宿 院 頓 宮 と 潮 干 珠 伝 説


   




  宿院頓宮 と 潮干珠伝説


『住吉神代記』の中には、住吉大神の子神として、六月御解除(みはらへ
)が行われたという「開速口姫神(あきはやくちひめのかみ)」あるいは「開口水門姫神社(あきくちのみなとひめのかみ)」が登場します。
この神を祀る社は、住吉大社の南方約4km、摂津・和泉・河内三国の国界近く、堺市堺区甲斐町東に鎮座する式内社の開口神社だとされます。
開口神社の南方には、陰暦では六月晦日、明治以降は8月1日に住吉大社から神輿・騎馬などの御神幸が行われ「荒和大祓神事
(あらにごおおはらえ)」が行われる堺宿院の住吉頓宮があります。
 御祭神--住吉大神 大鳥井瀬大神
現在は、頓宮の境内は狭くなっていますが、古くは「東西1町半、南北1町の地で、四方に溝をめぐらし住吉大社の御旅所」で「宿院」は「宿居」とも書き、「神の假にましますゆえなり」といわれて、東西南北の通路には11の口があって、住吉の「吉」の字に合わせたものだといわれます。 
元来は、北側の開口神社と頓宮の地を合わせて住吉大神の聖地であったのではないかと思われます。
「荒和大祓神事」が行われる境内西側の「飯匙堀」あるいは「飯匙池」の飯匙は「いひがひ」と読み、「形が飯匙に似ているところからこの名がある」といわれます。 
伝えによると、彦火々出見尊が、鹽土老翁の言に従って、海神の女の豊玉姫と契られたとき、海神から干珠・満珠を贈られ「涸れるを以って陽となし、満るを以って陰となし、陰なる満珠を北方の住吉大社の玉出島に納め陽なる干珠は南のこの地に納めた」という。
これにより住吉の神輿は6月30日にこの飯匙の池に移り、9月30日には玉出島に移ることが恒例となった、これを「陰陽の御祓」という」と伝わっています。
海神や龍神あるいは潮満珠・潮干珠の伝承が、住吉大社あるいは開口神社・宿院頓宮の歴史的背景を考える上で、大きな謎を秘めているようです。
なお、別名寳殿庵の境内にあったという「如意社」は廃されたようで、開口神社東南方の市之町東6丁(ホテル街北側)には、目立たず跡地を示す小さな案内標が建てられています。 
(2007.9.26) 

    

    
           
荒和大祓の神事が行われる境内の飯匙堀



 宿 院 頓 宮 (
同社由緒書より転載)

一、鎮座地 堺市宿院町東2-1-6
一、祭 神 住吉大神 大鳥井瀬大神
一、例 祭 正月元旦 歳旦祭  四月上旬 桜祭り
      七月三十一日 大鳥大社渡御
      八月一日 住吉大社渡御 荒和大祓神事
      十二月三十一日 除夜祭
一、月次祭 朔日祭(住吉大鳥両社) 十五日祭
一、交 通 阪堺線「宿院」駅東直ぐ 
 住吉祭りと荒和大祓事
古来、吾が国は清浄を尊び、国家の行事として大祓を執り行ってきた。大祓には毎年行はれる恒例の大祓と臨時の大祓とがある。
恒例の大祓は六月と十二月の寒暑の厳しい時節に行はれ、六月の太祓を夏越(名越)の大祓と云ひ、十二月の大祓を年越の大祓と云ふ。この六月の大祓が夏祭りとして伝承されてきた。
住吉大神は、記紀よれば伊弊諾命が筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で、禊ぎ祓ひをされたときに出現された神、と伝へられてゐる。又、天平3年
(731)の奥書がある『住吉大社神代記』に、「三所の大神、(住吉大明神と称すなり) 祷り祓除へする縁発」とあって、お祓ひの神とされる所以でもある。
更に、同神代記には「六月御解除。開口水門姫神社。」とあり、奈良時代すでに、大祓が行はれていたことが窺へる。
因みに「開口水門姫神社」は延喜式
(967)にみえる和泉国大鳥郡の「開口神社」に当たり、神代記には「子神」とある。
今日では単に「おはらひ」と呼ばれる住吉祭りは、古くは南祭とも云ひ、夏の盛りに住吉から堺の宿院頓宮へ神幸があり、着輿祭の後、飯匙堀において古儀に則り、茅輪をくぐり菅貫を以て「荒和大祓神事」を執り行ひ、人形に罪穢を託して祓具と共に茅渟の浦海へ流して、堺の平安と発展を祈るのであるが、もともと摂津、河内、和泉の国中の大祓の意味が込められてゐる。
尚、住吉祭りは昭和47年、大阪府民俗資料(民俗無形文化財)に採択された。
 住吉大鳥両大社の御旅所
当地は、往古から摂津の国一之宮、住吉の御旅所であった。
「堺鑑云、此地(宿院)は住吉明神毎年六月晦日の御祓御旅所也。」と、『住吉松葉大記』は「堺鑑」を引用してゐる。
寛政7年
(1795)刊行の『住吉名所図会』にも同様の文言があり「堺宿院之図」を載せてゐる。
その俯瞰図をみると、石の大鳥居、小鳥居を経て、中央に神輿舎があり、南の方に飯匙堀と甲之社の小祠、東の方に名越の岡があり、岡の上に舳松社と如意社が並祀されてゐる。
広さは「東西八十四間 南北六十間」とあり、広大な神域であったことが分かる。
住吉文書の「社務日誌」に、「此の年より大鳥神社宿院に神幸す」と明治8年
(1875)8月1日付で記されてをり、この頃から住吉大鳥両社の御旅所となった。
 堺の住吉神社と大鳥井瀬神社
(注--堺港にある神社)
堺の住吉神社の沿革は、住吉文書及び記録によると、文化13年
(1816)5月、住吉から堺の吾妻橋通りの新地へ、港内の風浪和静ならんことを祈って、御分霊を勧請したのが始まりで、萬延元年(1860)、波除住吉神社と称して堺港護岸の北波止にお遷しされた。
同所は、対岸に燈台があり、出で入る船を見護るに相応しいところで、現在も大正11年
(1922)に建立された「波除住吉神社址」の石碑がある。
明治39年
(1906)の「神社合祀令」の影響なのだらうか、明治41年(1908)9月の移転許可を受けて、大正10年(1921)11月、住吉の境外末社として遷座されたのである。
大鳥の摂社、大鳥井瀬神社も同時期同様に当地へ遷座された様で、当時の設計図に「右方大鳥」とあり、同じ建築様式の二社殿が西向き並祀されてゐた。
元の鎮座地は、石津川の東、八田荘村堀上太明神山と云ふ。御祭神は、住吉四柱大神と弟橘姫命である。御社殿は昭和20年7月戦災で炎上したが、同24年に兵庫の廣田神社のご用材を以て再建され相殿となった。
その後50年を経て再び地元堺人に依って、平成11年の秋、御本殿修復の御造営並に奉告祭が斎行された。 

 兜 神社
(かぶとじんじや)
神功皇后御帰陣の砌、甲を神に祝ひ奉りし処と「堺鑑」は云ふ。同社は明治41年、開口神社に合祀された。
 飯匙掘
(いひがひぼり)
海幸山幸の彦火火出見尊が所持してゐた潮干珠を埋めた処と云ひ伝へられ、堀の形が飯匙に骸てゐたところから飯匙堀と名付けられた云ふ。夏祭りにはこの堀で、荒和犬祓神事が執り行はれる。 
 名越の岡
(なごしのをか)
明治の頃まで御旅所の東方に小高い丘があり、「名越の岡」と言れていた。頓宮の中庭に刻まれた石柱がある。


 『大阪府全誌』より引用

 堺の「宿院」・兜神社跡・飯匙池

宿院は、大町東1丁と宿院町東1丁にまたがる。東西1町半、南北1町の地で、四方に溝をめぐらし住吉大社の御旅所である。
「宿院」は「宿居」とも書き、「神の假にましますゆえなり」といい、東西南北の通路に十一の口があるのは、住吉の「吉」の字に合わせたもだという。
古くから住吉大社の御旅所であったことと地の利から、市として繁栄し、付近には寄席・劇場・その他の諸興行・料理屋・飲食店をはじめ、およそ百を数える店などが集まる。西方には大きな華表(鳥居)があり、その南側はもと兜神社があった所である。
俗伝によると、神功皇后が三韓より凱旋の時、皇后を護っていた住吉明神が自分の胄を蔵めた所から「胄社」といい、皇后と誉田別命・玉依姫を祀り、白鳳年間に社が営まれて、雛横小路町にあったのが後世にここへ移され、さらに明治41年1月13日に開口神社に合祀されたため現在はない。
ここには「飯匙の池」があって、東西4間半、南北5間半の小さな池で、形が飯匙に似ているところからこの名がある。池底6〜7尺の所に石垣を築き、外側に石積をめぐらした中に数個の燈籠があり、水はまったくない。

     

俗伝によると、彦火々出見尊が、鹽土老翁の言によって海神の女豊玉姫と契られたとき、海神から贈られた干珠・満珠を以ってすれば、涸れるを以って陽となし、満るを以って陰となし、陰なる満珠を北方の住吉大社の玉出島に納め、陽なる干珠は南のこの地に納めた。
故に住吉の神輿は6月30日にこの飯匙の池に移り、9月30日に玉出島に移ることが恒例となり、これを「陰陽の御祓」というとある。
しかし、満干の二つの珠は、紀州の日前宮にあるとも言い、あるいは肥前国佐賀郡河上宮に納めたともいい、また『宇佐託宣集』には宇佐八幡宮にあるとされるので、いずれの所とも決めがたい。また、日向の官弊大社の鵜戸神社にも古来の神宝として満干の両珠を伝えている。
住吉大社の神輿の渡御は、いわゆる南祭であり、今は日が改められて8月1日となっている。
東北には、名越岡があり、方20間、前に鳥居があって四方に瑞垣をめぐらして二つの祠があって、北の祠を楫取、南側は寶御前という。
ここは、8月1日(もと6月30日)に住吉大社の神輿が渡御し、荒和の禊事を修する所である。
 堺の玉の明神
堺の市之町5丁字向井領町の光明山阿弥陀寺(浄土宗)、別名寳殿庵の境内には「如意社」と呼ばれる社がある。
俗に誤って子卯の神あるいは子亥の社とも呼ばれ「玉の明神」と通称されている。
祭神は不詳であるが、伝えによると満干両珠の一つを祀っているといい、住吉の旧記には、彦火々出見尊を祀っているとあり、彦火々出見尊が海神の宮に至って満干の両珠を得た後は、万事が意のごとくなったので、この社名が付けられたという。
昔は住吉の末社であったようであるが、明治維新の頃までは方違神社の御旅所で、旧8月5日には神輿の渡御があった場所である。


              いこまかんなびの杜