日下山ろく左手マンションの間の奥が「石凝寺跡」にあたる 背後の嶺は草香山
石 凝 寺 跡 (いしこりでらあと)
生駒山の西ろく、日下町2丁目にある日下墓地の西南一帯では、以前から古瓦片が見つかっていたこともあり、昭和36年に住宅開発に先立ち、墓地の南西50m(1444番地)にある畑地の一部に、礎石らしい大きな石が埋まっているとの言い伝えにもとづいて、枚岡市教育委員会(担当 藤井直正氏)による発掘調査が行なわれました。(現在は東大阪市)
この付近には、行基年譜などに登場し僧行基が建立した四十九院の内の「石凝院」「石凝寺」の跡ではないかと考えられていたためです。
調査は、昭和36年7月におこなわれ、耕作で削平されていたものの、小さい石の西側に、幅1〜2mの範囲に奈良時代の古瓦片の集積があり、西がわの縁辺は、ほぼ一直線をなし、北西で隅をつくって東に折れていて、これを一隅にした堂宇の基壇が存在していたことが明らかになりました。
行基の河内七墓の一つとも伝わる日下墓地〜南方の石凝寺跡遠望-北より
日下墓地の入口 火葬場跡に新しい行基供養塔が建つ
石凝寺跡の調査風景(「枚岡市埋蔵文化財資料3」昭37 河内郷土研究会)
出土した瓦類は、平瓦・丸瓦片に混じって3枚2種類の唐草文端平瓦(下図)が含まれていて、同様の瓦は平城宮跡、近くでは、日下の南方に鎮座する式内社の石切劒箭神社境内に存在した法通寺跡でも発見されています。
唐草文端平瓦には、陰文に仕上げた珍しい瓦も含まれ、また近くで採集された平安時代の唐草文端平瓦の文様中心に「西」の文字があります。
もとは「西寺」の文字をいれていたようで、平安京の西寺とその瓦は河内国牧野瓦窯(枚方市)で製作され、この地へ供給されたのではないかと考えられています。
この調査は、唯一の発掘調査であり、広範囲にわたるものではなかったものの『行基年譜』に「行年五十三歳 元正六年養老四年 石凝院九月十五日 在河内国河内郡日下村」として日下に存在したという石凝院の跡は、日下墓地を含む南方一帯に存在した可能性が極めて高いといえます。
日下の地は、古代には山ろくまで日下江がせまり、古くからの港が存在するとともに、山ろくを南北に通じる東高野街道や生駒越えの古道が交差する重要な交通の要所であったため、行基と在地豪族の力により、寺院が営まれることになったのでしょう。
石凝院跡の位置 (国土地理院の航空写真を使用)
なお、日下墓地は、行基の河内七墓(荒馬・岩田・額田・神立・垣内・恩智・晒)に加えて行基の七墓の一つとも伝えられていますが、墓地内には江戸時代のおわり、弘化4年(1847)、行基の千百年忌の供養のために、日下大龍寺の僧正印によって建てられた供養石塔(現在は新調)があり、この墓地一帯が行基の石凝院の地であったことから、河内七墓といわれるようになったものと思われます。
2006.10.4作成、2019.10.10 国土地理院航空写真に加筆・追加
供養石塔
(表面)一千竟到彼岸行基菩薩千百年忌之石塔建立伸以供養也
(背面)勝逝勝場解豈時弘化四歳丁未十一月下旬大龍寺現住沙門正印敬白
いこまかんなびの杜
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