大阪南部の広大な山河は住吉大社の神領であった


                  葛 城 山       ( 水 越 峠 )             金 剛 山       
 

 「膽駒(生駒)神南備山本記」が記されている『住吉大社神代記』(重要文化財)には、奈良時代における住吉大社の神宝、子神・部類神のほか、神功皇后にまつわる鎮座の縁起、各地の広大な神領などが詳しく記されています。
 『神代記』は『日本書紀』などには記されていない独自の説話などが多数記されていて、古代における住吉大社の姿と当時の神領などを解明する上で極めて重要な資料として位置付けられています。
 住吉大社の東方に位置する「膽駒(生駒)神南備山」の記述の前には、垂仁天皇が奉ったという二上山〜葛城山〜金剛山にかけた大和葛城山地と、さらには西へ折れて紀淡海峡近くまで連なる和泉(葛城)山地にいだかれた南河内〜泉州にまたがる広大な地域の農耕・治水に関する記録「山河寄さし奉る本記」が記されていて、大阪南部の大半が住吉大社の神領であったことを物語っています。

 『訓解 住吉大社神代記』より引用して紹介いたします。 



 
『住吉大社神代記』の「山河寄せ奉る本記」

右、大神宣はく、「我が田我が山に、潔浄水を錦織・石川・針魚
(はりを)川より引漑はせて、榊の黒木を以って能く吾を齋祀れ。覬覦(みかどかたぶ)けむとする謀あらむ時には、斯くの如くに齋ひまつれ。」と詔宣したまひき。亦、山預の石川錦織許呂志が仕へ奉る山名は所所に在り。
兄山
(せのやま)・天野・横山・錦織(にしごり)・石川・葛城(かつらぎ)・音穗(おとほ)・高向(たかむく)・華林・二上(ふたかみ)山等と号日す。(葛城山は元の高尾張なり。)    四至
 東を限る 大倭國の季道・葛木高小道・忍海刀自家
(おしうみのとじのいえ)・宇智道(うちのみち)
 南を限る 木伊国伊都県道側。並に大河。
 西を限る 河内泉の上鈴鹿・下鈴鹿・雄濱・日禰野
(ひねの)公田・宮処・志努田(しぬたの)公田・三輪道。
 北を限る 大坂・音穂野公田・陀那波多乃男神女神・吾嬬
(あづま)坂・川合・狭山・槇田・大村・斑・熊野谷。

右、山河寄さし奉る本記とは、昔、巻向の玉木宮に御宇しし天皇
[垂仁天皇]、癸酉年春二月庚寅[朔]、大神の願ぎたまふ随に、屋主忍男武雄心命(一に云う武猪心)を遣使して寄さし奉るところなり。
爰に武雄心命、此山を以用て幣となし、阿備の柏原社に居て齋祀る。九年の内に即難破の道竜住山の一岳を申し賜ひき。
(武猪心命とは、武内足尼(たけしうちのすくね)の父なり。臣八腹等が祖なり。) 御宇しし天皇の御世、熊襲二国・新羅国等を誅ち平け賜ひ、西蕃(にしのみやつこ)の屯倉(みやけ)と成す。
丙申年二月丙申、山門縣に至り賜ひ、土蜘蛛夏羽・田油津女(
たふらつひめ)を誅殺(つみ)し、亦、大八嶋内の国国県県の皇命(おおみこと)に随はざる八十梟魁帥(やそたける)の類を誅伏(ことむけ)しめ賜ふ。
大神詔宣賜はく、「大国は天皇が御意の任に大山は己が意の任に、願乞
(ねぎまを)す随に寄さし奉り賜ふ所なり。」

   

亦、誓宣
(うけひ)賜はく、「雲懸り霰ふり霞たつをさかひとせむ。」と宣り了えて、此の潔浄操嚴(きよきいつ)の坂木黒木・土毛土産(くにつもの)・くさのみ等をとり持ちて吾を斎祀らば、朝霧夕霧の起つが如、天皇君の主影を離れず、我が和魂(にぎみたま)を称へて夜 [の護り昼の護りと] 護り奉り、天の下の国家も同じく平安けく守護まつらむ、覬覦(みかどかたぶく)る謀を謀叛(うかがいおかす)時にも、斯くの如く好く吾を斎祀らば、刃に血ぬらずして必ず擧足誅(けころし)てむ。」と [まをす] 。
時に八咫烏申して云く。「雲懸り霰ふり霞たつを春秋定めず七廻飛巡り、地地
(ところどころ)の名を問い定め申さむ。」と申して点定(しめおき)奉る。
爰に御神児集ひて佃(みた)を墾開り饗嘗したまふ。其の地を墾田原
(はりたはら)と謂ひ、小山田と謂ひ、坂本内墾田と謂ふ。
亦、大神誓約宣ひて詔宣はく、「我が山に後代の験
(しるし)をなさむ」と宣りたまひて吾瓮海人烏麻呂(あべのあまをまろ)・礒鹿海人名草(しかのあまなくさ)を差遣し、海潮を汲み運びて山中に置き、いわやまに石壷を調へ、潮を入れて石の盖を覆はしむ。是を以て後の公験となす。其の地を鹽谷(しほや)之国と云ひ、吾瓮海人烏麻呂が潮潰れ落ちし地を鹽小谷と云ひ、多く漏れ落ちし地は既に潮灌ぐまでに成り、其の地を塩淵と云ふ。
神兒等、皷谷より雷の鳴り出ずる如く集ひて、墾田原・小山田・宇智の墾田を開墾佃
(はりひら)く。羽白熊鷲を誅伏(ことむけ)て得たる地を熊取と云ひ、日晩れ御宿賜ひし地を日寝と云ひ、横なはれる中山あるによりて横山と云ひ、横なはれる嶺ある故に横嶺と云ふ。
嶺の東の方頭
(かた)に杖立二処あり、石川錦織許呂志・忍海刀自等、水別を争ひ論らふ。 故、俗に杖立と謂ひて論義と爲す。
亦、西国見の丘あり、東国見の丘あり、皆大神、天皇に誨へ賜ひて、鹽筒老人に登りて国見せしめ賜ひし岳なり。
亦、横岑の冷水の潔清くみち漲れる地あり、吉野萱野沼・智原萱野沼といふ。此の水
(みもひ)を食聞(きこしめ)すに甚(いと)さむく清き水なり。仍りて御田に引漑がむと欲し、針魚をして溝谷(うなで)を掘り作らしめむと思召す。大石小石を針魚、掘返して水を流し出でしむ。
亦、天野の水あり、同じく掘り流す。水の流れ合う地を川合と云ふ。此れ山堺の地なり。大神誓約ひて詔宣はく、「我が溝の水を以て引漑
(ひきそそ)がしめ、我が田に潤(つ)けて其の稻実(いね)を獲得ること石川の河の沙瀝石(すないし)の如く。其の穎(ほ)を得て春秋の相嘗祭の料(しろ)に充てなむ。
天の下の君民の作る佃
(た)にも同じく引漑がしめ、其の田の実も我が田の実と同じきが如く、谷谷にある水を源より颯颯(さつさつ)として全国(くにぐに)に決下(さだめくだ)らしめむ」と誓約ひ賜ひ、高向堤に樋を通はして流し灌ぐ。其の樋ある地二百代(河内志紀屯倉の高向堤の地に在り。樋の尻に住吉と謂ふ俾文穿ち彫付く。)
墨江の堰あり。(同屯倉の沙古田里十五坪、堰ある地五十代。)  
時に倭忍海刀自、并びに親族等
(うからやから)を率いて大神に白して曰く、「此の水を別分ちて給べ」と乞ひ申す。仍りて智原萱野の水を分けて小少賜へり。悦びて其の賜へる水を持ち行きて、溝を穿ち造るに溢るることなし。末地(あしきところ)なるを侘ぶ。
大神誨へ賜ひて「保木と上木
(まき)と葉榊を集め、土樋を造作して水を越せ」と詔り賜ふ。御誨(みおしえ)の随に遂に水を通はして田に潤く。
因、その地を水分
(みくまり)・水越と云ふ。亦、三輪に住む人をして水分を鎭め守らしむ。 
時に八咫烏子等、「吾住嶺の斯
(これ)より此の内を寄さし奉らむ。」と鳴き、「東は倭岑、南は美曽道・竹川、西は公田、北は玉井、倭川(やまとがわ)、比太岑道。」と鳴きて差し申す。(この此内と云ふ字より下の烏の鳴音は訛れる如し ) 
亦、難破の高津宮に御宇しし天皇に誨
(さと)して大神の詔宣はく、「大嶋守を以て紺口溝(こむくのうなで)を掘らしめよ。」と。
同じく水を流して上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦四処の郊原
(はら)に四万頃の田を開墾る。
既にして農田膏油成
(つくりたこえうるほ)ふ。故、其の地の百姓、作り喰ふに寛饒(にぎはひ)の賀ありて凶年の患(うれひ)なし。
是、大神の本願
(みうけひ)なり。石川・針魚河の水を大神の御田に引漑ぐ縁(ことのもと)は此なり。 (針魚、この河を通はし、今に絶えず、往來となす。)


 
 このあと記述は「膽駒神南備山本記」へ続く

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