平群方面から信貴山遠望
信貴山は神奈備山
信貴山は、生駒山地の南方の一峰、古代の高安城が存在する標高488mの高安山の東側から平群谷に向かう緩やかな斜面に、ふたこぶ状に突き出た神奈備山で、大和川の南方のよく知られる二上山の山容と似た形をし、標高437mの雄峰と南側に続く低い雌峰の二つの霊峰が信貴山と呼ばれています。
信貴山といえば「用明天皇2年(寅年)7月、寅年・寅日、寅の刻に聖徳太子が物部守屋を討伐する祈願をおこなったところ、毘沙門天が寅をしたがえて出現し、無事に物部をたおすことができたので「信ずべき、貴ぶべき山」と叫び、太子自らが毘沙門天王像を彫って祀り寺を創建したと伝える信貴山朝護孫子寺があります。
平安時代初期には命蓮上人が中興し、躍動感にとむ霊験説話を描いた『信貴山縁起絵巻』やシンボルの大寅でよく知られています。
毘沙門天がまつられた理由として、最近次第に明らかになりつつある高安山を中心とした古代高安城の守護神ではなかったかとの説があるほか、『信貴山縁起絵巻』の尼君之巻に「倉の今に朽ち破れて、その木の端をも、つゆばかり得たる人は守りにし、毘沙門造り奉りて、持し奉る人は必らず徳(財産)着かぬ人は無かりけり。されば人はその縁を尋ねて、その倉の木の折れたる端などは乞ひけり。」 と登場する倉とは、棚橋利光氏は「この倉、実は高安城時代の城の倉庫なのである」といわれています。また、興味深いのは『聖徳太子伝古今目録抄』にあように、平群川辺の南北に二つの道があり、共に聖徳太子の四天王寺への往還道であり、南の道は「椎坂路」で河内国高安郡に通じる八部路、一方北側の道は、「玉野路」といい同じく河内国高安郡に通じていたという。「玉野道」は玉祖神社の北を通じる十三街道-俊徳道であったと思われます。
さらに、両道の間に聳える大小の嶽は、「信峯」と「貴峯」といいい、南東には盤石があって多聞天の座す所である、など、興味深い記述が多くあります。
なお、境内の外に「猪上神社」が鎮座する。信貴山朝護孫子寺の鎮守であったが、神仏分離により境内から惣門の外に遷されたといわれます。
以下、信貴山にかかわる史料について、高安城を探る会発行の資料『高安城と烽』を参考にさせていただき、以下の記録・史料を紹介いたします。
寺の南からは、雄(信)峯、手前に雌(貴)峯が重なる
雄峯の山頂にある中世「信貴山城趾」 雄峯の山頂に祀られる空鉢堂
信貴山の周辺には松永久秀の最後の地といわれる信貴山城の多数の曲輪趾が広がっています。また、雄峯の山頂には命蓮上人によって祠が造られという毘沙門天王の分身で巳の姿(竜神、難陀竜王)で出現される空鉢護法の神を祀っているという。
難陀竜王は、毘沙門天王がこの地に出現した時に、劒鎧童子と共に現れた竜王で八大竜神の中では最も優れた竜王という。
(資料)
『信貴山縁起絵巻』(平安後期成立)
○ 延喜加持巻
この鉢に米を一俵載せて、飛ばするに、雁などの続きたやうに残りの米ども続きたち
たり。また、群雀などのやうに続きて確かに主の家に皆落ち居にけり。
かやうに行ひて過ぐる程に、その頃 延喜の帝御悩重く煩はせ給ひて様々の御祈りど
もみ修法、み読経など万づにせらるれど、更にえ怠らせ給はず。
ある人の申すやう、『大和の志貴といふ所に、行ひて里へ出づることも無き聖候ふな
り。それこそいみじく尊くしるし有りて、鉢を飛ばせて、居ながら万づの有り難き事
どもをし候ふなれ、それを召して祈らせさせ給はば、怠らせ給ひなむものを』と申し
ければ、さはとて蔵人(くろうど)を使ひにて召しに遣はす。
行きて見るに、聖の様いと尊くてあり。かうかう宣旨にて召すなり。参るべき由云へ
ば、聖何事に召すぞとて更に動き気もなし。かうかう御悩大事におはします。
祈り参らせさせ給ふべき由を言へば、それはた参らずとも、此処ながら祈り参らせ給
はむと言へば、さては若し怠らせ給ひたりとも、いかでかこの聖のしるしと知るべき
と言へば、若し祈りやめ参らせたらば、剣の護法と言ふ御法を参らせむ。
おのづから夢もまぼろしにもきと御覧ぜば、さらば知らせ給へ剣を編み続けて衣に着
たる護法なり」といふ。
さて京へは更に出でじと言へば帰り参りてかうかうと申す程に。
(絵)
さて三日ばかりありて、昼つ方きとまどろませ給ふともなきにきらきらとあるものの
ヽ見えさせ給へば、如何なる人にかとて御覧ずれば、その聖の言ひけむ剣の護法なめ
りと思し召すより、御心地さはさはとならせ給ひて、いささか苦しきこともおはしま
さで、例ざまにならせ給ひにたれば、人々も喜び、また聖をも尊がりて、めであひた
り。
帝の御心地にも、めでたく尊く覚えさせたまへば人遣はす。「僧都、僧正にやなるべ
き、またその寺に荘(寺領)などをも寄せむ」と言ひ遣はす。
聖承りて「まず僧都僧正更に更に候ふまじき事ヽて聞かず。又かヽる所に荘など数多
寄りなどしぬれば別当(寺務をとる僧)なにくれなど出で来て、なかなかむづかしう罪
得がましき事、出で来。ただかくてさふらはむ」とて止みにけり。
(絵)
○ 尼君之巻
かかる程に、信濃(長野県)には姉ぞ一人ありける。かくて年頃は見えねば、あはれ此
の小院(小僧)の東大寺に修業せむとて、上りしまヽに見えぬが故、いかなるらん覚束
なきに尋ね見むとて、上りにけり。
山階寺(興福寺) 東大寺の辺りを尋ねければ、いさ知らずとのみ言ふ。命蓮小院と言ふ
やあると、人毎に向へど、さすがに廿余年になりにければ、そのかみの事を知りたる
人は無くて、知らずとのみ言へば、尋ねわびて如何にせむ、これが有りさま聞きてこ
そ帰りも下らめと思ひて、その夜東大寺の大仏のお前に候ひて、夜一夜行ふ。
命蓮が有り所 夢にも教へさせ給へと申しけり。夜一夜申して、うちまどろみたるゆ
めに、この仏の仰せらるヽやう、「このたつぬる僧の有る所は、これより西の方に南
によりて、未申(西南)の方に山有り。その山に紫雲棚引きたる処を行きて尋ねよ」と
おほせらるると見て醒めたれば、暁になりにけり。いつしか疾く夜の明けよかしと思
ひて見居たれば、ほのぼのと明けたるに、未申(西南)の方を見遣りたれば、山かすか
に見ゆるに紫の雲たなひきたり。嬉しくて行く。
(絵)
そこを指して行きたれば、まことに堂などあり。人の気色見ゆるところによりて「命
蓮小院やいまする」と言へば、誰そとて指し出でて見れば、しなの(信濃)なりし我が
姉の尼君なり。
こはいかにか尋ねおはしたる。思ひかけずと言へば、有りつる事の様を語る。さてい
かに寒くておはしつらん。これを着せ奉らんとて持たりつるものなりとて、ふところ
より引出でたるものを見れば、衲と言ふものをなべてのにも似ず太き糸などして、厚
々と細かに強げにしたれば、嬉びて取りて、着たり。もとは紙衣を只一つ着たりけれ
ば、まことに寒かりつるに、これを下に着たれば、寒くも無くて、多くの年頃行ひけ
り。
この妹(宇治拾遺「姉」)の尼君も、元の国へも帰らざりけり。其処にぞ行ひてありける
。さて多くの年頃それをのみ着てありければ、はてには破れ破れと着なしてぞありけ
る。
鉢に乗りて来たりし倉を飛倉とぞ言ひける。その倉にぞ、その衲の破れは蔵めてあり
ける。その破れの端をつゆばかりなど、自ら縁に触れて得ては守りにしけり。
その倉の今に朽ち破れて、その木の端をも、つゆばかり得たる人は守りにし、毘沙門
造り奉りて、持し奉る人は必らず徳(財産)着かぬ人は無かりけり。されば人はその縁
を尋ねて、その倉の木の折れたる端などは乞ひけり。
さて 志貴とて、えも言はず験じ給ふ所に、今に人々明け暮れ参る。この毘沙門は命
蓮聖の行ひ出で奉りたる所なり。
『信貴山寺資財帳』 (937年成立)
○ 信貴山寺
資財宝物帳
延喜年中奉造九尺間三間檜皮葺四面庇御堂、即奉安置金剛界成身会五仏並雑仏等
延長年中本御堂改、奉造五尺釈迦仏金色奉顕並普賢文殊等
承平年中中御架(木へん)立未葺、
法文章
金泥法華経一部
墨写法華経有数部、又真言経有数部、
大般若経一部六百巻、即奉積綾槻厨子
一実(宝)物章
鍾弐口(一口三尺、一口一尺) 打鳴二口(一平一口圓、各五寸) 鼓口未鋳、其釿金在二斤余
錫杖肆莖 香爐三具(但一無具) 金如意二枝(一大、一小)
金剛鈴二(一大、一小) 大螺三(大中小也) 高座幡八条(長五尺)一丈
六条八葉蓮華 刑綾 幡八料、無具、未縫、覆二条花箱等、袈裟一条、加横皮、赤甲袈
裟一条、無横皮、
仏器十口 高杯廿本 花机肆前 大盤一帖 槻小厨子一口
榲厨子一口、無片戸、榲辛櫃一合、即入宝物等、
楽器
楬皷一面 楷皷一面 三皷一面 太皷一面 貴得王面(在笠) 大小尊面各一
釜肆口(之中、一口入四斗、二口入斗(脱アリ)、一口入二斗) 足鍋二口(入三升、入二升)
橧三(大中小) 供養船肆口(新三、古一) 湯船二(新一、古一) 油臼一具
絹幡八流(交縫、綾文)尼妙好施入、金皷壱面(長七寸)
一房舎
僧房(五間在戸、三面並板敷、僧房上在三間、東屋一宇、在板敷、戸大小二面)
三間東屋中房、即在戸二面板敷等、
五間東屋客坊、在戸二面、支止板敷、
西経所五間、在戸二面板敷等、
毘沙門堂、三間在戸、
倉壱宇、在板敷戸等、
大衆三間屋二宇(一宇在戸二面、一宇在庇二面)
一諸檀越施入、山地田畠等、(在各相副公験)
左衛門督殿御施入山壱処、承平二年二月三日施入、
源左相君御施入地伍段弐百歩(在大和国広湍郡十五条三里、字鬼取畠者)承平五年正月十一日
施入、
宗岳用行子施入 田参段並下池壱処(在平群郡中郷八条十四里十六坪内)
伊福部薬子等施入地 参段(在同郡同条里九坪並十六坪内、延喜十六年正月三日施入)
平羣貞主子施入地一段参佰歩(同郡在龍田東条一里六坪内、延喜廿二年月十七日施入)
河内国
美努常真有貫等施入 田弐段佰廿歩
(在若江郡三条竹村里七坪西一者、延喜十七年正月廿六日施入)
志紀定子 施入地漆段(之中)田五段、畠弐段、(在安宿郡二条迫里廿四坪東一)畠一条次田
里卅坪者、承平元年八月三日施入
飛鳥戸子 施入田壱段(在大県郡山上二条字明子者加佐志谷上)
美努忠貞 施入田参佰廿歩(在渋川郡三条利苅里十一坪者、承平六年正月十日施入)
尼妙恩 施入地壱段並林地肆段(在高安郡三条額田廿六坪内林字仏典尾者)承平六年九月十
四日施入
中堂八尺千手観音奉施入畠壱町、仏子平賢、在平群郡中郷九条十四里廿五 廿六坪、四至
(限東公田 限南谷神所 限西道 限北平隆寺地)字三宅畠者 田壱段、在平群郡中郷八条十五
里三坪、尼妙好施入
真野吉樹 施入畠弐段(在広*瑞郡十四条三里廿五廿六坪者、)寛弘八年十二月廿五日供□所
検校真野吉□
妙弥正如 施入畠伍段弐佰歩(河内国安宿郡心条池原里卅一卅二坪内者) 延喜十六年正月十
五日施入
當麻正秀奉施入家地二段事 在広瀬郡北郷十条三久度里十二坪内(西壱)
寛仁元年十二月二日
右命蓮、以寛平年中、未辨寂麦幼稚之程,参登此山、但所有方丈圓堂一宇、安置毘沙
門一躯、爰愚私造闇室、限十二年山蟄勤修之間、更無人音、仏神有感、彼此同法出来
、専位(住カ)於此山、更無他行、自然臻宇六十有余、其間奉造本堂四面庇、自余宝殿
尊像又宝物房舎等所造儲也、但件山雖有十方施主施入田地、其数乏少、所以難動(マゝ)
常燈修理、伏願、鎮守山王勤請諸神、加於冥助、護持伽藍、有縁釈衆、尋於先跡続於
鶏山、依此功徳奉増鎮守山王威光、勧請諸神証四八相、普天神祇及含怨聖霊一切霊等
、皆成仏道、然後上奉護一人、下利万民、仍為後置記如件、
承平七年六月十七日 住治(侶カ)妙弥在判
判 天慶四年八月十五日大和国守高階真人在判 大縁紀
権大掾佐伯
無掾(マゝ)朝明文
権少掾菅野
権大目巨勢
少 目丹波
権少日狛
大原
有縁之釈衆尋先跡続鶏山之間、忠尚法師尤叶其宗、常住染念仏心寄他(無脱カ)事、仍守国
判之旨、奉行如件、
大領兼行事在判
行事内豎当井(マゝ) 主帳清丑(原カ)
藤兼(マゝ)在判
「 右朝護孫子寺資財宝物帳、依破壊令修復奉納寺家文庫者也、
享保七稔六月日 中院良訓大法師 」
『扶桑略記』抜粋(平安後期成立)
○ 延長八年(庚寅)(930)八月十九日条
十九日。庚戌。依修験之聞。召河内国志貴山寺住沙弥命蓮。令候左兵衛陣。為加持。候御前。
『山槐記』抜粋(平安後期成立)
○ 長寛三年(1165)六月二十八日条
廿八日乙巳、或人日、新院御悩猶不軽、今日石屋聖人密参入奉灸御胸二所、各一草、相
模守信保奉灸□□ 聖人療転屍病、云々自平中納言被挙云々、天皇獲麟之時、召信貴山
命蓮聖人、令□□院崩給之時、召三滝聖人、雖有先蹤、至干医療□可不者也、後聞、又
有御鹿食事、其後御痢□□御絶入、其後又不聞食云々。
『今昔物語』抜粋(平安後-鎌倉初期成立)
○ 修業僧明練始建信貴山語 第三十六(巻第十一)
今ハ昔、仏ノ道ヲ修業スル僧有ケリ、名ヲバ明練卜云フ、常陸ノ国ノ人也。心ニ深ク仏道ノヲ願ヒテ、本ノ国ヲ去テ国々ノ霊験ノ所々ニ修行スル間ニ、大和ノ国ニ至レリ。□郡ノ東ノ高キ山ノ峯二登リテ見レバ、西ノ山ノ東ノ面二副ヒテ一ノ小サキ山有リ。
其ノ山ノ上ニ五色ノ奇異ナル雲覆へリ。明練是ヲ見テ、定メテ彼ノ所ハ霊験殊勝ノ地ナラム」ト思ヒテ、其ノ雲ヲ注ニテ尋ネ行ク。山ノ麓ニ至リヌ。山二登ラムト為ルニ人ノ跡无卜云へドモ草ヲ分チ木ヲ取リテ登ルニ、山ノ上ニ猶此ノ雲有リ。其ノ所ヲ指シテ登リ立チ見ルニ、東西南北ハ遥ニ谷ニテ下リタリ。
峯一ツ有リ。其ノ峯ニ此ノ雲覆へリ。「此ニ何ナル事ノ有ニカ」ト疑ヒテ寄リテ見ルニ、更ニ見ユル者无シ。只馥キ香ノミ薫ジテ山ニ満タリ。然レバ明練弥奇異ノ思ヲ成シテ尋求ムト見ルト云ヘドモ、木ノ葉多ク積リテ地モ見エズ、只指出デタル物ハ大キニ喬立テル石共也。
然ルニ積リ置ケル木ノ葉ヲ掻キ去リテ見レバ、木ノ葉ノ中二巌ノ迫ニ一ノ石ノ櫃有リ。長□計、弘サ□□計、高サロロ計也。櫃ノ鉢ヲ見ルニ、此ノ世ノ物ニ不似。 櫃ノ面ノ塵ヲ□テ見レバ、銘有リ。「護世大悲多門天」ト。是ヲ見ルニ、貴ク悲シキ事无限。然レバ此櫃此所ニ在ケルニ依テ、五色ノ雲覆ヒ異ナル香薫ジケルト思フニ、涙落ル事雨ノ如クシテ、泣々礼拝シテ思ハク、「我年来ノ道ヲ修行シテ、諸々ノ所ニ行キ至ルト云ヘドモ、未ダ如此霊験ノ地不見。
然ルニ今此ニ来リテ希有ノ瑞相ヲ見テ、多門天ノ利益ヲ可蒙。然レバ今ハ我他へ不可行。此所ニシテ仏道ヲ修行シテ命ヲ終ラム」ト思ヒテ、忽ニ柴ヲ折リテ菴ヲ造リテ其ニ居ヌ。亦忽ニ人ヲ催シテ其ノ櫃ノ上ニ堂ヲ造リ覆へリ。
大和・河内ノ両ノ国ノ辺ノ人、自然此ノ事ヲ聞キ継ギテ、各々力ヲ加ヘテ此堂ヲ造ルニ輒ク成ヌ。明練ハ其奄ニ住シテ行フ間、世ノ人皆是ヲ貴ビ訪フ。亦訪フ人无キ時ハ鉢ヲ飛バシテ食ヲ継ギ、瓶ヲ遣リテ水ヲ汲ミテ行フニ、乏キ事无シ。
今信貴山卜云フ是也。霊験新ニシテ、供養ノ後ハ于今至ルマデ、多クノ僧来リ住シテ房舎ヲ造リ重ネテ住ム。外ヨリモ首ヲ*弖テ歩ヲ運ビ参ル人多カリトナム語リ伝ヘタルトヤ。
(*にんべん)
『宇治拾遺物語』抜粋(鎌倉初期成立)
○ 信濃国の聖の事(巻第八)
今は昔、信濃国に法師ありけり。さる田舎にて法師になりにければ、まだ受戒もせで、いかで京に上りて、東大寺といふ所にて受戒せんと思ひて、とかくして上りて、受戒してけり。
さてもとの国へ帰らんと思ひけれども、よしなし、さる無仏世界のやうなる所に帰らじ、ここに居なんと思ふ心つきて、東大寺の仏の御前に候ひて、いづくにか行して、のどやかに住みぬべき所あると、万の所を見まはしけるに、未申の方に当りて山かすかに見ゆ。そこに行ひて住まんと思ひて行きて、山の中に、えもいはず行ひて過す程に、すずろに小さやかなる厨子仏を、行ひ出したり。毘沙門にてぞおはしましける。
そこに小さき堂を建てて、据ゑ奉りて、えもいはず行ひて、年月経る程に、この山の麓に、いみじき下種徳人ありけり。
そこに聖の鉢は常に飛び行きつつ、物は入れて来けり。大なる校倉のあるをあけて、物取り出す程に、この鉢飛びて、例の物乞ひに来たりけるを、「例の鉢来にたり。ゆゆしくふくつけき鉢よ」とて、取りて、倉の隅に投げ置きて、とみに物も入れざりければ、鉢は待ち居たりける程に、物どもしたため果てて、この鉢を忘れて、物も入れず、取りも出さで、倉の戸をさして、主帰りぬる程に、とばかりありて、この倉すずろにゆさゆさと揺ぐ。
「いかにいかに」と見騒ぐ程に、揺ぎ揺ぎて、土より一尺ばかり揺ぎあがる時に、「こはいかなる事ぞ」と、怪しがりて騒ぐ。「まことまこと、ありつる鉢を忘れて、取り出でずなりぬる、それがしわざにや」などいふ程に、この鉢、倉より漏り出でて、この鉢に倉乗りて、ただ上りに、空ざまに一二丈ばかり上る。さて飛び行く程に、人々見ののしり、あさみ騒ぎ合ひたり。倉の主も、更にすべきやうもなければ、「この倉の行かん所を見ん」とて、尻に立ちて行く。そのわたりの人々もみな走りけり。さて見れば、やうやう飛びて、河内国に、この聖の行ふ山の中に飛び行きて、聖の坊の傍に、どうと落ちぬ。
いとどあさましと思ひて、さりとてあるべきならねば、この倉主、聖のもとに寄りて申すやう、「かかるあさましき事なん候。この鉢の常にまうで来れば、物入れつつ参らするを、今日紛はしく候ひつる程に、倉にうち置きて忘れて、取りも出さで、錠をさして候ひければ、この倉ただ揺ぎに揺ぎて、ここになん飛びてまうで落ちて候。この倉返し給り候はん」と申す時に、「まことに怪しき事なれど、飛びて来にければ、倉はえ返し取らせじ。
ここにかやうの物もなきに、おのづから物をも置かんによし。中ならん物は、さながら取れ」とのたまへば、主のいふやう、「いかにしてか、たちまちに運び取り返さん。千石積みて候なり」といへば、「それはいとやすき事なり。たしかに我運びて取らせん」とて、この鉢に一俵を入れて飛すれば、雁などの続きたるやうに、残の俵ども続きたる。群雀などのやうに、飛び続きたるを見るに、いとどあさましく貴ければ、主のいふやう「暫し、皆な遣はしそ。
米二三百石は、とどめて使はせ給へ」といへば、聖、「あるまじき事なり。それここに置きては、何にかはせん」といへば、「さらばただ使はせ給ふばかり、十廿をも奉らん」といへば、「さまでも、入るべき事のあらばこそ」とて、主の家にたしかにみな落ち居にけり。
かやうに貴く行ひて過す程に、その比延喜の御門、重く煩はせ給ひて、さまざまの御祈ども、御修法、御読経など、よろづにせらるれど、更にえ怠らせ給はず。ある人の申すやう、「河内国信貴と申す所に、この年来行ひて、里へ出づる事もせぬ聖候なり。それこそいみじく貴く験ありて、鉢を飛し、さて居ながら、よろづあり難き事をし候なれ。それを召して、祈らせさせ給はば、怠らせ給ふなんかし」と申せば、「さらば」とて、蔵人を御使にて、召しに遣はす。
行きて見るに、聖のさま殊に貴くめでたし。かうかう宣旨にて召すなり。とくとく参るべき由いへば、聖、「何しに召すぞ」とて、更々動きげもなければ、「かうかう、御脳大事におはします。祈り参らせ給へ」といへば、「それは参らずとも、ここながら祈り参らせ候はん」といふ。「さては、もし怠らせばおはしましたりとも、いかでか聖の験とは知るべき」といへば、「それが誰が験といふ事、知らせ給はずとも、御心地だに怠らせ給ひなば、よく候ひなん」といへば、蔵人、「さるにても、いかであまたの御祈の中にも、その験と見えんこそよからめ」といふに、「さらば祈り参らせんに、剣の護法を参らせん。
おのづから御夢にも、幻にも御覧ぜば、さとは知らせ給へ。剣を編みつつ、衣に着たる護法なり。
我は更に京へはえ出でじ」といへば勅使帰り参りて、かうかうと申す程に、三日といふ昼つかた、ちとまどろませ給ふともなきに、きらきらとある物の見えければ、いかなる物にかとて御覧ずれば、あの聖のいひけん剣の護法なりと思し召すより、御心地さはさはとなりて、いささか心苦しき御事もなく、例ざまにならせ給ひぬ。人々悦びて、聖を貴がりめであひたり。
御門も限なく貴く思し召して、人を遣はして、「僧正、僧都にやなるべき。またその寺に、庄などや寄すべき」と仰せつかはす。聖承りて、「僧都、僧正更に候まじき事なり。またかかる所に、庄など寄りぬれば、別当なにくれなど出で来て、なかなかむつかしく、罪得がましく候。ただかくて候はん」とてやみにけり。
かかる程に、この聖の姉ぞ一人ありける。この聖受戒せんとて、上りしまま見えぬ。かうまで年比見えぬは、いかになりぬるやらん、おぼつかなきに尋ねて見んとて、上りて、東大寺、山階寺のわたりを、「まうれん小院といふ人やある」と尋ねれど、「知らず」とのみいひて、知りたるといふ人なし。尋ね侘びて、いかにせん、これが行未聞きてこそ帰らめと思ひて、その夜東大寺の大仏の御前にて、「このまうれんが在所、教へさせ給へ」と夜一夜申して、うちまどろみたる夢に、この仏仰せらるるやう、「尋ぬる僧の在所は、これより未申の方に山あり。その山に雲たなびきたる所を、行きて尋ねよ」と仰せらるると見て覚めたれば、暁方になりにけり。
いつしか、とく夜の明けよかしと思ひて見居たれば、ほのぼのと明方になりぬ。未申の方を見やりければ、山かすかに見ゆるに、紫の雲たなびきたる、嬉しくて、そなたをさして行きたれば、まことに堂などあり。
人ありと見ゆる所へ寄りて、「まうれん小院やいまする」といへば、「誰そ」とて出でて見れば、信濃なりし我が姉なり。「こはいかにして尋ねいましたるぞ。思ひかけず」といへば、ありつる有様を語る。「さていかに寒くておはしつらん。これを着せ奉らんとて、持たりつる物なり」とて、引き出でたるを見れば、ふくたいといふ物を、なべてにも似ず、太き糸して、厚々とこまかに強げにしたるを持て来たり。
悦びて、取りて着たり。もとは紙絹一重をぞ着たりける。さていと寒かりけるに、これを下に着てりければ、暖かにてよかりけり。
さて多くの年比行ひけり。さてこの柿の尼君も、もとの国へ帰らずとまり居て、そこに行ひてぞありける。
さて多くの年比、このふくたいをのみ着て行ひければ、果てには破れ破れと着なしてありける。鉢に乗りて来たりし倉を、飛倉とぞいひける。その倉にぞ、ふくたいの破れなどは納めて、まだあんなり。その破れの端を露ばかりなど、おのづから縁にふれて得たる人は、守りにしけり。その倉も朽ち破れて、いまだあんなり。
その木の端を露ばかり得たる人は、守りにし、毘沙門を造り奉りて持ちたる人は、必ず徳つかぬはなかりけり。されば聞く人縁を尋ねて、その倉の木の端をば買ひとりける。
さて信貴とて、えもいはず験ある所にて、今に人々明暮参る。この毘沙門は、まうれん聖の行ひ出し奉りけるとか。
左の尖った大小の峯が信貴山--王寺町舟戸神社近くから
『聖徳太子伝古今目録抄』抜粋(13世紀前半成立)
盤上舟兒猿米焼米谷□喫而今椀山羊之伯父専有深意或云法隆寺之西南方在龍田大明神當寺鎮守也。其西有河名平群河従河邊南北有二道太子之四天王寺往還道也一南路名椎坂路河内國高安郡通八部路也一北路名玉野路耶河内國通高安路也 其両道之間山峯在大小之□(嶽)一名信峯一名貴峯其峯東南在微妙盤石多聞天所座也往古於件盤石上自北方小牡猴猨來焼數万石米即移北面谷其所名藏尾末代衆類可感福祐所表也敏達天皇九年於住吉濱見二嶽名信貴山但多聞天者四天王天北方之王太子者憑四天王紹隆彿法守護国家而太子諸王子可歸浄土為表瑞相兼援*戯中示如此相此又未然表事也當此嶽西北在伽藍太子為牛建立寺也。時人名牛臥寺複於盤石上立堂閣此聖智之建立也。聖智者太子之一名也。又子孫相繼崇此山尤又名孫子寺此意見哥語面但椀山羊之伯父者入鹿之伯父者守屋大臣也仍此言在歟此哥蛍惑星之所作也
『雲根志』抜粋(木内石亭、1765-1801成立)
○ 籾化石
大和國生駒山信貴山にあり。傅云、むかし信貴の多門城は松永弾正忠籠る所なり。たく
はへ置し兵糧の物落城の時焼失して今土中に残石と化すと。焼米石あり、モミ石あり。
モミ石は一粒づゝ皮ともに石と化せり。又奥州高館にあり赤米石といふ。是は一握りづ
つかたまり石と化す。色赤し重くかたし。予得て見るにモミに異なる事なし。本朝國語
に載る焼米、砂に同種なれども稱呼違たる故こゝに録す。
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