河内・摂津両国堤と放出 ( はなてん )



古代には、河内国と摂津の国の境
(現在の大阪市と東大阪市の境)を剣のように南北に真直ぐ続く「劔畷」と呼ばれる国境堤があった。
この国堤は現在ではほとんどその痕跡を失ったが、この堤の築造は、古代治水の上で大きな意味があった。また、堤防上に位置する放出は、大和川など大和~河内の河水を摂津・大阪湾へ流し出す重要な位置をしめていた。しかし、果たしてそれだけの目的だけだったのか。

拙著「河内・摂津両国堤と放出について」1999年『荻田昭次先生古稀記念論集-光陰如矢』
 より転載紹介します。(一部修正)


    
                  高井田西6より布施駅方面



 
河内・摂津両国堤と放出


 1 はじめに
大阪の中央部、生駒山地の山裾に広がる大阪平野の変遷については、市原・梶山両氏ほかの地道な地質調査にもとづく古地理研究や、周辺各市での発掘調査の成果も加わって、大きく古代における地形と環境の変遷が証されつつある。
とくに、両氏の研究成果は、縄文時代の到来と共に海進により、現在の大阪湾から生駒山地の山裾深くまで海水が侵入し、大阪平野北部は河内湾と呼ばれる広大な内海が広がる時代が長く続いたとされる。
さらに、河内湾は縄文時代後半に入って、北は淀川、南は旧大和川の両河川の河口などから吐きだされる多量の土砂により、次第にデルタ(三角州)化が進み、とくに縄文時代の晩期以降は、発達した淀川のデルタと、上町台地の北に形成された砂堆が、入海の口を塞さぐ状態となり、海水が侵入していた河内湾は、両河川の水と混じった汽水の河内潟の時代をへて、まったく外海とは切り離された淡水の河内湖に変わっていく古地形の変遷を明らかにしている。
河内潟から湖への移行時期は、大陸から稲作文化が伝えられ、河内潟~河内湖周辺の干潟~低湿地において、弥生人により始められた農耕文化が定着し、やがて古墳時代に入ってからは、統一国家の大きな生産力の安定と発展に向け、多量の道具と労力を投じた水田の開発や治水など、大規模な土木事業が進められる重要な段階にあった。
水の制御と治水の成否如何は、いつの時代にも国の発展と盛衰を大きく左右するものであるが、淀川と旧大和川の両河の水が合流する河内北半地域は、河口を失ってほぼ大阪湾から閉ざされ、排水がほとんどできない地形となったばかりか、河内全域が満水状態となって生産地の安定を破壊し、まったく想像を絶するような大洪水が、古墳時代後半から奈良平安時代にかけて、頻繁に激しく繰り返されたことが当時の史書からうかがえる。
こうした状態は、古代から中世をへて、大和川の付替工事が実施される江戸時代まで、基本的には解消されることはなかったが、巨大古墳や都城の築造技術などにも通じる大規模な堤や池の築造や修築など、大陸から伝えられた高度な土木技術と膨大な労力を投じた
土木事業が、古代の河内でどのように行なわれたものか、紀記などの史書から河内を中心とした天災と治水関連記事を拾いながら、河内摂津両国の境に築かれた国堤と放出という地名の起こりについて、若干考えてみることにしたい。

 
2 古墳時代における池と堤の築造
河内平野の南~南西部に古市古墳群や百舌古墳群など、最も巨大な前方後円墳が次々と築造された4世紀後半~5世紀前半の時代、大和や河内地方では、古墳の築造だけではなく水田の潅漑用水源として、多数の溜他の築造などが各地で行われた。
『日本書紀』の崇神天皇の62年、河内国の狭山植田の水が少ないことは農民の怠慢だとして池溝の開削を奨励し、10月に依網池を、翌月に苅坂池を造らせた。また、垂仁天皇35年9月には五十瓊敷命に命じて、河内国に高石池・茅淳池、倭(大和)には狭城池・迹見池のほか、諸国に多数の池溝の開削を命じ、また『古事記』には、印色入日子命が、血沼池や狭山池・日下之高津池を造ったと記されている。
さらに応神天皇七年九月には、朝鮮半島より来朝した高麗人・百済人・任那人・新羅人などの人々を使い、武内宿禰に命じて池を造らせ、韓人池と名付けたほか、同11年10月に剱池・軽池・鹿垣池・厩坂池の各池を造ったと記されている。韓人池は大和唐古池、後者の4つの池は同高市郡の池といわれる。
これらの多数の池溝の築造は、低湿地周辺の水田というより丘陵~微高地斜面に広がる水田造成や、ここへの配水・貯水など、潅漑用あるいは干害対策のものである。
これに村し、仁徳天皇の11年4月の天皇の詔は、河内湖の出口周辺の状況をよく表している。
都のまわりの広大な低湿地には田圃が少なく、川の水が横に流れて川下へと流出ず、長雨にもなれば潮水が逆流し、大きな被害が生じているとして、10月に難波高津宮の北側の郊原を掘り南からの川水(旧大和川など)を引き入れて西側の海(大阪湾)へ流し出し、そこを堀江と名付けたこと、さらに北河(淀川)からの大波と流入を防ぐため、茨田堤を同時に築くという大規模な治水工事を行なった。
築堤工事は難行し、天皇は武蔵人強頸と河内人の茨田連袷子に河の神を祭らせようやく長大な堤が出来上がったという。
さらに13年9月、淀川の流水から守られ、茨田の屯倉が拓かれたほか、10月には横野堤などを築き、翌14年には港である猪甘津に小橋という橋を架けたり、京中から真直ぐ南の丹比に通ずる大道を築くなど、周辺の整備が重点的に進められた。
この中で、横野堤は、摂津と河内国の境に築かれた堤であり、茨田堤と合わせ後ほどふれることにするが、摂津と河内周辺での治水事業の記載は、この後の6~7世紀にはほとんど見ることができない。

 
3 奈良時代以降の洪水と治水
年表のとおり、『日本書紀』に続く『続日本紀』の記録には、おおよそ奈良時代の天災、とりわけ洪水による決壊堤防の修築記事が多数登場し、畿内周辺における当時の気象の異変と河内における洪水の激しさ、被害の様子などを知ることができる。
慶雲3年
(706)、天平5年(733)、同19年(747)など、たびだび河内国などが飢饉にみまわれたのは、ほとんど激しい干ばつを原因とした不作による飢饉である。
これについては、度々畿内の河神など群神に奉弊し祈雨を行っており、天平4年
(732)には、河内狭山下池を、天平寶字8年(764)にも、さらに河内国や畿内諸国などに、使を派遣して多数の池を築かせている。また、宝亀元年(770)六月のように、京師四隅と畿内十堺の疫神を祭っている。
ところで、大規模な洪水の原因は、やはり梅雨期や秋季の台風による激しい豪雨が原因となっている。中でも、天平寶字6年
(762)の4月には、大雨のため築造後約三百数十年を経た河内狭山池の堤防が大きく決壊したため、延べ八万三千人によって修築、同6月には、長瀬堤が決壊し、延べ二万二千人により修築している。
長瀬堤は、河内平野を北、西北流する旧大和川が、大きく三筋に分流する中央の流れ、江戸時代には旧久宝寺川(旧長瀬川)と呼ばれた川の河堤であることが当然考えられるが、長瀬とは長い距離にわたって河道から外れて河水が横に流れる地域を意味しているようで、西北へ流れていた旧長瀬川が、大さく北東へ屈曲する現在の東大阪市長瀬~衣摺周辺の河堤を指していると考える。
さらに、宝亀元年
(770)7月には志紀・渋川・茨田などの堤が決壊し、延べ三万人余りで、同3年(772)8月には、大風を伴った豪雨により、河内国茨田堤が6ヶ所、渋川堤が11ケ所、志紀郡の堤5ケ所が共に決壊する激しい洪水が発生している。
旧長瀬川を境にして西方の摂河国境までの範囲が、渋川郡と呼ばれた地域であり、6世紀後半に蘇我氏によって滅亡した物部氏の本拠地渋川の地が、八尾市渋川の地と考えられることから、渋川堤の位置は、長瀬堤の南方の旧長瀬川西岸に沿った堤であったとも考えられる。
しかし、八尾市植松周辺で旧長瀬川から西へ分岐して、西北方の旧平野川から古代の玉造江につながる大きな河道が存在した形跡が読みとれ、この川筋がいわゆる渋川の跡、渋川堤の存在が考えられるのである。
この時期、旧大和川の水の勢いと破壊力は、北方よりむしろ西方に大きく向いていた状況にあったことが考えられる。
延暦3年
(784)9月には、淀川のまもりの茨田郡の堤が、再び15ケ所にもわたって決壊して大洪水となり、延べ六万四千人に賑給して堤防の大修築を行った。
さらに、翌年も洪水の水が河内に溢れ、農民は船中や堤上での生活となり、食料が無く苦しんでいる状況が朝廷に報告され、使が遣わされた。続く10月にもこれに追打ちをかけるように30ケ所にわたる堤防が破壊され、河内は最悪の状況を迎えてこれまでに無い延べ三十万七千余人もの人々により、これらの大修築工事が遂行された。
こうした状況に対し、同4年
(785)に淀川下流では河水を三国川へ流す人工河道の開削工事が実施されると共に、摂津職大夫であった和気清麻呂は、同7年(788)河内と摂津の両国の境に川を掘り堤を築いて、荒陵の南より河内川の水を導いて西方の海へ通じれば、沃えた土地を広げ開墾ができると進言した。
朝議は、これを認めて清麻呂に工事の実施を命じ、総数二十三万余人による大工事が進められることになった。しかし、河内を水害から守ろうとした工事も、巨費を投じたものの成功に至らず、清麻呂も延暦18年
(799)に亡くなった。
ここにいう河内摂津両国の境とは、先に記した渋川つまり大阪の平野郷のすぐ北を西北へ流れていた旧平野川筋と考えられ、荒陵は上町台地にある四天王寺、別名荒陵寺周辺と見られることから、すぐ南にある河堀口が、その遺名とされる。
すなわち旧大和川の本流である久宝寺川筋から枝分かれした古代渋川の屈曲河道の水と、東除川などを含めた南からの流水を、新たに平野付近から西方の天王寺方面へ開削した人工河道に導いて、少しでも河内の溢水を大阪湾へ流し出そうとしたものと考える。
延暦年間の二大工事も、摂津河内両国の水害を根絶できるものとならず、『日本後紀』や『続日本後紀』などに大同元年
(806)8月の全国的な長雨と洪水、それに倍する嘉祥元年(848)8月の大洪水の発生が記され、築後四百年以上経過した茨田堤を、至る所で決壊させている。
これに対し、直ちに9月に左中弁従四位上藤原朝臣嗣宗ら十一人の役人に命じ、改めて茨田堤を築かせているのである。
洪水と旱害が繰り返し、まったく手のつけられない状態となっていた河内地域であったが、『三代実録』によれば、朝廷は貞観12年
(870)5月、穀物が不作で飢饉に苦しむ人々に対して周辺富豪の貯稲一万三千束を借りて班給すると共に、藤原良近を築河内国堤使長官に任じ、続いて7月には従五位上和気朝臣彜範を河内国水害堤使に命じると共に、大僧都法眼和上位慧達らに、築堤の進行状況を視察させ、堤防が完成しない内での洪水の発生を恐れ、朝使を遣わして大和川上流に鎮座する広瀬神・龍田神など四神に奉幣して水害が起こらないよう祈らせている。
さらに同17年
(875)2月には、改めて従五位下の橘朝臣三夏に、河内国堤使長官を任じた。
河内国堤使長官の指揮のもと、水害堤使が現地の担当官として修築工事を実施したと見られるが、工事の内容は水害による河堤などの決壊個所等の修築工事とは別に、早くから河内国内中央に存在した湖岸堤の修築等も含むものであったかも知れない。
その後、これらの大修築工事が成功したものか否か、その後の記録ではよく分からないのが残念である。
堤防の補強や修築、川筋や池床の浚渫など、治水工事と水害がくり返され、人々を苦しめた歴史は、江戸時代まで変わることがなかったであろう。

 
4 河内の堤と国境堤
 (1) 茨田堤
史書の記述の中で、最も早く現れる築堤の記録は、既に記した仁徳天皇11年の茨田堤である。茨田堤は、北から河内へ流れ込む大河淀川の流水、あるいは逆流する大波から河内地域の低湿地と生産地帯を守るために、上町台地北端北側に開削されたいわゆる堀江と同時に、旧淀川の南岸に沿って秦人により築かれたという長大な堤防である。
築堤工事中に決壊して最も工事が難行した袷子絶間は、淀川の分流が南方の河内湖へと流れ込む旧寝屋川筋や、古い河道の存在を暗示する古川の上流である寝屋川市太間村付近、また強頸絶間は、守口市と西隣の大阪市旭区千林付近であったといわれることから、その総延長距離は、実に約12kmに及ぶことになる。
ただ、堤の西端は、何処の堤と接続されたのかよく分からないが、後に改めて設定された河内国と摂津国境の北西角に接続されたことは当然考えられる。

 
             堤根神社と北側に堤状に残る伝「茨田堤跡」

       
                     津嶋部神社

現在も茨田堤は、守口市に近い古川の南岸、門真市宮野町に鎮座する式内社の堤根神社の付近に、その跡をとどめているとされ、社殿の北側に大阪府の史跡である伝茨田堤の一部が残り、付近の地下から発掘調査により、五世紀の終わり頃から六世紀初めの祭祀用と考えられる有孔円板や須恵器を含む古墳時代の地層と平らな堤防遺構の一部が検出され、茨田堤といえる古代堤の存在が確認されている。
この堤根神社は、茨田郡五座の一つで、茨田堤築造修築の歴史と深く関ることは明らかであるが、祭神は諸説があり、野見宿弥や日子八井耳命のほか『大日本史神祇志』には水門神速秋津日子速秋津比売二神、『地理志料』は水門神としており、堤防あるいは水門を護る神を祀った神社として注目される。
『文徳實録』には、嘉祥3年
(850)12月癸酉、堤根神及び津島女神に従五位下の神格が授けられた、と記されている。
津島部神社も式内社で、堤根神社の北方の守口市金田にあり、祭神は同じく諸説あり、埴安姫命、天児屋根命、津島女神、津島部命、菅原道眞などともいわれ、茨田堤沿いに立地していたようである。
『大阪府全誌』には、「傳へにいふ、社はもと封馬江村にありしも、或る時洪水ありてこの地に遷座し奉りしと」いい、現在の寝屋川市高柳付近に鎮座したものであったという。
茨田堤に関する記載は、寶亀元年
(770)に「志紀渋川茨田等堤」を修築したほか、同3年(772)に「茨田堤六處」のほか、延暦3年(784)には「茨田郡堤」の堤防が決壊、続いて平安時代に入った嘉祥元年(848)8月の大洪水の決壊堤として「茨田堤」が登場する。
翌月には左中弁従四位上藤原朝臣嗣宗らを遣わし、再び「茨田堤」を築かせている。
茨田堤については、古くから二重あったとされ、『大日本地名辞書』には「淀川の茨田堤は二線あり、一線は枚方伊加賀崎より守口を経て難波大坂に至る者是外堤なり、一線は島頭にありて断間の決潰に備ふる者是内堤なり」という。
新たな茨田堤の築造記事は、従来の堤防修築補強を含めて、当初から難工事個所だった珍子絶間の背後地域に、別に築き加えられた二重の堤の存在も考えられる。

 (2)横野堤と渋川堤
横野堤は、茨田堤築堤の2年後、仁徳天皇13年10月に築かれたと記される。その後の堤防修築等の記事は、ほとんど現れてこないので不明な点が多い。
『続古今集』には、藤原光俊の歌として"霜かれの横野の堤風さえて入汐遠く千鳥鳴くなり"と詠まれ、当時の横野堤周辺の様子がしのばれる。
横野堤に関連して、摂津との南北国境に接する旧渋川郡大地村の西端、現大阪市生野区巽西3丁目に横野神社跡があり、堤の位置を考える上で大きな手掛かりとなっている。

      
                   横野神社跡 (生野区)

神社は式内社で、別名印色宮と呼ばれ、垂仁朝に狭山池などの池の築造や劔一千口を作ったという五十瓊敷入彦命が祭神と考えられており、築堤など高度な土木技術に関わる神を祀るにふさわしい。明治40年(1907)に東方の巽神社へ合祀されている。
明治20年の陸軍測量部の地図を見ると、神社の西方を南北に走る河内摂津国境は、南の四条村付近で旧平野川の流れに沿って南東へ折れ曲がり、摂津平野郷を過ぎて再び南方向へ折れて、直線的な国境線となっている。
旧平野川筋は、先に記した旧大和川の分流、久宝寺川から西へさらに分岐し、古代玉造江に流入したと見られる渋川あるいは橘川=龍華川の川筋と考えられ、その河堤であるいわゆる渋川堤が、他の河道と共に河内を洪水から守っていたものと思われる。ただし、渋川堤が初めて登場するのは、寳亀元年
(770)のことで、他の河堤とも同様築造の年代等は不明である。『日本地理志料』は、「橘川を堰入たる堤塘なるべし」と解している。
渋川堤と接続されていたと見られる横野堤の横とは、やはり東西方向を意味するものであろうから本来は横野神社跡の北方、河内と摂津国境線が走る旧中川村、腹見村周辺の東西に広がる低湿地に沿って、築かれた堤を中心に想定する方が自然である。
これについては、河内摂津国境の記事と関連して改めて考える。
『大阪府全誌』は、「今も付近の土地は低湿にして、井水は鹹味を帯びるを以て見れば思うに堤は、難波玉造江の潮水を防ぎ給いしものならん」としており、堤自体が河堤というより、外海につながる入江の潮の干満、あるいは高潮・津波等から守る防潮堤の機能を有していたものではないかと考えられる。横野堤についてはこれ以上よく判らない。

 (3)河内摂津両国堤
河内地方の荘園など生産地帯と集落を、洪水や高波などから守るためには、旧大和川筋の長瀬堤や渋川堤など河堤の防備はもちろんであるが、北方の淀川からの流水と大波の流入から守るために築かれた長大な茨田堤、南から西方は渋川堤から接続された横野堤が守りを固めていたと見られるが、さらに両堤をつなぐ南北古代堤の存在が当然考えられる。
『大阪府全誌』には、「舊記にいふ、河内茨田郡の土居村より、(摂津国)東成郡の馬場・般若寺・下辻・放出・左専道・深江の諸村を経て、河内(国)渋川郡の東足代村に至り、連亘して(摂津国)住吉郡の平野郷に至れる国界に長堤あり、劔畷と呼べりと、堤跡は今も尚断続的に存在せり」と記すように、旧河内国と摂津国の国境、つまり大阪市と接する守口市から南方の東大阪市との南北市境を経て西へ折れ、再び南の平野に至る"劔畷"と呼ばれる長大な国境堤の跡が存在したことを記している。

 
              堤の上に祀られている高瀬神社(守口市)

その長さは、実に約12kmを越えるものとなるが、大半は守口から東大阪市の西南部~大阪市生野区東端へと、南北に連なって一直線に設定された国堤となる。この堤の方位は、生駒山麓を南北に通じる東高野街道と極めて近い。
河内と摂津との国境あるいは堤に関連する記事が登場するのは、まず天平13年
(748)4月、従四位上巨勢朝臣奈麻呂ら4人を遣わして、摂津と河内と相争っていた河堤の所を現地調査させたことである。
この河堤の具体的な名称や位置は不明であるが、その記述から両国の間に流れ出、未だ国境線の確定がされていなかった河堤の防備と責任について、両国が大きく争う所であったと解される。
その河堤の場所は、恐らく旧大和川支流の久宝寺川筋が、北に広がる河内湖=茨田池を次第に埋めていき、長瀬堤と横野堤を結ぶ北方外域に形成されていったデルタが、摂津側の平野方面へ入り込んでいたとされる玉造江の出口をふさぐにつれ、デルタ内の河筋堤の取り扱いが争点となっていたのではないかと考えられる。
その後はよく分からないが、延暦年間の和気清麻呂による人工河道の開削工事が失敗に終わった後の、大同元年
(806)10月、河内と摂津両国堤が定められた。
表現は、国境を築くではなく、定めると記しているが、それまで明確に定まっていなかった両国境を初めて定め築堤したものと見られる。
ただ、明確でないもののさらに古い堤が存在していたことは十分考えられるが、ここにいう国境は、明治まで存続した河内と摂津の両国境ラインにほぼ該当するものとしか考えられず、現在の大阪市と東大阪市などとの南北市境がこれに相当するものと考えられる。
両国堤が定められて半世紀後の貞観4年
(862)3月、再び木工頭従五位上の佐紀朝臣春枝らが遣わされ、河内と摂津両国が争っていた伎人堤について裁定を下している。
伎人堤の名は、天平勝寳2年
(750)5月に、伎人茨田等堤が各所で決壊した記事に登場し、この堤は狭山池から北へ流れ下り、旧大和川支流の渋川=橘川(龍華川)と一つになって玉造江に流入する息長川、すなわち後の西除川の堤防と考えられている。
これらから、長大で直線的な両国堤を築造して、荒廃した一つの玉造江~茨田池の水面や周辺の沼沢地を、別々の遊水機能を有する地域に二分し、両国から排水される多量の河水を分離し制御する目的があったものと考えられるのである。


 5 劔畷と放出
南北に延々と直線的に続く摂津河内国境堤は“劔畷”と呼ばれ、先に記したように堤は、少くとも今から1200年前にあたる平安時代初め、大同元年に定められた摂津河内両国堤の遺構とほぼ考えられる。

 
       高井田西6より放出方面              放出付近(寝屋川筋)

       
           
(河道・池等は江戸時代のはじめ頃の様子)

 
        
放出に集まる旧大和川筋 昭和23年(国土地理院の写真に加筆)

堤上を南北に通じる道は、同じく劔街道と称していたが、これは堅固で実直ぐな、何物からも守ることができる劔に例えて、その名が付けられたものであろう。現在では、ほとんど堤状の高まりが見られなくなっているのは残念である。
江戸時代の初めの宝永元年
(1704)に、河内平野を北流していた旧大和川が付替えられるまで、支流の玉串川と山沿いの谷水を拾う恩智川は、南流する寝屋川や古川と共に、古代茨田池の名残、深野池と新開池の二つの大きな池に合流し、さらに東大阪市の西北端の森河内の北側、放出前で別支流の久宝寺川(長瀬川)を合流させ、再び一つの大さな流れとなって摂河国境堤を横切り、大坂城北側で大河淀川と合流していたことは、改めて説明するまでもない。
摂津河内両国堤が築かれた当初、江戸時代と同じような河道であつたとは当然考えられないが少なくとも大和川の河道が両国堤を横切る地点は、ほぼ放出付近に変わりはなかったと考えられるのである。
放出の集落は、国境のすぐ西側摂津国東成郡に属し、『大阪府全誌』によれば、現在は「はなてん」と読むが、古くは「はなちてん」、後に「はなちで」といい、『南山巡狩録』の建徳2年
(1371)5月、天野の行宮を攻める記事中に、上瀬放出の渡しと登場するのは、本地大和川の渡津で、古歌に放出の通川と詠まれるのも、この地の大和川(現寝屋川)を称したものという。
堤は、単なる国境線ではなく、水害から守る重要な堤防として築かれたものであろうから、朝廷あるいは大和河内国はもちろんのこと、摂津国にとっても、国堤を横断して河水を摂津側へ流し出す放出の地は、ことのほか重要な所となる。
水の取水は別として、河内国内に集まる河水を放出する場所は、恐らく放出の地以外は考えにくい。
そこで、放出付近の国境がどのような形で、河道の切通しがなされていたのか、又は何らかの施設が存在していたのか、全く不明である。
ただ考慮すべきは、旧大和川筋の河堤に導かれる集中的な河水の排水だけでなく、当時玉造江は未だ大阪湾とつながっている状態にあったから、潮の干満の影響や、台風時の高潮、地震による津波発生などによる被害が当然考えられ、国境堤は河内国内への逆流防止の役割を果たす防潮堤の機能をもつと共に、その要衝の放出には開閉可能な木造の水門が設けられていた可能性も当然考えられる。

 
                   阿遅速雄神社

河道の字水劔には、大国主神と多紀里毘売命の間の子で雷神とされる阿遅鉏高日子根命(味耜高彦根命)を祭神とする式内社の阿遅速雄神社が、摂河国境堤を守るようにして鎮座しているが、神社の詳しい沿革は伝わっておらず、治水の要所となっていたことを考証できる歴史資料のないのが残念である。
 
(追記) 阿遅速雄神社は、『住吉大社神代記』に子神として記される「味早雄神」とされ、住吉大社との関係か深い。

 6 おわりに
古代、洪水と旱ばつの歴史がくり返されたのは、何も河内地方だけではない。しかし、洪水や堤防修築の歴史をたどっていくと、難波や奈良京都に都を構えた古代の朝廷が、河内周辺で起こった大洪水に屈することなく、河内地方や下流の難波地域の安全のために、想像を越える労力と予算を費やし、執拗にも次々と決壊した河堤の大修築工事に取り組んだ壮絶な自然の猛威に対する挑戦の歴史が展開されている。
これは、当時の朝廷にとって、淀川と大和川の両大河が南北から流入して、広大な水域と周囲の低湿地により形成された河内地方を、不安定な地域である反面、畿内中枢の豊かさを秘めた生産地域であり、なおかつ大陸に直結する港津を構えた水上・陸上交通の要衝となる地であるばかりか、各種先進技術をもった頭脳集団が集まる重要な地域として考えていたためであろう。
今回、取上げた河内摂津国境に築かれた長大な国境=剣畷築造の目的は、河水や海潮の逆流から守ると共に、両国の管轄と責任分担を明確にし、旧大和川筋等で延伸築造された諸河堤を放出付近に導いて国境堤と接続し、河水の集中制御と輪中地域の形成を図ろうとしたものではないかと考えるのは、飛躍しすぎであろうか。


               都留禰神社旧跡(現 布施戎神社)

なお、放出の南方、摂河国堤や旧大和川堤上に鎮座した式内社の内、国境の渋川郡東足代村(現在は東大阪市足代)にあった都留禰神社は、祭神の不明な点があるが、南方久宝寺川(長瀬川)の東岸堤防上に位置する若江郡近江堂村(同市近江堂)の弥刀神社の両社ともに水神の速秋津彦命、速秋津姫命の二神又は水門神を祀るともいわれ、堤にそった要所に水防の神や堤防の神々が祭られていたことは当然考えられる。
茨田堤上に鎮座する堤根神社や横野堤上に祀られていたと見られる横野神社など、堤や水門の築造や防備のために祀られたと見られる諸社についての調査研究、河内摂津国境堤や河堤跡など、関連遺構に関する考古学的確認調査の実施、古代における治水技術や治水に関わる祭祀など、多方面からの研究の進展が望まれるところである。
 (原田)


 古代河内の洪水・治水年表

 
文 献
 梶山彦太郎・市原実(1986)『大阪平野のおいたち』青木書店
 井上正雄(1922)『大阪府全誌』
 吉田東吾(1900)『大日本地名辞書』
 太田亮(1925)『日本国誌資料叢書 河内』



            いこまかんなびの杜