石城国と小名浜住吉神社 ( 補考 石城国造の建許呂命について )



   
石城国と小名浜住吉神社


 古代の陸奥国南半に位置する福島県は、大きく三つの地域に分けられている。
 阿武隈高地と太平洋に挟まれて、丘陵地と海に開いた沖積地が、交互に長く続く「浜通り」即ち海道地域と、中央部を北流する阿武隈川の流域に沿って奥州街道が通じていた「中通り」即ち山道に沿った地域、さらに西方の奥羽山脈との間に開けた阿賀川と支流域の盆地と山間部からなる「会津」の地域である。

 福島県下の住吉神社であるが、確認できた神社は、浜通り地域では南部に位置し古来の磐城郡(石城)にあたる いわき市域に4社があり、中通り地域では南から白河市・東白川郡棚倉町・西白川郡矢吹町・田村市・安達郡大玉村・二本松市太田・福島市大波と飯野町・伊達市域など、現在では確認できない社を合わせて10社ほどの住吉神社の存在が確認できる。
 また、県の西半の会津地域の中心地、会津若松市・喜多方市の他、山間部の河沼郡・耶麻郡・大沼郡を通る谷合いの街道筋などに8社の住吉神社が確認され、福島県下には合わせて20社ほどの住吉神社の存在が確認できる。


 
        
福島県下の住吉神社分布(『福島県名勝舊蹟抄』明治41年』の地図に加筆加工)


 一方、福島県下の古墳を概観すると、内陸部の会津盆地
(会津若松市)には、4世紀後半の前方後円墳である会津大塚山古墳(114m)や亀が森古墳(129m)があるほか、中通りの阿武隈川流域に沿った郡山市域には、大安場1号墳(83m)や正直35号墳(37m)など、4世紀後半の中・小の前方後方墳や前方後円墳を含む古墳群が一早く築造されているほか、装飾文様を施した泉崎横穴墓など古墳時代後期の横穴古墳群も多数造られている。
 また、海に面した浜通り地域では、宮城県に入った阿武隈川の河口左岸には、古くは潟湖であったと見られる海岸平野を見下ろすことのできる名取市の丘陵上には、陸奥国では最大規模の前方後円墳、雷神山古墳(168m)をはじめ、南方に位置する南相馬市には、前方後方墳の桜井古墳(75m)など、4世紀後半の前期古墳が存在する。
 さらに太平洋に沿って南下すると、いわき市北部の仁井田川~旧内湾地域を見下ろす丘陵突端部には、二重口縁壷が出土し県下第3位の規模を持つ前期の前方後円墳の玉山古墳
(四倉町、112m)のほか、南方の夏井川の河口近くの旧砂丘上には、有名な男子胡座像埴輪など形象埴輪が出土した中期の神谷作古墳のほか、今回取り上げる小名浜住吉神社の北東に位置する小名浜林城には、塚前古墳(約100m)が存在するなど、6世紀前半に入った古墳時代後期の前方後円墳も営まれている。
 このほか、浜通り地区では渦巻文・人物などの彩色壁画を持つ清戸迫横穴古墳(双葉町) や、紅白連続三角文の装飾壁画で有名な中田横穴古墳(いわき市)など、6世紀後半~7世紀にかけた横穴古墳群が存在し、九州や吉備地方との関係が深いとされる横穴装飾古墳の存在が特に注目されている。

 このように、陸奥国の南半地域は、古墳時代の相当早い時期から畿内大和の勢力と深い関係を有し、石城国造などの国造が任命された支配地域と、支配を受けない蝦夷の地域圏が混在していたようであるが、大化の改新以降、7世後半にかけて急速に国郡制の施行と律令制度の浸透策が進められ、とくに陸奥国の南半は、強力な律令国家へと組み込まれていったようだ。
 石城地域では、夏井川の南、海に近い丘陵の麓から石城評(郡)の郡役所跡・寺院跡(夏井廃寺)からなる根岸官衙遺跡群が発見されていて、古代の石城の中心地であったことが判ってきている。
 奈良時代の初めの養老2年(718)に、陸奥国の南部の石城(いわき)・標葉(しねは)・行方(なめかた)・宇太・日理(わたり)と常陸国菊多郡を合わせた海道沿いの六郡、いわゆる浜通りの地域の大半が割かれて「石城国」が誕生した。
 中通りと会津の山道地域は、同時に「石背国
(いわせ)」と呼ばれる国が立てられていたが、間もなく共に廃止され、総ての郡は再び陸奥国へと戻された。
 平安時代中期の『和名類聚抄』によると、陸奥国の磐城(石城)郡は、蒲津・丸部・神城・荒川・私(部)・磐城・飯野・小高・片依・白田・玉造・楢葉の12の郷域に分けられていたことが解る。これらの郷は、ほぼ南から北に向かって記されている。白田・楢葉を除いた地域は、現いわき市域にあたっている。

 ところで、平安時代の『延喜式』神名帳には、磐城郡の式内社として、大國魂(おおくにたま)神社・二俣(ふたまた)神社・温泉(ゆの)神社・佐麻久嶺(さまくのみねの)神社・住吉神社・鹿島神社・子鍬倉(こくわくら)神社の計七座の神社が記されていて、この中に、今回取り上げる小名浜の式内社「住吉神社」が含まれている。



 住吉神社 (いわき市小名浜住吉 鎮座)

 古くからの小名浜の集落は、太平洋に突き出した綱取崎と西方釜戸川に沿った丘陵までの東西4km程の間に形成された弧状の砂丘 (浜堤、標高約2m前後)上に営まれていて、その西端近くの浜堤を切って、北方常磐地域の天狗岳、湯ノ岳周辺の谷水と湯本川など諸支流を合せて南流する藤原川は、釜戸川を合わせて太平洋へと注いでいる。
 海岸一帯は、戦後の発展と共に県下最大の臨海工業地帯・港湾化し、砂堤の続く昔の面影は、まったく失われている。

  
                 国土地理院の航空写真(1952年)を加筆加工

 住吉神社は、小名浜の街から藤原川を約3km程遡った標高1.5m前後の旧湖沼状地形の奥にあたる、いわき市小名浜住吉字住吉の一画に突き出た岩山、通称「磯山」の北に接して東を向いて鎮座する。鎮座地の西側や南側の藤原川沿いには、「入海」の字名も残る。
 住吉神社で配布されている『由緒略記』(平成30年)によると、祭神は、住之江三神 (表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命)で、「人皇十二代景行天皇の御代に、時の大臣武内宿祢が勅命を奉じて東北地方を巡視した際、この住吉が陸と海との要害の地で有り、東北の関門にもあたるので、航海安全と国家鎮護のため東北総鎮守として祀られたとつたえている。延喜式内社磐城七社の一であり全国住吉神社七社の中にも数えられている。第七十代後冷泉院の康平七年(1064)には、朝廷が勅使をお遣わしになって、東国の賊徒の平定を御祈願になり、源頼義は源家の宝刀鵜の丸の剣を献じて武運を祈念されたと言われている。・・・・・・・。」
と、神社の由緒が記されている。


     
                東方から住吉神社と磯山を遠望
 
      神社正面の木製鳥居(東から)           東を向く鳥居
 
                     石製の太鼓橋

 また、同社HPでは、「御祭神は同じですが、大阪の住吉神社から後世分社したというものではなく、独立した神社です。」と説明されている。

 境内の「磯山」と呼ばれる不思議な岩山は、「蓬莱山」ともいわれ、標高約12m、東西80m、南北60m程の大きさで、北側は大きな岩塊を寄せ集めたようにも見え、クサビ痕のある石塊も一部含まれている。
 神社は、山の北側に接して、朱塗りの木製両部鳥居、小さな石製の太鼓橋、狛犬一対・神門を入った奥には、銅製燈籠・拝殿・幣殿・本殿が東西に並んでいる。
 本殿は、三間社流造り、桃山様式の建造物で、寛永18年
(1641)に泉藩の城主内藤政晴公が再建したもので、花・獣・四天王などの彫刻を嵌め込んだ立派な本殿で、江戸時代初期の貴重な本殿として、昭和33年には棟札類と共に県の重要文化財に指定されている。
 とくに注目されるのは、『由緒略記』に「屋根裏には、寛永再建当時の墨書銘が多く、宝永六年(1709)の三号棟札によると、北向きの社殿を貞享元年(1684)に現在の如く東向きにかえ、屋根を葺替えたことが記されており、屋根裏の墨書銘とともに明らかとなっている。」と記されていて、神社は「磯山」を背に北向きの本殿であったといい、大きな「磯山」を古代の磐座(いわくら)として祭祀していたことを物語る神社配置であったと考えられる。

     
                        拝 殿
   

  
                 豪華な彫刻が施された御本殿

 境内には、末社の八坂神社・別雷神社・諏訪神社(本殿裏)・久須志神社が祀られている。
 この磯山(蓬莱山)は、周囲の裾部が海蝕を受けて小さな凹みが多数ある岩肌で、上部は比較的平たい岩が数個露出し、「磐城判官の住吉御所」と呼ばれてきたようで、かつて建物が存在したようにもみえる。



「磯山」の南側には、朱色の「摂社 住吉八幡神社」の社額を掲げる木製鳥居・拝殿・流造りの本殿があり、『由緒略記』には神功皇后を祭神として祀る、と記されている。

 本殿背後の磯山斜面には、方形に竹で組まれた忌垣があり、注連縄をまいた数十cm程の自然石が祀られていたのが興味深い。なお、東側の道沿いには短い石柱状の末社足尾神社が祀られている。

 
             磯山の南側に祀られる摂社の住吉八幡神社
   
                 摂社の御本殿と背後磯山(海蝕崖)の岩肌

 さて、今回取り上げる小名浜住吉に鎮座する住吉神社の所在地は、『大日本地名辞書』(明治33年)によれば「丸部郷」にあたっていたと考えられていて、以下のとおり記されている。

「丸部(わにべ)郷 和名抄、磐城郡丸部郷。今玉川村、鹿島村にあたるごとし、即私部郷の東南に隣り、蒲津郷の東北に接し、神城郷の西とす。・・・・・・。」とある。
 すなわち西北は、船尾・湯長谷辺りの「私部(きさきべ)郷」に、南西は、釜戸川の流域の渡辺・泉などを含めた「蒲津(かまと)郷」に、東は、小名浜の浜堤~神白(かじろ)・江名の地域が「神城(かしろ)郷」の各郷に挟まれた旧玉川村と、鹿島村の矢田川沿い南半の地域であったと考えられている。その奥半は、荒川郷域で式内社の鹿島神社が鎮座する。
 住吉地域については、同じく『大日本地名辞書』には次のような内容が記されている(私訳)

 住 吉 (スミヨシ)
 住吉村は、野田・島村・富岡・大原・相子島・林城等の村と合せて、玉川村の名へと改められた。湯本から東南へ約6km、小名浜の町から西北へ4km、海岸より平坦な地続きで、やや豊潤な地勢である。『延喜式』磐城郡の中に住吉神社が記され、西国から墨江三所神(住吉三神)が遷されたものであろうが、いつの時代であったのか不明である。
 『常陸風土記』に「淡海之世、擬遣不見国、令陸奥国石城、造作船」とあるのは、はるか東北の地境を探るために石城で大船を建造させたもので、天智天皇の時代の事と記している。この石城の造船は、どのようなものであったかは不明である。住吉三神が小名浜の近くに祀られているということは、恐らく造船の際に海上での船霊となるよう、勧請されたものではないだろうか。(以上私訳)


との大変興味深い考証がされている。但し『常陸風土記』の原文は少し違っており、これらについては、後に改めて考えることとしたい。

 次に『磐城古代記』(四家文吉編著 明治29年) には、住吉神社について次のように記している。
「住吉大明神 平城の南廿里住吉村にあり、建立の年詳ならず、伝ひいふ、八幡太郎の執る所の鶴丸剱ならびに旗を認(したた)め神体となせし以来、剱宮大明神といふ、二季の祭禮を勤む 七座の一なり」
と記しているが、源義家(八幡太郎)奉納の宝剣の名が異なっているほか、住吉神社の『由緒略記』の方には「剱宮大明神」と呼ばれていたとは記載されていない。

 住吉神社から北へ続く住吉地区集落の北端には、真言宗の遍照院(住吉山金剛寺遍照院)という寺院があり、その背後には国道6号との間に標高25m程の独立した山丘があり、「住吉館」あるいは「玉川城」と呼ばれた中世城郭の遺跡がある。

 
                 遍照院と背後の住吉館跡のある山丘

 この「住吉館」について、『大日本地名辞書』には「住吉館は、『(*奥羽)観迹聞老志』に「岩城判官居城是也、建住吉神祠、是亦延喜式所記(住吉神社)也」と見えたり。岩城族の居たりしならんが、其岩城判官とて、中世以来の草子(お伽奉公)に、一條の物語あるは、根據を知らず。〇磐城古代記云、住吉館は野田玉川より四町許隔て、玉川城ともいふ、城門の左方の石垣形すこし在る、相伝ふ、岩城判官政氏の墟にして、遍照院、即彼家の菩提所なりと、岩城名勝談に、岩崎三郎隆綱は、島倉館より住吉館へ移り、白戸氏と不和になりて、没落滅亡せりと、・・・・・」と記されている。
 すなわち住吉館は、平将門の子であった平 政氏すなわち石城判官の居城であり、南に位置する住吉神社の磯山が「磐城判官の住吉御所」と呼ばれてきたのも頷ける。
 なお『奥羽観蹟聞老志』は、江戸時代の享保4年に仙台藩の佐久間義和が編纂完成させたもので、『磐城古代記』は、明治9年に四家文吉の著作である。

 ところで『福島県の地名』(平凡社)には、
「住吉神社  いわき市小名浜住吉 字住吉にあり、祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命で、旧郷社。『延喜式』神名帳の磐城郡七座の一つで、神名帳に載る住吉神社は、全国で当社のみである。社伝によると、武内宿禰が海上で暴風雨にあい、住吉神に祈り、のち磯山に勧請したという。海上安全の神として信仰される。・・・・・・・・。」
と解説されている。


 ところで『延喜式』神名帳に載せられた住吉神社は、全国で以下の7社がある。
 ①摂津国住吉郡  住吉坐神社四座 並名神大、月次相嘗新嘗
 ②陸奥国磐城郡  住吉神社
 ③播磨国賀茂郡  住吉神社
 ④長門国豊浦郡  住吉坐荒御魂神社三座 並名神大
 ⑤筑前国那珂郡  住吉神社三座 並名神大
 ⑥壹岐島壹岐郡  住吉神社 名神大
 ⑦対馬島下縣郡  住吉神社 名神大

 いわき市内には他にも何社か住吉神社が祀られているが、小名浜住吉に鎮座する住吉神社は、『延喜式』神名帳の陸奥国磐城郡七座の一社として載せられている式内社であり、さらに同社『由緒略記』に記されているように、「全国住吉神社七社の中にも数えられている」神社であり、他の式内社と共に『延喜式』が制定された平安時代中期(10世紀)より古い時代から祀られ、当時の朝廷あるいは国司から重視され、奉幣を受けてきた古くからの神社であったことには違いはない。


  小名浜住吉神社の創祀について

 それでは、小名浜の住吉神社が創祀された経緯について少し考えてみたい。
 その一つは、神社の『由緒略記』にあるように「景行天皇の御代に、時の大臣武内宿祢が勅命を奉じて東北地方を巡視した際、この住吉が陸と海との要害の地で有り、東北の関門にもあたるので、航海安全と国家鎮護のため東北総鎮守として祀られたと伝えている」ことである。

 これに関連して『日本書紀』の景行天皇の条には次のような記述がある。
「廿五年秋七月庚辰朔壬午。遣武内宿禰北陸。及東方諸國之地形。且百姓之消息也。廿七年春二月辛丑朔壬子。武内宿禰自東國還之奏言。東夷之中。有日高見國。其國人。男女並椎結文身。爲人勇悍。是捴日蝦夷。亦土地沃壌而曠之。撃可取也。」

 これは、第12代景行天皇の25年秋7月3日に、北陸と東方の諸国の地形と百姓の消息を調べるよう武内宿禰(たけうちのすくね)を派遣し巡察させた。27年春2月12日に東国から戻った武内宿禰は、東夷の状況を報告し、肥沃で広大な蝦夷の地である日高見の国を取るべきだと天皇に報告した、と記されている。
 『由緒略記』に記されている神社の創祀伝承は、こうした『日本書紀』の記述と深く関わっているようにも見える。
 ここに登場する武内宿禰とは、『古事記』によると、孝元天皇の皇子の比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)が、木国造(きのくにのみやつこ)の祖、宇豆比古(うづひこ)の妹の山下影日売(やましたかげひめ)を娶って生まれたのが建内宿禰で、子どもは七男二女合わせて九人いたという。
 一方、『日本書紀』の方では、景行天皇の御代に、孝元天皇の皇子 彦太忍信命
(ひこふとおしまことのみこと)の子の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)、別名[書]では武猪心(たけいこころ)が、紀伊国の神祇の社を祀るため派遣されていた時に、紀直(きのあたい)の遠祖菟道彦(うぢひこ)の娘の影媛を娶って生まれたのが武内宿禰であるとしている。
 武内宿禰は、景行~仁徳天皇までの五朝にわたる歴代天皇の重臣として仕えた伝承上の人物だとされ、神功皇后の三韓征討にも大きく関わり、以後、古代ヤマト王権を支えた紀氏・蘇我氏・平群氏・巨勢氏ら27氏族の祖ともされている。
 この中には7世紀中頃に広大な坂東地域の総領を務めた「高向臣・高向大夫」
(『常陸国風土記』)として登場する高向(たかむこ)氏も含まれている。

 住吉神社の創祀に関わるもう一つの考えとして、『大日本地名辞書』では、小名浜に式内社の住吉神社が祀られていることと、『常陸国風土記』に登場する「石城造船」に伴った船魂との関連を指摘していることである。

 『常陸国風土記』鹿島郡の条を見ると、次のように登場する。
「軽野以東大海浜辺。流著大舩。長一十五丈。濶一丈餘。朽摧埋砂。今猶遺之。謂淡海之世。擬国。令陸奥國石城舩造作大舩。至于此。着岸即破之。」

 すなわち、軽野の東方大海(太平洋)の浜辺には漂着した大船があり、長さは15丈、巾は1丈余り、朽ち崩れて砂に埋まり今も残っている。これは天智天皇の御代に、国土探求のため派遣させようと陸奥国の石城の船造りに命じて大船を造らせたが、ここまで来て岸に流れ着いてたちまち破壊した。と記されている。
 ここに登場する「陸奥国石城舩造」とは、どのような地域の集団であったのだろうか。石城国ならば相当広い地域になるが、天智天皇の時代(668-672)の7世紀後半に入った頃は、すでに国郡制が施行された時期であり、そうした時期よりも古い時代から、陸奥国の南端部にあたる菊多・石城郡の辺り、現在のいわき市域で海へ流れ込む河川の奥部、あるいは浜堤の奥に形成された潟湖沿いのどこかに「舩造」集団が置かれていた可能性があると考えられる。
 いわき市の南部、鮫川の少し上流の右岸山間部に広くはないが、船造に関わる杣山なのだろうか、山田町「舟木」の字地名の存在が注意されるほか、小名浜住吉神社の西北近く藤原川左岸に常磐下「船尾」の地域も気になる地名である。

 少し話は飛躍するかもしれないが、住吉大社の社宝である『住吉大社神代記』には「船木等本記」として、古代の大型造船や船津の管理などを職掌とした船木氏の系譜や、住吉大社の神主職にあり祭祀を掌握した津守氏との関係と伝承が記されている。
 その中に、神功皇后の新羅遠征から帰還した時のこととして、皇后と住吉大神ほかの諸軍神、諸軍臣などを乗せた船三艘の船魂を武内宿禰に祭祀させたのが、紀伊国の志麻社・静火社・伊達(いたて)社の三前(*共に紀伊国名草郡の式内社)であると記されていて、船木氏の造船は、紀伊国出身である武内宿禰あるいは紀(木)氏族と神功皇后が極めて深い関係にあったことを物語っている。
 言い換えれば、武内宿禰は、紀氏と造船と軍船による遠征などと深い繋がりを持つ人物で、田中 卓博士が指摘されたように実在の人物であったと考えられと共に、武内宿禰とその末裔一族が、常陸国はもちろんのこと陸奥国の特に海道筋の各地、中でも石城地域と密接な関係を持っていたと考えたい。
 こうした事を前提に、小名浜住吉神社の創祀時期は、武内宿禰が活躍していた頃と想定してもいいのかも知れない。



 (補考) 石城国造の建許呂命について

最後に、小名浜住吉神社の創祀と何らかの関係があるかも知れないと信じ、石城の国造としてその名が登場する「建許呂命」という人物について若干考えてみたい。
 平安時代の初期に成立されたと考えられている『先代旧事本紀』の「国造本紀」によると、陸奥の石城国造(くにのみやつこ)は、「石城国造 志賀高穴穂朝御世 以建許呂命定賜國造」と記されている。
 すなわち石城国は、景行天皇の後の第13代成務天皇の時代に「建許呂命(たけころのみこと)」という人物が石城地域の支配を任されて、石城国造に任命されたことが解る。
 『日本書紀』には成務天皇5年の秋、諸国に命じて国・郡に造長を立て、県・邑に稲置を置いた、ことが記されているので、この時なのであろう。
 石城に加えて中通りの地域に存在した石背(いわせ)の地も、「国造本紀」によると、同じく成務天皇の御代に「建許呂命」の子の建弥依米命(たけみよりめのみこと)が石背国造に、さらに石城の南に位置する道奥菊多国も応神天皇の代に同じく「建許呂命」の子の屋主刀祢(やぬしとね)が道奥菊多国造に、後の常陸国の北端にあたる道口岐閇(みちのくちきべ)国も、応神天皇の代に「建許呂命」の子の宇佐比刀祢(うさひとね)が道口岐閇国造に任命されている。
 この他、相模湾に面した師長(しなが)国造や、房総半島上総地域の須江(すえ)国造・馬来田(うまくた)国造もそれぞれ応神天皇の御代に「建許呂命」の子が国造に任じられているのである。
 また、常陸国の中央部にあたる茨城国造は「国造本紀」に応神天皇の御代に天津彦根命の子孫である筑紫(紫は波の誤りか)刀祢が国造に任じられたとしているが、『常陸国風土記』の茨城郡の条では、次の様に「多祁許呂命」という人物が登場する。

「茨城国造初祖。天津多祁許呂命仕息長帯比売天皇之朝。当品太天皇之誕時。多祁許呂命有子八人。中男筑波使主。茨城郡湯坐連等之初祖也。」
と記す。

 字は異なっても「多祁許呂命(たけころのみこと)」は「建許呂命(たけころのみこと)」と同一人物である。
 すなわち「茨城の国造の初祖の多祁許呂命は、息長帯比売天皇(神功皇后)の朝廷に仕え、品太天皇(応神天皇)がお生まれになった時代までいた。多祁許呂命には子供が八人あった。中男(後継者)の筑波使主は茨城の郡の湯坐連らの初祖である。」(平凡社ライブラリー『風土記』)
と記されている。

 そうすると、常陸の茨城国造になった筑波使主(おみ)の初祖にあたり、石城国の国造であった多祁許呂命=建許呂命は、神功皇后から応神天皇の時代まで朝廷に仕え、子どもは八人いたこと、以上の諸国造などの記載などから考えると、建許呂命(多祁許呂命)とその子どもら一族は、成務天皇~応神天皇の代には、何と下総・上総・常陸・陸奥南部地方に存在した諸国の国造に任じられ、東国の広い範囲にわたる支配が任されていた大豪族だったということになる。
 常陸国茨城郡の西に位置する筑波郡であるが、『常陸国風土記』によると筑波の県は、崇神天皇の治世は「紀の国」といっていた。これは筑箪命(つくばのみこと)が紀の国へ国造として派遣されたことから紀国としたが、のちに自分の名に改めて筑波の国とした、という話しを載せている。
 すなわち、筑波郡の豪族の筑箪命(つくばのみこと=筑波使主か)は、建許呂命の子ということになり、紀伊国との深い関係があったことを物語っていることから、建許呂命の出自は、さらに興味深いものとなる。

           
  『先代旧事本紀』「国造本紀」より(一部)       『住吉大社神代記』より(一部)


 では、最後に「建許呂命=多祁許呂命」とはいったいどのような人物だったのか、回り道をするようであるが、想像を膨らませてみたいと思う。

 まず、大阪の住吉大社に秘蔵されている社宝『住吉大社神代記』「山河寄せ奉る本記」の中にも、気になる部分があるので抜き出してみると、
「右、山河寄さし奉る本記とは、昔、巻向の玉木宮に御宇しし天皇、癸酉年春二月庚寅[朔]、大神の願ぎたまふ随に、屋主忍男武雄心命(一に云う、武猪心。)を遣使わして寄さし奉るところなり。爰に武雄心命、此山を以用て幣となし、阿備の柏原社に居て斎祀る。九年の内に即難破の道竜住山の一岳を申し賜ひき。(武猪心命とは武内足尼の父なり。臣八腹等が祖なり。)・・・・。」(田中 卓著『住吉大社神代記の研究』昭和60年 より)と記されている。
 但し、垂仁天皇の時代としているのは誤りで、癸酉の干支から景行天皇三年という。


 詳細は省略するとして、大和・紀伊の両国に跨る二上・葛城・和泉葛城山地と山ろく部を含めた広大な山河や田地を神領として住吉大社に寄せることになった話の中に、紀伊へ派遣された屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)、すなわち武雄心命の名が登場し、一名は武猪心命といい、最初の大臣あるいは臣となった武内足尼(たけうちのすくね)の父親であると共に、武内足尼を含めた八腹(八氏族)の祖となる皇子であったことを記している、と理解できる。

 この「武雄心命」または「武猪心命」に関して、記紀の内容から改めて確認してみたい。
 まず『日本書紀』では、孝元天皇の皇后欝色謎命(うつしこめのみこと)は、二男一女の御子をもうけている。大彦命、稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこふとひひ 開化天皇)、倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の三人であるが、ここで注意されるのは、倭迹迹姫命のすぐ後に「一云。天皇母弟少彦男心命也」と分注が付記されており、母を同じくする「少彦男心命」という皇子であった可能性を補足している。
 また、妃の伊香色謎命(いかしきめのみこと)は、彦太忍信命(ひこふとおしまことのみこと)を生んだが、この命は、武内宿禰の祖父だと記し、別の個所では屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)、一書には武猪心(たけいこころ)が、紀伊に派遣された時に紀直(きのあたい)の遠祖菟道彦(うぢひこ)の娘の影媛を嫁って武内宿禰を生んだ、とあるから系譜は一応つながり、彦太忍信命の子が屋主忍男武雄心命、その子が武内宿禰ということになる。
 これに対し『古事記』では、孝元天皇の皇后の内色許賣命(うつしこめのみこと)は、三人の皇子をもうけている。大毘古命(おおびこのみこと)、次に注目したい少名日子建猪心命(すくなひこたけいこころのみこと)、次に若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと 開化天皇)となっている。
 また、妃の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)との間の御子は、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことみこと)で、木国造の祖の宇豆比古の妹、山下影日売を娶って生まれたのが建内宿禰であるとしており、『日本書紀』・『住吉大社神代記』とは系譜を異にしている。
 最も信頼しうる皇室系図といわれる『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426)成立)では、彦太忍信命―屋主忍武雄心命―武内宿祢―木兎宿祢へ続く系譜が記されており、彦太忍信命の子が屋主忍武雄心命で武内宿禰につながっていくと考えられてきたようである。
 ただし、『日本書紀』の「少彦男心命」と『古事記』の「少名日子建猪心命」とは、どのような皇子であったのかは不明である。もし「少彦男心命」が「武」の字の脱けた「少彦(武)男心命」であったものとすれば、「(武)男心命」と「建猪心命」は、同一人物だった可能性もでてくるし、武内宿禰の父親の「武雄心命」または「武猪心命」とは、全く別人であったとも言い切れない。

 系譜は不明ながら、『国造本紀』に石城国造として登場する「建許呂命(たけころのみこと)」すなわち『常陸国風土記』に「多祁許呂命(たけころのみこと)」の名で登場する人物とは、「たけおこころ」・「たけいこころ」の読み名が訛伝して「たけころのみこと」と呼ばれるようになった可能性も十分考えられることから、紀伊国と深くつながっていた武内宿禰の父親の「武雄心命」すなわち「武猪心命」と同一人物であったと考えたい。
 共に、子どもが八氏族の祖となった旨を分注付記していることも、偶然ではないだろう。

 なお、最後に『先代旧事本紀』「天皇本紀」の崇神天皇の四年条に大祢(おおね)に任じられた「建膽心命(たけいこころのみこと)」については、物部連公の祖の一人として挙げられているが、石城国造の「建許呂命」と同一人物だと考えたい。


  2021.4.7 いこまかんなび 原田 修




 
(参照) 

1. 皇學館大学名誉教授 文学博士 田中卓先生「武内宿祢の出自と年齢 ―皇紀と歴史年代との関係―」
 『すみのえ』220号  平成8年4月 住吉大社

2.『日本古代氏族人名辞典』平成2年11月 吉川弘文館
3.『大日本地名辞書』・『磐城古代記』・『奥羽観蹟聞老志』・『先代旧事本紀』・『本朝皇胤紹運録』・
 『福島県の神社と祭神』・『福島県名勝舊蹟抄』などは、国立国会図書館デジタルコレクション」を参照
 した。





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