生駒山北嶺上でも発見した謎の巨石遺構に関連して
生駒山北嶺上でも発見した謎の巨石遺構に関連して、『神武天皇御東遷聖蹟考』(勝井純 昭和14年 巧人社)によると、地元の伝承にいう「哮峯」に近く、あるいは「饒速日山」と呼ばれていた可能性の高い所に所在すると考えられそうです。
文献より必要な部分を抜粋の上、一部紹介いたします。
草 香 山
一名、饒速日山、草香山の最高峰を云ふ、神代の古、饒速日命のゐませし山なるが故に、此の称ありと云ってゐます。
惟ふに、神代の河上の哮峯とは、此の峯を中心として、其の南北に連亘してゐる諸峯をも哮峯と総称したのではなからうか?一此の山は又、神山と称してゐます。
山上に在った饒速日命を祀ってあった社を上古上ノ社と称し、現在の奈良県生駒郡富雄村鎮座の登彌神社及び大阪府中河内郡旧日下の地域に鎮座された、石切劔箭神社を何れも下ノ社と称してゐたと云はれてゐますが、上古は此の山を神體として禮拝してゐたもので、社殿等は無かったやうであります。
然るに、其後、饒速日命の子孫、生駒山の東西に分布するや、各々、その根拠地に神社を造営して宇麻志麻治命を祀りこれを下ノ社と称し、山上にも神殿を造営して上ノ社と称したらしく、其後、更に、山上の饒速日命の社の御神霊を河内側の此の命の子孫は、その下ノ社に、大和側も亦、これを今の富雄村の下ノ社に奉遷し、草香山上の上ノ社は自然荒廃してしまったらしゐのであります。其の原因は、物部氏宗家の滅亡に伴ふ勢力の失墜と、社領の没収等にあったであらうと想像されます。
(後略)
日下の直越を踏査して
日下の直越路は、大字善根寺の春日神社の社務所の前を東北に向って、尊上山の中腹を斜に登ると、尊上山の頂上から東南に走ってゐる低い脊梁傳ひに通じてゐます。
その道の左手には、既に発掘された第二期時代の古墳の痕跡を有し、圓筒の破片が地上に散乱してゐます。
尊上山の如きも、以前は全部春日神社の社地であったに相違ないと思はれますが、現在では、南の山裾は無惨に切り崩されて、由緒ある傳説地も土砂の採掘場となり、トラックが晝夜間断なく春日神社の神域を往来してゐます。實に恐懼の極みであります。
(この間省略)
路は、共處から更に、東南に向って、曲折し、八幡山の頂上旧神社の鎮座地の磐座の下をめぐって、更に、此の山に続いてゐる山の脊梁を東南へウネリ、恵比須山の西、字日下部と称する地を経て、恵比須山の下をつゞら祈りに、厄山方面へ走ってゐます。
字日下部の地域は相當に廣く、大草香王の御墓であると傳称してゐる古墳の北も、その地域で路を挟むで東西に平坦な場所があります。これを此の地方では大草香王の居られた處だと口碑してゐます。
八幡山の頂上には、明治初年迄立派な社殿があったさうですが、其後、その社殿を大阪市の某に売却し、社地も売却してその金を分配したさうです。恵比須山から厄山に至る道路の北に渓谷を隔てゝ龍の口が見えます。
厄山は、頂の平坦な山で道路の左に沿ふてゐます。其處から、此の路を三町許り下った處から、左へカープの鋭い山の背梁を、現在の大字日下の池端から登って来る嶮岨な古道があります。厄山の上方は比較的平坦で、厄山の北谷を隔てゝ近距離(約一町)に覗きばたと称する山があります。
其の山は厄山の上で、直越路の脊梁地帯に連接してゐます。
此等の地勢から観察いたしますと、賊軍は、厄山上方の平坦な地域に待ち構へてゐて、皇軍の急坂を喘ぎ喘ぎ登って来たところを不意に現はれてこれを攻撃し、其の激戦の最中、覗きばたに在って戦機を覘ってゐた賊軍の一部隊は、皇軍の側面に向って矢を射かけたので、皇軍は為に潰亂の歇むなき結果に蓬着し、更に猛烈な賊軍の追撃に邁ひ、山上から山下へ(前記の母の木方面に通じてゐる急坂)追い崩されたのではあるまいかとも思はれます。
路は厄山から、巨岩累々たる牛石の南の山の脊梁を、雄略天皇の国見された御歌に知られてゐる国見山方面へ通じてゐます。
その途中に平坦な地があつて、その北に谷を隔てゝ真近く見える山をドンバと称して居りますが、其の山の側面には多く岩窟が遺ってゐます。
東方近く饒速日山を隔てて大和の山々が疉蓆を布いたやうに低く連亘してゐます。右の方に高く聳えてゐるのは、生駒山の北に峙(そばだ)ってゐる高峯で、大和では、これを饒速日山と称し、河内では「ボタンザキ」と称してゐます。
不思議な地上絵を思わせるボタンザキの複雑な山道?
(下の直線は旧生駒トンネルライン)=戦前
河内で云ふ饒速日山は、そのボタンザキの中腹に位置してゐます。
頂上は小松の茂った低い山々が取り囲むでゐて、相当広い地域が平坦であります。
其處には、太古噴火口であったであらう、「底無しの井戸」と称するものが八つあります。今では此の盆地にある耕地の灌漑に用ひられてゐます。
此の盆地は、或る期間沼となってゐたであらうと想像されます。其處に、饒速日命の御殿址と口碑しつつある地があります。
御東遷當時に於ける賊軍主力の根拠地ではなかったかと考察されます。何故なら、古来現在の北河内郡上田原村、同郡四條村大字龍間、中河内郡孔舎衙村、奈良県生駒郡生駒町等に通じてゐる古道及び生駒山上より南に向って生駒連峰の脊梁を走ってゐる古道は、皆悉く此の山を中心として通じて居り、何處からも其の所在を知られる憂ひのない場所であり、ボタンザキに監視の兵を配置して置けば皇軍が河内方面から前進して来る場合、何れの道よりするも、これを途中に遂撃すること容易であるからであります。
北河内郡四條村大字龍間の如きも饒速日命と関係のあった土地であるらしく、此處には、饒速日命の御父に當らせられる天押穂耳尊一柱を祭紳としてゐる龍間神社と云ふ古社があります。
地方の傳説に依れば、今、大和國丹波市町大字布留に鎮座される官弊大社石上神宮の御神寶であつた天璽瑞寶十種(あめのみしるしみいづたからとくさ)は、右の饒速日山に納めてあったのだと云ってゐます。
哮峯の名称は、饒速日山の嶺に現存する噴火口等から観ても、太古は火山であったことは確実であり、其の後に於ても、、噴火したり鳴動したであらうことは想像に難くありません、即ち、イカルガ峯とは「ホヱル山」「鳴動する山」の義から號けたものだらうと思はれます。
以上、引用いたしました。
『神武天皇御東遷聖蹟考』(勝井純 昭和14年 巧人社)より