神 立 墓 地
行基と河内七墓まいり
その昔、大和や河内地方では、毎年お盆のころには、奈良時代の名僧行基が設けたと伝える七ヶ所の墓地に参る”河内七墓参り”という庶民信仰がさかんに行なわれた。
行基の姓は、百済系の渡来氏族である高志(こし)氏といい、天智天皇7年(668)に河内国 (のちに和泉国)大鳥郡蜂田里に生まれた。天武天皇11年(682)には15才で出家して仏道に入り、法興寺や薬師寺に住んで法相宗を学び、生駒山で修行を重ねて呪術的な霊力を身につけたといわれる。
当時の仏教は、国家の保護と統制のもとで、寺院で修行を義務づけた国家仏教の大きな流れに対し、生活に苦しむ民衆に仏教の恵みを与えたいと寺院を去り、布教と社会事業をおし進めた僧たちの活動が民衆仏教であり、行基はその代表的な僧であった。
和銅年間(708-715)の終わり頃、生駒山を下り大和で伝道を始めた行基は、国家から大きな非難を受けたが、これに屈することなく、和泉・河内・山背・摂津の各地を伝道して、数多くの道場や墓を造り、狭山池など潅漑用の池や橋の築造と修築、宿泊施設である布施屋の造営など、人々の救済のための社会事業をおし進めたという。
平安時代に書かれた伝記『行基年譜』によると、行基が40年もの間に設置した道場は、四十九院にものぼり、社会施設や土木施設として橋6・直道1・池15・溝6・樋3・船泊2・堀4・布施屋9ヶ所を設けたとされる。
行基の周囲には多数の弟子や人々が集まり、その偉大さと慈悲を仰いで行基菩薩と賛え、天平17年(745)には国家から業績が認められて僧綱の最上位である大僧正に任じられるに至った。
しかし、天平勝宝元年(749)2月2日、大和の菅原寺(法相宗・奈良市菅原町)において82才で亡くなり、生駒山東陵で火葬の上、山上に結界を設けて墓が営まれた(生駒市有里の竹林寺境内)という。火葬は、真南にある輿山(こしやま)往生院の場所であったと伝わる。
輿山往生院 行基の墓(竹林寺境内)
今日、各地の至る所に行基菩薩の徳行偉業をかたる伝説や、行基が造ったと伝える遺跡が数多く残されているが、生駒山西ろくに広がる東大阪市内にも、平安時代に書かれた説話集『日本霊異記』の中に、河内国若江郡川派(かわまた)に住む母子が、行基の説法を聞きに来た時の話が登場するほか、生駒西ろくの六万寺町にあったとされる六万寺は、行基の造った四十九院の一つだともいわれるほか、七墓には含まれていないとはいえ、弘化4年(1847)建立の銘を刻む行基供養石碑(現在は痛みが激しく新しい石碑に代えられている)が建てられた日下墓地では、もとあった焼き場の下に行基菩薩を彫った石が埋められており、それを跨ぐと行基さんに抱かれてあの世に逝ける、と伝えられていた。
その日下墓地の南側で、昭和36年の宅地造成前の発掘調査により、奈良時代の瓦や建物跡が発見された遺跡は、行基が早い段階である養老4年(720)に河内国河内郡早村(日下)の地に設けた四十九院の一つ”石凝院”(いしこりいん)の跡に間違いないと言われている。
近年は忘れられつつある「河内七墓参り」あるいは「七墓詣」と呼ばれた七墓も、行基が設けた墓地と伝えていて、東大阪市内に3ヶ所、南に接する八尾市に4ヶ所、計7ヶ所の三角形状に点在する墓地により「七墓」が構成されている。
大正12年(1923)発行の『中河内郡誌』には、毎年お盆の(7月)14日、お年寄達は老後汚物の世話をかけず極楽往生ができると信じて、早朝から行基ゆかりの七墓を巡拝し、必ず焼場の穴の上を越えるという風習があり、七墓巡りの順路は一定せず、八尾あたりでは、荒(有)馬の墓から順に岩田の墓、額田の墓、山沿いを南下して神立の墓から垣内の墓、恩智の墓に参り、植松の晒の墓を最後とし、逆の道順をとる人もあった、と書かれている。総距離にして約28km、7里ほどの距離となる。
同じ頃の文献である『大阪府全誌』(大正11年)にも、7月15日の日に老若男女が、集団となって七墓をめぐり、墓の迎仏を巡拝してまわる風習が今も残っている、と記されている。
もともとお盆は、旧暦の盆である7月15日の行事(新暦は8月)で、墓参りをして祖先の霊に食物を供え、餓鬼に施して祖先の冥福と供養を行うもので、七墓参りの日はこれによるものであるが、この日に限った訳ではなかったようである。
以下、河内七墓を順に紹介することにしたい。
1. 有馬の墓地 (東大阪市長瀬町2丁目)
七墓参りの振出しともされる墓で、旧渋川郡北蛇草村字東の庄小字西蓮寺にある。
近鉄大阪線長瀬駅の西側、旧大和川の西の支流、長瀬川(久宝寺川)の西側堤防上に位置し、現在は東大阪市営長瀬斎場と呼ばれ、もと北蛇草(きたはぐさ)村・南蛇草村・大蓮村・柏田村・金岡新田・横沼村・吉松新田・太平寺村・三ノ瀬村・岸田堂村・衣摺(きずり)村の旧渋川郡周辺11ヶ村を墓郷とする共同墓地であった。すぐ東北には式内社の波牟許曾(はむこそ)神社が鎮座する。
墓は、「阿弥陀の三昧」と呼ばれ、もと阿弥陀院という墓寺があって、今も残る本尊の木造阿弥陀如来坐像は、鎌倉時代の優れた彫刻として市の文化財に指定され、元々は迎仏として斎場に祀られていた。(斎場が改修されたため、現在、仏像は市の文化財施設で管理されている。写真は『東大阪市の指定文化財』より)
長 瀬 斎 場 (平成8年)
『布施市史』第二巻(昭和42年)によると、鋤を手にした行基菩薩座像も安置されていたようで、その写真が掲載されている。
『大阪府全誌』によると、「行基は和銅七年 (*714)五智如来を表して畿内の五国に五ヶ所の墓地を設け、霊亀二年 (*716)二十五三昧無量樂の経文に基きて更に二十五ヶ所の墓を設け、当院三昧は其の第九番に當れり。」と記している。
墓地の入口を入るとすぐ右手には、近年改修された井戸枠に「行基井」と刻む井戸があり、続いて寛文〜元禄期の六地蔵が並ぶ。但し、現在は改修工事中である。
続く石玉垣の中には、八角形の台座と請花の上に墓郷世話人の建立した江戸時代中頃と思われる立派な石造供養塔(無縫塔)があり、縦長の格狭間状に彫りこんだ墓碑面に「行基大菩薩」、その右側面には行基の没年の「天平勝宝元年己丑歳
二月二日御入寂」を刻んでいる。
長瀬斎場の行基供養石塔
また、墓地の中央奥には、貞和5年(1349)に71歳で示寂し、当墓地において荼毘に付されたという融通念仏宗の中興の祖、法明上人(1279-134・清原右京亮守道の子)の有馬御廟があり、市の史跡に指定されている。
八角形の蓮座の上の墓塔は、江戸時代初期の供養石塔(無縫塔)で、周りの立派な石玉垣は嘉永年間に整備されたものである。摩滅した墓碑面には「法明・・」の字が読み取れるという。
阿弥陀如来坐像 法明上人有馬御廟
毎年8月20日は墓市で、以前は墓地内まで多数の屋台が出て、夜中まで賑わったといわれる。
続いて、旧の十三街道筋を東へたどり若江村で交差する河内街道を北へ行くと岩田の墓地がある。
2. 岩田の墓地 (東大阪市岩田町5丁目)
岩田村の名称であるが、西南端に式内社の石田(いわた)神社があり、近くには岩船の伝承地があることによる。
墓地は、近鉄奈良線の若江岩田駅前の商店街を北へ約600m、旧河内街道を斜めに入ったすぐ西側にある。墓の入口には昭和29年に建立された「行基菩薩開基岩田墓地」の標石(石田健二氏建立)があり、続いて高さ1.2mの六地蔵が並ぶ。 西に続く堂内には、もと街道の少し北にあったとされる旧阿弥陀寺の本尊木造阿弥如来立像が迎仏として祀られている。
岩田墓地標石 六 地 蔵
墓地は、もと岩田・西岩田・瓜生堂村などの村々を墓郷とする旧若江郡周辺七ヶ村の共同墓地で、今日、拡張されて約千基の墓が並ぶ。
奥の火葬場跡への曲り角には、石玉垣で囲まれた一画に、行基供養のために建てられたと考えられる高さ2.4mの立派な石造五輪塔がある。各輪には梵字を刻むが、残念ながら建立の年月等は確認できず、屋根状の火輪の角が極端に反り上り、長く伸びた宝珠の形などから、江戸時代前半のものであろうか。
行基供養塔と行基坐像 供養五輪石塔
供養石塔の右側には、平成元年2月2日に岩田墓地管理委員会により建立された新しい行基大菩薩の石造座像が祀られている。
毎年2月3日に供養が行なわれるほか、8月11日には墓市が盛大に行なわれる。昔は若江岩田駅から墓まで延々と屋台が並んで賑わったという。
旧河内街道筋を少し北に行くと旧奈良街道と交差し、東に折れて松原宿跡・恩智川を越えて山ろくを南北に走る旧東高野街道の交差点(箱殿東)を北へ少し行くと、右手に額田の墓地が見えてくる。
3. 額田の墓地 (東大阪市南荘町)
近鉄奈良線額田駅から西へ約600m程下り、旧東高野街道の少し東側、マンションと新しい住宅が建ち並ぶ一画に市立額田斎場がある。
大きなくすの木二本が目立つ額田墓地は、額田・豊浦村など、暗越奈良街道の谷口に広がる旧河内郡周辺村落の共同墓地であった。
古代には、周辺は、応神天皇の皇子額田大仲日子命の流れをくむ古代氏族額田氏の本拠地と考えられ、墓地の周辺からは古墳時代の掘立柱建物や竪穴住居のほか、奈良時代後半〜平安時代初頭を中心とした多数の掘立柱建物群のほか「氏」など多量の墨書土器が出土した大型井戸や土壙群などが見つかっている。[額田と額田大仲日子命]
額 田 斎 場
行基供養の五輪石塔なのだろうか
墓地の入口のすぐ右に六地蔵、左側のくすの木の下には、梵字を刻んだ高さ1.9mの石造五輪塔があり、蓮華台座の上にのる地輪部分正面には梵字の種子(ア)の下に「権大僧都(右) 法印昌譽(左)」と刻むほか、右側面には「享保十一丙午歳(1726)四月廿九日」と刻んでいる。
昌譽についてはよくわからないが、当地出身の僧侶で建立者なのだろうか。昌誉の名を調べると、武州六阿弥陀の第三番の西ヶ原村無量寺の鐘銘(安永9年)に役中の1人として「法印昌誉大和尚」がいたようであるが、関係があるのか全く不明である。
権大僧都(ごんだいそうず)とは、大僧都の下の僧官であるが、これは大僧正行基のことなのだろうか。そうであるならば、建立紀年の享保11年(1726)は、行基一千年忌の年となった延享5年(1748)以前に建立されたことになり、他の墓地の供養塔と比較して、江戸時代の早い時期に建てられた行基供養石塔の一基であるのかも知れない。
以下、生駒山ろくを南下し、八尾市域である旧高安郡から旧大縣郡北端の高安山ろくと、もと山ろくを北西流していた旧大和川筋に営まれた墓地へと廻る。
4. 神立の墓地 (八尾市神立4丁目)
額田墓地から旧東高野街道筋を南に約5km、八尾市に入った楽音寺で東へ折れて十三街道を登って行くと、神立(こうだち)集落の南に、大きなクスの木が際立つ神立墓地がある。標高75〜80m程の位置にあり、河内平野が見渡せる。墓の上方には式内社の玉祖神社があり、すぐ下には巨石横穴式石室で有名な愛宕塚古墳のほか、ふもとには心合寺山古墳など古い前方後円墳が点在する。
神立共同墓地 六 地 蔵
墓地の入口を進むと左手に高さ2.4m、大久保(窪)出身の侍の墓?ともいわれる正保2年(1645)建立の大きな石造五輪塔が目立つ(現在は崩壊)。
この五輪塔の形式は、岩田墓地の五輪塔に似ていて、もしかすると行基供養塔なのかも知れない。なお、御堂前(火葬場跡=ヒヤ)への通路角には昭和37年に新造された高さ1.6mの「行基菩薩供養塔」がある。
御堂前の新しい行基供養五輪石塔 古い供養五輪石塔か
これまでの墓地と違って、御堂建物の背後には中世〜江戸時代の各種板状墓碑や小型の一石五輪塔が多数集積されている。
墓地は、神立・大窪村など旧高安郡北辺5ヶ村の共同墓地で、墓市は開かれないという。
再び、東高野街道を南へ約3km程行って、垣内の一里塚跡の所を少し山手に登ると垣内(かいち)の墓地がある。
5. 垣内の墓地 (八尾市垣内5丁目)
樹令八百年以上の大クス(府指定)がそびえる善光寺(融通念仏宗)の北東に位置する垣内(かいち)の墓地は、かつては垣内・教興寺・黒谷・服部川・郡川・山畑村の旧高安郡南部6ケ村の共同墓地であった。
昔は墓守がいて火葬を行っていたが、龍華に火葬場ができたため、現在は火葬場が無くなり、墓を移設する家も多いという。(参照『新版八尾市史 民俗編』)
垣内の墓地 丸彫りの六地蔵
墓地の上手中央に位置する旧焼場堂舎前には、像を丸彫りした珍しい六地蔵石仏が並び、堂内には正徳3年(1716)銘の台座上に高さ約80cmの石の迎仏が祀られている。
東側上手には、高さ2.2mの大きな鎌倉時代の立派な石造五輪塔(八尾市指定文化財)があるが、行基との関連は不明である。蓮座台石の上にのる地輪の白い石材は、上部の石と異なり後世に改修された可能性も考えられる。
鎌倉時代の五輪石塔 無 縫 塔
また、北側の墓石に囲まれて一段高い石積みの上に、江戸時代の石造無縫塔の存在が際立つ。残念ながら僧侶の墓なのか、行基の供養石塔であるのかは不明である。
今から40年ほど前までの8月盆中は、電気が灯され墓市が開かれていたといわれる。
旧東高野街道筋をさらに南へ1.6km程行くと、恩智の南側に接する神宮寺集落の上手山腹に恩智の墓地がある。
6. 恩智の墓地 (八尾市神宮寺5丁目)
式内社の常世岐姫神社の東側にある恩智の墓地は、神宮寺村に属し「来迎寺墓地」とも呼ばれている。
西側登口には戦国、江戸時代にかけた小さな砂岩製の一石五輪塔が多数並べられ、上がった入口右手には元禄11年(1698)の大きな地蔵石仏のほか、正面には永禄元年(1558)10月の刻銘のある十三仏板碑や、高さ1.4mを測る鎌倉時代の凝灰岩製五輪塔、十三重石塔など古い時代の石造物が並び、山の斜面にかけて広い墓域が広がっている。
山の斜面に広がる恩智の共同墓地 凝灰岩製五輪石塔など
北側の来迎寺堂舎 迎 仏
北側奥の火葬場跡があり、「来迎寺」銘の瓦が葺かれた堂舎内には、享保4年(1719)の石の迎仏と脇侍が祀られている。
墓地は、もと旧高安郡の南端恩智村と南側に接する旧大県郡神宮寺村(以上八尾市)、それに続く山ノ井村・平野村・法善寺村(以上柏原市)の合わせて5ケ村の共同墓地で、とくに墓市は開かれていなかったという。
墓地の下方、神宮寺集落内には式内社の常世岐姫神社(八王子神社)などがあり、墓地近くの神宮寺は融通念仏宗の寺院で、ほとんどの家が寺の檀家となっているという。
墓地のすぐ南側薬師谷にある醫王山瑠璃光寺の本尊薬師如来立像は、行基の作といい、天平年間に僧行基が開創した寺だったと伝わる。
東高野街道を平野村の手前で西の法善寺村へと折れ、旧の大和川筋を越えて旧奈良街道(現国道25号)を平野方面にとり、老原交差点を斜め北方向、旧北八尾街道の分岐路から少し進むと、JR大和路線の手前に、最後の旧植松村晒の墓地がある。
6. 植松晒の墓地 (八尾市相生町4丁目)
八尾市相生町4丁目、JR関西本線の踏切の手前、旧長瀬川(久宝寺川)の南側堤防上に位置しているため高くなっている。墓地は、旧渋川郡植松村の東端に位置する。
墓地内参道 六 地 蔵
旧植松村一帯は、古代には北西流する旧大和川の西の支流の旧長瀬川(久宝寺川)から、さらに大きく西方の平野方面へと龍華川(橘川) が分岐する地点に近い所に位置し、難波方面と大和方面を結ぶ堤防道であった「渋川路」の交通の要衝に当たっていた所で、北西には龍華寺跡、西方には、式内社の渋川神社や聖徳太子ゆかりの勝軍寺などがある。
墓地の入口には、寛政7年(1795)の石の道標があり、墓地に入ると奥の迎仏を祀る堂舎の左手には、新しい「行基菩薩之墓」の標石と、昭和49年に八尾市が建てた「植松共同墓地の由来」を刻む石碑があり、菊の紋章の入った石扉などを残して新しく改修された石玉垣の中に、宝永〜寛政年間の僧侶の墓に囲まれて、高さ1.7mの五輪石塔があり、行基の供養塔といわれている。
行基供養五輪石塔と顕彰碑
蓮座や梵字が無いが、形式から江戸時代後半頃に建てられたものだろうか。
墓地は旧植松村の墓地で、昔は8月14日に西方の商店街筋からずっと墓地前までたくさんの屋台が並ぶ墓市があったという。
河内七墓を順に紹介してきたが、東大阪〜八尾市にかけて環状に分布する七ケ所の墓地がなぜ選ばれ、七墓をめぐって極楽往生を祈るという庶民信仰がいつごろから始まったのか、よく分かっていない。
行基が和銅7年 (*714)に畿内の五国に5ヶ所の墓地を設け、さらに霊亀2年
(*716)には25ヶ所の墓を設けたその一墓が、長瀬の有馬墓であるという古文書があるらしいが、それが正しければ、他の七墓もその25の墓に含まれるかもしれない。
当然、七つの墓のある地域が、とくに行基の活動や行基信仰と関係の深い地域でもあったことが当然考えられるが、七墓を巡る信仰は、各地の行基供養塔の建立年代や石塔の形式などから見て、江戸時代に入りそれぞれの墓郷の下で墓の管理や火葬などの役割を担っていたといわれる三昧聖(墓守・御坊などと呼ばれた)と呼ばれた人達や村の寺院の活動により、行基千年忌などを契機とした村民への行基信仰の啓発や高まりを契機として、行基供養塔が設置され、行基のもとで往生を願いたいという庶民信仰の大きな高まりとなり、特に中河内において行基の七墓まいりとして大きく庶民の間に広がっていったのだろう。
なお、『大阪府全誌』(大正11年)には、有馬墓地をはじめとした河内七墓についての説明があり、参考にその文を抜粋して下記に紹介しておきたい。
「玉川村大字岩田・龍華村大字植松字晒・南高安村大字恩智・同垣内・北高安村大字神立・枚岡村大字額田の墓と併せて七墓と称せらる。
七墓は七墓廻を以て名あり、毎年七月十五日には老若男女群を爲して其の迎佛を巡拝するを例となし、その風習は今に残れり。
(*有馬)墓地の中央に阿彌陀院あり、本堂及び庫裏を存し、本堂には丈三尺五寸の木造阿彌陀如来の座像を安置せり。故に墓は阿弥陀院の三昧を以て稱せられ、又所在の地名に依りて有馬の墓ともいひ、行基の設けし所なりと傳ふ。
大和國生駒郡往生寺の古文書に依れば、往時高貴の墓地は夙に制定せられたるも、一般衆庶の墓は一定せざりしを以て、死屍の土中より露出せるもの所在にありしかば、之を整理して墓地に寺を建てたるは行基なり。
行基は和銅七年 (*714)五智如来を表して畿内の五國に五ヶ所の墓地を設け、霊龜二年 (*716)二十五三昧無量樂の経文に基きて更に二十五ヶ所の墓を設け、當院三昧は其の第九番に當れり。
行基は道照法師の弟子にして、法師は火葬の元祖なれば、行基も其の志を継ぎて火葬を奨励せしものならん。行基は其の墓地を整理するに際し、土中より現れたる死屍には自ら鋤を以て土を掩ひしことあり、故に行基の木像の多く如意持せるに反し、當院に安置せる同木像の鋤を持せるは之に因めるなりといふ。
もと金の馬像を所蔵せしが、先年盗難に罹りて今はなし。傳へいふ、此の馬夜な夜な出でて附近の耕作物を荒せしかば、其より東の庄に荒馬の稱起れりと。」
2023.10.18 いこまかんなび 原田 修
『行基菩薩草創記』より
なお、関連する史料として、寛保3年(1743)正月に浪華書林より刊行された、沙門本良 著『行基菩薩草創記』より一部を抜粋して紹介する。(京都大学貴重資料デジタルアーカイブ『行基菩薩草創記二巻』より作成、文章の一部を変換。*印は補足したもの。□難解。)
「天平十八年(*746)にあたりて、行基菩薩 帝(*聖武)へ奏聞なされしは、亡者を海川野山にすつれば、成佛得がたき事 著るし、これにより先年、帝の許可をうけ、和泉国より初め、諸国に三昧を開き、まず泉州に八 三昧、河内国に七 三昧、摂津国に七 三昧 都合三十六 三昧。これ田の坪割に表しもうしぬ 田地の割一反を三百六十歩に行基さだめ給ふ。前に役行者 道を踏みわけ一里を三十六丁に定め給ふもあれば、その趣やひとし
その後、愚僧が弟子の志阿弥法師とともに、和泉国には五 三昧を封じ、都合六十 三昧成就いたしけり、諸国三昧の僧みな愚僧が因ゆへ 此後、大佛供養僧に相連るべきよし□め許し給ふ、是も帝の志阿弥を寵遇なされ給ふゆへなりと、御悦かぎりなかりしかば、帝も宸襟つとにうるはしけり、其後三昧聖の曹に、かたじけなくも御綸旨院宣をなし給ふ、誠にこの帝の仁澤は、四民に及ぶのみならず、死者にをも及びぬ、誰か渇仰頂戴せざるべけんや。さても家原の三昧安國寺聖玄悦坊の什物に、俊乗坊重源自筆の五畿内五三昧縁起といふ旧記あり、近代にあたりえぬ、並河五一と云う英儒、台命を承け和泉廻りの節、これを拝して日く、実に重源の自筆なると掲焉たり、かかる重宝は世の人に相せしめられて然るべけんかと有により、それよりこのかた七月十五日より十七日迄のその間は、安國寺の方にて開帳あり、就中また行基の巻とて上篇下篇ありて、これも聖中の一大宝物也、文はなはだ長きゆへ古ゝに略けり、さても神道儒道に於ゐては・・・・・・・・・・・略・・・・・・・・・・。」
2023.10.28 いこまかんなび 追加
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