石 凝 寺 関 係 史 料
 『続日本紀』 巻三二 光仁天皇 宝亀四年十一月条

勅、「故大僧正行基法師、戒行具足、智徳兼備、先代之所推仰、後生以爲耳目、其修行之院、惣四十餘處、或先朝之日、有施入田、或本有田園、供養得済、但其六院未預施例、由茲法蔵壊廃、無復住持之徒、精舎荒涼、空餘坐禅跡、弘道由人、實合奨励、宣大和國菩提・登美・生馬、
河内國石凝、和泉國高渚五院、各捨當郡田三町、河内國山埼院二町、所翼、眞筌秘典、永洽東流、金輪寶位、恒齊北極、風雨順時、年穀豊稔」


〔解題〕
 勅によって、故行基の建立した修行の院四十余処の中、未だ施例に預からず、従っていま荒涼している五院にはそれぞれその郡の田地三町、又、山埼院には二町を施入せられたというのである。
このうち河内国石凝寺の所在について、『河内志』ではその廃石凝寺を錦部郡錦郡村に在りとしているけれども、ニシゴリとイシゴリの音が近いための誤りであり、『行基年譜』(続々群書類従、史伝部所収)によると、「行、年五十三歳。元正六年養老四年庚申、石凝院九月十五日起、在河内国河内郡早村とし、又、『教王護国寺文書』巻一の八号文書、永保元年の「河内国石凝寺々地等免判抄」に河内国早郷石凝寺云々とし、院・寺の字はともかくいずれも早郷に所在したことをしるしている。
早とする郷名の一字は異例であるが、年譜では和泉国大鳥郡日部郷をも早部郷とし、早は日下の誤りとしてよい。
すなわち行基のいわゆる、四十九院の一である石凝寺は、河内国河内郡日下村の地にあったと思われるが、その遺跡についてはなお問題があろう。因みに行基年譜についても問題はあろうが、延暦二四年の記録などによるとし、文字錯乱はともかく相当信憑してよい文献であろう。 
『枚岡市史』 第3巻 資料編 昭和41年より


 『河内国石凝寺々地等免判抄』 教王護国寺文書巻一

  河内国石凝寺々地等免判抄
河内国早郷石凝寺敷地四町 在條理
(里)
 大戸郷碓井里十一
(坪)九段九十歩 御田三反
 十四(坪)一丁       廿三(坪)二段二百九十歩
 廿九
(坪)三段      深見里九(坪)一丁
 同十六
(坪)一反     鋒柄里二(坪)三段 御田半
 小津里九
(坪)二反半   同里廿(坪)五反
  己上四丁六反三百歩
若江郡
 南條清水里廿九
(坪)一丁 丗(坪)一丁
 北條錦部田里廿五
(坪)九段
 丗三
(坪)一丁     字悦里一丁
 丗四
(坪)一丁     五丁九反之御田五反宮一丁齋宮一丁
   永保元年 免判内

〔解題〕

京都で俗に東寺といわれる真言宗の教王護国寺の文書で、全国に及ぶ広大な寺領関係が多い。
この寺は平安時代から室町時代にかけて、寺領庄園の獲得が多かった。河内国では永保元年(1081)の石凝寺の寺地等免判抄を巻一に載せている。当寺の所在を早郷(日下郷)と記し、大戸郷と若江郡の各里の段別を別記しているが、特に御田・宮・斎宮の段別が注目せられる。これら田畑の官物免除の申請に対して、国司はその証判を与えたものであろう
とにかく石凝寺は平安時代末には、教王護国寺に庄園を寄進して、その末寺になったものである。 
 『枚岡市史』 第3巻資料編 昭和41年より


 
行基の石凝院と石凝寺跡



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