六所神社は、河川を遡った掛川市域にも散見できる。
 考察は控えるとして、水域に近い村の神社を除けば、こうした六所神社の広がりの背景には、前記の住吉神社あるいは住吉系の神社の創始とは異なり、中世以降にその地を支配した氏族と集落の展開と深い関りがあるように思われる。

 ここでは、先に挙げた静岡県西部、旧遠江国に散見できる住吉神社あるいは住吉系神社の8社の内、興味深い片岡神社(通称住吉神社、榛原郡吉田町)・津毛利神社(浜松市南区)・住吉神社(湖西市新居)の三社について、神社の創始とその背景について考えてみたい。



 
1. 片岡神社 (静岡県榛原郡吉田町 鎮座)


 片岡神社は、遠江国の東南端、駿河国とを分ける暴れ川、大井川の右岸の河口に近い榛原郡吉田町住吉2212-1番地に鎮座している。北側背後には住吉小学校の敷地が続いている。
 神社の所在地は、標高約5m程の高さで駿河湾(釘ヶ浦)の方向を向き、海との距離はわずか約1kmである。
               
 
       片岡神社周辺の航空写真(国土地理院の戦後年代不明の写真を使用・改編)

古い航空写真等を見ると、吉田町辺りでは海岸に沿って3本の浜堤と堤間にはラグーンの帯が見られる。奥の浜堤の東方は大井川右岸の氾濫原で切られているが、その東端に近い浜堤上に片岡神社が立地していることがわかる。
 西方の坂口谷(さぐちや)川を越えた西方の細江地区には、山沿いまでさらに2本の浜堤の帯が加わり、合わせて数本の浜堤からなる砂丘が存在したことがわかる。

 
                    神 社 正 面
  
         正面の随神門                   拝 殿

 片岡神社は、通称「住吉神社」と称され、住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)と息長足姫命(神功皇后)を祀り、『延喜式』神名帳に載せられた「片岡神社」と伝わる。
 県道31(焼津榛原線)に面して、参道入口には左右に狛犬と高燈籠、続いて新しい「住吉神社」の扁額を掲げたRC造の大鳥居と、木製で「片岡社」の社額を掲げた小さな随神門の奥には、「片岡神社」の扁額を掲げた拝殿と背後に繋がる流造りの本殿(大正2)が鎮座している。

 
           境内の様子                 拝殿の扁額
 
        境内東より               御本殿の背後より

 本殿の背後中央には、明応4(1495)の創建で奥の院と伝える星宮神社(祭神 天香香背男命)、左側には十二祭神社・西宮神社・琴平神社の三社を合殿とする社殿がある。一方、右側には文禄元年(1592)の創立と伝える船玉神社(祭神 猿田彦命・天鈿女命・八重事代主命)に続いて、もと大鳥居の西側に祀られていた津島神社・稲荷神社・厳島神社の三社を合殿として祀る社殿が並ぶ。
 拝殿の左手には社務所があり、その間には白い住吉丸の漁船が置かれている。
 以前、元宮司松浦清夫氏が発信されていた神社の公式HPは現在停止されていて拝見できないのが残念であるが、そこには「当社は、もと遠江国初倉庄にあって住吉大明神を奉斎し、片岡社とも称していました。明治維新後に片岡神社を神社名としました。延喜式神名帳の片岡神社が当社であると伝えます。正保4年(1647)に建て替えられた記録(棟札の写し)が伝わる古社です。・・・。
 (社伝) 当社はもと、現在地より1.5キロほど北の国道150号樋泉橋付近にあり、大井川の洪水で流されて御神体が今の所に流れ着いたといわれています。いまでも樋泉橋の付近には元森とか舞台といった地名が残っていて、宮所の伝説を裏付けるかのようです。」
と説明され、古い鎮座地の存在を指摘されていて大変興味深い。
 『静岡県の地名』(平凡社 平成12)には、「片岡神社は、孝霊六年の勧請と伝え(遠淡海地志)、和銅四年(711)に摂津住吉神社を勧請したという(榛原郡誌)。『延喜式神名帳』に載る蓁原郡「片岡神社」を同社に比定する説がある。同社はもと坂口谷川に架かる樋泉橋附近にあり、・・・」と記し、住吉神社は、片岡神社の勧請より新しい奈良時代の和銅4年に勧請されたとの説をとる。
 この中で「樋泉橋(といずみばし)」付近とは、神社の西方の坂口谷川に架けられた国道15号北側に架かる橋(旧鉄道橋)のことで、旧跡は恐らくその南~西方に続くやや小高い旧浜堤上にあたるのかも知れない。これについては、後述することとする。
 ところで、鎮座地が含まれる榛原郡であるが、遠江国14郡の内の最も東に位置し、大井川に沿った右岸域の南北に長い郡域で、北は長野県境から現在の島田市・吉田町・牧之原市・御前崎市の一部を含んでいた。
 『和名抄』には「質治 驛家 蓁原 波以八良 大江 於保江 細江 保曾江 神戸 舩木 布奈木 勝田加都萬多 相良」の九郷を載せており、『延喜式』には「蓁原郡五座 大一座小四座 大楠神社・服織田神社・片岡神社・飯津佐和乃神社・敬満神社 名神大 」とあり、郡内に五座の神社を記している。
 また、『大日本地名辞書』(明治33)には、榛原について次のとおり記している。
 「榛原は古書多く蓁原に作る、正保国図以後、公用榛原に定めらる。和名抄、波伊波良と注し、九郷に分つ、而も古訓は波里波良とす、万葉集の読例に徴すべし。又元亨釋書に、遠江国針原と載す、是傍證也。・・・・・・・。〇榛原君は土形君と共に応神帝の皇孫の裔とす。此地を主宰したまへる歟、・・・・。」
などと記している。
 片岡神社の所在地などについては、寛永11(1799)に内山真龍の記した『遠江国風土記伝』には、次のように記されているので抜粋する。(原文)

「 神戸郷中片岡郷
 村四
  〇上吉田 ・・・・()・・・・
   〇下吉田 旧号片岡、元禄年間分地平三郎分、高千貮百二十九石五斗
       九升二合
   
 〇住吉大明神、除地高五石、郷人日、式内片岡神社也、
   
 〇大圓寺、除地高三石 〇呑海寺、除地高貮石、各曹洞宗青地圓成寺
         末、平僧住
   〇下吉田村平三郎分 元禄中分地、无村号、(正保図帳不載)高三百七拾
    二石四斗壹升壹合
  〇住吉新田 有村号、高四拾七石貮斗六升
   以上四村、在河西、属海
 ・・・・・・・・・ ()・・・・・・・・・
 神戸郷中坂口谷郷 村八
 ・・・・・・・・・ ()・・・・・・・・・
 [] 片岡神社
 神戸郷中片岡郷下吉田村住吉大明神、郷人謂式内片岡神社也、住吉村併于茲、〇文和風土記日、片岡神社孝霊天皇六年三月、初所祭、住吉之神也」

と記されている。
 即ち、神戸郷は、江戸時代には片岡郷域と坂口谷郷域に分かれていて、住吉大明神は、片岡郷に属す下吉田村(旧名は片岡村)にあり、郷人は式内社の片岡神社であると伝えていて、文和風土記には、片岡神社は孝霊天皇63月に創祀された住吉の神である、との内容を記している。
 さらに『同書』には、片岡神社(住吉神社)と関って、坂口谷川(下流は旧名福田川)を隔てたすぐ西側に広がる細江郷の「四之宮村」について興味深いことを記している。
 原文を抜粋すると、

「 細江郷 村十三 江有川崎
 〇四之宮 図帳、号道下四之宮、併吉田住吉、旧是住吉四所明神之社
      地、而負村号乎、高五百七石五斗壹合
    〇妙昌寺、除地高貮石 〇慈眼寺、除地高三斗、各曹洞宗青地村圓城寺末、平
         僧住

 〇青地・・・・・・
 〇道上四之宮 按四之宮依住吉四所明神、高貮百三十六石壹斗五升六
        合
    〇大井八幡社 除地高壹石、号飯實山、齋六所明神、或日式内
            也

    〇薬師堂照國寺 朱符之寺田高五石七斗、曹洞宗青地村圓城寺末、平僧住

と記されている。
 これによると、細江郷の東端に「四之宮村」「道上四之宮村」と呼ばれる村があったが、元は一つの村であったようで、吉田住吉の村と合せ、古くは住吉四所明神(住吉神社)の社地であり、村の名となったものと記している。
 片岡神社の創祀に関して、『式内社調査報告第11巻』(1976)には、「仁徳天皇代に摂津国難波の住吉神社から勧請されたもので、元は大和国北葛城郡片岡神社の祭神である片岡神を祭っていたものと考えられる。」と記している。
 確かに榛原郡片岡神社の社名は、大和国葛下(かつらぎのしも)郡鎮座の式内社片岡坐神社[現奈良県北葛城郡王寺町]と同名であり、「新抄格勅符抄」神封部[大同元年(806)文書]に、「片岡神 卅戸 大和七戸 遠江八戸 近江十五戸」と記される所から、「遠江八戸」の所在地についても榛原郡の元神戸郷中片岡郷に鎮座する片岡神社(俗に住吉神社)との関係が深いと考えられるのも無理のない所かも知れない。
 ただ、片岡神社(住吉神社)の創祀時期あるいは祭神について、もう一つ明確な記録が少なく、先に大和国から片岡神が勧請されて創祀となり、遅れて仁徳天皇代または奈良時代に入って摂津国住吉神社の住吉四大神を勧請したとみるのか、あるいは初めから片岡神とは、住吉四大神であったものか、不明な点が多く残されている。
 この片岡神社(住吉神社)の西方を真っすぐ浜堤を南北に切って海に注ぐ坂口谷川は、明治の初めに河川改修されるまで、片岡神社の背後近くまで大きく東へ屈曲蛇行していた川であり、川に沿った北方の片岡山まで広がる広い水田は、標高約4m程の「吉田田んぼ」と呼ばれる古代の条里制田であったといわれるが、さらに古い時代には砂丘の背後に広がる大きな入江(細江かも)が存在し、憶測ながら古代政権が設けた重要な船津の地に神社が勧請された、と考えることもできるだろう。

      

    片岡神社の北方、船木地区の航空写真(国土地理院の昭和37年の写真を使用・改編)

 また、吉田町の北側、島田市域に入った湯日川沿いの牧之原台地周辺には「船木郷」の遺称地の船木地区がある。
 『大日本地名辞書』には、次のような内容で記されて(私訳)いる。
 船木郷 和名抄、蓁原郡船木郷、訓布奈木。〇いま吉田村の西北、初倉村に大字船木の地があり、この地である。『日本書紀』の仁徳紀に、遠江国司が奏上していうには、大樹があり大井河からこれを流して河の曲がったあたりで停め、・・・船を造らせ・・天皇の御船とした」と記されるのは、この郷の事であろう。『延喜式』に蓁原郡大楠神社という社があるが、神代記に[*杉及び]櫲樟(くすのき)は浮宝と登場するように、浮宝はすなわち船であり、大楠神は仁徳帝の時の大樹の霊を祭っているのかも知れない、・・・・
と指摘している。

 大楠神社は、吉田町の北方、大井川の屈曲部にあたる旧船木郷初倉村(現島田市)の湯日川に挟まれた牧之原台地斜面にあり、船木の地は、現静岡空港を挟んで西側の勝間田郷と接した所である。
 大阪(摂津)の住吉大社に蔵される『住吉大社神代記』には、古代の杣山を支配し、造船のほか津や船舶の管理などを行っていたことを「船木等本記」の中に船木氏族の系譜と住吉大社の創祀前後における津守氏との関りのほか、「但波国・粟国・伊勢国・針間国・周芳国」の国名が挙げられている。
 「貴重な古史料 船木等の縁起」『すみのえ』の中で、田中 卓博士は「船木等本記の伝えるところでは、住吉大社の祭祀は皇別の汙麻比止内足尼命と、もともとの船木氏と、その岐れの津守氏の三者が、一緒になって奉斎した、ということであります。それが、やはり原初的な住吉のお祭りの仕方であったと思われます。」と言われていて、住吉神の祭祀と船木氏とは深い関係にあったことが知られる。
 遠江の国名は登場しないが、榛原郡の片岡神社(住吉神社)の北に船木地名が存在していること、さらに『日本書紀』仁徳紀に、大楠の御船の造船の記事が登場するなど、この地が相当古い時代から住吉神を祭る下地があった可能性が高い。

 最後に、大和国の片岡神社であるが、大和国中の水を集める大和川が河内方面に流れ出す地の南岸、片岡山に名神大社として祀られてきた。
 祭神は、鴨建角身命(『大和志料』)あるいは子の鴨建玉依日子命を祀る(『神祇志料』)とも考えられており、風雨を祈ることは勿論、疾病放火の変を祈る神として仰がれてきた。とくに『延喜式』玄蕃寮には、新羅からの来朝使者に給する神酒の醸造と使用する稲を供出する神社が規定されているが、その中に大和の片岡神社が含まれている。
 詳細は省くが、こうした神酒は、迎接用の酒ではなく、蕃客についた蕃神霊と病気を祓い清める酒であったものと考えると、遠江国榛原郡の片岡神社の存在は、そうした視点から考えてみることも必要かもしれない。




 
2. 津毛利神社 (静岡県浜松市南区参野町 鎮座)


 津毛利神社は、JR浜松市駅の南側から大浜通(掛塚砂山線)を南東に行った、浜松市南区参野
(さんじの)113番地に南を向いて鎮座する。
 祭神は、住吉三神を祀る。神社の東側は、新しい都市計画道路の中郡福塚線が通じ、神社の境内及び東側の集落の一部が削られている。


         神社南側から                  東側から
 
                   正面入口

 神社の入口の石鳥居は、弘化4(1847)に建立されたもので、随神門の奥には拝殿・幣殿・流造りの本殿が続く。
 拝殿前の石燈籠には「四十六所大明神」を刻む。境内西側には、松林の下に境内社が四棟並ぶ。

 神社は、現在の天竜川と古代の天竜川の一流「麁玉(あらたま)川」であったといわれる馬込川との間に位置し、さらに河口近くで馬込川に合流する枝川の芳川(ほうがわ)右岸沖積地の不安定な地にあって、標高は3m前後の低い自然堤防上にあったようである。
 南方の遠州灘に沿って続く中田島砂丘に開いた河口までは、約4kmの位置に鎮座している。

 ところで、神社が鎮座する地域は、奈良時代の初めに存在した長田郡が、長上郡と長下郡の南北二つの郡に分かれ(『続日本紀』)、『和名抄』には遠江国長下郡に「太田 長野奈加乃 貫名奴木奈 伊筑 幡多判多 大楊於保也奈木 老馬於以萬 通熊止保利久萬」の8郷が存在したことが解るが、津毛利神社の所在地は、この内、長下郡大楊郷の郷域に含まれていたようである。
 しかし、『延喜式』の長下郡には「長野神社・大瓱(*毛は镸 おおみか)神社・登勒神社・猪家神社」の四座を記しているだけで、式内の津毛利神社は見当たらず、西に隣接する敷智郡六座の中に見出すことができる。
 『大日本地名辞書』には、「長上郡 明治二十九年、廃して浜名郡へ併せらる、敷智郡の東にして、天龍川沿辺の村里を総べ、中世には郡界移動甚く、其名も中郡と呼びしが、近世に至り長上郡を復興したるも、和銅の旧域にはあらず。」「長下郡 ・・・。其地域は後世の天龍川左右に渉りしが、何の比よりか廃し、一部は敷智郡、一部は長上郡、一部は豊田郡に併せられしごとし、諸郷の位置、頗明瞭を缺く。」と記されていて、河川の氾濫などの影響を強く受けて郡域の移動や混乱、郡名の変遷があった地域で、江戸時代には両郡は、ほぼ長上郡内となっていた。

 
               拝殿と御本殿の様子
 

 こうした中、以下の文献にもあるように、江戸時代から参神野(参野)の「四十六所大明神社」を式内社に比定する考え方が強かったようである。
 明治29年に敷知・長上・豊田等の諸郡が廃され、浜名郡の境域となった後に刊行された『静岡県浜名郡誌』(大正3)には、次のように記されて(原文)いる。

「一 郷社  津毛利神社
 芳川村参野(さんじの)にあり、本社は、底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神・底筒男之命・中筒男之命・上筒男之命を祭る。抑、当社は、元正天皇の御宇、太政官舎人親王・右大臣藤原不比等公、勅を奉じて、遠江灘の鎮守として、養老年中(*717724)海岸へ御勧請之あり、津毛利神社と号す。延喜式に載する所の神社なり。追々土砂打ち寄り丘をなし、之れに依て人民開拓に従事し、遂に四十六ヶ村となり、其の大氏神を尊崇し、津毛利神社四十六所大明神と称す。延暦の頃(*782806)は三百貫文の社領有之と、社伝にあり、其の後、徳治元年(*1306)九條関白師教公三十六貫文を賜ふとあり。・・・・・・()・・・・」

と記されている。
 境内に掲示された津毛利神社の由緒書(平成24)は、勧請の時期等はほぼ同様であるが、祭神は底筒男命・中筒男命・上筒男命の住吉三神のみで、綿津見三神は書かれていない。
 すなわち、神社は奈良時代の初め、元正天皇の代の養老年間(717724)に、遠江灘の鎮守として勅命を受けた藤原不比等が摂津国住吉大社より住吉三神を勧請された社で、『延喜式』に載せられた式内社である、と記している。
 所在地の参野町は、住吉三神が鎮まる地という意味で、古くは「参神野」と呼ばれていたのが江戸時代に「参野」となったといわれる。また、南側の都盛町は、もと西恩地村といい、明治以降に津毛利神社の名をとって都盛(つもり)村となったという。
 余談であるが、中世末期に太田氏の田地恩沢に由来するという「恩地」の名は、摂津の住吉大社の東方生駒山ろくに鎮座し同社と関係の深い恩智神社(河内国高安郡)の存在を連想させられる。
 さて、江戸時代の寛政11(1799)に記された『遠江国風土記伝』長上郡参野村の所には、津毛利神社(四十六所大明神)のことを次のように記して(私訳)いる。

 川輪庄
 ○参野 三神野と読む、海神三座を祀る、恩地之記には大柳郷としてい
     る、高27486
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 参野村四十六所大明神社  朱符は神田80石、鐘銘は記録を考定のこと
  参野は、海神三座を祀る地であり、三神野と号す、敷智郡の式内津毛利神社はこの社であろうか、祭神は底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神 (墨江三前大神である)
 四十六所とは摂社の数である、参野より南の海嶋までの地にこの神社を祀る(現神主の社記)・・・・・・・・・・・・・。上記のように、頭陀寺(*ずだじ)村から以南、江之島村までの33村、郷名は無いが昔の大柳郷内にあたるのか、今は川輪庄と呼び、三神野村四十六所明神社を奉祭する、・・・・・・。」

との内容を記している。但し、綿津見三神を住吉三神と混同している。
 また、『同書』には、

 津毛利神社 三神野村にあり、(と記す一方で)
 津毛利神社
 郷村は今切の海となってしまい、考えられることなし、俗説では馬郡村の春日明神社が津毛利神社とも称している、・・・・・・、○文和風土記では、象嶋(*舞坂あたり)に津毛利社を載せている、○津守神は海神三座、住吉社がこれである、新井の白須(*)浜に鎮座する住吉社であろうか、また、長上郡參野村の社 (*四十六所大明神社) (*式内社であると)考えられる、底津綿津見神 中津綿津見神 上津綿津見神 墨江三前大神(*住吉三神)のことである、

とも記していて、式内社津毛利神社の場所は、
①現浜名湖の東、東海道筋にあたる馬郡村の春日明神社(現春日神社)
②浜名湖の出口(今切)の西、遠州灘に沿って続く荒井(新井)の白洲浜に鎮座する住吉社(後述)
③天竜川右岸の古流域に位置する長上郡参野村の四十六所大明神社、
 以上三社を挙げている。

 
       津毛利神社周辺の様子(国土地理院の昭和34年の写真を使用・改編)

 ここで取り上げた、参野村の津毛利神社(四十六所大明神)の鎮座地は、旧長下郡域、後には長上郡へ包括、明治以降は浜名郡域へと変遷するが、神社のすぐ西側を南北に真っすぐ続く「東部排水路」の所は、古い航空写真を見ると、西方の蛇行する馬込川から分岐した旧河道の痕跡が残り、参野村を中州状に挟むようにして南流し、南方の寺脇川を経て芳川河口で合流していた可能性がある。

 排水路は、古い時代からの用水路が変化してきたものと考えられるが、津毛利神社のすぐ南側には、禊池ともとれる池を前にした境内社「御手洗水神社」の小祠が祀られているのが興味深い。
 その排水路のある旧河道を境にして、西方に広がる中島・楊子・三嶋・寺脇・白羽村などの地域は、江戸時代以前は馬込川(旧麁玉川)が流入し、海浜から続く「浜松浦」が入り込んだ地域であったのが、次第に干上がって島が増えて陸地化し、『遠江国絵図』(浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)にも表されているように、麁玉・長上の両郡境と接した敷智郡の地域であったことから、現在の津毛利神社の地も、古くは敷智郡の一画に含まれていた可能性も考えられる。こうしたことを考慮すると、当社の式内社比定説はさらに補強できるのかも知れない。

 なお、神社のすぐ東側には、弥生時代~中世にかけた海東遺跡があるほか、明治初年に古い芳川沿いの字ツツミドホリから高さ64.2cmの袈裟襷文銅鐸が出土している。
 さらに周辺地域には遺跡が埋没している可能性も考えられ、古代津守氏族の管理する古代の湊=津も存在していたかも知れない。

参照 『遠江国絵図』(浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)







3. 新居白洲浜の住吉神社 (静岡県湖西市新居町住吉地区 鎮座)

静岡県の西方、浜名湖が砂丘を切って遠州灘とつながる今切の西方、湖西(こさい)市新居(あらい)町の南端に連なる砂丘の一画に住吉地区があり、住吉公民館の東隣りに海を向いて住吉神社が鎮座している。JR新居町駅から真っすぐ関門大通を南に行った所である。

  
                  住吉地区の住吉神社
 


 新居町には海浜にある住吉地区の住吉神社とは別に、JR新居町駅西方の「新居関所跡」前からさらに西側に行った山裾にある泉町公民館北側を上がると、新福寺と隣海院の間の林の中に、もう一つの住吉神社が鎮座している。

      参照 [住吉神社(泉町) 湖西市観光振興協議会 ]

 まず、この泉町に鎮座している住吉神社であるが、『新居町史』には、次のように記されているのでそのまま引用する。

「 住吉神社  祭神  大綿積三神 (底筒男命・中筒男命・上筒男命)
        所在地 新居町新居1347 (泉町)
 新居町の夏祭りのはしりが住吉神社の祭礼で、現在では622日に行われ、特に余興らしきものはないが、当町では浴衣を着始める日としている。当社は慶長8(1603)の創設で新居四社(諏訪・湊・八王子・住吉の四社)の一つとされている。
 住吉神社はもと日ケ崎の東の八王子と弁天の間にあったと推定され、大元屋敷のころは地名だけが残り、「浜名湖口変遷図」(新居関所史料館所蔵)によれば関所の西に「今住吉明神という」として祀られている。宝永の災害後天当山に遷座し、宝暦12(1762)に再建が行われている。海上安全や豊漁祈願が盛んに行われた神社であった。
 昭和26年浮浪者の火の不始末による火災に遭い、その後昭和37年に新幹線工事のため現在地に遷座された。今の住吉地区はこの住吉神社があったことに由来するもので、同地区に祀られている住吉神社は昭和38年に地区住民が大阪住吉神社からお札を受けて祀ったものである。」

と記されている。
 この泉町の住吉神社は、もと遠州灘に面して続く砂丘の一画「日ケ崎の東の八王子と弁天の間にあった」とされ、江戸時代の宝永の災害後とは、宝永4(1707)10月に遠州灘から四国の沖を震源とする「宝永大地震」(南海トラフ巨大地震)の発生であり、浜名湖沿岸一帯も各地に建物倒壊・大津波の大被害を受けたため、新居の関所や新居宿や寺社は、安全な西方の藤十郎山の山ろくへ再び移転し、住吉神社も天当山へ遷座したということになる。
 祭神の大綿津見三神は、住吉三神と混同して考えられているのは興味深い。

 
      新居町隣海院の北に遷されている住𠮷神社(2024.1撮影)

 浜松市立博物館所蔵の『今切変遷図』(浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)には、新福寺の北側に祠の印と共に「住吉」と記されている。また、元禄期以前の地図には、今切口の西に続く海浜に沿った砂丘地(白洲浜)に、「弁天」と「八王子」の文字とその間には「住吉」と記されていて、この地が住吉神社を祀っていた場所であることが解る。
 すなわち、現在、住吉地区に祀られる住吉神社の地である。

 参照 『今切変遷図』浜松市立博物館所蔵(浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)

 古代から中世にかけた浜名湖は、長く続く砂丘・砂州の奥に存在した潟湖で、湖尻から南西の山沿いに続く浜名川から海へ流れ出ていた。古い東海道といえる山沿いの古道は、貞観4(864)に修造の後、再び元慶8(884)に改作された(『三代実録』)と記録に登場する浜名川に架かる浜名橋(長さ56)を渡り、海岸に沿って延々と続く砂丘(荒之崎)には松原と人家が続く中、東方の舞澤駅家へと通じていた。浜名橋の川沿いは、中世に至るまで橋本と呼ばれる駅家・湊として大いに栄えてきたと思われる。
 現在、新居町(湖西市・旧浜名郡)と舞阪町(浜松市・旧敷智郡)との間で、浜名湖が海とつながる今切口一帯のことについて、『遠江風土記伝』[寛政11(1799)]には、次のように記されている(原文抜粋)

「 浜名郡 
 中之郷 村五、関西北十町、属入海
 ・・・・・・・・・・・・()・・・・・・・・・・
 ○新井  本字荒井、古歌詠安禮乃崎、高三百七拾五石四斗四升貮合
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 古老日、今荒井者古中之郷也、古荒井在関東海中十二三町、応永十二年、文明七年、明応八年及永正七年等有急波、破於荒崎、湖水変爲潮海矣、日箇崎千戸、北山千戸、旧荒井、中荒井、同時爲海 於今切本荒井(もとあらい)、於松原、云中荒井也、礎石於今存焉、而後宝永四年十月四日、地震大波、関東十二町水没而地大変矣、昔時橋本新井各千戸之郷也リ 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 荒之崎  萬葉集、高市連黒人、詠安禮乃崎(註新井宿)、西起源太山、東對舞澤ノ驛家、長一里、広或拾町或二三町、(有松)古驛路也、崎中央有庄堺之碑石(色赤紫)、碑石與村越ノ崎、南北相對、是昔二郡之堺乎、呼是碑石謂 庄堺(碑文如有若無)
○宝永四年関司政愈書日、応永十二年大波破此崎(或日文明七年八月八日)、 明応八年六月十日、甚雨大風、潮海與湖水之間駅路没、日箇崎千戸水没(在関南東十町計白洲浜住吉八王子之森間)、・・・・・・・・」「住吉社 在新井白砂浜、按敷智郡式内津毛利神社、今切之時転在于茲乎」

などと記している。
 上記の文の一部を私訳すると次の様な内容であろうか。すなわち、
 古老の言うには、今の荒井(新井)の場所は、昔から中之郷に属しているが、古い荒井の地は、新居関の東方1213町の海となったところにあった。 応永12(1405)、文明7(1475)、明応8(1499)、永正7(1510)等の年に発生した津波は、荒崎を破り、橋本駅家・浜名橋を破壊して、湖水は変じて潮海となった。
 (橋本の対岸にある)日箇崎(ひけざき)千戸・北山千戸・舊荒井・中荒井の集落も同時に海のようになったが、今切の場所は、本荒井(もとあらい)といった。松原の中の中荒井には今も礎石が残っている。
 その後の宝永4(1704)104日にも地震と大波が発生し、関の東側12町は水没するという大災害となった。昔は橋本・新井ともに千戸と名が付くほどの大きな郷であったと言われている。
 荒之崎の名は、万葉集の高市連黒人の歌に安禮之崎と登場するが、西は源太山辺りから東へは舞沢の駅家の方向に続いていた。長さは一里、幅は10町から2~3町。松が生えた古くからの街道であった。崎の中央には庄堺の碑石(色は赤紫)があって、碑石は村と越ノ崎を南北に向いた所にあり、昔から二郡の境となっていたのか、この碑石は庄堺の石と呼ばれてきた。
 宝永4年に関司の富永政愈が記した記録の中にも、応永12(1405)荒之崎が大波を受けて破れ、明応8(1499)610日の大雨大風によって海と湖水の間の駅路が没し、砂丘沿いの日箇
()崎の人家千戸が水没(白洲浜の住吉と八王子の森の間)した。
 住吉社 新井の白洲浜にある。『延喜式』敷智郡の式内社の津毛利神社とも考えられ、今切の発生した頃にこの場所に遷されたものであろうか。

との内容が記されている。
 上記から『遠江国風土記伝』が著された寛政11(1799)の時点でも、住吉社はまだ荒井(新井)の白洲浜にあったことが解る。

  

  
           今切・荒ノ崎『遠江国風土記伝』浜名郡より一部転載

 ところで、『延喜式』神名帳の遠江国浜名郡には、彌和山(みわやま)神社・英多(えた)神社・猪鼻湖(いのはなのうみ他)神社・大神(おおむわ)神社・角避比古(つのさくひこ)神社の五座の神社が記されている。
 これらの式内社の所在地については諸説・論社が多いが、この内、猪鼻湖神社と角避比古神社の鎮座地については、荒井 (新井)の白洲浜にある住吉神社と関りが深いかも知れない。
 猪鼻湖神社について、『大日本地名辞書』は、湖を「湊(みなと)」と読み、『東海道名所図会』[寛政9(1797)]を引いて、「橋本の諏訪明神、一名湊明神と云ふもの即是なり」としている。その『東海道名所図会』には「此神は水うみの岸の上に鎮座と見えたり 今きくに八王子社もと浜辺の岡の上に有しを宝永四年(*1704)所うつりの時 諏訪の社中今の所に移すといへり 然れば八王子 もし猪鼻湖の神にあらずや 但し又諏訪の事にてもあらずや」

と記している。
 『今切変遷図』の今切後の絵図に、橋本の対岸日ヶ崎辺りから東に続く砂丘上に、松原と「八王子」「住吉」「ツトタイ弁天」と順に記されているが、その「八王子」にあたるのだろうか。
 一方、角避比古神社であるが『大日本地名辞書』には次のように記している。

「今橋本(新居町大字浜名)の諏訪明神に混したる歟、諏訪は上下両座を祭り、或は湊明神と称す、盖角避明神と湖神を合祀して、後世其古伝を失へるならん。角避とは津開の義にて、湖口の開析を司り給ふ神靈に外ならず、延喜式、浜名郡の名神大社とす。(或書に、角避神は、貞観年中の古図に、湖口の東岸、日が崎と舞澤の間に標記したりと云ふ。按に角避神は浜名郡の社なり、湖口の西岸に在ること必せり)、・・・、神祇志料云、式社考、巡拝旧祠記、遠江志等の書に新居駅の湊明神を以て、角避神にあてたれど、其社傳に、永禄の比に新に建たる神社なりといへば、信じ難し」

と記している。
 こうした事から考えると、式内社の角避比古神社と猪鼻湖神社は、橋本の地が古来宿駅に加えて湊を備え、浜名橋から延々と浜名湖南岸の砂丘づたいに重要な官道が続く場所であったと考えられので、両社は、湖口の両岸の東・西に配祀され、津と湖岸堤を守る社として存在してきたのかも知れない。
 根拠はないが、古代津守氏が大いに関係していたように思えてならない。
 なお、先の『今切変遷図』には、今切前の様子を描いた古図中、日ヶ崎千戸の東方に「角杙(*)神社」と表記し、社祠の姿を描いている。
 角は海に突き出た所、杙は砂丘浜堤の護岸のための杭と考えられるが、これは角避比古神社を表わしているように思われる。その場所は、敷智郡域ではなく、庄堺石より西であり、浜名郡域あったことは十分考えられる。
 さらに『今切変遷図』の慶長5年に初めての荒井関と湊・町屋・寺社が整備される以前を表わした絵図では、すでに荒井(新井)には「角避神うつりて湊大明神」と「猪鼻湖神スハトいふ」と記されている。スハとは諏訪である。
 当時、古くからの湊や浜堤を守る大事な神々を尊崇するため、各所に神社の再興が繰り返されてきたのかもしれない。

 最後に、新居町の南方、白洲浜の砂丘に沿った住吉地区鎮座の住吉神社は、新居町泉町鎮座の住吉神社の旧鎮座地であることには間違いないようである。
 この神社は、慶長8(1603)の創設と言われるが、本当にそうなのであろうか。
 初めての荒井(新井)関の設置が慶長5年であり、宿場の町家や寺社の整備が進められる中、荒ヶ崎の一画、白洲浜(住吉地区)に神社の痕跡をとどめていた住吉神社は、荒井関所か宿場の近くに湊を守る神として分祀され再興されていた可能性は高い。

 
           荒井(新井)の様子 『東海道名所図会』今切の図より

 『東海道名所図会』に「むかしハ舞澤のほとりより浜名の橋まで尓 津づ起てみどりの松生津らなり 水うみ塩海を辺だてゝ中尓 一筋の大路ありしと見えたり」といい伝え、『遠江国風土記伝』が記す内容を考え合わせると、白洲浜の住吉神社は、今切の時に消失した砂丘浜「本荒井」の地にあったのが、時を経て西側の現在地へと復興されてきたことも考えられし、敷智郡式内社の津毛利神社であった可能性も高いといえる。

2020.11.14  原田 修 作成




         いこまかんなびの杜